第32話 【夜襲】傀儡の皇帝と、欺瞞の銀蔦。〜8日目の夜:Noblesse oblige。街の灯りを守る者〜
ガシャン!!!
窓ガラスが割れるけたたましい音が響き、フロアの空気が一瞬にして凍りついた。
「きゃあああああっ!」
「な、なんだ!?」
大広間の巨大な窓ガラスの外に、真っ黒な巨体が張り付いていた。
赤い複眼。鋭い牙。先日の山道で見たものよりも遥かに巨大で、濃密な瘴気を放つ魔獣だった。
本来なら、帝都の結界をすり抜けて魔獣がここまで侵入するなどあり得ない。それほどまでに帝国全土の結界は弱っているのだ。
「チッ、またかよ!」
セシルがアリアを背中へ庇い、即座に雷の魔力を練り上げる。
ハルカも剣を抜き、風の障壁を展開した。
魔獣が咆哮を上げ、窓枠をぶち破って広間へ飛び込もうとした、その瞬間だった。
キィィィン……ッ!
甲高い金属音が鳴り響き、窓枠に刻まれていた銀の蔦模様が眩く発光した。
サーネルカ・フォイエルシュタインの設計した、自動防壁術式だ。
銀の光は瞬時に編み込まれて一本の矢となり、空中で静止した魔獣の眉間を容赦なく射抜いた。
「ギ、ギャアァァァ……ッ!」
魔獣は断末魔を上げ、灰となって夜の闇へ崩れ落ちていく。
広間は、恐怖と衝撃で静寂に包まれた。
「ひ、ひぃぃっ! ま、魔獣じゃ! 余のところに魔獣が……っ!」
その静寂を破ったのは、誰あろう帝国の頂点に立つ皇帝の、情けない悲鳴だった。
皇帝は上座の影にへたり込み、ガタガタと全身を震わせて怯えきっている。その滑稽な姿に、周囲の貴族たちが戸惑いの視線を向けたその時。
「ほうら、大丈夫でしょう? 陛下、ご安心なさってください」
サーネルカが、まるで怯える子供をあやすような、甘くねっとりとした声で皇帝に近づいた。
彼の手が、床にへたり込む皇帝の肩にポンと置かれる。
「古の結界と、それにこの私めの『術式』があれば、陛下は安心、安心……。帝都は、私が完璧にお守りしておりますゆえ」
サーネルカは薄く笑いながら、まるでペットに言い聞かせるように言葉を紡ぐ。皇帝は何度も何度も首を縦に振り、「そ、そうじゃな、サーネルカの術式があるから安心じゃ……」とうわ言のように繰り返した。
一国の主が、一介の長官に完全に精神を支配されている。
そのあまりにも歪で気持ちの悪い主従関係に、アリアは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
しかし、他の貴族たちはその異常さから目を背けるように、次々と安堵の声を漏らし始めた。
「おお……!」
「サーネルカ様の術式だ!」
「なんという完璧な防壁……!」
「やはり、あのお方の術式がなければ、我々は夜も眠れない!」
貴族たちが口々にサーネルカを称える。
その称賛を受けながら、サーネルカは一度だけ、ちらりとアリアを見た。
値踏みでも、敵意でもない。
まるで、手元の駒を確認するような目だった。
けれど、セシルは笑わなかった。ハルカも、窓の外を見たまま動かない。
「……一匹じゃねぇ」
セシルが低く呟いた。
アリアは息を呑み、割れた窓の向こうを見る。
夜空の下。屋根の向こう。
黒い影が、いくつも走っていた。
銀の蔦に弾かれた魔獣たちが、館の敷地を避けるように進路を変えている。
ハルカは懐から小さな望遠鏡を取り出し、割れた窓の外へ向けた。
「……まずいね」
「何が見える」
「銀の防壁に弾かれた魔獣が、下町へ流れてる」
「見えんのかよ」
「シオン製だからね。暗闇に残る魔物の残穢が見えるよ。」
その先には、灯りのともる街があった。
貴族たちが住まう銀冠区の外側。商人や職人、使用人たちの家が並ぶ、下町の灯り。
「まさか……」
アリアの声が震える。ハルカの顔から笑みが消えた。
「この術式、敷地内への侵入は防ぐ。でも、弾いた先までは追わないんだ」
「つまり?」
