第49話 死の淵。
アリアの腕が、床へ落ちた。
謁見の間が、水を打ったように静まり返る。
誰もが、息を呑んだ。
黎明の御子が死んだ。
帝国を救うはずだった光が、防衛局長官の手によって殺された。
少なくとも、その場にいた誰もが、そう思った。
セシルもまた、動かなかった。
アリアを抱いたまま、項垂れている。銀の髪が濡れ、影のように顔を覆っていた。
「……はは」
静寂を破ったのは、サーネルカの掠れた笑いだった。
肩が震え、優雅だったはずのその輪郭が、どろどろと崩れていく。
「キャーハッ!!!」
突如、空気を引き裂くような、甲高く耳障りな絶叫が響き渡った。
「やった、や〜ったっ!! アハハハ! やったもんね! やったー!!!!」
大の大人が。
帝国の防衛局長官という頂点に立つ男が。
まるで欲しかったおもちゃを与えられた三歳の幼児のように、その場で「やったやった」とぴょんぴょんと跳ね回り、無邪気に両手を叩いて歓喜の声を上げたのだ。
黄色く濁った白目をひん剥き、口の端を耳まで裂けんばかりに吊り上げている。
よだれが糸を引くのも構わず、己の指を噛みながら「アハハハハ!」と甲高い声で笑い転げるその姿は、あまりにも異様だった。
端正な容姿と、狂気に満ちた幼児のような振る舞い。その絶望的なまでの不一致に、貴族たちは血の気を引き、後ずさることすら忘れて震え上がった。
「はぁ……はぁ……、ひひっ……」
ひとしきり狂ったように跳ね回った後。
ピタリ、と。サーネルカの異常な動きが、まるで糸を切られた操り人形のように不自然に止まった。
彼は大きく息を吸い込み、乱れたガウンの襟元を長い指でスッと撫でつける。
そして、首をゴキリと異様な角度に曲げて顔を上げた時――そこには、先ほどまでの狂乱は欠片もなく、冷徹で優雅な『防衛局長官』の仮面が、不気味なほど完璧に張り付いていた。
まるで、狂った怪物が、人間の皮を被り直したかのような悍ましい変貌。
「……まったく、愚かな子だ」
ねっとりとした、爬虫類が這いずるような声が響く。
「私に逆らうから、こうなるのだ。……だが、結果は同じこと。これで御子の力は、私を巡る術式の中に――」
だが、サーネルカの言葉は、唐突に止まった。
彼の黄色く濁った瞳が、信じられないものを見るように見開かれる。
「……なぜだ」
震える指が、セシルを指した。
「なぜ、貴様……死んでいない……!?」
セシルは答えなかった。
ただ、アリアをそっと床へ横たえた。
壊れ物を置くように。
祈るように。
自分のマントを脱ぎ、アリアの身体に静かに掛ける。
アリアの唇は白く、輝いていた髪は光を失って、床に静かに散っていた。
セシルは震える手でその髪を掴み、そして、優しくキスをしてから離れた。
ゆっくりと、立ち上がる。
「…力を、使い切ったんだな。俺のために……」
「番が死ねば、魂を繋がれたもう片方も死ぬはずだ!」
サーネルカの声が裏返る。
「なぜだ! なぜお前は立っている、セシル!」
今朝、シオンが言っていた言葉が、遠くでよぎる。
『――帝国の教え方が雑なんだよ』
『――番契約は、魂を鎖で縛る呪いじゃない。力の流れを接続する術式だ』
だが今のセシルには、そんな理屈を考える余裕などなかった。
アリアが動かない。
ただそれだけで、世界が終わっていた。
「……俺を殺すために」
セシルの声は、地の底から響くように低かった。
「アリアを殺したのか」
サーネルカが、ひゅ、と息を呑む。
セシルは、立て襟のフックを忌々しげに外した。
苦しげに一度、呼吸をする。
そして、サーネルカを見た。
「お前がアリアを欲しがったのは」
一歩。
「自分のちっぽけな魔力じゃ、もう蔦を維持できなくなったからだ」
大理石の床が、雷の熱で黒く焦げる。
「だから、こいつの聖力を番契約で直結させて、てめぇの空っぽの器を満たそうとした」
