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デメキン姫と呼ばれた聖女、今日も華麗に逃げ出します! 〜最凶魔術師にいじめられてた私が、なぜか番契約で溺愛されて国へのざまぁも始まりました〜  作者: みょんたま
後編 / 帝都編

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第29話:【闇夜】誰も風呂を覗いたなどとは……〜7日目の夜:動けなくなった少女と、銀髪の悪魔〜

「は、早いよ! ねぇ!! どこにいくの!?」


 ドレスの裾を翻し、息を切らせて叫ぶアリア。

 けれど、ぐいぐいとアリアの手首を引っ張って歩くセシルの足が、不意にピタリと止まった。

 すぐ後ろを追ってきたハルカの体が、セシルの背中に不意にぶつかる。


「っと……いきなり何だい、セシル」


 静まり返った廊下。

 重たいベルベットのカーテンが外界の月光を完全に遮断し、そこはまるで巨大な棺のようだった。


 その暗がりの奥に、一人の男が立っていた。

 先回りの仕様がない廊下の奥にいる。

 その事実が不気味さを倍増させていた。


「逃げても同じだよォ,セシル」


 セシルは動かない。その大きな背中が、一瞬で鉄のように強張る。


「この帝国のど〜こ〜にいても! 私の蔦はぁ、届く!!」

「……知るか」


 セシルの手に、ほんの少しだけ力がこもった。

 磨き上げられた大理石の床に、彼らの硬い足音だけが鋭く響く。


 サーネルカ・フォイエルシュタイン。

 一見すれば高潔な上位貴族。だが、アリアを捉えたその沼のような視線は、獲物を値踏みする蛇のように粘着質で、彼女の肌を執拗に傷つけるように這い回った。

 衣服の上からでも伝わってくるそのおぞましい感覚に、アリアは無意識に後ずさる。


「そォんなに怯えなくていい」


 男が歪に笑う。

 あまりにも穏やかな声なのに、アリアの背筋には氷柱を直接差し込まれたような寒気が走った。


「別に、取って食おうというわけじゃない」


 男が一歩近づき、ふっと白い手を伸ばした。

 その細い指先が空を滑り――アリアの腹のあたり、いつか『番契約』によって伴侶の力を受け入れることになる、その神聖な場所の前で、ぴたりと止まった。


「ふむ。この華奢な身体に、どこまで流し込めるだろうねェ」


 ひひ、と、サーネルカは喉の奥で、粘ついた笑いを漏らした。


「聖力も、術式も、契約も。器が小さければ、奥まで届く前に壊れてしまう」


 実際には触れられていない。

 それなのにアリアは、内臓を冷たい手で直接弄り回されたような、強烈な生理的嫌悪に襲われて呼吸を詰まらせ硬直した。


(――待って、無理、どうしよう……!あ、足が動かない!)


「――やめろ」


 地を這うような低い声。セシルだ。

 彼の全身から放たれた圧倒的な殺気が、サーネルカの粘つく空気を強引に切り裂いた。


 サーネルカはゆっくりと視線を上げ、「ああ、すまない」とわざとらしく微笑む。


「それにしても、ずいぶんと――壊れやすそうだ。もっと色気……まあいい。小さい女を相手にするのも一興だろう」


 その侮蔑と愛玩の混じった言葉に、ハルカの表情がほんの一瞬だけ、これまでにないほど冷酷に強張った。セシルの周囲の魔力もまた、限界寸前の火花をパチパチと散らしている。


