第5話【熱情】「祈ってる場合じゃねぇ!」〜月下の魔術師、颯爽と現る〜
「……なんで、誰もいないの」
その頃、アリアは道ゆく馬車に持ち前の愛嬌で頼み込んで乗せてもらい、三十分ほどで目的地に到着していた。ドラフェンガルド旧市街。海沿いの古い家。高級住宅街を抜けた先に、アリアの家はあった。街は夕暮れに包まれて、鳥が巣へ帰ろうと鳴いている。潮風は少し冷たく、石畳の坂道には、夜の気配がゆっくりと降り始めていた。
アリアは、扉の前で立ち尽くした。
期待に胸を膨らませて弾むように坂道を登ってきたはずの足が、ぴたりと止まる。大きな青い瞳を何度も瞬かせ、目の前の光景を信じられないというように見つめた。
幼い頃に暮らしていた、懐かしい家。けれど扉は固く閉ざされ、温かい明かりひとつない。窓には古い板が無造作に打ちつけられ、表札の文字は今にも消えそうに掠れていた。
おばあちゃんが「おかえり」と迎えてくれるはずだった空想が、ガラガラと音を立てて崩れていく。
声は、自分でも驚くほど小さく、震えていた。
「おばあちゃん……どこにいるの」
もうエデンには絶対に帰りたくない。でも、ここにも私の帰る場所がない。アリアの顔からみるみる元気が失われ、くしゃりと歪んでいく。彼女は重たい鞄をすぐ横にどさりと置き、冷え切った扉の前に座り込んで、小さな体をさらに小さく丸めるようにして膝を抱えた。
「……寒い」
きゅっと唇を噛み締め、涙がこぼれそうになるのを必死で堪える。その時だった。
背後で、ひゅう、と生温かい風が吹いた。背筋が粟立つような、ひどく嫌な湿り気を帯びた風。
——なんだろう。
アリアは、膝に顔を埋めたまま、怪訝そうに少しだけ首を傾けた。夜の海の波音にしては、耳元に近すぎる。古びた家が風で鳴っているにしては、妙に温かすぎる。
『しゅう……、しゅう……』
規則正しい、くぐもった音が、すぐ近くで聞こえる。
——まあ、いいか。
ここが廃墟なら、野良猫の一匹や二匹くらい夜露をしのぎにきていても不思議じゃない。アリアはふう、と小さいため息をつき、再びぎゅっと目を閉じ、完全に膝に顔を埋めた。
沈んでいく夕日と、目の前の薄暗い公園を見つめながら、アリアはこの家を出た日のことを思い出していた。聖力が顕現したのは、あの公園で近所の子どもたちと歌っていた時のことだった。流行りの歌を、ただ無邪気に、大きな口を開けて声を張り上げて歌っていた。楽しくて、嬉しくて、ただみんなと声を重ねていただけだった。
けれど、その時。アリアの身体だけが、内側から淡く輝き出した。
「え……? なに、これ……?」
最初、アリア自身は何が起きたのか分からず、自分の両手を見つめてぽかんと目を丸くしていた。ただ歌っていただけなのに、光はどんどん強くなり、公園の隅で完全に枯れていた木々が、その光を浴びて一斉に季節外れの花を咲かせたのだ。
その瞬間、周囲で見守っていた大人たちの顔色が、驚愕と恐怖で一変した。
祖母は真っ青な顔で、すぐにアリアの手を引いて家の中へ隠した。元々は、どこにでもいる子どもと同じ、薄い栗色の髪だった。けれど聖力が顕現したその時から少しずつ色を変え、眩い淡い金へと変わり始めた。やがて、光を受けるたびに金の奥に薄桃色がふわりと差すようになった。桜の花びらを黄金に透かしたような、不思議な桃色。
そして瞳は、元々青かった色に吸い込まれるような深みがかかり、まるでサファイアのように妖しく煌めき出した。
この国の者であれば、誰もが知っている。それは、聖なる力を宿した者に現れる、特別な色彩だった。
外から、その色が見えないように。
誰にも、アリアが“光の御子”だと気づかれないように。
祖母はボロボロと涙を流しながら、アリアの長かった自慢の髪をハサミで容赦なく刈り上げた。
「おばあちゃん、痛いよ、どうして?」と泣きじゃくるアリアをなだめながら、男の子のように短くして、その上から厳重に布を巻きつける。
けれど、あのとき公園にいた別の保護者が、すぐに神殿へ届け出てしまっていた。
数日後。エデンから、黒い馬車と共に無情な迎えが来た。一生遊んで暮らせるほどの莫大な金額を提示され、アリアの母親は見たこともないほど嬉々として娘を手放し、男の腕に絡みついてあっさりと消えた。
(お母さん、私を捨てるの……?)
