第37話【宣戦布告】操り人形の皇帝と、悍ましい不可視の手。〜9日目の夕暮れ時:魔塔の異変〜
夕暮れ時。
セシルの実家である魔塔へと戻ってきた三人は、塔の敷地に足を踏み入れた瞬間、異様な空気に足を止めた。
「……親父の結界が、薄い」
セシルが低く唸る。
いつもなら、父・ハーヴィの規格外の魔力が分厚い壁となって塔全体を覆っているはずだった。だが、今の魔塔にはその圧倒的な圧がない。
代わって、白い石造りの外壁には、見覚えのある「銀の蔦」が、まるで生き物の静脈のように細く、冷たく這い回っていた。
「どういうことだ……親父とジェシカは!?」
血相を変えて飛び込んだ三人を待ち受けていたのは、出迎えるはずの騒がしい両親ではなかった。
執事のゼペットも、魔塔の魔術師たちもいない。
大きな扉を開けた先は、ジェシカが飾る色とりどりの花。
そしてゲストや家族、魔術師たちが座るための座り心地のいい椅子。
いつも両親がいるその場所に腰を下ろしていたのは、帝国の頂点に立つ初老の男――皇帝。
そしてその隣で、薄く冷たい笑みを浮かべて立つ男、サーネルカ・フォイエルシュタインだった。
その後に神官たちがずらりと並ぶ。
「遅かったではないかァ、セシル。そして黎明の御子よ」
「陛下……? なぜ魔塔へ? うちの奴らはどこにいった!」
セシルの無礼な問いに、皇帝はゆっくりと瞬きをして答えた。
「ハーヴィとジェシカ、および魔塔の主だった者たちには、先ほど急ぎ北部前線へ向かわせた。結界の綻びが激しく、魔塔の主たるハーヴィの力が今すぐ必要になったためじゃ。皇帝直々の命令である」
セシルとハルカの顔色が変わる。
(……邪魔な大人を、先にどかしたのか)
アリアも理解した。
魔塔を守る最強の盾であった両親を、もっともらしい大義名分で引き剥がしたのだ。
「さて、御子よ」
皇帝が、濁った瞳でアリアを見据えた。
「そなた、聞くところによると、もう少しで十八となるそうじゃな? いつじゃ」
「……」
「明日でございマッス! 陛下」
アリアが黙っていると、サーネルカが嬉々として答える。
アリアは、サーネルカの顔をまともに見ることすらできなかった。思い出すだけで吐き気がするほど、その存在がおぞましかったのだ。
「御子に命ずる。この国の結界を強固なものにするため、フォイエルシュタイン家の者と『番』の契約を結ぶのじゃ」
「……!」
「ただし、今すぐというわけではない。正式な本契約は、そなたが十八歳になる明日の夜に行う」
その言葉に、ハルカが鋭く息を呑んだ。
婚姻。それだけでも十分に危険だ。アリアの身柄は法的にサーネルカのものとして固定される。銀の蔦によって魔力も居場所も常に監視され、番契約を拒むことは事実上不可能になる。
そこで、皇帝がふと我に返ったように眉をひそめた。
「……いや、しかしサーネルカよ。お前は防衛局長官という要職にある。結界を直接管理する立場の者が、強大な力を持つ聖力保持者と直接『番』になるなど、権力の集中が過ぎるのではないか……?」
皇帝が正気を取り戻しかけた、その時だった。
サーネルカの黒い軍服の袖口で、刺繍された銀の蔦がチカッと不気味な光を放った。
途端に、皇帝の口が半開きのままピタリと止まる。
サーネルカは、口元に手を当てて白々しく息を吐いた。
「……古の結界の構造に通じ、現在の補助術式を深く理解し、なおかつ皇宮防衛の要を担い、フォイエルシュタインの血と名を持つ者。うっうーん、そのような者が他にいるでしょうか?」
わざとらしい沈黙が、広間に落ちる。
「国家の存亡を懸けたこの状況で、御子様を導けるほどの条件を満たした人物が、果たしてこの帝国にいるでしょうか?」
まるで三文芝居の役者のように天を仰ぎ、サーネルカは小さく笑った。
「ああ――、私がおりましたね」
あまりにも自然に。あまりにも白々しく。
その吐き気を催すほどの傲慢さに、セシルの全身から「バチィッ!!」と青白い雷が爆発的に弾け飛んだ。
「てめぇ……ふざけんなよ!!!」
セシルが一歩踏み出そうとした瞬間、サーネルカは動じることなく穏やかに続けた。
「契約は明日の朝にしましょっ。そしてすぐに儀式! 早くしないと民衆に魔獣が食らいつく!……そうではありませんか、アリア嬢?」
蛇のようにねっとりとした視線が、アリアを絡め取る。
これを受け入れれば、終わりだ。あの冷たい蔦に縛られ、魔力を吸い尽くされるだけの道具になる。
