第42話【溺愛】懺悔室の告白。〜10日目の境界線:前歯の誓いと、理性を飛ばす雷魔術師〜
濡れた木の匂い。
雨音。
遠くで響く雷。
そして、すぐ目の前にいるセシルの息遣い。
狭い。
あまりにも近い。
アリアは身じろぎしようとして、背中を古い木壁にぶつけた。
その直後、聖堂の入口から軍靴の音が響いた。
「動くな」
セシルの低い声が、耳元に落ちる。
「見つかる」
「こっちだ!」
「黒髪の男を追え!」
「黎明の御子も近くにいるはずだ!」
アリアの喉がひゅっと鳴りかけた瞬間、セシルの手がそっと口元を覆った。
「……っ」
「声、出すな」
手袋越しの手のひらは熱かった。
外では追手たちの足音が乱れ、怒号が飛び交っている。木の格子の向こうを、灯りがちらちらと横切った。
アリアは息を止めた。
セシルも動かなかった。
近い。
セシルの胸が、すぐそこにある。
濡れた軍服の匂いと、雨と、かすかな雷の気配が混じって、頭がぼうっとする。
やがて、追手たちの足音が遠ざかっていった。
ひとり。
またひとり。
最後の軍靴の音が雨に紛れて消えるまで、二人はそのまま動けなかった。
セシルの手が、ゆっくりとアリアの口元から離れる。
「……大丈夫か」
アリアは小さく頷いた。
「うん」
「嘘つけ。震えてる」
「寒いだけ」
「それも嘘だろ」
言い返そうとして、アリアは顔を上げた。
その瞬間、遠くで鐘の鳴る音が聞こえた。
深夜0時の鐘だ。
今、アリアは十八歳になったのだ。
言葉が消えた。
鐘の音が遠くで聞こえる暗がりの中で、セシルがこちらを見ていた。
雨で濡れた銀髪から、水滴が落ちる。
紫の瞳が、熱を帯びている。
いつものように怒っているわけではない。呆れているわけでもない。
セシルの視線が、ふとアリアの目から下へ落ちた。
唇へ。
アリアの心臓が、どくん、と大きく鳴った。
セシルの顔が、ほんの少し近づく。
息が触れる距離。
けれど、唇が触れる寸前で、彼ははっとしたように動きを止めた。
「……違う」
掠れた声だった。
「今のは……」
セシルは苦しそうに顔を背けようとした。
けれど、狭い懺悔室の中では、それすらうまくできない。
沈黙が落ちる。
雨音だけが、二人の間に響いていた。
やがて、セシルは低く息を吐いた。
「いや」
アリアは目を見開く。
「違わねぇ」
セシルは、逃げるのをやめたようにアリアを見た。
「俺は、お前にキスしたい」
胸が、ぎゅっと苦しくなった。
セシルの声は低く、少し震えていた。
「アリア」
そう言って、紫の瞳でアリアを見つめた。
「俺は、お前が好きだ」
アリアは何も言えなかった。
好き。その言葉が、雨音よりも雷鳴よりもはっきりと、狭い懺悔室の中に落ちた。
「……お前は」
セシルが、慎重に問いかける。
「俺が嫌か?」
アリアは首を横に振った。
「嫌じゃない」
声が、小さく震えた。
「でも……胸が苦しくなる」
「苦しくなる?」
「うるさくなるの。ここが」
アリアは自分の胸元を押さえた。
「セシルが近いと、怖いのに、嫌じゃない。どうしたらいいのか、分からなくなる」
セシルの瞳が揺れた。
「……俺もだ」
「セシルも?」
「ああ」
彼は濡れた前髪を乱暴にかき上げた。
「お前が近くにいると、うるせぇ。雷も、心臓も、全部だ」
セシルの手が、アリアの頬に触れかける。
「お前を俺のものにしたい。お前と番になりたい。お前は?」
「……私でいいの? 私が、……面倒なんじゃなかったの?」
「……聞いてたのか」
「……」
「面倒だよ。俺は、お前が泣いたり、悲しんだりするだけで、心が……はぁ、どうしようもないんだ」
セシルは、アリアを見つめた。
「俺はお前が誰かに触られたら、身体中がイライラする。俺は、お前を、誰にも渡したくないって気持ちで、……死にそうになる。それなのに、お前が近くにいると、俺は、楽しいんだ。嬉しい。幸せな気持ちになる。それなのに、イライラする」
「好きになるってことが、こんなに面倒な気持ちなら、これは、お前にしか解決できそうにない」
セシルは、一度言葉を区切り、まるで判決を待つ罪人のように、ひどく掠れた声で絞り出した。
「……お前、ハルカが好きなのか」
夜の雨音の中。
いつもは偉そうに見下ろしてくる紫の瞳が、今はひどく揺らいで、怯える子供のようにアリアを見つめている。
アリアは、彼の目を真っ直ぐに見返した。
「好きだよ」
その瞬間、セシルの大きな肩が、ビクッと痛ましげに跳ねた。
傷ついた獣のような顔で、すっと視線を逸らそうとする彼を引き留めるように、アリアはその軍服の胸元を両手できゅっと掴んだ。
