第34話【自覚】あ、ああ、あんた、今、私を噛んだの!?〜9日目夜明け前:決意と自覚。心の火花を感じて。〜
深夜3時頃。
ハルカの穏やかな寝息が聞こえ始めた頃、アリアはベッドからそっと起き上がった。
壁際の椅子に座ったまま、腕を組んで眠っているセシルを起こさないよう、足音を忍ばせてこっそりと部屋を抜け出し、廊下に出る。
長い回廊には、等間隔に置かれた燭台の火だけが静かに揺れていた。
廊下には弓形の出窓があり、アリアは重いカーテンを少しだけ開けた。
窓の向こうには皇宮が見えた。
そして、窓ガラスに映る自分を見る。
桃色の光を纏う黄金の髪に、青い瞳。
ジェシカが貸してくれた白のナイトドレスが、とても可愛らしい。
月明かりを透かすような、真っ白なチュール。
何層にも重ねられたそれは、胸下からふんわりと広がり、
胸元は大きく開いたスクエアネック。
そこに沿ってあしらわれた繊細なフリルが、アリアの白い首筋と鎖骨を可憐に縁取っている。
胸元には、少女の無垢さを象徴するような細いサテンのリボン結びが一つ。
フリルの袖が、彼女の華奢な二の腕をより一層無防備に見せていた。
数日前まで、こんなに可愛いナイトドレスを着ている自分なんて、想像もできなかった。
誕生日まであと2日。
番を結ぶことができる年齢…18歳に、なる。
アリアは考えを巡らせた。
明日歌って、そして何か言われる前にすぐに帝都を出ればいい。
でも……
一人きりの静寂に包まれ、考えを巡らせていると、余計なことを考えてしまう。
でももし、歌った後に留まるように言われたら?
……隙をみて馬に乗って逃げ出そう。
でももし、また捕らえられたら?
……どうしたら、いいの?
窓に映る自分の首筋が目に入る。
不意に、首筋や腹部に残ったサーネルカのおぞましい気配が脳裏に蘇り、顔を顰めた。
使い道の決まった器であるかのような、あの粘つく視線。
アリアは自分の首を撫で、そして無意識にぎゅっと自分を抱きしめた。
(……気持ち悪い)
ぞわりと肌が粟立ち、アリアは首元へ手を当てた。
「……また気持ち悪いのか」
背後から落ちた低い声に、びくっと肩が跳ねる。
振り返ると、シャツの襟をラフに緩めたセシルが、音もなくそこに立っていた。
薄暗い廊下で見下ろすその目は、昼間よりもずっと冷えた色をしている。
「ご、ごめん。起こしちゃった?」
「お前、今何時だか分かってんのか」
「えっと……夜中?」
「もう『明日』だ。こんな時間にうろちょろすんな」
呆れたような、けれどどこか甘い響きの軽口。
セシルは、はぁ、とため息をついて、出窓の縁に腰掛けた。
「そこ。さっきからずっと触ってる」
セシルがその長い足を大きく開き、アリアを自分の足の間にすっぽりと収めるように引き寄せた。
逃げ場のない、圧倒的な男の体躯に囲まれる。
「……動くな。消してやる。触られたあと」
セシルが座っているため、顔の位置はいつもよりも近い。
アリアを閉じ込めるように腰の後ろで組まれたセシルの手。
その長く、骨張った指が、アリアのドレスの生地を掴んで熱を伝えてくる。
セシルの掌の中で、アリアの脈が小鳥の羽ばたきのように震えた。
(――熱い……!)
触れられてなどいないのに、あの男が指先で示した腹のあたりが、服越しにひどくヒリヒリと痛む。見えない火印を刻まれたかのようなおぞましさに震え、アリアは呼吸を乱した。
セシルはまた乱れ出したアリアに気づき、舌打ちをすると、組んでいた手を解き、その長い指先をアリアの首筋へと伸ばした。
何度も、強く拭うように撫でられる。
ただ、彼の指の熱さと、鼻を掠めた大人びた香水の香りに、アリアの頭はクラクラとし始めた。
帝国の上位貴族だけが纏うことを許される、洗練された、けれどどこか野性的な香り。
至近距離でその香りに包まれ、アリアの心臓が少しずつ高鳴りを増していく。
この感覚の名前を、アリアはまだ、知らない。
「ちょっと、痛い……!」
「我慢しろ」
「嫌!」
アリアがキッと睨みつけると、セシルの指がピタリと止まり、ほんの少しだけ力を緩めた。
「……悪い」
低すぎる謝罪に、アリアは思わず瞬きをする。
さっきまで、冷たくて嫌な感触だけがこびりついていた場所に、セシルの熱と香りが上書きされていく。
怖い。
けれど、触れられている場所から、じわじわと安心するような熱が広がっていく。
「……もう、いい。」
「まだ気配が残ってる。気に食わねぇ」
セシルはアリアの肩を押さえたまま、アリアの身体を自分の方へ引いた。
出窓に腰掛けたセシルの視線の先、ちょうどそこに、アリアの真っ白な肩と、ナイトドレスから大胆にはみ出さんばかりの、小さいのにふっくらと膨らんだ胸元の渓谷が飛び込んできた。
「っ……」
その瞬間、セシルの紫の瞳が、激しく揺れた。
喉が、酷く渇く。
今すぐここにある甘い肌に噛み付き、すべてを自分のものにしてしまいたいという、理性を焼き尽くすほどの本能的な<何か>。
けれど、セシルはその荒ぶる本能を、強靭な理性で強引にねじ伏せた。
彼はふっと視線を逸らすと、アリアの首元だけを見つめ、残った気配を消し去るように再び長い指を這わせる。