アリアが聞くより早く、セシルが舌打ちした。
「あの黒いの、街に流れてる」
その瞬間、遠くで鐘が鳴った。
警鐘だった。
一つ。二つ。三つ。
夜の街に、切迫した音が響き渡る。貴族たちの顔色が変わった。
「ま、街へ?」
「だが、この皇宮は守られているのだろう?」
「ならば問題は――」
「問題あるだろうが」
セシルの声が、鋭く落ちた。広間が静まり返る。
「そこに人が住んでんだよ」
ハルカがアリアの肩にそっと手を置いた。
「アリアちゃん、ここにいて」
「でも……!」
「ここは私に任せろ」
低く通る声と共に、マーレがアリアの横に進み出た。その手にはすでに、高密度の魔力が込められた杖が握られている。
「私一人でもこの館くらいは守れる……できは悪いが、一応魔力のある『下級生』もいるしな」
マーレは背後にいるマルクスとジェイスを鋭く睨みつけた。
ゲェッ、とあからさまに嫌そうな顔をするマルクスだったが、マーレの威圧感に逆らうことはできない。
反してジェイスは、キリッと佇まいをなおし、アリアの後に立った。
「セシル兄さん。安心して行ってきてください。」
そして、そこへフォルシュタイン夫妻が入ってきた。
「あら、私たちもいるわ。ねえハーヴィ?」
「お前ら2人で十分だろう。行って来い。」
夫妻がやってきてアリアの隣に立った。ハーヴィはジェシカの肩を抱きながらも、アリアに好奇の目を向ける貴族たちに睨みを効かせた。
「……お願いします」
ハルカの声は優しい。けれど、目はもう戦場のものだった。
セシルはアリアを一度だけ見た。
「そこから動くな」
「セシル……」
「すぐ戻る」
そう言って、セシルは割れた窓枠へ向かった。青白い雷が、彼の足元で跳ねる。
ハルカもその隣に立つ。
「まったく、せっかくのパーティだったのにね」
「後で菓子でも食っとけ」
「君が買ってくれるのかい?」
「生きて戻ったらな」
二人は同時に窓から飛び出した。
雷が夜を裂き、風がその後を追う。アリアは思わず窓へ駆け寄った。
夜の街へ向かって、二つの影が疾走していく。
黒い魔獣の群れ。逃げ惑う人々の声。遠くから聞こえる悲鳴。
そのすべてが、アリアの胸を締めつけた。
その様子を見て、マーレがアリアの隣で静かに言った。
「案ずるな。あの二人は私よりも強い。あの数なら、必ずすべて仕留めて帰ってくるだろう」
背後では、貴族たちがまだ囁いている。
「いやはや、驚いた」
「しかし、さすがサーネルカ様の術式だ。ここは無傷だ」
「下町の者たちには気の毒だが、魔道騎士団が向かったのなら大丈夫だろう」
アリアは、振り返らなかった。
この場所は守られた。けれど、守られなかった場所へ、魔獣は流れていった。
銀の蔦は完璧だった。この館を守るという意味では。
でも、その外にいる人たちは。
「……ノブレス・オブリージュ」
アリアの口から、無意識にぽつりとこぼれた言葉。
「……なんだ、それは」
振り返ると、ジェイスがそこに立っていた。他の貴族たちのようにサーネルカを称える輪には加わらず、黙ってアリアのそばに立っていた。
「ノヴァリアの言葉よ」
アリアは窓の外を見たまま言った。
「持てる者の、義務」
「……義務、か」
「私が読んだ本に書いてあったの。力を持つ者は弱きものを助けよって。」
アリアは広間を振り返った。
杯を持ち直した貴族たち。
何事もなかったように再び始まった会話。
「……あの人たちは、今夜誰かが泣いているのを知っているのかな」
アリアの真っ直ぐで揺るぎない言葉に、ジェイスは息を呑んだ。
翻って、この広間にいる『持てる者』たちはどうだろうか。自分たちの安全だけを喜び、外で魔獣に怯える下町の人々に見向きもしない。
「……ノブレス、オブリージュ。持てる者の義務、か」
ジェイスは自分自身に言い聞かせるようにその言葉を反芻した。
その黒い瞳には、帝国の貴族としての深い自嘲と、アリアの言葉に対する強烈な感銘の色が浮かんでいた。
