第47話【誓約】優しいキスが、終われない。〜10日目の夜明け前:不器用な騎士は、ときめきに死す〜
夜明け前、アリアは1人目を覚ました。
魔塔は静まり返っている。
嵐の音だけが、窓の外で低く唸っていた。
ハーヴィの執務室に入ったアリアは、まず自分の小さな鞄を開いた。
中から取り出したのは、エデンから持ってきた古い旅行記だった。
表紙は擦り切れ、角は丸くなっている。
最後のページを開く。
エデンでいつも見つめていた、かすれたノヴァリア語の文字が、今もそこに残っていた。
『――私は、私のままに生きる』
『――誰にも、奪わせない』
アリアは、指先でその文字をなぞった。
昔は、辞書を引かなければ読めなかった。
何度も間違えて、何度も読み返して、ようやく意味を知った言葉。
でも今は、目を閉じても分かる。
「私は、私のままに生きる……」
小さく声に出した瞬間、胸の奥が熱くなった。
この言葉を書いた人が、どんな気持ちでこれを残したのか、アリアには分からない。
私の前にソリストを勤めた御子。話したことも、顔を合わせたこともない。
けれど、その人がこの本に残した願いは、確かに今、自分の手の中にある。
アリアは本を閉じた。
そして、視線を移す。
重厚なマホガニーの机。壁一面の本棚。
魔術理論、古代結界、帝国法、異国の言葉で書かれた古い本たち。
その中に、見覚えのある文字があった。ノヴァリア語だ。
アリアは燭台の火を近づけ、擦れた金文字の題名を読む。
『聖力および魔力結合術式に関する比較研究』
「……番契約の本……?」
胸が、少しだけ騒いだ。
昨夜、自分はセシルと番になった。
怖くなかったわけではない。初めての痛みと熱に、何度も泣きそうになった。
でも、後悔はしていない。セシルがいいと思った。セシルだから、選んだ。
それだけは、何度思い返しても変わらない。
アリアはページをめくる。
エデンの大人たちに教えられた帝国の本とは違った。
そこには、番契約を「神聖なる魂の結合」と讃える言葉ではなく、もっと冷静で、乾いた文章が並んでいる。
聖力。魔力。媒介。生命同期。術式結合。
「……難しい」
「何読んでんだ」
背後から落ちた声に、アリアはびくっと肩を跳ねさせた。
振り向くと、セシルが立っていた。
寝起きなのか、銀髪は少し乱れていて、黒いシャツの襟元も緩い。
「起きてたの?」
「……お前がいねぇから」
それだけ言うと、セシルはアリアの背中と椅子の間に座り込んできた。
片膝を立てて、アリアがもたれられるように包み込む。
「……読めねぇ」
「ノヴァリア語だから」
「お前、ほんとに読めんのかよ」
「少しだけ」
「少しだけで、そんな真剣な顔するかよ」
セシルの声が、耳元に近い。顔のすぐ横に顔がある。
アリアは本に目を落としたまま、頬が熱くなるのを感じた。
セシルは何かを迷っているようだった。
肩越しに落ちる視線が、文字ではなく、アリアの頬や、昨夜自分が何度も甘噛みした首筋、そして唇のあたりを彷徨っているのが分かる。
「……セシル」
「あ?」
「読めないよ」
「俺のせいかよ」
「近いから」
セシルはしばらく黙ったあと、低く舌打ちした。
「……読め。邪魔しねぇ」
そう言いながらも、背中にセシルの高い体温だけが近くて、余計に落ち着かなかった。
アリアは必死に文字を追った。
「……帝国の本には、番契約は『魂を結ぶもの』だって書いてあったわ」
「だろうな」
「でも、この本には違うって」
セシルの気配が変わる。
「違う?」
「魂じゃなくて、力を結びつける術式だって。魔力と聖力を媒介にして、命の流れを同期させるもの……」
アリアは震える指先で、一文をなぞる。
「『契約の維持には、互いの力の循環が必要。どちらかの命が完全に断たれた場合、もう片方も引きずられる可能性がある。けれど……』」