「違う……私は帝国を……!」
「番契約は、本来、互いに選び合う魔法の婚約だ」
二歩目。
セシルの全身から、青白い雷が弾けた。
「力を奪うための管じゃねぇ。器を縛るための鎖でもねぇ」
紫の瞳が、絶対零度の光を帯びる。
「お前はそれを、搾取の術式に変えた」
「来るな……!」
サーネルカが後ずさる。
「私がいなければ、帝国はとっくに滅びていた! それは事実だろう!」
セシルの足が、ぴたりと止まった。
謁見の間が静まり返る。
「古の結界は弱り、北部は崩れ、魔獣は境界を越えた! 皇帝は恐怖に震え、貴族どもは屋敷に閉じこもり、民は祈るしかなかった!」
サーネルカの声が、熱を帯びる。
「そこに秩序を与えたのは誰だ! 防壁を張り、警報を整え、帝都を今日まで保たせたのは誰だ!」
誰も答えられなかった。
その沈黙に、サーネルカは勝ち誇ったように笑う。
「私だ!」
セシルは、低く息を吐いた。
「……てめぇが帝国を守ったことがあったとしても」
その声は、恐ろしいほど静かだった。
「それで、アリアを食い物にしていい理由にはならねぇ」
サーネルカの顔が歪む。
「私を殺せば、私の術式もろとも古の結界も落ちるぞ!」
「セシル」
ハルカの声がした。
セシルは振り返らない。
「もう、終わってる」
静かな声だった。
「結界は、あいつの手を離れた」
サーネルカの顔から、血の気が引いた。
セシルの唇が、わずかに歪む。
「じゃあ」
雷が、彼の右手へ極限まで収束する。
「心置きなくやれるな」
「や、やめろォォォッ!!」
「国のためでも、結界のためでもねぇ」
金紫の雷が、謁見の間を白く染める。
「全部、てめぇのためだ」
裁きの雷光が、一直線にサーネルカを呑み込んだ。
凄まじい轟音と共に、謁見の間の大窓が吹き飛び、サーネルカの悲鳴が雷鳴にかき消される。
黒焦げになり、白目を剥いて痙攣する男を見下ろし、セシルは冷たく吐き捨てた。
「殺しはしねぇ。……生きて、死ぬまで自分の罪に苦しめ」
「捕らえよ!!!」
正気を取り戻した皇帝の号令で、近衛兵たちが一斉にサーネルカを取り押さえる。
セシルは振り返り、そっとアリアの元にひざまずいた。
マントの下に横たわるアリアは、ひどく静かだった。
唇は白く、血の気がない。
その事実が、セシルの胸を抉る。
「セシル……」
ハルカとシオンが駆け寄る。
だが、誰も言葉を続けられなかった。
セシルは、アリアをそっと抱き上げた。
銀の矢は、まだ胸に刺さったままだ。
「……アリア」
掠れた声で名を呼ぶ。
返事はない。
「許してくれ」
セシルは、アリアの首筋に顔を埋めた。
その時。
とくん。
あまりにも小さな音がした。
セシルの身体が、凍りつく。
とくん。
もう一度。
「……生きてる」
彼の声が震えた。
「まだ、生きてる……!」
だが、その直後。
後方でサーネルカが完全に気を失った瞬間、彼の術式が全て解けた。
アリアの胸を貫いていた銀の矢が、しゅう、と音を立てて消え去る。
「アリア!!」
次いで、赤い血が傷口から溢れ出した。
まるで、今まで矢によって塞がれていた命が、一気に外へ流れ出すように。
「いやだ、待ってくれ、頼む!!」
セシルが必死に傷口に手を当てるが、ゴボゴボと血が溢れ出る。
「ハルカ! 助けてくれ!」
「アリアちゃん! くそ!!」
ハルカが血を止めようと自分のシャツを脱いで巻き付けるが、すぐに血で染まっていく。
「医者を呼べ!! 早く!!!」
シオンが叫ぶ。
しかし、血は止まらない。
「セシル……」
絶望を悟ったハルカが、悲痛な顔でセシルを見て、首を振った。
「いやだ。……いやだ!!! 俺を、一人にしないでくれ」
セシルはアリアを強く掻き抱いた。
「お前がノヴァリアに行きたいなら、どこへでも連れて行ってやる。地の果てでも連れてってやるから……だから、戻ってこい……」
