荒川の戦い
冬の澄み切った空は、地表の熱をすべて奪い取る。土中の水分が凍り付くと河川敷の泥濘は固い地面に変わる。
東の空が、漆黒から群青色に変わり始めると、毛野の兵たちは川と平行に一列に整列し始める。
両軍のにらみ合いの緊張感が極度に高まっていく中、ボイは仮眠用に設えてもらった天幕から這い出て、再び櫓に上がる。
北武蔵の冬は空気が著しく乾燥するのだが、深夜早朝は気温が極度に下がることで、飽和水蒸気量も下がるため、冷たく、しっとりとした空気が広がっている。
昨晩の熱狂もあり、使主軍の士気はいまだに高いままで、夕方頃に見られたような、逃げ腰の部隊は見受けられない。
それぞれが、対岸に展開している毛野の騎馬隊に対して睨みつけている。
毛野軍もさすがである。昨晩の使主軍の熱狂で、馬が興奮したり怯えたりし、混乱が見られていたのだが、朝までには隊列を戻しているのである。
毛野軍の陣太鼓が鳴る。
一斉に河川敷の葦原に突っ込み、川を渡り始める。
使主軍もそれを対岸で迎え撃つ。
ボイたちは後方から音圧で後押しする。
試合開始である。
ドン・ドン! ドドドン! ドドドドン! ドン・ドン!
カッ・カッ! カカカッ! カカカカッ! カッ・カッ!
ドン・ドン! ドドドン! ドドドドン! ドン・ドン!
カッ・カッ! カカカッ! カカカカッ! カッ・カッ!
ドドドン! ドドドン! ドドドドドドドン!!
カカカッ! カカカッ! カカカカカカカッ!!
「それうて! やれうて! かっ飛ばせ!!!」
使主軍の中に、拍子に合わせて鉾を突き出す者がいた。
「それうて! やれうて! かっ飛ばせ!!!」
横目でそれを見た、他の者たちも、負けてならぬと、各々ポーズを決め、毛野軍の突進を迎え撃つ。
「「「「「うおおおおおおおお!!!」」」」」
使主軍は、騎馬隊の突進の圧力に持ちこたえている。一部は、押し返している部分もある。
一進一退、何とか渡河してくる敵をすんでのところで持ちこたえている。
しかし、
「うおおおお!! だめだああっ!!」
「ダメだ、持たない!」
一部、柵が破られ、押し込まれ始める部分が出てきた。
それを見たボイは叫ぶ!
「いけない! 集中応援いくよ!」
シャンシャン! シャンシャンシャン! シャンシャン! シャンシャンシャン!
ドン・ドン! ドドドン! ドン・ドン! ドドドン!
かっ飛ばせ! かっ飛ばせ! 小玉!
かっ飛ばせ! かっ飛ばせ! 小玉!
するとどうだろう!
押し込まれていた小玉隊に勢いが戻り、一気に川岸付近まで毛野軍を押し戻していく!
◆◆◆
一進一退の攻防が続く、荒川河川敷。
毛野軍の猛攻を、『かっ飛ばせ!』コールによりトランス状態になった狂信的戦士たちが何とか食い止める。
櫓の上のボイも、笹を振り回すタッコボも、護衛たちも、太鼓を打ち鳴らす大串さんも、声を枯らしながら一心不乱に応援を繰り返す。
気が付けば太陽はいつしか東から南の空へと移り、辺りには暖かい日差しが降り注いでいた。
次第に、数千の足に踏み荒らされた川岸の土が緩んで泥濘が広がり、戦況は膠着状態となっていった。
「阿太知がようやく動き始めました!」
何で知ったのかわからないが大串さんが叫ぶ!
ボイたちの応援にも熱が入る。その時だった。
ふとタッコボの顔を見る。
タッコボの下唇が、今まさに、縦に裂けた。
「いてててて」
「あ! 来る!」
そのとき、荒川河川敷を北西からの突風が駆け抜けた。ボイたちは、急激な風圧で飛ばされそうになるのを必死で耐えた!