ショックのあまり、幼いアリアの表情から一切の感情が消え、人形のように硬直した。その日のうちに、アリアは無理やり家を出されることになった。祖母は床に泣き崩れ、走り出した馬車を必死に追いかけてきた。途中で派手に石に躓き、膝をすりむいて血を流しながらも、それでもアリアの名前を喉を掻き切るような声で呼びながら追いかけてくる。アリアも我に返り、馬車の窓ガラスに顔を押し付けるようにしてすがりつき、泣きじゃくりながら祖母へ向けて必死に手を伸ばした。
「おばあちゃん! いやだ、行きたくない! おばあちゃん!!」
けれど、馬車は無情にも速度を上げ、止まらなかった。あの時の、遠ざかっていく祖母の絶望に歪んだ顔が、今もまぶたの裏に生々しく焼き付いている。
エデンについてからは、散々だった。「ここから出しなさいよ!」と毎日大暴れし、何度も脱走を試みては捕まるアリアに、大人たちは「心を落ち着ける薬だよ」と称して薄紅色の鎮静薬を飲ませた。最初は「そんなのいらない!」と激しく嫌がって泣き叫んだ。けれど、無理やり数日も服用させられれば、まだ幼かったアリアの心はその薬がもたらす強制的な平穏を手放せなくなってしまった。心が不安で押しつぶされそうになるたび、呼吸が浅くなるたびに、震える手で薬を飲み、圧倒的な孤独と恐怖に耐えた。いつの間にか、毎晩それを飲むのが当たり前の日常になっていた。
いつか帰れる。18歳になれば、ここは出れる。
そう耳元で囁く大人たちの言葉を信じて、アリアは悔しさに唇を噛み締めながら、必死で様々な知識を頭に叩き込んだ。自分よりさらに幼い子が泣きながら連れてこられた日には、自分の寂しさをぐっと押し隠し、「大丈夫よ、お姉ちゃんがいるからね」と、とびきり元気な笑顔を作って面倒を見た。歌えと言われれば、すべての感情をぶつけるように歌い、祈れと言われれば祈った。
歌うことは、本当は大好きだった。自分を包む温かい光だけが、世界で独りぼっちになってしまった自分自身を、唯一癒してくれているような気がしたから。
けれど、共に暮らす仲間は、大きくなるといつの間にか一人、また一人と姿を消していった。任期を終えて帰ったのだと聞いた。番となって結婚し、外で幸せに暮らすのだとも聞いた。けれど中には、番となっても結婚せず、生気も意思も失った抜け殻のようになってエデンに残る者もいた。リサのように。
三年前。
ソリストとして初めて大群衆の前に立った儀式の日。眩い光と熱狂の渦の中で、アリアはきらびやかな祭壇の上から、群衆の最後尾に、小柄な老婆の姿を見つけた。しわだらけの手を、ちぎれんばかりに必死に振っている。涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、それでも真っ直ぐにアリアを見つめている。
遠く離れていても、すぐにおばあちゃんだと分かった。アリアの瞳に、ぶわっと熱いものが込み上げる。アリアは祭壇の上で、神官たちの「正面を向きなさい」という鋭い視線を完全に無視し、おばあちゃんに向かって力強く、深く頷いてみせた。
――分かってる! おばあちゃんだって、ちゃんと分かってるよ!!!
