第1話 探釣師ルカ・スケイル
世界の水辺には、まだ知られていない魚がいる。
その魚を求め、湖へ、川へ、まだ人の知らない水域へ向かう者たちがいる。
見つけ、調べ、ときに釣り上げ、その存在を確かめる。
人は彼らを――探釣師と呼ぶ。
◇
水面に浮かんでいた小さな木の葉が、ふっと横へ滑った。
探釣師――ルカ・スケイルは、その少し先へ竿先を向けた。
細い糸が水へ入っている。
数秒待ったところで、ぴくり、と竿先が震えた。
「来た」
ルカが竿を立てる。
水面が弾けた。
銀色の魚が一瞬だけ宙へ飛び出し、着水と同時に右へ走る。
「おっ、元気だな!」
竿を曲げたまま、ルカは笑った。
魚は岸際まで寄ってきても、まだ諦めない。浅瀬で体をひねり、水を散らす。
ルカは無理に引き上げず、そのまま水へ入った。
膝下まで浸かり、魚の腹へ手を添える。
二十センチほど。
青みを帯びた銀色の体。その背から体側にかけて、濃い青の斑点が細かく並んでいる。体を傾けるたび、その青が水の中でふっと鮮やかになった。
青斑マス――この辺りではブルースポットと呼ばれる魚だ。
「いいなあ」
今日、この魚を釣るのは三匹目だった。
それでもルカは、一匹目を釣った時とほとんど同じ顔をしていた。
「背中、ちょっと濃いな」
指先では触れず、ヒレや鱗、エラの動き、口元を順に目で確かめる。
「……元気そうだ」
針を外す。
水の中で体を支えてやると、ブルースポットはしばらくルカの手の間に留まっていた。
やがて尾を一度振る。
「よし」
次の瞬間、銀色の体はするりと手を抜けた。
浅瀬を走り、深い青の中へ消えていく。
ルカは魚が見えなくなってからも、しばらくその先を見ていた。
「またな」
「ルカ・スケイルさんですか?」
背後から声がした。
ルカが振り返る。
最初に目に入ったのは人ではなく、大きなバックパックだった。左右には細長いケースが括りつけられ、網らしきものや折り畳まれた容器、見慣れない計測器まで覗いている。
その荷物の下から、小柄な少年が顔を出していた。
「……それ、重くない?」
少年は一瞬黙った。
「重いです」
「だよな」
「でも必要なものです」
ルカは背負われた荷物を上から下まで見る。
「全部?」
「全部です」
「絶対いらないの混じってるだろ」
「ありません」
即答だった。
ルカが笑う。
「で、俺がルカだけど」
少年はバックパックを下ろした。
地面に置かれた瞬間、どすん、と鈍い音がした。
やっぱり相当重いらしい。
「フィン・テイルです。国際探釣機構の生態記録局から来ました」
「記録局?」
「はい。少し、見てもらいたいものがあります」
フィンはバックパックの上部から薄い端末を取り出した。
「クリア・スプリングスという湧水群で撮られた映像です」
画面に水中映像が映る。
ルカがしゃがみ込んだ。
「きれいだな」
まず出てきた感想はそれだった。
底まで見える。
白っぽい砂地。その間を水草が揺れている。
水は透明というより、そこに水があること自体を忘れそうなほど澄んでいた。
画面の中央には、小さな銀色の魚が数十匹。
緩やかな流れに向かって、ひとまとまりになって泳いでいる。
「これ?」
「見ていてください」
映像が進む。
魚群が少し左へ動く。
またまとまる。
特に変わった様子はない。
ルカが首を傾げかけた、その時だった。
群れが崩れた。
何の前触れもなく、数匹が上へ跳ねる。
別の数匹は横へ走る。
奥にいた魚は下へ潜った。
ほんの一秒足らずで、まとまっていた魚群にぽっかりと空間ができた。
だが――
そこには何もいなかった。
ルカの顔から笑みが消えた。
「今の、もう一回」
フィンが映像を戻す。
再生すると、まとまっていた魚群がまた崩れた。
「もう一回」
さらに前まで戻し、三度目の再生を始める。ルカは画面へ顔を近づけた。
「何か映ってますか?」
フィンが聞く。
「いや」
ルカは画面から目を離さない。
「映ってない」
映像を止める。
崩れる直前。
一匹の魚を指差した。
「こいつ」
再生。
その魚がふっと上へ動く。
直後、周囲の魚が散った。
