第4話【救済】夜空から降る命の恩人〜最強の雷鳴が、私を護る〜
「……なんで、誰もいないの」
その頃、アリアは道ゆく馬車に持ち前の愛嬌で頼み込んで乗せてもらい、三十分ほどで目的地に到着していた。ドラフェンガルド旧市街。海沿いの古い家。高級住宅街を抜けた先に、アリアの家はあった。街は夕暮れに包まれて、鳥が巣へ帰ろうと鳴いている。潮風は少し冷たく、石畳の坂道には、夜の気配がゆっくりと降り始めていた。
アリアは、扉の前で立ち尽くした。
期待に胸を膨らませて弾むように坂道を登ってきたはずの足が、ぴたりと止まる。大きな青い瞳を何度も瞬かせ、目の前の光景を信じられないというように見つめた。
幼い頃に暮らしていた、懐かしい家。
けれど扉は固く閉ざされ、温かい明かりひとつない。
窓には古い板が無造作に打ちつけられ、表札の文字は今にも消えそうに掠れていた。
おばあちゃんが「おかえり」と迎えてくれるはずだった空想が、ガラガラと音を立てて崩れていく。
声は、自分でも驚くほど小さく、震えていた。
「おばあちゃん……どこにいるの」
もうエデンには絶対に帰りたくない。でも、ここにも私の帰る場所がない。アリアの顔からみるみる元気が失われ、くしゃりと歪んでいく。彼女は重たい鞄をすぐ横にどさりと置き、冷え切った扉の前に座り込んで、小さな体をさらに小さく丸めるようにして膝を抱えた。
「……寒い」
きゅっと唇を噛み締め、涙がこぼれそうになるのを必死で堪える。その時だった。
背後で、ひゅう、と生温かい風が吹いた。背筋が粟立つような、ひどく嫌な湿り気を帯びた風。
――なんだろう。
アリアは、膝に顔を埋めたまま、怪訝そうに少しだけ首を傾けた。夜の海の波音にしては、耳元に近すぎる。古びた家が風で鳴っているにしては、妙に温かすぎる。
『しゅう……、しゅう……』
規則正しい、くぐもった音が、すぐ近くで聞こえる。
――まあ、いいか。
ここが廃墟なら、野良猫の一匹や二匹くらい夜露をしのぎにきていても不思議じゃない。アリアはふう、と小さいため息をつき、再びぎゅっと目を閉じ、完全に膝に顔を埋めた。
■■■
沈んでいく夕日と、目の前の薄暗い公園を見つめながら、アリアはこの家を出た日のことを思い出していた。
聖力が顕現したのは、あの公園で近所の子どもたちと歌っていた時のことだった。流行りの歌を、ただ無邪気に、大きな口を開けて声を張り上げて歌っていた。楽しくて、嬉しくて、ただみんなと声を重ねていただけだった。
けれど、その時。アリアの身体だけが、内側から淡く輝き出した。
「え……? なに、これ……?」
最初、アリア自身は何が起きたのか分からず、自分の両手を見つめてぽかんと目を丸くしていた。ただ歌っていただけなのに、光はどんどん強くなり、公園の隅で完全に枯れていた木々が、その光を浴びて一斉に季節外れの花を咲かせたのだ。
その瞬間、周囲で見守っていた大人たちの顔色が、驚愕で一変した。
祖母は真っ青な顔で、すぐにアリアの手を引いて家の中へ隠した。元々は、どこにでもいる子どもと同じ、薄い栗色の髪だった。けれど聖力が顕現してからというもの、その髪は日を追うごとに少しずつ色を失い、眩い淡い金へと変わり始めた。やがて、光を受けるたびに金の奥に薄桃色がふわりと差すようになった。桜の花びらを黄金に透かしたような、不思議な桃色。
そして瞳は、元々青かった色に吸い込まれるような深みがかかり、まるでサファイアのように妖しく煌めき出した。
この国の者であれば、誰もが知っている。
それは、聖なる力を宿した者に現れる、特別な色彩だった。
外から、その色が見えないように。
誰にも、アリアが“光の御子”だと気づかれないように。
祖母はボロボロと涙を流しながら、アリアの長かった自慢の髪をハサミで容赦なく刈り上げた。
「おばあちゃん、痛いよ、どうして?」と泣きじゃくるアリアをなだめながら、男の子のように短くして、その上から厳重に布を巻きつける。
けれど、あのとき公園にいた別の保護者が、すぐに神殿へ届け出てしまっていた。
数日後。
エデンから、黒い馬車と共に無情な迎えが来た。
一生遊んで暮らせるほどの莫大な金額を提示され、アリアの母親は見たこともないほど嬉々として娘を手放し、男の腕に絡みついてあっさりと消えた。
(お母さん、私を捨てるの……?)
