第10話 砕岩大峡谷
石柱湖でオーウェンから誘われた次の釣査。
指定された集合場所は、オーウェン隊の事務所だった。
ルカが扉を開ける。
「おはよう」
「来たか」
奥からオーウェンが顔を出した。
「時間どおりだな」
「遅れたら置いてかれそうだから」
「よく分かってる」
中へ入ったルカは、思わず足を止めた。
壁一面に広げられた水域図。
棚には防水ケースが並び、側面にはいくつもの水域名が書かれている。
どれも新品ではない。角が削れ、泥の色が染みつき、金具を交換した跡が残るものもある。
大型魚用の保持具、ロープ、固定具、水中カメラ、通信機、救助装備。さらに簡易テントや寝具、食料までまとめられていた。
「すごいな」
「何がだ?」
ダリオが機材ケースを閉じながら聞く。
「ここ」
ルカは棚を見回した。
「いろんなとこ行ってるんだな」
「仕事だからな」
その横ではノーランがロープを一本ずつ確認している。
シエナは地図と端末を見比べ、何かを書き込んでいた。
ギルは大きな保持具の固定部を確認している。
誰かが指示を出しているわけではない。
それぞれが自分の準備を進めていた。
石柱湖では、大勢が参加する合同釣査の中で見ていた。
ここは違う。
ここが、オーウェン隊の普段の場所だった。
「ルカさん」
声に振り向く。
フィンが記録ケースを抱えて立っていた。
「やっぱりいる」
「やっぱりって何ですか」
「石柱湖にもいたから」
「今回も生態記録局から派遣です」
「毎回オーウェンたちと行くの?」
「毎回ではありません。何度か同行しています」
「何度かどころじゃないだろ」
ダリオが横から言った。
「余計なこと言わなくていいです」
シエナが地図から顔を上げる。
「少なくとも、誰でもこの隊へ派遣されるわけではないわ」
ルカがフィンを見る。
「へえ」
「その顔やめてください」
オーウェンが笑った。
「そいつを記録係だと思って舐めてると、そのうち置いてかれるぞ」
「それは困る」
「なら、ちゃんとついてこい」
オーウェンが机を軽く叩いた。
「始めるぞ」
全員が地図の周りへ集まる。
◇
机の上には、一本の大河と、その両側へ複雑に伸びる峡谷線が描かれていた。
オーウェンがその一部を指す。
「今回入るのはここだ」
ルカが地図を覗き込む。
周囲に比べ、その区画だけ書き込みが少ない。
「ここ、なんか空いてる」
「記録が少ないんです」
フィンが答える。
「まとまった魚類調査がしばらく入っていません。魚の種類と分布、それぞれがどんな場所を使っているか。大型魚の記録も含めて、まとめて更新します」
「なんで?」
ノーランが別の線を指した。
「崩落が多い。水位でもルートが変わる」
「入れない?」
「入れる時と入れない時がある」
シエナが続ける。
「今回は西側から入れる可能性が高い。ただし帰りも同じとは限らないわ」
「同じ道で帰れないことあるの?」
「ある」
ルカはもう一度地図を見る。
ルカは地図の空白へ視線を止めた。
「この先、記録ないんだ」
「薄い区画です」
フィンが答える。
ルカはもう一度、その空白を見る。
オーウェンが地図を畳む。
「なら自分の目で見てこい」
◇
車を降りてから先は歩きだった。
乾いた岩場から狭い通路へ入る。右には岩壁が迫り、左は深く落ち込んでいる。
先頭のノーランが時々足を止める。
「そこ踏むな」
「これ?」
「それ」
ルカが避ける。
ノーランが靴先で軽く触れると、石が崩れて下へ落ちていった。
「……先に言ってくれてよかった」
「だから言った」
さらに進む。
岩壁の切れ目を抜けた瞬間、視界が一気に開いた。
「……うわ」
巨大な峡谷。
何層にも重なる赤褐色と灰褐色の断崖。
谷底には大河が走り、その流れを巨岩が何度も分断している。