「最初に動いてる」
フィンも画面を見る。
ルカは指を下へずらした。
「下から何か来てるのか?」
「何か?」
「分かんない」
映像をもう一度戻した。
今度は別の魚を見る。
先ほど指した個体より下を泳いでいる。
動かない。
そのさらに近くにいた魚も、まだ反応していない。
代わりに、画面の奥にいる一匹が先に向きを変えた。
ルカの眉が寄る。
「……違うな」
「何がですか?」
「下から来てるなら、こっちの方が先に逃げそうだ」
映像を戻してもう一度再生する。
今度は一匹だけを追わない。二匹、三匹、四匹と、ルカの指が画面の中を移っていく。
「こいつは右。こっちは上……こいつは奥に逃げてる」
フィンが言った。
「ばらばらですね」
「うん」
「一つのものから逃げているようには見えません」
「そうなんだけど……」
ルカは映像を止めた。
しばらく黙る。
そして、二本の指で画面を拡大した。
「ここ」
「何です?」
「もう一回」
再生。
一匹が右へ。
別の魚は上へ。
さらに一匹は手前へ逃げる。
ルカはそれぞれの動きを目で追った。
「逃げてる方は違う」
「はい」
「でも――」
再び停止。
ルカの指が、魚群の中にできた細長い空白をなぞる。
「ここには入ってない」
フィンが画面を見る。
「……ここ?」
「最初から見て」
再生。
魚群は一見、何事もなく泳いでいる。
だが注意して見ると、一匹が進路をわずかに変える。
その後ろの魚も。
別方向から来た魚も、その場所へ入る直前で向きを変えていた。
そして数秒後。
群れが一気に崩れる。
フィンが黙った。
ルカはもう一度再生した。
「何かいるな」
「何か、は」
フィンの返事は慎重だった。
ルカが横目で見る。
「魚とは限らない?」
「映っていないものを魚とは記録できません」
「水の流れとか」
「あり得ます」
「光とか?」
「それも」
ルカはまた画面を見る。
そこには何もいない。
それなのに、小魚だけがそこを避けている。
「これ、一回だけ?」
「いいえ」
フィンが別の映像を開いた。日時も位置も違うが、そこでも小魚の群れが不自然に崩れている。
「複数回、似た反応が撮られています」
三本目の映像でも群れは散り、その中心には何も映っていなかった。ルカの目が少し見開く。
ルカの口元が、ゆっくり上がった。
フィンは端末を操作し、今度は記録の一覧を表示した。小さな湖や細い水路、川岸で撮られた魚の写真とともに、いくつもの記録へルカ・スケイルの名が並んでいる。
ルカが画面を覗き込んだ。
「これ、俺の?」
「はい。生態記録局に残っている、ルカさんの現地確認記録です」
画面を送ると、目撃された魚を確認した記録や、季節外れに現れた群れを追った記録が続く。調べた結果、珍しい魚でも異常でもなかった案件も混じっていた。
「結構あるな」
「ちゃんと提出してますから」
「そりゃするだろ」
フィンはクリア・スプリングスの映像へ戻した。
フィンは群れが崩れる場面で映像を止めた。
「原因はまだ特定できていません。だから、現地で確かめられる探釣師を記録から探しました」
ルカが画面を見る。
「それで俺?」
「はい」
フィンは頷いた。
「この件の現地確認をお願いしたくて来ました」
「なるほど」
ルカはあっさり頷いた。
フィンは続けようとした。
「現地へ行っても、魚がいるとは――」
「行こう」
フィンが止まった。
「……はい?」
ルカは端末を指差す。
「クリア・スプリングス」
「いえ、その話をしているんですが」
「いつ出る?」
「まだ説明の途中ですけど」
ルカはもう竿を片付け始めていた。
フィンがため息をつく。
「何も見つからない可能性もありますよ。魚ではなく、水流の変化かもしれません」
ルカの手が止まった。
フィンを見る。
「それでも?」
ルカは少しだけ不思議そうな顔をした。
すぐに笑う。
「だから面白いじゃん」
フィンは返事をしなかった。
ルカはもう一度、端末の画面へ目をやった。
透明な水の中で、銀色の小魚たちはひとつの場所だけを避け続けている。
そこに何があるのか、まだ誰も知らない。




