第16話 月影湿地
砕岩大峡谷を離れる朝。
臨時拠点では撤収が進んでいた。ルカも荷物をまとめ終え、フィンが記録機材をケースへ収めるのを眺めている。
最後の留め具を閉じたところで、フィンが言った。
「そういえば、雷帝湖の遠征計画が遠征統括局で動き始めたそうです」
ルカが振り向く。
「雷帝湖?」
「はい」
七大極境の一つ、雷帝湖〈サンダー・クレーター〉。
名前と、それが七大極境の一つだということくらいはルカも知っている。
「本当に行くの?」
「まだ正式決定ではありません。遠征として成立させるための調整が始まった段階です」
ルカはオーウェンを見る。
「オーウェンたちも?」
「まだ何も決まってねえよ」
「そっか」
ルカは少しだけ考えた。
「……行ってみたいな」
「だろうな」
オーウェンが笑う。
「でも、行きたいだけじゃ行けないんだろ?」
「ああ」
「じゃあ、何か決まったら教えて」
フィンが頷いた。
「分かりました」
◇
数日後。
ルカは公開されている水域記録を眺めていた。
川や湖、湿地、沿岸域。記録の多い場所を次々と飛ばしていくうち、一つの湿地で指が止まる。
月影湿地〈ムーンシェイド〉。
「ここ、少ないな」
確認されている魚はいる。
だが、その下に残された夜間記録は妙だった。
月夜、水面近くに大型魚影。
別の日には、位置を変える黒い影。
さらに古い記録には、月が高い時間帯に現れ、新月時には確認できなかったとある。
「夜行性なら、月まで書かないよな」
魚種も、大きさもはっきりしない。
だからこそ気になった。
「行ってみよ」
◇
月影湿地へ着いたのは昼過ぎだった。
人の背丈を超える葦が幾重にも続き、その間を細い水路が縫っている。黒く見える水面には浮葉が広がり、ところどころから沈んだ枝や太い根が突き出していた。
岸辺では、白い水生花がまだ閉じている。
「夜、全然違って見えそうだな」
ルカは荷物を置き、まず昼の湿地を歩いた。
しばらく進んだところで、一枚の浮葉が不自然に跳ねた。
「ん?」
葉に止まっていた羽虫が水へ落ちる。
その瞬間、葉の下から魚が飛び出し、虫をさらった。
少し待つと、別の葉でも同じことが起きる。
「魚が葉を押してるのか」
ルカは小型ルアーを水へ落としたが、影は動かない。
さっき魚が反応したのは、水中を泳ぐものではなかった。
今度は浮葉の縁へルアーを乗せ、そこから水へ落とす。
影が走った。
「来た!」
魚は浮葉の下へ戻ろうとしたが、ルカは開いた水へ誘導して寄せる。
記録と照合する。
「リーフフリッパー」
放すと、魚はすぐ葉の下へ消えた。
「そこが家みたいなもんか」
さらに奥では、泥の中に丸い口だけを出したマッドジョーを見つけた。
底を通った水生昆虫が近づいた瞬間、泥ごと吸い込む。
ルカはしばらく観察したが、ここでは竿を出さなかった。
「埋まって待ってるのか。面白いな」
少し進むと、今度は水没した根の間で何かが動いた。
見直しても、根しかない。
角度を変える。
「あ、いた」
根に沿って伏せた魚が、小魚が近づいた時だけ飛び出している。
ルートクローク。
追い続けず、失敗すればすぐ元の根際へ戻る。
浮葉の下、泥の中、水没根の脇。
同じ湿地の中でも、魚はそれぞれ違う場所に姿を隠していた。
「何もいないように見える方が、いるのか」
ルカは夜間記録の黒い魚影を思い出す。
「でかいやつも、見えてないだけかな」
◇
夕方になると、ルカは夜に観察する場所と帰路を明るいうちに確認した。
やがて葦が黒い影へ変わり、昼間閉じていた白い花が開き始める。
月が上がった。
薄い霧の向こうから光が落ち、葦の隙間に散らばる開水面へ月が映る。
「……すげえ」
昼とは別の水域に見えた。
魚も植物も光ってはいない。
ただ、月明かりが昼には見えなかったものを浮かび上がらせている。
ルカが水際へ腰を下ろした時、浮葉の切れた水面で小さな銀色が瞬いた。
「今の何だ?」
少し離れた場所でも光る。
今度は見逃さなかった。
小型魚が水面近くで体を傾けた瞬間、体側の銀斑だけが月を反射している。
向きが戻れば消える。
また傾けば現れる。
記録を確認したルカが小さく読む。
「月雫魚〈ルナドロップ〉」
銀色の点が、黒い水のあちこちで現れては消えていく。
「昼はいなかったよな」
正確には、見つけられなかっただけかもしれない。
夜になって出てきた魚。
月があるから見える魚。
ルカは竿へ伸ばしかけた手を止めた。
「今日は見るか」
小虫が月光の差す水面へ集まり、その下へ小魚も寄ってくる。
ルナドロップとは違う影が、その外側を横切った。
「……でかい」
五十センチほど。
黒い魚体は月明かりをほとんど返さない。
魚が明暗の境を横切った瞬間だけ、体側に細い銀色の線が浮かぶ。
「光った?」
影が向きを変えると消えた。
もう一度現れる。
「違う。こいつも反射してる」
魚は月光の中央へ入らない。
明るい水と暗い水の境をなぞるように進んでいる。
小魚が動いた。
黒い影が寄る。
その時、反対側でも銀の線が走った。
「もう一匹?」
さらに奥でも現れる。
三匹ほどいる。
ルカは動かず、その位置を見る。
一匹が小魚へ寄る。
群れが逃げる。
逃げた先で別の影が動き、群れが向きを変えた。
さらに進もうとした先にも黒い魚がいる。
「……偶然?」
同じ餌場へ集まっただけかもしれない。
だが、もう一度。
一匹が寄る。
小魚が逃げる。
その先で別の影が動く。
月明かりの落ちる狭い水面から、小魚の群れが出られない。
ルカは三つの影を見比べた。
「……逃げ道、塞いでる?」
月光と闇の境を囲むように、黒い魚たちがゆっくり動き始めた。