白く砕ける急流。その隣には黒く静かな深みがあり、岩壁へ叩きつけられた水は横へ流れていく。
上から見れば一本の川なのに、目の前ではいくつもの流れが絡み合っている。
「川、一つじゃないみたいだな」
「下へ行けばもっと分かれる」
ノーランが言う。
ルカはしばらく見下ろした。
一本に見えていた川が、岩の間で幾つもの流れに分かれている。
視線を上げても、峡谷の終わりは見えなかった。
オーウェンが先へ進む。
「下りるぞ」
「もう?」
「見てるだけなら上でもできる」
「それもそうか」
◇
高度を下げていく。
しばらくして、ルカが足を止めた。
「魚」
岩壁ぎりぎり。
細身の魚が何匹か、強い流れの中を進んでいた。
水が壁へぶつかるたび、魚体を傾け、その力を使うように横へ滑っていく。
「クリフグライダーです」
フィンが言う。
「知ってる魚?」
「既知種です。この峡谷では岩壁沿いで記録があります」
「壁の横なんか泳ぎにくそうなのに」
「魚に聞いてください」
「聞けるなら聞く」
ルカが魚を追う。
その少し先。
白波を横切るように、赤い魚影が一瞬走った。
「あ、今の」
もう一度。
今度は二匹。
赤い線が流れを切る。
「速っ」
ルカが身を乗り出しかける。
「止まるな」
ノーランの声。
「あ」
ルカは急いで前へ進んだ。
◇
谷底が近づく。
今度は浅い礫場。
足元で何かが動いた。
「ん?」
ルカが覗く。
魚影。
次の瞬間、礫の中へ沈むように消えた。
「消えた」
フィンが記録機材を向ける。
「今のも魚?」
「そう見えました」
「そこまで潜るんだ」
ルカは足元を見る。
さっきまで何もいないと思っていた場所でも、壁際や速流、礫場と少し条件が変わるだけで違う魚が現れる。
「面白いな、ここ」
「まだ着いてませんよ」
「それでこれ?」
「はい」
ルカは笑った。
◇
谷底へ到着した。
目の前には、上から見た時よりはるかに太い流れが走っていた。
「じゃあ行こう」
ルカが川へ向かおうとする。
「どこへ」
オーウェンが呼び止めた。
「釣査」
「先に拠点だ」
「今から?」
「今からだ」
少し高い岩棚へ荷物を運ぶ。
ノーランは周囲を歩いて退避路を確認。
シエナは水位計を設置する。
ダリオは通信機と観測機材。
ギルは保持具を、すぐ持ち出せる位置へ置いた。
フィンは拠点位置と周囲の地形を記録していく。
ルカだけが、何度も川の方を見ていた。
「気になるか」
オーウェンが聞く。
「うん」
「魚が?」
「全部」
オーウェンが荷物を置く。
「帰る場所を作ってからだ」
ルカも自分の荷物を下ろした。
「分かった」
◇
準備が終わる頃には、峡谷の影が川へ伸び始めていた。
フィンが端末を開く。
今日確認した位置が地図上へ並んでいる。
岩壁沿い。
開けた速流。
礫場。
「もう残してるんだ」
「見つけたものは記録します」
「明日そこ行く?」
「明日は魚場ごとに区画を分けて調べます」
「魚場?」
「壁際、反転流、礫帯。今日見た場所も含めて、順番に確認します」
「同じ川なのに?」
「だから調べるんです」
ルカは画面に残る空白区画を指で追った。
「明日はここから?」
「はい。壁際から順に入ります」
フィンは端末を閉じた。
ルカは川へ顔を向けた。
岩壁の間を流れる大河。
白波の向こうを、さっきの赤い魚影がもう一度横切った。
さらに奥。
岩の陰にも何かが動いた気がした。
本格的な調査は明日からだ。
それなのに、今日ここへ下りてきただけで、もう気になる魚がいくつもいる。
「明日、早くならないかな」
「寝ればなりますよ」
「じゃあ寝る」
「まだ夕食です」
「あ」
後ろでオーウェンたちが笑った。
ルカも振り返りかけて、もう一度だけ川を見る。
赤い影はもう消えていた。
その先には、まだ見ていない流れがいくつも続いていた。