来た!
空っ風である!
使主隊の陣太鼓が鳴る。葦原のいたるところから火の手が上がった。
冬の乾燥しきった葦に、乾いた空っ風。火炎は瞬く間に河川敷全体に燃え広がり、毛野の軍勢は火に包まれた。
退却を始める毛野軍だったが、南方から進軍してきた阿太知の軍勢に阻まれ、大損害を出して、横渟まで撤退していった。
使主軍はなんとか、毛野の侵攻をぎりぎりのところで止められたのである。
◆◆◆
「勝った……」
敗走して、小さくなっていく毛野軍をうすぼんやり眺めながら、ボイは小さくつぶやき、その場、お立ち台になっている櫓の上でへたり込んだ。
「よかった……」
すべての力を使い、極度の緊張から解放されたボイは、その場で俯き、速く、そして深く息をしている。
後ろで笹をもって振っていたタッコボが、ボイの傍らに近づいて、背中をさすってくれた。
槌をふるってタコだらけ、まさに笠原多古の名前にふさわしいタッコボの手であるが、こうやって触れていてくれるととても安心するのだ。
「終わったな、勝ったんだな……」
タッコボは少し、上ずった声で囁き、鼻をすすっていた。
「うん……」
そうやって、少し感傷的な空気が流れていたわけであるが、世の中そんなに甘くなかった。
小さくなる毛野軍を見ているのは、ボイとタッコボだけではない。この戦場にいる多くの将兵が、ボイが図らずも仕掛けてしまった熱狂と、勝利の興奮の中にいる。そして、その勝利の勝鬨は本来、大将である使主に向けられるべきであるが、今回は違った。明らかに、この戦場を支配していたのは、使主ではなく、ボイが仕掛けた熱狂だったのである。
そしてそれは、当然のように、勝利の勝鬨となって、櫓の上でへばっているボイにささげられる。
一斉に多くの将兵が櫓の元に集まる。
そして、誰が始めるともなく、勝鬨が沸き上がる。
「「「「「かっ飛ばせ! かっ飛ばせ! かっ飛ばせ! かっ飛ばせ!…………」」」」」
いつ終わるともない、『かっ飛ばせ!』が北武蔵の大地にこだまする。
熱狂、熱狂、熱狂である。
使主の娘が!
ワッカムイマが!
ヤマトの言葉で!
懐かしい郷の言葉で!
支配下の豪族すべての名を一人一人挙げて!
攻め込まれて苦しい時にも、後ろから声をかけ続けてくれて!
我々を勝利に導いてくれた!
畏敬、崇拝、いや、狂信ともいえる熱圧がボイに対して向けられていた。
「ひ、ひえっ……」
昨日からずっと興奮状態だったボイだったが、安心して急速に体内のアドレナリンが枯渇してきた。
眼下に広がる数千の男たちの異様な熱気に怖くなったボイは、いたたまれず、タッコボの背後に身を隠した。
その結果、ボイの盾となったタッコボが、数千の兵が放つ狂熱の勝鬨を、真っ向から一人で浴びる羽目になってしまったのである。
余談だが、この日、河川敷に響き渡った「かっ飛ばせ!」というワッカムイマの言葉は、北武蔵の男たちの魂に深く刻み込まれることとなった。
やがて彼らは、敵を殴る時は「打っ飛ばす」、蹴る時は「蹴っ飛ばす」と、あらゆる場面において『〇〇っ飛ばす』という言葉を用いるようになった。
これが後世の、『坂東武者』の荒々しい気風に引き継がれ、果ては江戸時代の『江戸弁』に取り入れられて、全国に広まっていった……という明らかに定かではない謎の仮説が存在するが、それはまた別のお話である。
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本作は只今、第一部完結に向けてラストスパートの一気投稿をしております。
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