第46話【崩壊】傀儡の玉座と、壊れた蛇の狂笑。〜10日目の未明:剥がれ落ちた完璧な仮面〜
皇宮の最奥、皇帝の私室。
深夜三時を回った頃。
外の豪雨の音すら届かない分厚い防音の壁の中で、異様な空気が渦巻いていた。
「……私をこんな真夜中に叩き起こすとは、一体何事ですか?」
豪奢な寝巻きの上にガウンを羽織っただけのサーネルカが、ねっとりとした、蛇の這いずるような声で玉座の間に響かせた。
その顔にはいつもの完璧な微笑みが張り付いていたが、紫煙のように揺れる瞳の奥には、確かな苛立ちが隠されている。
「無論、私の睡眠を妨げるに足る、それなりの情報なのでしょうね?」
床に平伏している使者の軍人は、ガチガチと歯の根を鳴らして震えていた。
その奥の長椅子では、騒ぎで起き出してきた皇帝が、焦点の定まらない虚ろな目で宙を見つめている。
「サーネルカよ……わしのそばを離れるでない……」
皇帝はふらふらと頭を揺らし、まるで夢の中にいるようなうわ言をこぼした。
帝国の頂点に立つ者の威厳はそこにはなく、完全に術式に脳を支配された無能な傀儡の姿が露呈していた。
「……さあ。報告を」
サーネルカが、皇帝の戯言を完全に無視して使者を急かした。
「ほ、報告いたします!!」
使者は床に額を擦り付けたまま、絶望的な声で叫んだ。
「黎明の御子、アリア・ブランシュ・メイフィールドは……先ほど、旧聖堂にて、セシル・シュトラール・フォイエルシュタインと……『番』の契約を、完了させた模様です!!」
しん、と。
雨音さえ聞こえない部屋の空気が、凍りついた。
「……は?」
サーネルカの顔から、優雅な微笑みが滑り落ちた。
ピキッ、と何かが割れるような音がした。
美しかった彼の顔が、見る影もなく醜く歪んでいく。大きく見開かれた眼球の白目は、極度の怒りと憎悪で異常なほど血走り、黄色く濁って見えた。
(……あの時、無理にでも連れて行っていれば……!)
ギリッ、とサーネルカの奥歯が鳴る。
(いや、それはできない。あの前の個体のように、絶望して壊れられては困る)
あの娘も、よく本を読んでいた。
海の向こうの国だの、王のいない国だの、くだらない夢ばかりを見ていた。
最後には、その夢ごと自分を壊した。
『私は、私のままに生きる。誰にも、奪わせない』などとほざいて。
(アリアめ……。本来、私のものになるはずだった。あの無尽蔵の聖力は、私のこの空っぽの器を満たすためのものだったのに!!!)
本性を隠しきれなくなった男の全身から、どす黒い魔力がどろどろと溢れ出す。
サーネルカが、無言で片手をスッと高く上げた。
「ひっ……!」
使者が顔を上げ、恐怖に顔を引き攣らせた。
「お、お許しください、サーネルカ様!! 私はただ、報告を――」
キィィィィィィィン……!!!
突如、部屋の空気が圧縮されたような、耳鳴りのような不快な高周波が鳴り始めた。
周囲に控えていた近衛兵たちが、鼓膜を押さえてざわざわと後ずさる。
そんな異様な空間の中で、サーネルカは口の端を耳まで裂けんばかりに吊り上げ、ニヤニヤと笑い始めた。
「きっこえな〜い」
ひどく甘ったるい、虫唾が走るような声だった。
次の瞬間。
ドチュッ!!!
虚空に展開された銀の術式から、太い蔦で編まれた鋭い矢が射出され、使者の胸を正確に貫いた。
「が、あ……ッ」
使者は、ビクンと一度大きく痙攣した。
だが、倒れなかった。
胸を貫かれたまま、目だけはカッ開かれ、サーネルカを憎々しげに睨んでいる。
血は、不自然なほど流れていなかった。
まるで銀の矢そのものが、命をその場に縫い止めているかのようだった。
「アーッハハハハハハハハッ!!!!!」
サーネルカは、自分を睨む死体と目線を合わせ、腹を抱えて爆笑した。
狂気に満ちた笑い声が、皇宮の壁に反響する。
グチャリ。
ふと、空間が泥のように歪み、サーネルカの背後の虚空から、血の気のない『白い手』がぬるりと這い出してきた。
手首から先しかないその手は、宙を滑るようにして死体へと近づいていく。
先ほどまで爆笑していたサーネルカだったが、急に真顔になり、
「……こぉっちを見るなぁ……気持ち悪いからぁ」
と、のたまった。
そんな幻聴のような呪詛を響かせながら、白い手は使者の顔をペタペタと撫で回し、見開かれたその瞼を乱暴に閉じさせた。
(お前が一番気持ち悪いんだよ)
その場にいるすべての者が心の中で叫んだが、誰一人として声を上げることはできなかった。
「……ふふ、ふふふ。……まあ、いいでしょう」
サーネルカは、乱れたガウンの襟を直し、顔をひとなでした。
すると、再び元の「優雅な防衛局長官」の顔へと戻った。
だが、黄色く濁った瞳の奥には、底なしの狂気が渦巻いている。
パンパン!
サーネルカが手を叩く。
側近たちが、眉を限界まで寄せて矢に近づき、一気に引き抜いた。
その瞬間、止められていたものが決壊したように、血が溢れた。
使者の身体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
今度こそ、完全に事切れていた。
サーネルカは振り向きもしない。
「かくなる上は……」
彼岸を見るような目で、サーネルカは狂った笑みを浮かべた。
夜明けは、もうすぐそこまで迫っていた。
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