必死に視線で伝えると、祖母もそれに気づいたのだろう、同じように何度も何度も激しく頷いた。そして、震える唇に両手を当てて、不器用な投げキスを何度も、何度も、アリアまで届くように送ってくれた。
ボロボロと涙をこぼしながら、祖母はアリアと一緒に、祈りの歌を口ずさんでいた。アリアは、絶対に正面を向かなかった。おばあちゃんの方だけを向いて歌い続けた。後でどれだけ激しく叱られたって知るもんか、と心の中でべーっと舌を出すような反骨精神を燃やしながら。美しい深い青の瞳から大粒の涙がこぼれても、決して隠そうとはしなかった。
あの時の祖母の涙と笑顔だけが、アリアの冷たい鳥籠での生活を支える、たった一つの光だった。自分もいつか、絶対に外に出る。そして、おばあちゃんに会いに行く。そう信じて、今日まで歌い続けてきたのだ。
そして数日前。ようやくここを出るのだと、神官が告げた。けれど、エデンの大人たちが告げた行き先は、この懐かしい家ではなかった。18歳の誕生日がもう十日もすれば訪れると言うのに、今度は帝都へ行けと言う。
帝都ゼノスレガリアへ行けば、またどこかの権力者に囲われて、おばあちゃんのいるこの街へは二度と戻れないかもしれない。
――これ以上、あなたたちの言うお人形にはならない。
そうしてアリアは、ここ数年諦めていた脱走を、人知れず決意したのだった。執事の部屋に忍び込んで金目のものを手際よく盗み、かねてからベッドの下に隠していたシーツのロープを窓から垂らして、夜闇に紛れて脱出した。「ざまあみなさい!」と心の中でニシシと小悪魔のように笑いながら壁を降りたのだ。途中で、あの馬臭くて柄の悪い、無駄に顔だけはいいヤンキー二人組に絡まれたことは、完全に想定外だったけれど。
「……あいつら、本当に変な奴らだったな」
ふと、アリアが瞳を開けると、夕日は完全に沈みきっていた。家の前の公園は、底知れない闇に沈み、真っ暗だった。急に静寂が押し寄せ、心細さに思わず「ぐすっ」と鼻をすする。
「……っ、泣かない。寝る場所、探さなきゃ」
パチパチと両手で自分の頬を叩いて強引に気合いを入れ、小さく首を振った。鞄の中に、エデンからくすねてきた地図が入っているはずだ。
「よいしょ……」
横に置いた大きな鞄を探ろうと、アリアが無防備に顔を真横へ向けた、その瞬間。
アリアのすべての動きが、文字通り完全にフリーズした。
その大きな青い瞳が、これ以上ないほど限界まで見開かれ、こぼれ落ちそうになる。
——目の前に、巨大な緑色の瞳があった。
「え……?」
間抜けな声が、喉の奥から小さく漏れる。
鞄をすっぽりと覆い隠すほどのゼロ距離。ぬるりと動く不気味な緑色の巨大な眼球が、どす黒く血走りながら、真っ直ぐにアリアの顔を覗き込んでいた。
さっきから聞こえていた『しゅう、しゅう』という音は、野良猫なんかじゃない。すぐ頭上から降ってきていた、熱い獣の鼻息だったのだ。アリアが回想に沈んで目を閉じていた間、そいつは音もなく近づき、アリアのすぐ真横にしゃがみ込んで、彼女の顔をじっと観察していたのである。
鳥の嘴のように長く鋭い鼻。暗闇に同化するような、毛むくじゃらの巨体。耳まで裂けた口からは、粘着質なよだれが、ぼたり、ぼたりとアリアのすぐ横の地面に落ち、石畳をジュウッと不気味に溶かしている。
魔獣だった。
アリアは、鞄へ伸ばしかけた手を、空中でピシッと硬直させた。全身の毛穴が開き、血の気が一気に引いていく。恐怖のあまり顔が引きつり、悲鳴すら喉の奥に張り付いて音にならない。
魔獣の緑色の瞳が、極上の獲物を見つけたと言わんばかりに、歓喜でぐにゃりと三日月の形に歪んだ。大口が、目の前でゆっくりと開いていく。
(あ、死ぬ…。)
絶望的な死の予感に、アリアは両手で頭を抱え、ぎゅっと目を閉じて身を縮こませた。神様にお祈りをする余裕すら、今の彼女には残されていなかった。
死を覚悟した、その時。