ショックのあまり、幼いアリアの表情から一切の感情が消え、人形のように硬直した。その日のうちに、アリアは無理やり家を出されることになった。
祖母は床に泣き崩れ、走り出した馬車を必死に追いかけてきた。途中で派手に石に躓き、膝をすりむいて血を流しながらも、それでもアリアの名前を喉を掻き切るような声で呼びながら追いかけてくる。
アリアも我に返り、馬車の窓ガラスに顔を押し付けるようにしてすがりつき、泣きじゃくりながら祖母へ向けて必死に手を伸ばした。
「おばあちゃん! いやだ、行きたくない! おばあちゃん!!」
けれど、馬車は無情にも速度を上げ、止まらなかった。
あの時の、遠ざかっていく祖母の絶望に歪んだ顔が、今もまぶたの裏に生々しく焼き付いている。
エデンについてからは、散々だった。
「ここから出してよ!」と毎日大暴れし、何度も脱走を試みては捕まるアリアに、大人たちは「心を落ち着ける薬だよ」と称して薄紅色の鎮静薬を飲ませた。最初は「そんなのいらない!」と激しく嫌がって泣き叫んだ。けれど、無理やり数日も服用させられれば、まだ幼かったアリアの心はその薬がもたらす強制的な平穏を手放せなくなってしまった。
心が不安で押しつぶされそうになるたび、呼吸が浅くなるたびに、震える手で薬を飲み、圧倒的な孤独と恐怖に耐えた。いつの間にか、毎晩それを飲むのが当たり前の日常になっていた。
いつか帰れる。
18歳になれば、ここは出れる。
そう耳元で囁く大人たちの言葉を信じて、アリアは悔しさに唇を噛み締めながら、必死で様々な知識を頭に叩き込んだ。自分よりさらに幼い子が泣きながら連れてこられた日には、自分の寂しさをぐっと押し隠し、「大丈夫よ、お姉ちゃんがいるからね」と、とびきり元気な笑顔を作って面倒を見た。
歌えと言われれば、すべての感情をぶつけるように歌い、祈れと言われれば祈った。
歌うことは、大好きだった。自分を包む温かい光だけが、世界で独りぼっちになってしまった自分自身を、唯一癒してくれているような気がしたから。
けれど、共に暮らす仲間は、大きくなるといつの間にか一人、また一人と姿を消していった。任期を終えて帰ったのだと聞いた。番となって結婚し、外で幸せに暮らす子もいるのだとも聞いた。けれど中には、番となっても結婚せず、生気も意思も失った抜け殻のようになってエデンに残る者もいた。リサのように。
三年前。
ソリストとして初めて大群衆の前に立った儀式の日。
眩い光と熱狂の渦の中で、アリアはきらびやかな祭壇の上から、群衆の最後尾に、小柄な老婆の姿を見つけた。
しわだらけの手を、ちぎれんばかりに必死に振っている。涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、それでも真っ直ぐにアリアを見つめている。
遠く離れていても、すぐにおばあちゃんだと分かった。アリアの瞳に、ぶわっと熱いものが込み上げる。アリアは祭壇の上で、神官たちの「正面を向きなさい」という鋭い視線を完全に無視し、おばあちゃんに向かって力強く、深く頷いてみせた。
――分かってる!
おばあちゃんだって、ちゃんと分かってるよ!!!