そこで、言葉が止まった。
「けど、何だよ」
「聖力や魔力を使い果たしただけなら、命の断絶とは同義ではない、って」
セシルは黙った。アリアも、もう一度読み返す。
「つまり……片方が力を使い果たして倒れても、生きているうちに力がなくなって番契約が解けたのなら、もう片方が必ず死ぬわけじゃない」
その時だった。
「帝国の教え方が雑なんだよ」
扉の方から、掠れた声がした。
アリアとセシルが同時に振り返る。
そこには、壁にもたれかかるようにシオンが立っていた。
昨夜の疲れが抜けていないのか顔色は悪いが、口元にはいつもの皮肉げな笑みがある。
「起きてたのか」
セシルが眉をひそめる。
「起こされたんだよ。朝っぱらから新婚夫婦が人の死生観を揺さぶる本を音読してるせいでな」
「新婚じゃねぇ」
「番になったんだろ。似たようなもんだ」
「殺すぞ」
「元気そうで何より」
シオンは机に近づき、本を覗き込んだ。
「その本は当たりだ。帝国の御伽噺みたいな教本よりは、よほど正確に書いてある」
アリアは本を見下ろす。
「じゃあ、本当に……?」
「ああ」
シオンは淡々と言った。
「番契約は、魂を鎖で縛る呪いじゃない。力の流れを接続する術式だ。片方が命ごと断たれりゃ、もう片方も引きずられる。けど、力を使い果たしただけなら別だ」
「命が、残っていれば?」
「戻せる可能性はある。だが魔力を使い切るときってのは大抵は死ぬ時だ。だから変なことは考えるなよ?」
「わかってる」
「帝国じゃ『片方が死ねばもう片方も死ぬ』とだけ教えた方が都合がいい。怖がらせられる。従わせられる。番を『神聖な鎖』にできるからな」
その言葉に、アリアはリサの手首に浮かんでいた紋章を思い出した。
静かな微笑み。答えのなかった沈黙。
アリアは本を閉じた。
「……番は、鎖じゃない」
小さな声だった。
「少なくとも、私はそう思いたくない」
セシルが、後ろから静かに言った。
「鎖にする気はねぇよ」
アリアが振り返ると、セシルの紫の瞳が、真っ直ぐこちらを見ていた。
「親父とジェシカを見て育った」
セシルは、少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
「あの二人は、番だから一緒にいるんじゃねぇ。一緒にいたくて、深い繋がりを求めて番でいる」
アリアは黙って、セシルを見つめた。
「俺は、そういうのしか認めねぇ」
セシルの声が、低くなる。
「番を、鎖にする気はない」
セシルが、アリアの髪を一房すくい、口元へ寄せてそっとキスを落とした。
「お前が俺を選んだ。俺もお前を選んだ。……それだけだ」
胸が、ぎゅっと熱くなる。
シオンが、心底嫌そうに、わざとらしく大きいため息をついた。
「朝から重いんだよ、お前ら。胃もたれするわ」
「黙れ」
「あとキスしたいなら、俺が出て行ってからにしろ」
「してねぇだろ!!」
「『したい顔』はしてた」
セシルの指先で、パチッ、と殺意の込もった雷が弾けた。
アリアは慌てて本を抱きしめる。
儀式の朝だというのに。嵐はまだ止んでいないのに。これから、帝国の運命を決める死地へ向かうというのに。
それでも、アリアは少しだけ笑ってしまった。
◇
シオンが呆れて出ていった後も、甘い空気は消えなかった。
むしろ、二人きりになって残された沈黙の方が厄介だった。
アリアは誤魔化すようにもう一度本を開こうとした。
けれど、背後にいるセシルの気配が近すぎて、文字が少しも頭に入ってこない。
セシルは何も言わない。
ただ、アリアの髪を一房すくい、指先でゆっくりと梳いた。
昨夜の激しい熱を思い出させるようなその手が、耳の後ろをかすめるように触れて、アリアはびくりと肩を揺らす。
「……セシル」
