第40話【合言葉】秘密の通路と、赤っ恥の雷魔術師。〜北部前線のバカップル両親と、虚無のゼペット〜 外では、結界が壊れたことを嗅ぎつけた軍が、中に入ろうとドアを叩きつけていた。
「秘密の通路がある」
セシルはそう言い切ると、迷いなく執務室の扉へ向かった。
アリアは慌てて後を追う。
「秘密の通路って……そんなものが本当にあるの?」
「ある」
三人は音を立てないように廊下を進み、セシルの自室へ戻った。
外では雨が強くなっている。窓を叩く雨音に紛れて、階下から軍靴の音が複数、ドカドカと上がってくるのが聞こえた。追手が迫っている。時間はない。
セシルは壁一面の本棚の前に立つと、迷いなく一冊の本へ手を伸ばした。
(魔塔の後継者だけが知る、古代術式の封印書か何かだろうか)
アリアが息を呑んで見上げる中。
セシルが引き抜いた本の背表紙には、金色の丸っこい文字でこう刻まれていた。
『よいこの礼儀作法・初級編』
「……」
アリアは瞬きをした。
ハルカが、ゆっくりと口元を押さえる。
「……セシル」
「言うな」
「君、この本を引くたびに家出していたのかい?」
「言うなっつってんだろ!」
セシルが本を引くと、カチリ、と小さな音がした。
次の瞬間、本棚の奥から、やけに明るく、そして聞き覚えのある女性の合成音声が響き渡った。
『ピンポーン! 私の可愛い僕ちゃん〜。夜間の無断外出は、ママに叱られますよ』
アリアがびくっと肩を跳ねさせた。
セシルは顔色を青から赤へ変えた。
「まだ生きてんのかよ、お袋のクソ術式!」
ハルカはとうとう耐えきれず、肩を震わせる。
「これは……すごいね。魔塔の叡智を無駄遣いした、ジェシカ様特製の『対セシル脱走防止機構』だ」
「笑ってんじゃねぇ!」
次にこれまた聞き覚えのある音声で、初老の可愛い男性の声が響いた。
『なお、前回の無断外出時、坊ちゃんは庭園の薔薇を三十二本、温室の硝子を八枚、執事長であるこのゼペットの腰を破壊しておりまぁす。被害額は将来の給与から天引きさせていただきます』
「余計なことまで記録してんじゃねぇ!!!」
アリアは思わず、こんな状況だというのに両手で口元を覆った。
笑ってはいけない。今は逃げなければならない。追手はすぐそこまで来ている。分かっているのに、セシルの耳がトマトのように真っ赤になっているのが、どうしてもおかしかった。
「……セシル、昔からすごかったんだね」
「褒めてねぇだろ、それ」
『それでは、秘密通路をご利用の際は、ママへの愛の合言葉をどうぞ♡』
セシルの動きが完全に止まった。
ハルカの目が、きらりと輝く。
「合言葉?」
「……」
「セシル?」
「……黙ってろ」
「もしかして、忘れたのかい? 軍が来ちゃうよ」
「覚えてる!」
セシルは、死ぬほど嫌そうな顔で沈黙した。
外で、また雷が鳴る。階下の足音が、確実に近づいていた。
アリアは息を呑む。
「セシル、早く……!」
セシルはギリッと歯を食いしばり、アリアに背を向けたまま、蚊の鳴くような低すぎる声で呟いた。
「……ママ、今日も綺麗です」
一瞬、部屋の時間が止まった。
ハルカが壁に手をついて崩れ落ちた。
「……っ、く……ははっ……!」
「笑ったら殺す!!!」
『エラー。声が小さすぎます。もっとママへの愛とリスペクトを込めて、大きな声で』
「〜〜〜〜ッッ!!!!! ママ!!! 今日も!!! 最高に綺麗です!!!!!」
『認証しました。坊ちゃん、お気をつけていってらっしゃいませ』
『可愛いセシル♡門限は破らないでね』
ズゴゴゴゴ……!