「……セシル、近い」
「知ってる」
「離れて」
「嫌だ」
セシルの指先で、ぱち、と青白い火花が弾けた。
「雷……」
「さっきから、ずっとうるせぇんだよ。お前がサーネルカを思い出したって知った時から」
その名を聞いて再び身体を強張らせたアリアの顎を、セシルがくい、と強引に自分の方へ向かせる。
「……お前が近くにいると、うるせぇ雷が黙る」
逸らしていた視線が、再びアリアを射抜く。
獰猛な輝きを秘めたまま、その紫の瞳は真っ直ぐにアリアを見つめていた。
すると、さっきまでセシルの指先で威嚇するようにぱちぱちと弾けていた火花が、嘘みたいにすっと消えていった。
「……私のせい?」
「知らねぇけど。お前がいると、静かになる」
嘘のない真っ直ぐな言葉に、アリアは何も言えなくなった。
セシルの長い指先が、熱と香水の香りを纏ったまま、耳の下を優しくかすめる。
「……変なの。触られると、変になる」
言って、すぐに後悔した。
セシルの目の色が、わずかに、けれど確実に変わったからだ。
「へぇ。どんなふうに」
「言わない」
「……消えたな。あいつの気配」
セシルはゆっくりと、さらに顔を近づけた。
唇が、アリアの首筋に触れる寸前で、一度止まった。そして。
「はぁ」
――こつん。
セシルの広い額が、アリアの華奢な肩口に重みを預けるように落ちた。
「……セシル?」
「……ちょっと黙ってろ。雷が、完全に静かになるまで」
触れているのは額だけだった。
けれど、肩口に預けられたその不器用な男の熱と、
そして少しだけ疲労の滲んだ低い声に、アリアは今度こそ膝から力が抜けそうになった。
最強で、乱暴で、誰よりも怖い雷を操る第一位継承者。
そんな彼が、まるで大型犬のように、自分にだけ無防備に体温を預けて、荒れた魔力を落ち着かせようとしている。しばらくして、セシルは背中を丸めたままにアリアの肩に顎を載せて話しだした。
「明日こそ、儀式をしよう」
「……うん」
「そうしたら、俺がお前をここから出してやる」
アリアは顔をパッと上げた。
「……出してくれるの?」
「ああ」
「どこに連れて行ってくれるの?」
「さぁ? それは知らねぇ。でもここは、エデンよりも酷いってことは確かだ」
「なにそれ。じゃあなにも決めてないのね」
「ふ。とにかくどこかへ連れ出してやるよ。ここじゃないどこかへな。」
ー連れ出してやるよ、ここじゃないどこかへー
アリアは、鼻がツンとなるのを感じた。
そして彼を、抱きしめたい気持ちになった。
こんな気持ちになったのは、生まれて初めてだったから、少し戸惑った。
アリアは、誰かにずっと、ずっと…
そう、言ってほしかったのだ…。
手を少し上げて、そして、下ろした。
窓に映る自分をみて、自嘲するかのように笑った。
(だめ。セシルは、魔塔の継承者よ。フォイエルシュタイン家を継ぐ人。だめに決まってる。)
ーーそう。もしも彼が自分をどこかへ連れ出せば、きっと色んなことが起こるから。
私、1人で行くのよ。
もし手伝ってくれたとしても、行くのは1人で行くわ。
セシルはアリアの腕がかすかに上がり、そして自分の首元まで来たことを感じ取り、自分もさらに抱き寄せようとしたが、その寸前でアリアの腕が下ろされたことに、胸が痛むのを感じた。
思わず眉を寄せてしまうほどに、胸が痛んだ。
(――ああ、そうか)
その瞬間、セシルの内に、ストンと落ちるものがあった。
どうしようもなく重くて、甘くて、ひどく暴力的な感情。
(俺は、こいつに――)
その絶対的な『自覚』が、セシルの背筋に甘い痺れを走らせる。
沈黙。
そして。
次の瞬間、セシルはアリアの肩口に、軽く歯を立てた。
「……っ、痛い!」
びくりと肩を震わせたアリアが、信じられないものを見るようにセシルを睨む。
「か、噛んだ……? あんた、今、私を噛んだの!?」
セシルは答えなかった。
ただ、紫の瞳を熱く揺らしたまま、アリアの肩からゆっくりと唇を離した。
そしてアリアを見つめ、長い髪を一房とって、自分の唇に近づけた。
「な、に、して……」
「なんでもない」
セシルはパッとその髪を離した。
黄金の毛先に、アリアの香りと、ムスクの香りが混ざり合って残る。
「もう寝ろ」
いつものぶっきらぼうな声に戻り、アリアの手首を軽く掴んだ。
彼の長い親指が手首の内側をそっとかすめ、ぱち、と小さな火花が二人の間だけで瞬き、心地よく消える。
先を歩き出した広い背中を、アリアは少しだけ睨みつける。
腹が立ったのに、胸の奥に残ったあの甘い熱だけは、どうしても消えてくれなかった。
人に触られるということがこれほど気持ち悪いと、今まで知らなかった。
そして、セシルになら嫌じゃないということも。
サーネルカの冷たい指の感触は、もう思い出せなかった。
代わりに、セシルによってつけられた少しの痛みが、強烈に残っていた。
アリアは、いつの間にか不快さが完全に消え去り、ようやく深く息がしやすくなっていることに気づいた。
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