「……てめぇが選ばれるわけねーだろ。クソが」


 セシルが吐き捨てるように言い、アリアとサーネルカの間に完全に割って入った。

 どんな絶望からも彼女を隔絶する、鋼の壁。


「終わりか?」


 セシルはサーネルカに一瞥もくれず、再びアリアの手首を強く掴んだ。


「行くぞ」

「随分と過保護だなァ」


「別に。気に障るだけだ」


 そのまま立ち去ろうとした瞬間。

 サーネルカが懐から、薄桃色の細いシルクのリボンを取り出した。


「……ああ、それとこれ。忘れ物だよ」


 サーネルカの指先は、シルクの質感を慈しむように、ゆっくりと、執着を込めてリボンを撫でている。

 まるでアリアの体温や残り香をそこから確かめているかのような、背徳的な手つき。


「てめぇ……!!」


 セシルが青い雷を指先に宿して威嚇する。

 その横で、ハルカの顔から、完全にいつもの笑みが消え失せていた。


 ハルカは、鮮明に思い出していた。

 4日目の野営の朝のことだ。


『ほら、こっちにおいで。すぐに直してあげるから、リボンを持っておいでよ』


 そう言った自分に対し、アリアは鞄の中を一生懸命に探しながら、困ったように眉を下げていたのだ。


<<あれ? お気に入りのピンクのリボンがない。宿屋で一度見たのに……>>


 鞄の奥までどれだけ探しても、見つからなかったあのリボン。


(あの日……あの宿にいた時から、こいつはアリアちゃんを嗅ぎ回っていたのか?いや、でもあそこに防護術式はなかったはずだ…。こいつ自身がいた…?いや、それはない。見回りも確認も都度していたはずだ。僕らが出た後に来たのか?)


 脳裏に浮かぶ最悪の答え合わせに、ハルカの心音が凍りついていく。


(確認しなくては…)


 ハルカが、努めて優しく声を出した。


「セシル。僕が預かるから、アリアちゃんを連れて先に行っていてくれないかい?」


「チッ」と激しく舌打ちをして、セシルはアリアを引っ張って廊下の角へ消えていく。


 静まり返った棺のような廊下に、ハルカとサーネルカの二人だけが残された。


 ハルカが静かに一歩、前へ出る。

 彼がリボンを受け取ろうと手を伸ばした瞬間、二人の視線が至近距離でぶつかった。


 ――その刹那。

 ハルカの瞳から、春の日差しのような温かさが完全に消え失せた。

 深淵の底から這い上がるような、冷徹で、絶対的な殺意がその青に宿る。


 サーネルカは、そのハルカの豹変に歓喜を覚えたように、くく、と肩を揺らした。


 ハルカはサーネルカの指からリボンをひったくるように奪うと、男の指先が触れていた場所を、自分の肌で上書きするように強く握りしめる。


(――次は、その指ごと頂いてやる)


 視線だけでそう告げるハルカの圧倒的な圧に、廊下の空気がピりりと震えた。


「……いい目だ、ハルカ。君も彼女を『壊したい』と思っているんだろう?」


 その歪んだ挑発に、ハルカは一瞬だけ呆気に取られたように目を丸くし――そして、酷く冷ややかに笑った。


「……同類にしないでくれ。僕はただ、彼女を大切にしたいだけだよ」


 その言葉の裏に隠された、絶対的な拒絶。

 邪魔者は、僕の手で排除する。

 その冷酷な決意を響かせたハルカに対し、サーネルカはなおもねっとりとした言葉を重ねた。


「確かになぁ。あのように美しい肌を見ても何もしないでいられる君は、本当に彼女を大切にしていると言えよう? ――あぁ、あの石鹸はどのような香りか気になっていたのだ。察するに、アプリコットかな?」


「――2度目はない。2度と無断で覗くな」


「おお怖い。誰も風呂を覗いたなどとは……おおっと」


 白々しく口元を白い手で覆うサーネルカ。


 プチ、

 ハルカの脳内で、理性を繋ぎ止めていた最後の血管が千切れる音がした。


 ――だん!!!


