黒鉄
翌朝。郷を包んでいた朝靄が少しずつ薄れていく中、ボイはソタイの郷の崖下にある清水へと足を運んだ。
青々とした苔に覆われた岩の割れ目から、絶えることなく湧き出す澄んだ水。そこは、神聖な気が満ちる郷の水場であり、命の還る場所である。
『おじさーん!』
『どうしたんだい、ソタイマネボ?』
湧き水がこんこんと溢れる洗い場で、腰に獣の皮を巻いただけの狩人のおじさんが手を止めて振り返る。
細身だが、しっかり肌肉がついている日に焼けた身体に伸び放題の髭。どこか近所の気のいいおじさんのようでもある。
この地では、狩りで仕留めた獲物は郷の神聖な清水で清め、感謝の礼を尽くして解体したのち、その魂を天へと送り返す(ホブニレする)習わしになっていた。
『あのさ、解体したあとの脂、少し分けてくれない?』
『おう、そこにあるやつを持っていきな』
仕留めた獲物は村全体の共有財産だ。だから子どもであっても分け前をもらう権利がある。
もっとも、ボイが族長の一人娘で、村じゅうから可愛がられているという理由も大いにあった。
解体場で皮にべっとりと残った猪の脂を手に入れたボイは、その足で隣村にあるタッコボの鍛冶場へと向かった。
『おーい! タッコボ!』
『なんだ、ボイか!』
『ボイじゃないよ! ソタイマネボだよ!』
『ボイはボイだろ?』
もはや挨拶代わりとなったお決まりの応酬である。
『ところで、何しに来たんだ?』
『きょうは、これ直して!』
ボイは懐から、ほんの少し刃こぼれした草刈り鎌を取り出して突き出した。
『なんだよ、まだ十分使えるじゃん』
『いいから、頼むってば!』
『おまえ、さては俺に会いに――』
言い切るより早く、鍛冶用の低い丸太椅子に腰掛けていたタッコボの顔面に、ボイの容赦ない前蹴りがクリーンヒットした。
『……ンだよ、乱暴な奴だな……じゃあ、やるか……』
鼻をさすりながら、タッコボは何事もなかったかのように作業台へ向かう。
この時代の鉄は炭素の含有量が極めて低い。現代のように水へ突っ込んで急冷しようものなら、内部の脆さから一瞬でヒビが入ってしまう。そのため、叩き延ばしたあとは空気中でゆっくり冷ます自然冷却が基本なのである。
炉で赤熱させ、槌で刃を打ち均し、修理が一段落したその刹那。
タッコボが鉄を冷まそうとした瞬間を見計らい、ボイはすかさず獣脂のついた皮を突き出した。
『あのさ、タッコボ! 冷めないうちに、今すぐこの脂を刃先に擦り付けて!』
『は、はぁ!? 何言ってんだ、そんなことしたら真っ黒焦げになっちまうだろ!』
『いいから早く! 鉄が冷めちゃう!』
『あーもう、どうなっても知らねえからな!』
半信半疑のタッコボが、まだ赤黒い熱を帯びた鎌の刃先に猪の脂皮を力いっぱい押し当てた。
――ジュウウウウッ!!
激しい音とともに猛烈な白煙が立ち上り、香ばしい獣脂の匂いが鍛冶場いっぱいに広がる。
そして煙が引いたあと、銀色に光っていたはずの鎌の刃先は、見事なまでに真っ黒に変色していた。
『ほら見ろ! 黒焦げになっちまったじゃねえか! どうすんだよこれ、ソタイの親父殿に怒られてもしらねえぞ!』
『いいの、いいの♪』
頭を抱えるタッコボの横で、ボイは黒光りする鎌をまじまじと見つめ、ご機嫌で鼻歌交じりだ。
(ふっふっふ、アホめ。これは煤けたんじゃないの! 四酸化三鉄の酸化皮膜と、油の熱重合による焼き付けコーティングなのだよ!)
ボイは詳しい理屈を何一つ説明しないまま、真っ黒に染まった鎌を大事そうに抱え、上機嫌でソタイの郷へとスキップしながら帰っていった。
―― 一ヶ月後。
鍛冶場のタッコボは、作業の手を止めてしきりに首を傾げていた。
『……あの黒焦げにして以来、ボイのやつ全然顔を出さねえな……』
あの鎌を台無しにしたせいで、頑固で恐ろしいソタイの郷長でボイの父親であるソタイル殿にこっぴどく絞られているのではないか。
あいつに言われてやったとはいえ、実際に脂を押し当てて焦がしたのは自分だ。
『……ソタイル殿、怒るとめちゃくちゃ怖いんだよなぁ……。でも、俺のせいだしな。様子見に行くか……』
口は悪いが、根はとことん心配性で責任感の強い男なのである。
タッコボは重い腰を上げ、意を決してソタイの郷へと向かうことにした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
もし本作についてご興味、ご関心いただけましたら、下記のブックマークや高評価(☆☆☆☆☆)をいただけますと、大変励みになります!