大きな手がアリアの冷たい頬を包む。
紫の瞳が揺れ、涙が溢れ、アリアの頬に落ちていく。
「……お前を、愛しているんだ」
もう一度セシルがきつく抱きしめたその時。
セシルの身体から、金紫の光が爆発的に溢れ出し、アリアの身体を眩く包み込んだ。
ただの魔力ではない。
番契約によってセシルの体に蓄積された聖力。
祈り。
生命力。
セシルの持つ、すべて。
アリアを生かすためだけに、怒涛の勢いで注ぎ込まれていく。
砕けた窓から、冷たい雨粒が吹き込む。
やがて、眩い光の奔流がゆっくりと収まっていった。
しん、と静まり返った謁見の間。
セシルの腕の中で――
「……」
アリアが、ゆっくりと目を開けた。
胸の致命傷は、嘘のように完全に塞がっていた。
だが、セシルの腕の中にいたアリアは、一つだけ大きく変わっているところがあった。
彼女のハチミツ色に輝き、美しくうねっていた黄金の髪が、変わっていたのだ。
根元からサラサラと、栗色の髪――。
それはアリアが聖なる光を顕現する前の、子供の頃の元の髪色だった。
番契約によって繋がった命の流れと、聖樹への聖力の完全な放出。
そして、セシルが自分のすべてを注ぎ込んだことで――
アリアの身体から、「御子」として過剰に集められた光は消え去ったのだ。
「……アリア」
セシルが、震える声で呼んだ。
「セシル……」
アリアはゆっくりと身を起こした。
自分を抱きしめるセシルの顔を見て、ふと小首を傾げる。
「……泣いてるの?」
セシルの頬を、大粒の水滴がいくつも伝い落ちていた。
「……雨だ」
「あは、雨漏り?」
アリアはふわりと笑うと、セシルの首にそっと腕を回した。
「ねえ、ノヴァリア……本当に連れて行ってくれるの?」
「……聞こえてたのかよ」
セシルが、壊れ物を抱くように、アリアを強く、強く抱きしめた。
命を縛るための番の呪いも、もう彼女を縛らない。
アリアは、魔法の力を持たない、ただの一人の女の子に戻ったのだ。
けれど、セシルと選び合った事実だけは消えなかった。
雨の降る聖樹の間で、二人のシルエットが美しく重なる。
感動のフィナーレ。
誰もが息を呑んで、二人の愛の結末を見守って――
――ぶっえええクシュンッええい!!!
盛大な、くしゃみの音が響き渡った。
「…………」
セシルの動きがピタリと止まる。
二人のすぐ横で、ハルカが鼻をこすりながら申し訳なさそうに手を挙げた。
「いやー、ごめんごめん! 昨日からちょっと、雨に打たれすぎたみたいでさぁ」
「……テメェ。今の……隣で全部聞いてたのか」
セシルの声が、地を這うように低くなる。
ハルカは全く悪びれることなく、キラキラとした空色の瞳でセシルを見た。
そして、芝居がかった手つきで胸に手を当てて言い放った。
「親友の涙ほど、辛いものはないよ」(にっこり)
「黙れ殺すぞ!!!」
セシルがアリアを抱きしめたまま青筋を立てて怒鳴ると、今度はハルカの背後から、シオンがひょっこりと顔を出した。
「愛してる〜ぅ♡ 俺を一人にしないでくれ〜〜ぇ♡」
「テメェら絶対殺してやる!!!」
セシルが空いている片手で雷を練り上げ、ハルカとシオンが「おー怖い怖い」と笑いながら逃げ回る。
静寂に包まれていた玉座の間に、騒がしい追走劇の足音と、呆れたような、けれど明るい笑い声が響き渡った。
「――ええい、馬鹿者ども!! 神聖な聖樹の間で何をふざけているかッ!!」
突如、広間に雷鳴のような一喝が轟いた。
ピタッ、と三人の騎士の動きが完全に止まる。
謁見の間の入り口から、紫のローブを翻し、厳格な顔つきで大股に歩いてきたのは――学園の教師であり部隊の隊長、マーレ・エルデスト・ゼノスだった。
彼は倒れた近衛兵たちの指揮を執りながら、ずっと後方の安全を確保していたのだ。
