第13話 巨岩の主
昨日、黒い淵の奥へ消えた巨大な尾。
ルカは、その姿をまだはっきり覚えていた。
ただ、今日の目的はあの魚を追うことではない。
「今日はあっちだ」
オーウェンが指したのは、大淵の奥に続く巨岩帯だった。
水面からいくつもの岩が突き出し、その間を細い流れが抜けている。
「昨日は入ってないとこ?」
「ああ」
ノーランが先に進み、足場を確認する。
「奥まで行ける。ただし岩の上は滑る」
「分かった」
ルカは竿を背負い直した。
◇
巨岩帯へ入ると、水の形が一気に変わった。
大淵の静かな水のすぐ先で、岩と岩の間だけ流れが速くなり、その脇には小さな淀みができている。
水面から見える岩の縁には、細かな傷や亀裂がいくつも走っていた。
ルカが足を止めた。
「ここ、欠けたばっかりじゃない?」
岩の一部だけ色が違う。
濡れた破断面の下には、茶褐色の細かな粉が沈んでいた。
ノーランが周囲を見る。
「上から落ちた跡はないな」
フィンが撮影する。
「新しい破断面には見えます」
「いつ欠けたかまでは?」
フィンは前日の映像を開いた。
「少なくとも、昨日の撮影後です」
ルカは粉が流れへ溶けていくのを見た。
少し先では、岩の裂け目から小さな魚が一匹出てきた。
薄い体を傾けながら、狭い隙間を抜ける。
「クレバスクローラーです」
フィンが言う。
「こういう隙間にいるんだ」
「この辺りでは確認されています」
魚はすぐ岩陰へ戻った。
その時、別の岩の裏にいた小魚が一斉に散った。
「何かいる」
ルカが声を落とす。
ダリオが水中カメラを沈める。
暗い水と沈み岩の奥を、巨大な尾が横切った。
「昨日の……」
ルカが画面へ近づく。
太く、昨日見た魚影とよく似ている。
だが、同じ個体かどうかは分からない。
オーウェンは魚影より、周囲の岩を見ていた。
「先へ行くぞ」
◇
調査を続ける。
裂け目や岩棚、巨岩裏を確認していく途中で、フィンが足を止めた。
「これ、昨日の映像に入っているかもしれません」
水面近くの岩の縁。
そこにも新しい欠け跡と茶褐色の粉が残っている。
ダリオが前日の広角映像を開く。
同じ位置。
角度は遠いが、岩の縁はまだ残っていた。
「昨日はあった」
ルカが言う。
「そう見えます」
「じゃあ、一晩で欠けた?」
「少なくとも、昨日の撮影後に形が変わった可能性があります」
フィンは断定せず、映像と現在の岩を並べて記録する。
オーウェンが巨岩帯の奥を見る。
「もう少し確認する」
水深が少し増した。
岩陰にいた小魚が、突然裂け目へ逃げ込んだ。
「あ」
ダリオがすぐカメラを向ける。
画面の奥に巨大な影が現れ、今度は止まった。
太い胴がゆっくり前へ出て、大きな胸鰭が水を押す。
目の前には、水中へ張り出した岩の縁。
その先には細い亀裂が走っている。
巨大魚が止まった。
少し後ろへ下がる。
ルカが息を止める。
次の瞬間。
ゴン。
水中集音器から、鈍い音が響いた。
画面の中で水が濁る。
茶褐色の粉と小さな岩片が舞った。
「今の……」
濁りが流れる。
その中から、巨大魚の頭部が現れた。
「何だ、あの頭」
ルカが呟く。
頭の前面が横へ広く張り出している。
丸いというより、厚い。
岩へ振り下ろす槌のような輪郭。
魚が欠けた岩の横を通る。
砕けた隙間から、小魚が数匹飛び出した。
だが、巨大魚は追わない。
そのまま岩の奥へ進んでいく。
フィンが映像を戻す。
後退し、前進し、岩へ接触した瞬間に鈍い音が鳴り、その直後に岩の縁が欠けている。
「岩へ接触して、欠けさせたところまでは確認できます」
「じゃあ、あいつがやったんだ」
「この一回については、そう記録できます」
「何のためなんだろ」
フィンは首を振る。
「まだ分かりません」
ルカは画面を見る。
広い頭と欠けた岩、その周囲に残る茶褐色の粉が映っていた。
「すごいな」
◇
午後まで観察を続けると、巨大魚は何度か巨岩帯を通った。
だが、同じ岩ばかりを叩くわけではない。
岩の縁や深み、巨岩の間を通りながら、短い時間だけ姿を見せてはまた消える。
フィンが既存記録を確認する。
「手元の記録には一致する魚がありません」
「昨日のディープノッカーより大きいよな」
「比べものになりません」
ルカが静止映像を見る。
横へ張り出した頭部。
「槌みたいだ」
フィンも画面を見る。
「岩を砕く槌……砕岩槌」
ルカが言った。
「ロックブレイカー」
フィンが端末へ入力する。
「仮称、砕岩槌〈ロックブレイカー〉」
ルカは槌状の頭部をもう一度見た。
その後、竿を手に取る。
「反応だけ見てもいい?」
オーウェンはしばらく魚の通った位置と足場を確認した。
やがてルアーを受け取り、フックを外す。
「今日はこれだけだ」
「分かった」
ルカは巨大魚が通った少し先へ投げた。
沈める。
魚影が近づく。
「来る?」
巨大魚はルアーの近くまで来た。
だが、追わない。
そのまま進路を変えた。
もう一度。
今度は流れの弱い側へ通す。
やはり反応は薄い。
ルカは三投目をしなかった。
「追わないな」
「今日はそれが分かれば十分だ」
オーウェンが言う。
ルカは竿を下ろす。
巨大魚はまた岩の陰へ消えていった。
しばらくして、少し離れた場所で小魚が動いた。
ルカはそちらを見る。
「あいつ、何見てるんだろ」
誰も答えなかった。
ルカも、もう投げなかった。