「祈ってる場合じゃねーだろ! 出目金!!」
空から、夜の静寂を真っ二つに劈くような凄まじい雷鳴が落ちてきた。「ひゃんっ!?」と情けない悲鳴を上げて驚いて目を開けると、月を背にして、一直線に黒い影が夜空から降ってくるのが見えた。
バリバリと青白い電光が炸裂する中、紫色の目が鋭く光り、灰色の髪が夜風に激しく靡く。あの、口が悪くて、傲慢で、無駄に顔のいい――さっきの命の恩人だった。
セシルだった。
無駄のない、しなやかに引き締まった長い脚が、アリアを食いちぎろうと迫っていた魔獣の巨体の横面を、岩盤をも砕くような勢いで容赦なく蹴り飛ばす。直後、彼の長い指先から青白い雷が弾けた。網の目のように広がった雷撃が、凄まじい閃光と轟音と共に、魔獣の身体を跡形もなく焼き払う。
「勝手に死にかけてんじゃねぇ!」
圧倒的で、暴力的なまでの制圧力。アリアを死の淵まで追い詰めた怪物は、たった一瞬で黒焦げの肉塊へと変わり果てた。
美しく整った顔が、月光に照らされている。その紫の瞳だけが、夜の中で鋭く光っていた。
「君、アリア・ブランシュ・メイフィールドさん? 僕の後ろに下がって」
続いて、ふわりと重力を無視して風を纏うように降り立ったハルカが、アリアを庇うように彼女の前に立つ。一切の隙がない、洗練された騎士の佇まいだった。黒髪に、スカイブルーの瞳。その目が、静かにアリアを見つめている。
「そ、そうだけど……あんたたち、さっきの……」
「改めて見ても、御子サマには見えねぇな」
セシルがチリとなった魔獣の残骸を冷ややかに睨みながら、鼻で笑う。無理もない。この時のアリアの格好は、目立たないようにフードを深くかぶり、くすんだ色のマントを垂らしている。中の服も、男の子が着るような動きやすい半ズボンに、どこかで拾ったようなボロボロのブーツだった。
「僕はハルカ・エオリア・ヴェント。あっちはセシル。僕たちは、あなたをゼノスレガリアまで無事に送り届けるよう命じられてきた」
ハルカは静かに名乗ると、アリアの流血している膝を見て、すっと眉をひそめた。
「足、怪我してるね。失礼」
「え? ちょっと!」
ハルカの高い身長が、すっと視界を覆う。男特有の圧倒的な体格差に、アリアの息が詰まった。軍服に包まれた広い肩幅が、夜の闇を背負ってさらに大きく見える。
ハルカは手際よく清潔な布を取り出すと、アリアの華奢な膝を、節くれ立った大きな手でそっと包み込むようにして傷口を覆った。優しく。けれど、軍人としての有無を言わせない硬い手つきだった。
「い、嫌だ! 勝手に決めないで! 私はここに残る。おばあちゃんと暮らすの!」
ヤンキーと魔獣から逃げ延び、ようやくたどり着いた希望の場所なのだ。アリアは必死に抵抗し、自分を連行しようとするハルカの手を振り払おうとした。
だが――次に響いたセシルの声が、彼女の世界の時間を永遠に止めた。
「……お前の家には、もう誰もいねぇ」
その声は、いつものように乱暴だった。けれど、笑ってはいなかった。
「ばーさんは、先月死んだってよ」
ハルカが即座に顔をしかめる。
「セシル、言い方」
「……事実だろ」
アリアは、頭から氷水を浴びたようにピタリと動きを止めた。
「……は?」
「お前のばーさんのことだよ。心不全だったそうだ。」
「うそ……そんなの、聞いてない。誰も、そんなこと……!」
アリアは、何も言えなかった。言葉が、出てこなかった。呼吸の仕方すら忘れてしまったかのように、ただ大きく瞳を見開いたまま固まった。そして一度、もう誰もいなくなったその家を見つめ、キョロキョロと焦ったかのように何かを探したが…やがて、その瞳から、サファイアのような輝きがすっと消え、濁ったガラス玉のような色に変わっていった。
心臓の奥が冷たくて、痛くて、どうにかなってしまいそうだった。いや、心臓そのものが、音もなく砕け散ったのかもしれない。