「皇帝陛下の御前であるぞ! 少し目を離せばこれだ、お前たちという奴は……!」
青筋を立てて説教を始めようとしたマーレだったが。
ふと、セシルの腕の中にいる少女を見て、その厳しい声がピタリと止まった。
かつて、初めての儀式で孤独に泣きじゃくっていた、小さなハチミツ色の髪の御子。
その少女が今。
茶色くなった髪を揺らしながら、セシルの腕の中で、これまで見たこともないような、年相応の本当に幸せそうな笑顔を浮かべていたのだ。
マーレは目を瞬かせ、やがて、ほう、と深く息を吐き出した。
そして、いつもの厳格な顔を崩し、目尻を下げる。
「……だが、今日ばかりは特別に許そう」
マーレはそう言うと、かつて幼いアリアを庇ったあの日のように、にっこりと温かく笑って頷いた。
「よくやった。お前たち」
その言葉に、セシルも、ハルカも、シオンも、顔を見合わせて破顔した。
アリアもセシルの腕の中で、温かい涙を拭いながら、大きく頷き返した。
「ってことで先生! 飯奢ってよ!」
シオンがパッチンと両手を叩き、空気を読まない明るい声を響かせた。
「あ、それなら僕は宮廷近くのあの高級ホテルで食事がしたいなぁ」
ハルカがにこやかに便乗する。
「そこは俺様の御用達だ。今すぐ行こう。もちろんマーレの奢りでな」
セシルが当然のように言い放つ。
「お前たち……恩師に対する敬意というものがないのかー!!!」
マーレの雷のような怒声が、再び玉座の間に響き、3人が大笑いする。
先ほどまでの重苦しい静寂は嘘のように消え去り、そこには騒がしくて、どうしようもなく温かい日常があった。
アリアは、彼らのやり取りにおかしくてたまらなくなり、セシルの腕の中でくすくすと笑った。
ふと空を見上げる。
あれほど激しく窓を叩いていた、長かった嵐が止んでいた。
分厚い雲の切れ間から、どこまでも高く、澄み切った青空が広がっていた。
もう、冷たいエデンの部屋に閉じ込められることはない。
番の呪いに怯えることもない。
「……」
アリアは、降り注ぐその眩しい光を、希望に満ちた目を細めて見上げた。
――自由、平等、友愛。
(私、ただあるがままに、私を生きる)
必ずあの海を越えて、ノヴァリアに行くわ。
そして新しい世界を、自分の足で歩いていくの。
ふと、誰かが応援するかのように、優しく笑った気がした。
アリアは少しだけ涙ぐんだが、すぐに力強く口角を上げた。
雨上がりの澄んだ空気に、彼女の明るい笑い声が吸い込まれていった。
■■
同じ空の下。
辺境の地では、聖樹の力が届いた古の結界が再び作動していた。
騎士団たちが歓声をあげ、残っていた魔獣も次々と討伐されていく。
光を取り戻した聖樹が中央で静かに輝き、帝国にある全ての結界が淡く、力強く輝き始めた。
港では、ノヴァリアの商人たちが結界の輝きを確認していた。
『ふむ、これでもう少し交易を続けることができますな』
『そうだな。そして……アリア嬢の功績を讃えて、彼女をノヴァリアに招待すべきだ』
帝都から遠く離れた、エデン。
結界が揺れ、眩い輝きを取り戻したエデンを見て、リサとトーマスは涙を流していた。
「……!! アリア様の聖力を感じるわ!」
「このトーマス! アリア様なら必ずや、やり遂げると信じておりましたぞー!!」
二人は抱き合って、大声で歓喜した。
そして、ハルカの故郷――カリスヴェル領地の領主邸宅でも。
「……結界が力を取り戻した。ハルカ、やったんだな」
カリスヴェル領主が、晴れ渡っていく遠い空を、誇らしげに見上げた。
こうして、長く続いた戦いは、幕を閉じた――――。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
あと少しだけ続きます!
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