第50話最終回:君と出会えたことの奇跡。
すべてが終わってから、数日が過ぎた。
長く帝都を覆っていた嵐は去り、魔塔の窓には、やわらかな春の光が差し込んでいる。
サーネルカ・フォイエルシュタインは捕らえられた。
皇帝は正気を取り戻し、ノヴァリアの使節団を迎えた上で、エデンと御子制度、そして帝国全土に張り巡らされた銀の蔦について、大規模な調査を命じたという。
北部辺境の魔物たちは全て討伐され、魔物が出てくる魔窟の前には、古の結界が輝き固く入口を閉ざしている。
重たい政治の話も、貴族たちの混乱も、皇宮の騒ぎも、今の二人には遠くの出来事のように聞こえる。
アリアは、魔塔の一室を借りて、これまでのことが嘘のように毎日を楽しく過ごしていた。
セシルの母ジェシカと買い物に行ったり、ハルカとセシルと一緒に舞台を見に行ったりもした。
髪は金髪から茶髪になっても、その美貌は変わらずで、セシルがどこに行くにも護衛として過保護に付いてくる日々だった。
東の空がゆっくりと紫色から金色へ塗り替えられていく。
空気がひんやりと澄み渡り、街並みが輪郭を取り戻す時間は、世界が祝福されているかのように神聖だ。
アリアは鏡の前に立ち、鏡の中にいる自分を見つめた。
切ったばかりの前髪を少し手直しする。
短いズボン、半袖のシャツの上にローブを羽織る。
そして。
幼い頃に戻ったような、やわらかな茶色の髪。
それを、アリアはそっと指で梳いた。
聖なる御子の光は、もうない。
歌えば世界を満たすような、あの眩しい力もない。
でも、不思議と、空っぽになった気はしなかった。
むしろ、ずっと誰かに預けていた自分を、ようやく取り戻したような気がした。
水色の飾り紐。セシルが、かつて自分の軍服から引き抜いて結んでくれたもの。
アリアはそれを手に取り、茶色の髪をひとつに結んだ。
高い位置でまとめると、くるくると巻いて、リボン結びにした。
「うん、上手にできた!」
長い髪がポニーテールとなってかわいらしく揺れた。
「……よし」
小さく呟いて、アリアは机に向かった。
白い便箋を一枚取り出す。
私、旅に出る。
今度こそ、自分の足で。
もし来たかったら、来てもいいわ。
でも、自分で選んで。
アリア
昨日のうちに書いておいた手紙を机の上に置く。
少しだけ胸が痛んだ。
ジェシカには、きっと泣かれる。
ハーヴィには、たぶん笑われる。
ゼペットはきっと、大騒ぎしてミルクとハチミツを持ってくる。
セシルは、怒るだろう。
ハルカは、たぶん、困ったように笑う。
それでも、アリアは扉を開けた。
廊下は静かだった。
魔塔の朝は、思っていたよりも優しい。
窓の外では、春の風が白い花を揺らしている。
アリアは小さな鞄を抱え、誰にも見つからないように階段を下りた。
魔塔の大扉が見えてくる。
重厚な白い石の扉。
アリアは深く息を吸った。
そして、扉を開ける。
「遅ぇ」
低い声がした。
アリアは固まった。
門の前に、セシルが立っていた。
黒い軍服の上着を肩に引っかけ、腕を組み、不機嫌そうにこちらを見ている。
その隣では、ハルカがいつも通ールの穏やかな顔で手を振っていた。
「おはよう、アリアちゃん」
「……どうして」
アリアは、ぽかんと二人を見つめた。
ハルカがにこりと笑う。
「置き手紙で逃げるには、君はまだ詰めが甘いね」
「逃げるつもりじゃ……」
「じゃあ、家出かい?」
「違うよ!」
アリアが慌てると、セシルがふんと鼻を鳴らした。
「どっちでもいい。どうせ行くんだろ」
「……うん」
アリアは、小さく頷いた。
「少しだけ、自分の足で歩いてみたいの」
セシルは何も言わなかった。
怒られると思っていた。
馬鹿か、と言われると思っていた。
けれど彼は、ただアリアを見ている。
その紫の瞳は、少しだけ寂しそうで、けれど不思議なくらい優しかった。
「俺は、お前を閉じ込めるために番になったんじゃない」
セシルが、ぼそりと言った。
アリアは目を見開く。
「行きたいなら行け」
セシルは視線を逸らす。
「ただし、俺も行く」
「え?」
「僕も行くよ」
ハルカが軽く手を挙げた。
「二人だけにしたら、国境に着く前に喧嘩して迷子になりそうだからね」