「……我々は、その義務を完全に放棄しているわけだ。ひどく恥ずかしいことだな」
そう呟いたジェイスの横顔を見て、アリアは無意識にドレスの胸元をぎゅっと握りしめた。
明日、儀式をして、結界を復活させなくちゃ。
その思いが、胸の奥から浮かび上がる。
命じられたからではない。利用されるためでもない。
あの街に、人がいる。
あの灯りの下で、誰かが泣いているかもしれない。誰かの家族が、今まさに魔獣に襲われているかもしれない。
私が歌えば、結界は少しでも強くなるのだろうか。私が歌えば、誰かを守れるのだろうか。
なら。
歌わないという選択は、誰かを見捨てることになるのではないか。
その考えに、アリアは深く唇を噛んだ。
◇◇◇◇◇◇
セシルとハルカが戻ってきたのは、それからしばらく後だった。
広間にいた貴族たちは、すでに何事もなかったかのように杯を持ち直していた。
けれど、二人の姿を見た瞬間、アリアは息を呑んだ。
セシルの礼装の裾は焦げ、左肩のマントは半分破れている。
ハルカの黒い軍服にも、魔獣の黒い血が飛び散っていた。
「っ!! セシル! ハルカ!」
アリアが駆け寄ろうとすると、セシルが片手で制した。
「来るな。汚れてる」
「怪我は!?」
「ねぇよ」
「嘘」
「かすり傷だ」
ハルカが苦笑した。
「大丈夫。死傷者は出ていないよ」
その言葉に、アリアの膝から力が抜けそうになった。
けれど、ハルカの表情は明るくなかった。
「ただ、あと少し遅れていたら危なかった。市場の通りに、子どもが何人か逃げ遅れて残っていてね」
アリアの胸が、冷たくなる。
セシルは忌々しげに、銀の蔦が消えた窓枠を睨んだ。
「館だけ守って、外へ流す。よくできた術式だな」
吐き捨てるような声だった。
「この中にいる連中には、完璧な防壁に見えるんだろうよ」
ハルカが静かに続ける。
「でも、弾かれた魔獣がどこへ行くかまでは、誰も見ていないんだ」
アリアは、割れた窓の向こうを見た。
遠くの街には、まだ灯りが揺れている。誰かが生きている灯り。誰かが守ろうとした灯り。
アリアは、震える手を胸に当てた。
この国の結界は、弱っている。
そして、弱った結界の隙間から入った魔獣は、弱い場所へ流れていく。
貴族の館は守られる。でも、その外側の人たちは、いつも後回しにされる。
窓枠に残っていた銀の蔦の痕跡が、月明かりを受けてかすかに光った。
人を守る蔦と、人を縛る蔦は、同じ形をしている。
アリアにはもう、それが分かっていた。
明日は、儀式が待っている。
この儀式のために、8日間もの旅を続けてきたのだ。
思っていたような旅ではなかった。
最初から同意のあった旅でもなかった。
けれど。
自分の意思で、たくさんのことを決めてきた旅だった。
怖いまま馬に乗った。
嫌なことを、嫌だと言った。
守りたいと思って、歌った。
楽しかった。
嬉しかった。
苦しかった。
怖かった。
それでも、エデンの窓の外には、こんなにも広い世界があることを知った。
アリアは、割れた窓の向こうに揺れる街の灯りを見つめた。
ジェイスにノブレスオブリージュの話をしたことで、アリアの心は改めてノヴァリアへ憧れを抱いた。
ーーー明日、私は歌う。
命じられた御子としてではなく。
国に使われる器としてでもなく。
セシルとハルカが戦って守るように、私も歌って守る。
全身全霊をかけて。
そして、それは終わりじゃない。
儀式が終わっても、私の人生は続く。
私、もうエデンには帰らない。
ノヴァリアへ行く!
誰かに決められた祈りではなく、私の言葉で、私の未来を選ぶ。
私は、ノヴァリアという国が、
考え方が、言葉が好きだ。
行ってやる。
必ず。
必ず行くわ!!
ーーーアリアの瞳に、力強く光が宿った。
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