本棚が、重い音を立てて横へ滑った。その奥に、暗い石造りの階段が現れる。湿った地下の空気が、ひやりと頬を撫でた。
セシルは真っ赤な耳と殺意に満ちた顔で、アリアの手を乱暴に掴んだ。
「行くぞ!」
ハルカが目元に浮かんだ涙を拭いながらついてくる。
「いやぁ、寿命が延びた気分だ。いいものを聞いたよ」
「忘れろ。記憶ごと消し飛ばすぞ」
「無理だね。僕の風の魔法で、今の音声を帝都中に響かせたいくらいだ」
「後で絶対殺す」
そんなやり取りをしながらも、三人は暗い通路へ足を踏み入れた。
本棚が背後で閉じる。途端に、外の足音も、雨音も、遠くなった。
笑いの余韻は、すぐに消えた。細い階段の先には、漆黒の闇が続いている。
アリアはセシルの手を強く握り直した。
もう戻れない。でも、不思議と怖さだけではなかった。
■■■
その頃、北部前線では。
ドォォォォォン!!! ドドドドド!!!
外では絶え間なく雷撃が連続投下され、魔獣の断末魔が響き渡るという地獄絵図が繰り広げられていた。
しかし、その最前線に張られた防音テントの中では、ジェシカ・ホワイト・フォイエルシュタインが、優雅にカモミールティーを傾けていた。
「ねぇゼペット? あなた、頭のぼんぼりが光ってるわよ。どうしたの?」
「はっ! 奥様! これはセシル様が『あの抜け道』を利用した時に連動して光る、緊急アラート術式でございます!」
ゼペットは、自分のナイトキャップの先端で、サイレンのように赤く回転発光しているぼんぼりを指差した。
「どうやらセシル様が脱走されたようです! 大変だ! あれを使う時のセシル様は、ろくでもない悪巧みをしている時だけなんです! どうしましょう、魔塔が、いや帝都が吹き飛びます! 大変すぎる! それじゃあどうする!?」
一人パニックになって走り回る百五歳のゼペットをよそに、ジェシカはティーカップをソーサーにコトリと置いた。
「まぁ、そうだったわ。懐かしい。最後にあの合言葉を聞いたのはいつだったかしら……あの子が反抗期に入って、口を利かなくなった十二歳の時だったかしらね?」
ばさっ。
テントの天幕が乱暴に開き、頭から足の先まで魔獣の返り血と泥に塗れたハーヴィ・ホワイトが入ってきた。
「おかえりなさい、ハーヴィ。お疲れ様」
「ああ。……近づくな。汚れてる」
ハーヴィは片手でジェシカを制すと、ゼペットの頭でけたたましく点滅しているぼんぼりに目を留めた。
そして、泥だらけの顔でニヤリと凶悪な笑みを浮かべる。
「……やっとあのバカ息子が、男を見せたな」
「うふふ、あなたの息子だもの。可愛いお姫様を連れて、きっと乗り切るわ。……でも、チョ〜〜〜っとだけ、心配よねぇ?」
「さっさとこの魔窟を更地にして、息子の初陣の様子でも冷やかしに行くとするか」
ハーヴィは、ゼペットが震えながら差し出した紅茶を水のようにグッと飲み干すと、再びテントを出ようとした。
「待って、ハーヴィ!」
ジェシカが駆け寄り、泥だらけの夫の首に腕を回す。
「気をつけてね」
「お前は中にいろよ?」
ちゅっ、ぶっちゅうううううううう。
戦場のど真ん中だというのに、二人は濃厚で暑苦しいほどのキスを交わし始めた。
「……スン」
ゼペットは完全に無の表情でスンっと目を逸らしながら、赤く光り続ける自分のぼんぼりの下で、二人分の冷めた紅茶のお代わりを注いだのだった。
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