「でもね」
セシルの視線が、再びアリアに戻る。
「セシル、前に私がけがした時、私が傷つくのを見ていられないって言ったでしょ?……私だって、そうだよ」
胸の奥から、熱いものがこみ上げてくる。
「セシルが傷ついて、一人で苦しむのは絶対に嫌。セシルが幸せになるためなら、私、何でもする」
彼が、息を呑む気配がした。
アリアは、震える彼の手を自分の手でそっと包み込む。
「私が一緒にいることで、セシルが幸せになるのなら……それなら私、セシルといる」
「……っ!」
次の瞬間、強い力で引き寄せられた。
視界が反転し、アリアは彼の広く熱い胸の中にすっぽりと閉じ込められていた。
「……お前が好きだ。お前と一緒に生きていきたい」
耳元で、呻くような声が響く。
アリアを抱きしめる彼の腕は、骨が軋むほど強いのに、どこか壊れ物を扱うように必死だった。
そして、アリアの後頭部を抱え込むように押さえるセシルの大きな手は――微かに、けれどはっきりと震えていた。
甘く、切ない想いが胸の奥で弾けて、アリアはたまらなくなってそっと目を閉じる。
「出目金」「ポンコツ」と呼んで、ことあるごとに意地悪ばかりしてきた彼。
けれど、あの乱暴な言葉や態度はすべて、過酷な運命に心が折れそうになっていた自分を現世に繋ぎ止め、必死に励まそうとする、彼なりの不器用で、どうしようもなく優しい愛情だったのだ。
今はもう、それが痛いほどに分かっていた。
アリアの首筋に顔を埋め、震える彼を、アリアもまた力の限り抱きしめ返した。
――やがて、セシルはゆっくりと腕の力を緩めた。
手が頬に触れ、そして引っ込められる。
アリアは、離れていくその手を見つめた。
「……どうして、止めるの?」
「お前が、怖がるかと思って」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
サーネルカは、アリアの心なんて見ていなかった。身体も、聖力も、ただの器として見ていた。
でもセシルは、止まる。
自分がしたいと思っても、アリアが怖がるかもしれないと思って、止まる。
その違いが、たまらなく胸を締めつけた。
「怖くない」
アリアは小さく言った。
「嫌じゃない」
「……無理すんな」
セシルは、少しだけ離れようとした。
その瞬間、アリアは思った。
また、待つの?
また、誰かが決めてくれるのを待つの?
リサの声が、胸の奥でよみがえる。
『――どうか、ご自分の心を、忘れないでくださいませ』
私の心。
私が、どうしたいか。
アリアは、震える指でセシルの濡れた軍服を掴んだ。
「……セシルがいい」
小さな声だった。けれど、暗闇の中でもはっきりと言えた。
「私が、あなたを選ぶ」
その言葉が落ちた瞬間、セシルはアリアを強く、痛いくらいに強く抱きしめた。
絶対に逃がさないという、圧倒的な力で。
彼の胸の奥から響く早鐘のような心音が、アリアの身体にまで伝わってくる。
「……取り消しても、もう聞かねぇぞ」
セシルが、低く掠れた声で待っている。
その静けさを見て、アリアは思った。
――私はずっと、誰かに運命を決められてきた。エデンに入ることも、御子として歌うことも、サーネルカと番になることも。
でも、今度は違う。私が、今、この人を選びたいのだ。
「……うん」
「本当に、分かってんのか」
「分かってない」
正直に答えると、セシルが微かに笑った。その声は、驚くほど優しかった。
「てゆーか……セシルこそ分かってるの? その……やり方?」
「……お前、俺をなんだと思ってんだ。一応男だからな、それくらいの知識は……ある。お前こそあんのか」
「一応、本で見たよ」
「そうか」
「うん。昨日だけど」
セシルの眉がピクリと動いた。
「昨日」という単語に一抹の嫌な予感を覚えたが、アリアはそんな彼の気配に気づかず、大きく深呼吸をして、狭い部屋の中、セシルの足の間で正座した。
「じゃあするね!」
「あ? お前がリードするってか?」
セシルはニヤリと笑い、からかうように膝に肘をつき、アリアを見た。
「知らない! とにかくちゃんと座って!」
アリアはぎゅっと目を閉じ、気合を入れるようにセシルの両肩をグッと掴んだ。まるで決死の覚悟で強大な魔獣に挑むような、大真面目な顔だ。
「我、今ここに番となるものと誓わん。互いに助け合い、互いに慈しみあい、互いに愛さんことを!」
そして勢いよく顔を突き出し――自らの唇を、セシルの唇へと力いっぱいぶつけた。
ブッ!!!