「い、嫌です」
震える声だった。けれど、広間の空気を切り裂くには十分なほど、はっきりと響いた。
「私は、サーネルカ様とは番になりません」
アリアは両手を強く握り締め、真っ直ぐに皇帝とサーネルカを見据えて拒絶した。
その凛とした声に、皇帝の瞳に一瞬だけ光が戻る。御子の強い意志の力に当てられ、迷いが生じたようだった。
「……そ、そうか。本人が嫌だと言うのであれば、無理に誓約など……」
「陛下」
サーネルカが、ひどく冷たく、凄みのある低い声でたった一言、そう呼んだ。
その瞬間、皇帝の目から一切の感情と迷いが消え失せた。
焦点の合わない虚無の瞳。それは、玉座に座る帝国の主ではなく、ただの哀れな操り人形の顔だった。
「今夜すぐに議会を通す故、それまでこの魔塔より出すな」
「……陛下!?」
「明朝、改めて婚姻の契約を執り行う。それまで謹慎を命ずると共に、この魔塔を閉鎖する。一歩もここから出るでないぞ」
冷徹な決定だけを言い渡し、皇帝はサーネルカに付き従われるようにして、魔塔の広間を後にした。
足音が完全に遠ざかり、重い扉が閉まると同時に、ガシャン、と無数の軍靴の音が響いた。扉の向こうに軍の監視が配置されたことは容易に想像できた。
残された三人は、這い回る銀の蔦に囲まれた広間に立ち尽くしていた。
アリアは、恐怖で冷え切った自分の両腕をギュッと抱きしめ、視線を壁に落とした。
――その時だった。
にゅ。
アリアの目の前の壁の表面にポッカリと小さな、それでいて真っ黒な穴が空いた。
そして、石の壁をすり抜けるようにして、空間から『真っ白な手』がにゅっと生え出てきたのだ。
手首から先だけしかない、死人のように血の気のない、異様に指の長い男の手。
その手首は、空中にポッカリと浮かんだかと思うと、音もなく猛スピードで滑り――ガシッ! とアリアの細い足首を掴み上げた。
「きゃああああ!!!!!」
アリアは絶叫し、床にへたり込んで足をばたつかせた。
「い、嫌! やめて!!! だめ、離して!!!!」
異常なのは、その『手』がアリア以外の人間には見えていないことだった。虚空に向かって暴れるアリアを見て、セシルとハルカが驚いて駆け寄る。
「どうした! 何だ!?」
「アリアちゃん、落ち着いて!」
「触らないで!!! 嫌だ! やだぁああ!!!」
ハルカがアリアの肩に触れようとしたが、アリアは半狂乱でそれを振り払った。
アリアの視界の中では、白い手は足首から這い上がり、太ももを撫で回し、服の内側へ侵入するようにして腹へと這い上がっていた。
氷のように冷たく、骨張った指先。
それが、あの廊下でサーネルカに示された場所を執拗に弄る。
(やめて、やめてやめて……!)
アリアは必死に自分の腹を叩き、見えない手を払いのけようとしたが、指は実体がないかのようにすり抜けるのに、触れられているという悍ましい感触だけが確かにそこにあった。
手は腹を撫で回すと、やがて胸元へと這い上がり、襟元を無理やり広げるようにして肌を這い……最後に、アリアの首にそっと指を回した。
「あ……ああ、あ……」
ぎゅうっ。
首が、締まる。
息が吸えるか吸えないかという、絶妙で残酷な力加減。冷たい指が喉仏に食い込み、気管を圧迫する。
「アリアちゃん!? 息が……!」
アリアが自分の首を掻きむしり、首から浮き上がるかのように体が地面から浮いた時。
これが彼女の幻聴や錯乱ではなく、「実際に首を絞められている」のだと悟ったセシルが、振り返って壁を見た。
魔力を目にこめて術式をみる。セシルの目に、大理石の壁にポッカリと空いた不気味な『術式の穴』が映った。
その穴から、銀の蔦が空間を縫うようにしてアリアの首へと伸びていたのだ。
「この野郎……ッ!!!」
セシルが激昂し、壁の穴に向かって渾身の雷撃を叩き込んだ。
バガァァン!!! と石壁が砕け散る。
「……ぐぅ」
壁の向こう側――見えない空間の奥底から、男のくぐもった呻き声が聞こえた瞬間、アリアの首からふっと圧迫感が消え失せた。
「ゲホッ、ゴホォッ……はぁっ、はぁっ……!」
アリアは床に崩れ落ち、激しくむせ返った。
セシルとハルカが見下ろすその白く細い首筋には、はっきりと……五本の太い指の形をした、赤い手跡が痛々しく残されていた。
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