第48話【反逆】誤った番契約〜10日目の夜明け〜
夜が明けた。
嵐は、まだ止んでいなかった。
皇宮の謁見の間へ通じる重い扉が、轟音と共に蹴り開けられる。雨と風が、玉座の間へ流れ込んだ。
濡れた黒い軍服をまとったセシル。
その隣に立つアリア。
そして横には、同じく黒い軍服をまとったハルカが立っている。
謁見の間には、皇族、貴族、神官、魔術師たちが集められていた。
中央には、巨大な聖樹のクリスタル。透明な幹は天井へ向かって伸び、枝のように広がる光の管が、帝国全土の結界へと繋がっているが、その光はひどく弱い。今にも消えそうな燭火のように、聖樹はかすかに明滅していた。
玉座には、皇帝が座っている。その瞳は虚ろで、焦点が合っていない。
そして、その傍らに立つサーネルカ・フォイエルシュタインだけが、静かに微笑んでいた。
「――黎明の御子アリアは」
セシルの声が、謁見の間に響いた。
「俺、セシル・シュトラール・フォイエルシュタインと番契約を結んだ」
貴族たちが、一斉にどよめく。
「番契約だと……?」
「皇命を無視したのか?」
「サーネルカ様との番契約はどうなる!」
セシルは、ざわめく貴族たちを一瞥もしなかった。ただ、サーネルカだけを睨みつける。
「こいつの力は、もうてめぇのものにはならねぇ」
サーネルカは、少しも動じなかった。むしろ、薄く冷たい笑みを浮かべる。
「ほう」
その声は、絹が擦れるように滑らかだった。
「そこまで仰るのなら、やってみせなさい」
サーネルカは両手を広げ、謁見の間の奥にある聖樹のクリスタルを指し示した。
「その番契約とやらが、帝国を救うに足るものか。貴女の歌が、本当に聖樹を満たせるものなのか」
サーネルカが皇帝の肩に触れると、皇帝は操り人形のように立ち上がり、命じた。
「黎明の御子、アリア。そのすべての力を、帝国へ捧げよ!」
アリアは、一歩前へ出た。
「アリア」
セシルが低く呼ぶ。
アリアは振り返らず、小さく頷いた。
「大丈夫」
声は震えていた。けれど、足は止まらなかった。
「私が歌って、証明してみせる」
アリアの深い青い瞳が、強く輝いた。
「命じられたからじゃない。奪われた光を、返すために」
ハルカが、護衛として自然な位置を取るように、聖樹の根元へ移動する。彼はアリアを見て、ほんの少しだけ微笑んだ。『大丈夫だよ』と伝えるように。
アリアは聖樹の前に立った。
冷たいクリスタル。枯れかけた光。そこに絡みつく、銀の蔦。
深く息を吸う。
これは、エデンで教わった曲の中で、一番難しい歌だった。長く、重く、そして強い祈りを必要とする曲。これまでの歌が、空から鳴り響く鐘のようなものだったなら、今から歌うこれは、地の底から鳴る祈りだった。土を揺らし、根を起こし、眠るものを叩き起こす歌。
アリアは、目を閉じた。
命じられたからじゃない。奪われるためでもない。誰かの術式に流すためでもない。
これは、私の歌。聖樹へ返すための歌。
「――♪」
最初の一音が、謁見の間に落ちた。
空気が震える。
それは、これまでアリアが歌ってきたどの歌とも違っていた。美しいだけではない。優しいだけでもない。低く、深く、地面そのものが声を持ったような歌だった。大理石の床がかすかに震える。聖樹の根元から、地鳴りのような音が広がる。貴族たちが思わず後ずさった。アリアの白い首筋に細い血管が浮き上がり、瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
苦しい。喉が裂けそうだった。
それでも、アリアは歌うのをやめなかった。
ハチミツ色の膨大な聖力が、アリアの身体から溢れる。そこへ、セシルと番契約を結んだことで生まれた金紫の光が混ざった。柔らかく、けれど雷のように鋭い光。
それが怒涛の勢いで聖樹へ流れ込んでいく。
聖樹が、鳴いた。
鐘のような音が、空からではなく、幹の内側から響き渡る。枯れかけていた透明な枝に光が満ち、灰色に曇っていた幹が、内側から金色に輝き出す。
枝先に、白い若葉が芽吹いた。
そして、一斉に花が咲いた。
謁見の間に、歓声が上がる。
「聖樹が……!」
「咲いたぞ!」
「成功だ!」
「黎明の御子の力は本物だ!」
アリアは歌い続けた。その深い青い瞳から涙が伝い、顎から落ちる。胸の奥が焼けるように熱い。
それでも、最後の一音まで歌い切る。
「っ!……はぁっ、はぁっ……」
歌が終わった瞬間、アリアは大きく肩で息をした。膝が震える。
セシルが一歩踏み出しかける。けれどアリアは、小さく首を振った。
まだ。まだ、終わっていない。
しかし周囲はこう思った。
聖樹は、確かに満ちた。
誰もがそう思った。
だが――次の瞬間。
咲いたばかりの白い花が、端から茶色く縮れた。若葉が萎れる。透明だった幹に、灰色の影が走る。
満ちたはずの光が、みるみるうちに失われていく。
謁見の間が、凍りついた。
「な、なんだ……?」
「聖樹がまた枯れていくぞ!」
「失敗だ!」
「御子の力が通じなかったのか!」
貴族たちのざわめきが、一気に不安へ変わる。
その混乱の中心で、サーネルカがゆっくりと笑った。
「見たか」
穏やかな声だった。だが、その目は笑っていない。
「聖樹は一度、確かに応えた。だが、すぐに枯れた。つまり、力の流れが濁ったのだ」
サーネルカの視線が、セシルへ滑る。
「誤った番契約のせいでな」
謁見の間がざわめいた。
「誤った……?」
「やはり、皇命に背いたから……」
「セシル様との契約が、聖樹を乱したのか?」
アリアは息を呑む。
違う。そう言いたいのに、喉がうまく動かない。
サーネルカは、悲しむように目を伏せた。
「本来、黎明の御子は、帝国の結界と最も深く接続できる者と番になるべきだった。感情に流され、未熟な若造と契約した結果がこれだ」
白い手が、アリアの方へ差し伸べられる。
「今すぐ契約をやり直すべきだ」
その声が、ひどく甘く沈んだ。
「この、私と」
セシルの指先で、雷が弾けた。アリアの背筋に、ぞわりと寒気が走る。
サーネルカが一歩、こちらへ踏み出そうとした。
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