「誰が迷子だ」
「君だよ、セシル」
「殺すぞ」
いつもの調子で言い合う二人を見て、アリアは思わず笑ってしまった。
笑ってから、胸がじんわりと温かくなる。
置いていかれなかった。
追いかけられたのではない。
捕まえられたのでもない。
ただ、隣に並んでくれたのだ。
「それにノヴァリアを、一度この目で見てみたいんだ。身分のない国を」
ハルカの言葉にアリアは頷いた。
「ベッドで本ばかり読んでいたから、今度は本物の海を見に行かないとね」
「でも、二人は学園があるでしょう?」
アリアが言うと、ハルカが頷いた。
「春が終われば戻らないといけないね。僕たちはまだあと二年分の単位が残っているから」
「そうなの?」
「そうだよ。セシルなんて、態度だけはもう魔塔主みたいだけどね」
「うるせぇ」
セシルが睨む。
ハルカは楽しそうに笑った。
「でも、それまでなら遠くまで行ける。海を渡って、ノヴァリアまでは三日だと聞いてるよ」
「海……」
アリアの胸が弾んだ。
ノヴァリア。
ずっと本の中でしか知らなかった国。
辞書を引きながら、何度も何度も文字を追った国。
そこへ続く海。
「見たい」
アリアは、はっきりと言った。
「私、見たい!」
セシルは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「なら行くぞ」
私、旅に出る。
そして、少し間を置いてから、気まずそうに視線を逸らす。
「アリア」
「なに?」
「俺は、春が終わったら学園に戻る」
「うん」
「あと二年で卒業する」
「うん」
「卒業したら」
セシルは、ようやくアリアを真っ直ぐに見た。
「結婚しよう」
春の風が、二人の間を通り抜けた。
アリアは瞬きを忘れる。
「……私、もうただの女の子だよ?」
「それでいい」
「番になって、セシルを強くさせてあげられないよ?」
「俺が強いから、いい」
セシルの耳が、少し赤くなっていた。
彼は大きな両手で、アリアの肩にそっと触れた。
「結婚しよう。ただの、アリアと結婚したい」
アリアの胸が、きゅっと鳴った。
「……」
「返事は?」
アリアは力いっぱいジャンプして、セシルに飛びついた。
「はい!」
セシルが、愛おしそうに強く抱きしめ返す。
すぐ横で、ハルカが吹き出した。
「おめでとう! いやぁ、いいものが見られた。じゃあ結婚式では僕が盛大に『セシルの恥ずかしい過去』をスピーチする係を引き受けるよ」
「絶対呼ばねぇ!!!」
「ひどいな。命の恩人なのに」
「うるせぇ」
アリアは笑った。
笑いながら、少しだけ泣きそうになった。
聖なる力はない。
誰かを癒すとか、世界を救うとか、そんなことはもうできない。
魔法も使えない。
そんな奇跡は、もうアリアにはなかった。
でも、この世界でただ一人、
血が繋がってなくとも「そばにいたい」と
そう思える人と出会えたことこそが、奇跡だ。
そう思えた。
行きたい場所へ行っていい。
戻りたい場所を、自分で決めていい。
その自由の中で、それでも隣にいたいと思える人。
きっと、それが本当の意味の奇跡であり、運命の番なのだ。
ハルカが、道の先へ視線を向ける。
「さて。まずは港町かな」
「菓子の美味い店がある場所にしろ」
「君、朝ごはんの心配をしてるのかい?」
「悪いか」
「悪くはないけど、感動の旅立ちとしては少し俗っぽいね」
「腹減ってんだよ」
セシルとハルカが歩き出す。
アリアは一度だけ、魔塔を振り返った。
白い塔。
開いた門。
柔らかな春の光。
エデンの門は、閉じていた。
吊り橋は上がり、アリアを閉じ込めていた。
でも今、魔塔の門は開いている。
そして、その先にはどこまでも道が続いていた。
「アリア」
セシルが振り返る。
「行くぞ」
「うん!」
アリアは駆け出した。
春の風が、水色の飾り紐を揺らした。
その先には、まだ見たことのない海がある。
歩き出したその背中に、どこまでも澄み切った春の光が降り注いでいた。
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次のエピローグで終わりです。今日はこのまま続けて更新します。