「!!! いってぇな!!! 何すんだ!」
甘い感触など皆無だった。完全に前歯と前歯が激突する鈍い音が響き、セシルは痛みに顔をしかめて自分の口元を押さえた。
一方のアリアは、恐る恐る薄目を開ける。
「……できた、かな?」
きょろきょろとセシルの顔や、自分の身体を見下ろす。
「あれ? 何も変わらないね? 光ったりもしないし……何か呪文が違ってたかな……?」
ぽかんとしているアリアを見て、セシルは切れた唇の端を親指で拭いながら、呆れ返ったように目を瞬かせた。
「……おい。お前、まさか」
「え?」
「大仰な誓いの言葉言って、キスしたら『番』の契約が完了すると思ってんの?」
「……違うの? 私が昨日読んだ本には、『愛を誓い合い、口づけを交わした二人は、めでたく永遠の番となりました。そして天からの授かりものが――』って書いてあったけど……」
しん、と。
外の激しい雨音だけが、懺悔室に虚しく響く。
「それにセシルのパパとママだって、そうしてたでしょう?私、見たもの」
「…………」
「あれ? セシル? もしかして、手を繋ぐのを忘れてた? それとも誓いの言葉のイントネーションが――きゃっ!」
セシルは数秒間完全にフリーズした後、突然アリアの肩を掴み、そのまま壁に押し付けた。
「痛っ、ちょ、セシル……?」
アリアは身をよじろうとしたが、上から覆い被さってきたセシルの影に完全に閉じ込められる。
「くっ……ははっ、あー……マジかよ。お前、本当にすっからかんなんだな」
「な、なにがおかしいのよ!」
「おかしいだろ。そんなお遊戯みたいなんで契約完了してガキができたら、帝国中パニックだわ」
肩を震わせて笑っていたセシルが、ふっと息を吐く。
次に顔を上げた時。
その紫色の瞳から、さっきまでの「呆れ」は完全に消え失せていた。
代わりに宿っていたのは、無知で無防備すぎる獲物を前にして、完全に理性のたがが外れた雄の飢餓感。
「お前が読んだのは、ただのガキ向けの安い絵本だ。いいか、出目金」
逃げ場を塞ぐように両手を壁についたセシルの顔が、背筋が粟立つほどの色気を纏って近づいてくる。
「呪文なんていらねぇよ」
低い、火傷しそうなほど熱い声。
アリアは心臓が口から飛び出しそうになりながら、それでも必死に彼を見つめ返した。
「じゃ、じゃあ……最初から教えてよ。……セシルは、最強、なんでしょ?」
その無自覚な挑発が、最後だった。
セシルの残された理性が、静かに音を立てて崩れ落ちる。
「……あぁ。教えてやる」
ふっ、と彼の顔が近づく。
身構えたアリアの予想に反して、降ってきたのは小鳥が啄むような、ひどく優しくて甘いキスだった。
額、形の良い眉、戸惑いに瞬くまぶた。そして、熱を持った頬から口角へと、世界で一番大事な宝物を確かめるように、ちゅ、ちゅっと短い音が重なっていく。
「ん……?、あ……」
アリアの口から、甘い吐息が漏れ、セシルは離れた。
彼がもう我慢できないとでも言うように、ごくりと喉を鳴らしてアリアの唇を見つめ、確認するかのようにアリアの瞳を見る。
彼の吐息が、熱い――。
アリアは、躊躇いながらもセシルの唇を見つめて、そして、ちゅ……と、小さく口付け、恥ずかしそうに離れた。
それが合図だった。
セシルの手がアリアの後頭部を抱え込み、まるで食べるかのように、食いついた。
今度は深く、息を根こそぎ奪うような熱い口づけが降ってきた。
先ほどの強引なものとは違う。とろけるように優しく、けれど絶対に逃がさないという圧倒的な雄の独占欲に満ちたキスだった。
セシルの体温。少し乱れた息遣い。絡みつく舌の熱さ。
すべてが初めての感覚で、アリアの腰から力が抜ける。
狭い懺悔室の中で、セシルがアリアの腰を強く引き寄せる。
セシルの服をギュッと掴み、されるがままに翻弄されていると、やがて彼女の身体の奥底から、甘く疼くような痺れが込み上げた。アリアは無意識に、その熱を逃がすように太ももを擦り合わせる。
その微かな動きを、セシルの本能が見逃すはずもなかった。
彼がさらに深く、次の段階へとアリアを組み敷こうとした――その時。
ガタガタガタッ!!
突如、懺悔室の古い扉が激しく揺れた。
「……っ、」
「はぁっ……、せし、る……くるし……っ」
息継ぎすら許さない猛烈なキスに、アリアの頭は真っ白にショートしていた。
暗闇の中でも、アリアの瞳が熱に潤み、頬が林檎のように赤く染まっているのが分かった。その無防備で扇情的な姿に、セシルはギリッと奥歯を噛みしめ、自分の額をアリアの肩口に押し付けた。
「……ハァッ、クソ……限界だ」
「え……?」
「……狭すぎる。それに、ホコリ臭ぇ」
セシルは荒い息を吐きながら、懺悔室の壁をドンッと軽く叩いた。
「一生に一度の、お前の初めての契約だぞ。……こんな狭くて汚ぇ箱ん中で、奪えるかよ」
そう吐き捨てると、セシルはアリアをひょいとお姫様抱っこで抱き上げた。
そして、バンッ! と足で懺悔室の扉を蹴り開け、外へ出る。
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毎日21時更新予定です。完結約束、ハッピーエンドです(^ ^)
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