アリアは、何を見るでもなくただ空虚な虚空を見つめていた。その表情には、悲しみすら映っていなかった。ただ、世界が急激に色を失い、冷たい静寂だけが彼女を塗りつぶしていく。
「……ごめん。僕たちも、さっき執事さんから聞いたんだ」
ハルカが痛そうに目を伏せ、糸が切れた人形のように崩れ落ちるアリアをそっと支えた。
「お婆様は亡くなって、お母様は再婚されて別の土地へ。この家には、もう誰もいない」
アリアは何も言えなかった。言葉が、出てこなかった。呼吸の仕方すら忘れてしまったようだった。ただ、心臓の奥が冷たくて、痛くて、どうにかなってしまいそうだった。
「……それでも、君には一緒に来てほしい」
ハルカの声は、ひどく静かだった。アリアは、ゆっくりと顔を上げる。
「……どうして」
「君の聖力が必要だから」
ハルカは、逃げることなくアリアを見た。
「北の魔窟を抑えている古の結界が、もう限界に近い。北部では、魔獣が境界を越え始めている。このまま結界が解ければ、帝都だけじゃない。街も、村も、君の知らない誰かの家も、魔獣に襲われる」
アリアの指先が、震えた。
「たくさんの人が死ぬ」
ハルカは、優しい顔のまま、ひどく残酷なことを言った。
「聖樹の前でただ歌うだけだよ」
ハルカは、できるだけ穏やかな声で言った。
「君の聖力で結界を立て直す。儀式が終われば、少なくとも前線の魔獣はかなり抑えられるはずだ。そうすれば、たくさんの人が助かる」
アリアは、小さく息を呑んだ。
歌うだけ。
その言葉が、胸の奥で冷たく響いた。
この人たちは、何も分かっていない。
人生を、聖力を、差し出してきた。
18歳になれば、自由になれる。
そう言われたから、信じてきたのに。
ようやく出られるはずだった。
ようやく、おばあちゃんのところへ帰れるはずだった。
18歳になっても自由になるどころか、帝都へ行けと言われる。
その後のことは、誰も教えてくれない。
それなのに。
今度は、知らない誰かの命まで積まれる。
「……ずるい」
掠れた声だった。ハルカの眉が、わずかに揺れる。
「ずるいことを言っていると思う」
「そんな言い方されたら……嫌だって、言えないじゃない」
「ごめん」
ハルカは静かに言った。
「でも、嘘はつかない。逃げるのは諦めて一緒にきてほしい。」
アリアは何も言えなかった。言葉が、出てこなかった。呼吸の仕方すら忘れてしまったようだった。
セシルは面倒そうに息を吐いた。だが――その紫の瞳は、決して彼女をあざ笑ってはいなかった。
「……はーあ。お前は今から俺らと帝都へ行く」
魂が抜けたようなアリアの身体を、ハルカが軽々と抱き上げた。小柄なアリアは、ハルカの腕の中にすっぽりと収まる。鍛えられた腕は硬く、けれど彼女を抱える手つきは、驚くほど慎重だった。そのまま待たせていた馬の鞍へと座らせ、ハルカ自身もその後ろに跨る。片腕でアリアの華奢な腰を背後から支える手つきは、絶対に逃がさない任務を遂行するための強さで。けれど同時に、壊れ物を扱うようにひどく繊細だった。
背後には、暗い家。
彼女を待つ人は、もう誰もいない家。
「……もーいー。どーでも」
その時だった。冷たい夜風が吹いた。夜風から守ろうとしたハルカの腕に、アリアが頭に巻いていた布の端が引っかかった。するり、するりと布がほどける。さらに夜風が吹いた次の瞬間、隠していた髪が、夜の空気へ滝のようにこぼれ落ちた。
布がほどけ、黄金の髪が夜気に溶け出した。ただ、月明かりを反射して光るその姿は、あまりにも美しく、そしてこの世のものとは思えないほど儚かった。
美しさが、彼女を包む孤独をより際立たせている。
アリアは、自分がどんな姿をしているのかも気にしていない様子で、ただ虚ろな眼差しで暗闇を見つめていた。その顔には、「なぜ自分だけがこんな目に遭うのか」という問いかけも、「助けてほしい」という願いもない。ただ、全てを諦めきった、無機質な静けさだけが張り付いていた。
ハルカが息を呑む。セシルは、何も言わなかった。ただ、一瞬だけ動きを止めた。
