第12話 淵の底
前日最後に見つけた大淵へ、ルカたちは戻っていた。
急流の音が響く峡谷の中で、そこだけ水面が妙に静かだった。
左右には切り立った岩壁。
手前の水は灰色に透けているが、数歩先から急に色が濃くなり、その奥は黒い。
ルカが水際から覗き込む。
「やっぱ底見えないな」
フィンが測深器の表示を見る。
「手前から急に落ちています。中央はかなり深いです」
ダリオは水中カメラと、小型の水中集音器を準備していた。
シエナが水位計を確認する。
「昨日から大きな変化はないわ。午前中はこの区画で動ける」
ノーランも周囲の岩棚を見て戻ってきた。
「上流側は通れる。奥の壁際は濡れてるから近づきすぎるな」
「分かった」
オーウェンが淵を見る。
「まず底を見よう」
◇
カメラが水中へ沈んでいく。
水面近くでは光が揺れていた。
数メートル。
さらに下。
次第に色がなくなる。
画面の中へ大きな沈み岩が現れた。
「岩だらけだ」
ルカが覗き込む。
大小の岩が重なり、その間に暗い隙間がいくつも続いている。
一匹の魚が画面の端へ入った。
「いた」
太い体。
底すれすれを泳ぎ、流れが当たるたび体を低くする。
フィンがすぐに言った。
「岩兜魚〈ロックヘルム〉です」
「知ってる魚?」
「はい。岩の多い深場にいる既知種です」
魚が沈み岩の横へ入る。
丸く厚い頭部を上流側へ向け、その場に留まった。
「頭、硬そうだな」
「厚い頭部と体つきで、底の強い流れに耐える魚です」
ルカは画面を見たまま頷いた。
ロックヘルムはしばらく岩陰に留まり、やがて奥へ消れた。
「もっといるかな」
「探します」
ダリオがカメラを少しずつ移動させる。
◇
いくつかの沈み岩を確認した。
小魚や岩陰に潜む魚影、底を横切る細い影が映る。
同じ大淵でも、岩の重なり方で魚のいる場所が違う。
ルカが別の岩陰を見ていた時だった。
スピーカーから、小さな音が鳴った。
コッ。
「今の何?」
ダリオが集音器の表示を見る。
「水中からだ」
全員が画面へ目を戻す。
急流の低い響き。
水が岩へ当たる音。
その中に、もう一度。
コッ。
続けて、コッ、コッ。
「また鳴った」
フィンも記録を始める。
「同じような音ですね」
オーウェンが言った。
「位置を絞れるか」
「やってみる」
ダリオがカメラと集音器を少しずつ動かす。
沈み岩。
暗い裂け目。
何もいない。
コッ。
「近い」
ルカが画面へ顔を寄せる。
「あ」
岩の陰から、魚の頭が出ていた。
ロックヘルムではない。
もっと細身で、暗い鉛灰色の体。
広い胸鰭を岩面へ沿わせ、底流の中で姿勢を保っている。
魚はゆっくり岩へ近づいた。
頭をわずかに引く。
コッ。
音が鳴る。
「こいつだ」
魚が少し離れる。
また別の位置へ移動する。
コッ。
頭部か口元を岩面へ当てているように見えた。
「止めてください」
フィンが言う。
ダリオが映像を固定する。
フィンは端末を開き、記録を照合し始めた。
「知ってる?」
「待ってください」
ルカは魚の動きを追う。
岩を打ったあと、すぐ同じ場所へ戻るわけではない。
少し泳ぎ、別の沈み岩へ移る。
フィンの指が止まった。
「少なくとも、手元の記録には一致するものがありません」
「知らない魚?」
「未記録種の可能性があります」
ルカの目が輝く。
「釣れるかな」
オーウェンはすぐには答えなかった。
「まだ投げるな」
「うん」
「まず動きを見る」
◇
それからしばらく、魚を追った。
同じ岩に張りついているわけではない。
大きな沈み岩の陰から少し開けた底へ出て、次の岩へ移る。
その三か所を行き来していた。
途中で止まり、岩へ触れるように頭を寄せる。
コッ。
また移動する。
「同じところ通ってる」
ルカが言った。
フィンが位置を記録する。
「今のところはそう見えます」
ルカは映像を巻き戻した。
魚が岩へ寄り、接触し、離れる。
