ターニングポイント
太陽が西に傾き、空が赤く染まり始めたころ。ソタイルはタッコの郷に戻ってきた。
その背中には、なぜか大きなつづらが背負われていた。肩を落とし、眉間には深くしわが刻まれている。
郷の広場にある石に腰かけると、ソタイルは重い口を開いた。
『……ボイ。お前を、小杵の側女として差し出せと言われた。このつづらは、側女の儀で着る服だそうだ。 すまない、ワシの力が足りないばかりに……ッ!』
ソタイルは強くこぶしを握り締め、血の涙を流すように言葉を吐き出した。
ドンッ! とつづらが地面に投げ出される。
村の男たちは一瞬静まり返り、やがて爆発した。
『ふざけるな! 俺たちのワッカムイマをヤマトの犬どもに渡してたまるか!』
武器を掲げ、怒号が飛び交う。
(は? 側女? 私が?)
悲痛な空気に包まれる中、ボイも当然、冷静ではいられなかった。
「どこの馬の骨とも知らん古代人の愛人にしろって? 冗談じゃない。しかも、親父様言ってたよね、小杵って親父様よりずーっと年上のジジイなんじゃないの!?
はぁ、ふざけんな。私、まだ十歳だぞ。確かに、前世の記憶があるから中身はすでにアラサーかもしれないけど、それでも無理っ、絶対無理! ふざけんな!」
ボイは怒りのあまり、日本語で叫んでしまった。
郷の者たちは茫然として、ボイを見ている。
『ワッカムイマ様が、聞いたこともねぇ言葉を叫んでおられるぞ!? あれはヤマトの言葉か……?』
(ああっやばい。怒りのあまり日本語でしゃべっちゃった!)
『ち、ちがうちがう! これはカミを呼ぶおまじないだよ、おまじない!』
ボイが誤魔化していると、少し遅れてタッコボが広場に駆け込んできた。はぁはぁと肩で大きく息をしている。
どうやら、要求された内容を誰かがタッコボに伝えたらしい。
『本当なのか? 本当なのか!?』
タッコボは何度もソタイルに問い詰める。普段見たことのないような、すさまじい形相だった。
それは怒りなのか、それとも深い後悔なのか。
『俺が……俺がはしゃいで、野だたらを作って見せびらかしたから……ッ』
タッコボはようやく気づいたのだ。自分がとんでもないことをしてしまったと。
周りにおだてられ、乗せられ、気分が良くなって舞い上がり、そして取り返しのつかない事態を招いた。
下を向き、強く下唇を噛む。噛みすぎたせいで、血が滲んでいた。
そのやり取りを見て、ソタイルはさらに深く肩を落とした。
『ボイ! すまねぇ! いいんだ、無理やりヤマト言葉をしゃべらなくても! お前は側女なんかに行かなくてもいいんだ!』
『そうだそうだ! ワッカムイマ様を渡しちゃなんねぇ!』
『小杵許すまじ!』
『今すぐ御陵の館に打ちこわしに行くか!』
『『『おおう!』』』
怒り狂う村人たち。しかし、その熱狂的なやり取りを見た瞬間――ボイの心境に変化が起きた。
興奮し、我を忘れる人々を前にすると、逆に理性が極限まで研ぎ澄まされていく。だんだんと気持ちが落ち着いてきたのだ。
これほどまでに頭が冴えわたることが、今まであっただろうか。まるで、脳髄に直接、氷水を流し込まれたように思考が冷たく、クリアになっていく。
『みんなありがとう。でも私は大丈夫。そしてタッコボ、自分だけを責めないで。そもそも、黒鉄も、たたらも、私が言い出したこと。だから原因は私にある』
『おい、それじゃあ、あんな奴の側女になっちまうのかよ!』
『……私が、側女になんてなるわけないでしょ』
ボイは静かに、だがはっきりと宣言した。
そして大きく息を吸い込むと、村の男たち、そしてソタイルに向かって、深く深く頭を下げた。
『みんな、お願い! 私を助けて!親父殿の話によれば、向こうの指定は三日後。私がこのまま大人しく行くわけがないと悟れば、やつらは必ず力ずくで私を奪い、郷を制圧しに攻めてくる……それを迎え撃つために、みんなの力を貸して!』
ボイは普段、他人に自分から何かを頼み込むようなことはない(タッコボをこき使うことは別として)。
その彼女が、広場の中心で頭を下げ、明確に「共に戦ってほしい」と協力を求めたのだ。
『よーし! ワッカムイマもやる気になってくれた! カムイが味方に付いたぞ!』
『『『おおう!!』』』
『俺たちも一緒に戦うぞ!!』
アクトの郷、クズブクトの郷の者たちも一緒に武器を振り上げ、咆哮を上げた。
郷の士気は、今この瞬間、最高潮に達した。
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