「あ?」
「読めない」
「読めばいいだろ」
「セシルが触るから」
セシルは少し黙った。
「……別に、邪魔してねぇ」
「してる」
アリアは小さくため息をついて、本を閉じた。
そして、ゆっくりと振り返る。
目が合った。
寝起きのままの銀髪。少し緩んだ白いシャツ。いつもより近い紫の瞳。
セシルは何かを言いかけて、やめた。
セシルの視線が唇を見つめては、どこかへ移る。
アリアは小さく首を傾げる。
「セシルは、キスしたいの?」
「……別に」
即答だった。けれど、耳が真っ赤だった。
「ただ……触っていたいだけだ」
その言葉に、胸がぎゅっと鳴った。
昨夜、自分たちは番になった。身も心も繋がり、自分は彼に所有されている。
けれど、それでもセシルは、強引に奪うようには触れない。
触れたいくせに、ちゃんと止まっている。彼の大切にしてくれている気持ちが、痛いほどに伝わってきた。
だから。
アリアは、震える指でセシルの白いシャツを掴んだ。
「じゃあ」
声は震えていた。けれど、逃げなかった。
「私がする」
「は?」
セシルが聞き返すより早く、アリアは首を伸ばした。
ぶつかるみたいな口づけだった。
上手ではなかった。きっと、綺麗でもなかった。
セシルのパパとママがしていたような、大人の夫婦の洗練されたキスではなかったかもしれない。
けれどそれは、怖さからではなく、「好きだ」という自分の意志でアリアが選んだ、初めての口づけだった。
セシルの身体が、ぎくりと固まる。
次の瞬間。
「……っ、お前」
低い声が落ちる。
怒っているのかと思った。けれど違った。
セシルの腕が、壊れ物を抱くように、けれど絶対に逃がさない強さでアリアの細い身体を包み込んだ。
唇を見つめる紫の瞳が揺れる。
二度目の口づけは、セシルからだった。
彼はまるで食べるように、アリアに食いついた。
「!」
深く、熱くて。息ができなくて苦しくて。
外の嵐の音も、儀式の朝だということも、全部が遠くなるような、優しいキス。
名残惜しそうに唇が離れ、コツン、とおでこをくっつけた。
さっきの優しいキスの余韻に浸りながら、アリアはぽつりと言った。
「ねぇ、私……キスしてたらすごく幸せな気持ち」
「……そうかよ。俺は、その先がしたくて死にそうだよ」
「先? 先って?」
きょとんとするアリアを見て、セシルはガックリと項垂れた。
「いいか。教会でしたことは、これから毎日するんだよ!」
「どうして? もうしないよ、番契約はできたじゃない。」
「…………ッ!」
アリアの無自覚で無慈悲な宣告に、セシルは致命傷を負ったような顔になった。
「私、今すごく幸せ」
満面の笑みでそう告げる番を前に、セシルはもう一度、深く深く項垂れたのだった。
「ねぇ、もう一回、キスがしたいな?」
「!」
「すごく、優しいのが、いいな」
「〜〜〜〜〜!!!」
自分の口に手を当てて、物欲しそうに首を傾げるアリアは、罪深いほどに可愛い。
誘惑に勝てるわけもなく、観念したように深呼吸をした。
「仰せのままに。出目金姫。」
アリアはその呼び名に優しく微笑んだ。
セシルは大きく口を開けて、小さな口に食いついた。
啄むような優しいキスは、少しずつ深さを増していき、アリアは恍惚な目でため息をつき、もう一度とばかりに自分からセシルの唇に吸い付いた。
身の内の切なさを堪えながら、
それでも止めることのできないキス。
(……あのクソ蛇野郎!!ぶっ飛ばして、絶対に生きて帰る。そして、こいつに1から『番』の教育をし直してやる……!)
無敵の雷魔術師は、別の意味で強烈な決意を固め、決戦の地・皇宮の中央神殿へと足を踏み出すのだった――。
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