さっきまで「出目金」と笑い、みすぼらしいと見下していた少女が、急に全く別の生き物に見えた。
エデンの祭壇に飾られていた、神聖なる光の御子。民衆が涙を流して祈るように見上げる、奇跡を体現する少女が、確かにそこにいた。アリアは少し慌てて髪を掻き集めようとした。けれど、絶望で凍りついた指先に力が入らない。
「……もぉいいや」
小さく呟いて、アリアは諦めたように手を下ろした。
—この人たちは、ただ歌うだけだと思ってる。
でも本当は違う。それだけじゃない。
今までのことも、約束を破られたことも、全部知らない。
あのお祭りで最後だと聞かされていたのに、私は、これから帝都に連れて行かれて、好きなように扱われるんだ。おばあちゃんと暮らして、いつかノヴァリアへ行くという夢は——。
神官たちの薄っぺらい笑顔。
どこにも行けない、閉じ込められた空間。
ただ言われるがままに差し出し、吸われ続けられる聖力。
群衆たちの大きな、歓声。
たくさんの顔。顔、顔、顔、顔…。
「……っ!」
息が乱れだしたことを自覚したアリアは、震える手で鞄を探り、手探りで小さな薬瓶を取り出した。エデンで、泣き叫ぶたびに大人たちから強引に飲まされていた鎮静薬。
アリアは、自分が今どんな表情をしているのかも分からない。鏡を見なくても、自分が抜け殻のような顔をしていることくらい想像できた。震える指先で、手際よく薬瓶の蓋を開ける。まるで何度も繰り返してきた、反射的な動作だった。
喉に流し込む苦い液体。それが心臓を麻痺させていくのを感じながら、彼女は小さく喉を鳴らした。胸を切り裂くような痛みが、また一つ、冷たい霧の中に沈んでいく。
背中を預けているハルカの腕が、薬瓶を見た瞬間にわずかに強張ったのが分かった。
「……」
何かを言いかけた気配がした。けれど、ハルカはすぐに口を閉じた。薬瓶を取り上げることも、飲むなと命じることもしなかった。何も、言えなかったのだ。
アリアの小さな背中に、ハルカの分厚く硬い胸板がぴったりと触れる。衣服越しでも伝わる男の骨格の逞しさに、アリアの絶望がわずかに揺れた。
「……寒いだろう。ごめんね。今、馬を出す」
ハルカの穏やかな吐息が耳元を掠める。使い古された革の匂いと、大型の獣を思わせるハルカ自身の高い体温が混ざり合い、アリアの輪郭を失いかけた絶望を、ゆっくりと包み込んでいく。
「セシル、急ごう。エデンに荷物を取りに行って、新しい馬を調達しないと」
「分かってる」
セシルは手首の袖を乱暴にまくり上げ、しなやかな前腕に浮き出る血管を走らせながら、自分の馬に跨り手綱をグッと握り直した。そして、馬を並走させながら、ハルカの腕の中にいるアリアを横目で見下ろした。
「帝都で皇帝陛下がお待ちだ。……手間かけさせんなよ、出目金。」
ぶっきらぼうな憎まれ口。アリアは、一度セシルに視線をやった。その目は驚くほどに冷たい目だった。
そしてまた視線を前に戻した。アリアは、何も答えなかった。深い青の瞳は虚ろに前を見つめたまま、ピクリとも動かない。言葉を発する気力すら、今の彼女からは完全に失われていた。ただ、悲しみを飲み込んだまま、小さく呼吸を繰り返すだけ。
「……ちっ。」
セシルは忌々しげに舌打ちをして、馬の腹を蹴った。漆黒の闇の中を、二頭の馬が力強い蹄の音を立てて駆け出す。風を切って進むたび、アリアの黄金の髪が、満月の下でふわりと空中に美しい軌跡を描いてなびいた。
もう、帰る場所もない。
ただ、巨大な月が見下ろす夜の底を、彼らは駆け抜けていった。
向かう先が天国か地獄か。それは誰にも分からない。
誤字脱字、改行など修正しました!ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました!
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