その前後に餌を追う様子は映っていない。
「叩く前、何見てるんだろ」
フィンは接触時刻と位置を記録へ追加した。
「今は行動だけ残します」
ルカはもう一度、魚の進路を追った。
オーウェンは魚だけでなく、周囲を見ていた。
「ノーラン」
「下流側なら足場が取れる」
大淵の端。
沈み岩から少し距離があり、魚を岩帯から外せれば取り込みに使える岩棚もある。
ギルが水際を確認する。
「保持はここでできる」
シエナが水位と時刻を見る。
「水位は安定してる。時間も問題ないわ」
オーウェンがもう一度、魚の移動経路を確認した。
「よし。一度だけやる」
ルカが頷いた。
「分かった」
◇
狙うのは、沈み岩と沈み岩の間。
魚が移動する時だけ通る、少し開けた底だった。
ルカは重めのルアーを沈める。
一投目は少し浅く、魚の上を通った。
回収する。
二投目。
今度は底へ近づける。
魚が岩陰から出た。
ルカは急いで動かさない。
魚の進む先へルアーを通す。
魚影が寄る。
止まる。
ルカも止める。
もう一度、魚が近づいた。
竿先が小さく入る。
「来た」
ルカが合わせた。
水中で魚体が翻る。
魚はすぐ沈み岩へ戻ろうとした。
「岩から離せ」
オーウェンの声。
ルカは竿を寝かせ、下流側へ角度を変える。
魚の向きがずれる。
岩陰へ戻りきれない。
そのまま少しずつ開けた側へ誘導する。
数度走ったあと、暗い魚体が水面近くへ浮いた。
「見えた!」
ギルが保持網を沈める。
ルカがゆっくり寄せる。
魚が網へ入った。
「入った!」
◇
魚は水中で保持したまま観察された。
全長は四十センチほど。
暗い鉛灰色の体。
頭部は丸みを帯びながら厚く、口の周囲にも硬そうな部分がある。
胸鰭は広く、岩面へ沿わせやすい形だった。
頭部の先には細かな擦れが見える。
フィンは体長と体高を測り、鰭や口、頭部、体表を撮影する。動画も残し、捕獲地点、水深、水温まで順に記録していった。
「やっぱり記録にない?」
ルカが聞く。
フィンは既存記録との照合を続ける。
やがて首を振った。
「現時点では、一致する記録は確認できません」
「じゃあ新種?」
「まだです」
「違うの?」
「今言えるのは、未記録種候補です。正式な同定は持ち帰って確認してからです」
「なるほど」
ルカは魚を見る。
保持網の中でも、魚は時々頭を動かしている。
「名前ないと呼びにくいな」
「仮称はあった方がいいですね」
ルカが少し考える。
「深い岩のところで、コツコツ叩く魚……」
さっきの音を思い出す。
「ディープノッカー」
フィンが魚を見た。
「深岩打魚〈ディープノッカー〉」
端末へ入力する。
「仮称として記録します」
「もう書いた」
「仮称ですから」
ルカは魚を覗き込んだ。
頭部の擦れと、岩へ接触した映像がまだ結びつかない。
フィンは行動理由の欄を空けたまま、観察記録を保存した。
◇
観察を終える。
魚の状態を確認してから、ギルが保持網を開いた。
深岩打魚〈ディープノッカー〉はしばらくその場に留まった。
やがて体を沈め、暗い水の中へ戻っていく。
ルカは沈んでいく魚を追った。
さっき接触した岩と、その先の岩棚を交互に見る。
フィンは次の観測位置を記録へ追加した。
その時だった。
大きな沈み岩の向こうで、何かが動いた。
「……え?」
太い胴が、画面の奥を横切る。
ディープノッカーとは比べものにならない。
見えているのは魚体の一部だけなのに、それでも大きい。
続いて、大きな尾がゆっくりと画面の端を抜けた。
「今の見た?」
ダリオがカメラを振る。
もういない。
フィンが映像を戻す。
一瞬だけ映った暗い胴と、その後ろを通過した大きな尾。
ルカが画面へ顔を近づけた。
「魚……だよな?」
オーウェンは答えなかった。
黒い淵の奥を見ている。
画面には、もう揺れる暗い水しか映っていない。
それでもルカは、さっき大きな尾が消えた場所から目を離せなかった。