必死に視線で伝えると、祖母もそれに気づいたのだろう、同じように何度も何度も激しく頷いた。そして、震える唇に両手を当てて、不器用な投げキスを何度も、何度も、アリアまで届くように送ってくれた。
ボロボロと涙をこぼしながら、祖母はアリアと一緒に、祈りの歌を口ずさんでいた。アリアは、絶対に正面を向かなかった。おばあちゃんの方だけを向いて歌い続けた。後でどれだけ激しく叱られたって知るもんか、と心の中でべーっと舌を出すような反骨精神を燃やしながら。美しい深い青の瞳から大粒の涙がこぼれても、決して隠そうとはしなかった。
あの時の祖母の涙と笑顔だけが、アリアの冷たい鳥籠での生活を支える、たった一つの光だった。自分もいつか、絶対に外に出る。そして、おばあちゃんに会いに行く。そう信じて、今日まで歌い続けてきたのだ。
そして数日前。
ようやくここを出るのだと、神官が告げた。けれど、エデンの大人たちが告げた行き先は、この懐かしい家ではなかった。18歳の誕生日がもう十日もすれば訪れると言うのに、今度は帝都へ行けと言う。
帝都ゼノスレガリアへ行けば、またどこかの権力者に囲われて、おばあちゃんのいるこの街へは二度と戻れないかもしれない。
――これ以上、あなたたちの言うお人形にはならない。
そうしてアリアは、ここ数年諦めていた脱走を、人知れず決意したのだった。執事の部屋に忍び込んで金目のものを手際よく盗み、かねてからベッドの下に隠していたシーツのロープを窓から垂らして、夜闇に紛れて脱出した。「ざまあみなさい!」と心の中でニシシと小悪魔のように笑いながら壁を降りたのだ。
途中で、あの馬臭くて柄の悪い、無駄に顔だけはいいヤンキー二人組に絡まれたことは、完全に想定外だったけれど。
「……あいつら、本当に変な奴らだったな」
ふと、アリアが瞳を開けると、夕日は完全に沈みきっていた。家の前の公園は、底知れない闇に沈み、真っ暗だった。
急に静寂が押し寄せ、心細さに思わず「ぐすっ」と鼻をすする。
「……っ、泣かない。寝る場所、探さなきゃ」
パチパチと両手で自分の頬を叩いて強引に気合いを入れ、小さく首を振った。鞄の中に、エデンからくすねてきた地図が入っているはずだ。
「よいしょ……」
横に置いた大きな鞄を探ろうと、アリアが無防備に顔を真横へ向けた、その瞬間。
アリアのすべての動きが、文字通り完全にフリーズした。
その大きな青い瞳が、これ以上ないほど限界まで見開かれ、こぼれ落ちそうになる。
――目の前に、巨大な緑色の瞳があった。
「え……?」
間抜けな声が、喉の奥から小さく漏れる。
鞄をすっぽりと覆い隠すほどのゼロ距離。ぬるりと動く不気味な緑色の巨大な眼球が、どす黒く血走りながら、真っ直ぐにアリアの顔を覗き込んでいた。
さっきから聞こえていた『しゅう、しゅう』という音は、野良猫なんかじゃない。すぐ頭上から降ってきていた、熱い獣の鼻息だったのだ。アリアが回想に沈んで目を閉じていた間、そいつは音もなく近づき、アリアのすぐ真横にしゃがみ込んで、彼女の顔をじっと観察していたのである。
鳥の嘴のように長く鋭い鼻。暗闇に同化するような、毛むくじゃらの巨体。耳まで裂けた口からは、粘着質なよだれが、ぼたり、ぼたりとアリアのすぐ横の地面に落ち、石畳をジュウッと不気味に溶かしている。
魔獣だった。
アリアは、鞄へ伸ばしかけた手を、空中でピシッと硬直させた。全身の毛穴が開き、血の気が一気に引いていく。恐怖のあまり顔が引きつり、悲鳴すら喉の奥に張り付いて音にならない。
魔獣の緑色の瞳が、極上の獲物を見つけたと言わんばかりに、歓喜でぐにゃりと三日月の形に歪んだ。大口が、目の前でゆっくりと開いていった。
「グアグアァアアアァアアッ」
アリアは、すぐそこに迫り来る、死を感じ取った。
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