 次の瞬間、激しい衝撃音と共に、サーネルカの身体が冷たい壁へと叩きつけられていた。

 ハルカがその胸ぐらを、凄まじい力で壁に押し付けている。


 ハルカの青い瞳は完全に瞳孔が開き、腰の剣の柄を握る手が、今すぐ引き抜いて首を撥ねようとする衝動で小刻みに震えていた。


「んっふ! 手が震えているぞォ! 魔物を退治したことはあっても、人に手をかけたことはない! ――そうだろう?!」


「……黙れ」


「ず、図星だろう! い、い、いいいい今ここで私に手をかければ、残された君の家族がどうなるか……頭が回らないほどお馬鹿さんではなかろう?!」


 サーネルカは必死に早口でマントを揺らしながら叫ぶ。


 ハルカはただ、絶対零度の眼光でサーネルカを睨みつけ、やがて、ゆっくりとその手を胸ぐらから離した。そして、怯えを隠そうと必死に呼吸を荒らげるサーネルカを、スカイブルーの瞳が冷たく見下ろす。サーネルカの手が必死にハルカの手を掴む。


 ハルカの目は、サーネルカの衣服の下に隠れている黒々とした刺青の紋様をしっかりと見ていた。それは手首をクルリと一周し、体の方へ紋様を描きながら刻まれている。ずり下がった衣服の際までしか見えないが、明らかに魔術の紋様だ。


「人に手をかけたことはないさ」


 ハルカは一歩下がり、極限まで静まり返った声で告げた。


「――でも、魔物は別だ。それだけは、覚えておけ」


 キン・・・

 僅かに引き抜かれかけていた剣を、静かに鞘の奥へと戻す。

 ハルカはそれ以上一言も交わすことなく、踵を返して廊下の闇へと走り去っていった。


 棺のような廊下の暗闇の中。


「……」


 サーネルカはそのまま壁を背に、ガタガタと震える膝を支えきれず、大理石の床へ無様に腰を抜かした。

 ハルカの放った、本物の『魔物を切ってきた騎士の殺気』に、心臓が爆発するかと思った。


 だが、静寂が戻ると、男は乱れた息を整え、壁を伝ってゆっくりと立ち上がった。

 泥を払うように上質な衣服の身なりを整え、オレンジ色の歯を覗かせて、ひひひと笑う。


「最後に勝つのは、私だ……んっふ!」


 暗闇の中、ニンマリと歪んだ笑みを浮かべ、背筋を伸ばして決めポーズをとると、男は再び華やかな広間の方へと戻っていった。


第30話 【爆走】俺の腕の中にいる時くらい、俺だけでいっぱいになれ。〜夜を駆ける暴れ馬と、水色の飾り紐。〜→



 バタン!!!


 重厚なオーク材の扉が、壊れそうなほどの勢いで閉められた。

 ランカスター伯爵邸の最奥――アリアのために用意された、豪奢で、冷たい客室。


 セシルはアリアの手首を掴んだまま、部屋に入るなりその手を乱暴に放した。

 けれど、その指先が僅かに震えているのを、アリアは見逃さなかった。


 その震えは、怒りだろうか。恐怖だろうか。

 最強の男たちですら震える相手が、自分を見ていたと言う事実。



『君はただ、流れればいい。

 歌い、祈り、番となり、結界を満たす。

 それだけで帝国は救われる。

 ――んっふ!』


 不意に、あの悪臭を漂わせる男のオレンジ色の歯と分厚い唇が動く。


『それにしても、ずいぶんと――壊れやすそうだ。もっと色気……まあいい。小さい女を相手にするのも一興だろう』


 待って?その後セシルは、なんて言った?


『……てめぇが選ばれるわけねーだろ。クソが』


 小さい女を相手にって、私のこと?

 私が、あのサーネルカと何をするって言うの?

 選ばれるわけないって、一体、誰が何を選ぶの…?!





 そして突如、思い出してしまった。


<そうして2人は誓いの口づけを交わし、番となりました。>


 アリアは目を見開いて固まった。


 エデンで見た、絵本の、たった1行。

 アリアを地獄へ突き落とすには、十分だった。

 アリアの呼吸が乱れた。

 胃の中から、さっき食べたものが這い出そうになり、口を抑える。


「ハァ……ッ、ハッ……、……っ!!!!」


 扉に背を預けた瞬間、アリアの膝がガタガタと崩れ落ちた。

 大理石の床にドレスの裾が広がる。

 吸っても、吸っても、酸素が胸の奥まで届かない。喉の奥が引き攣り、心臓が耳元でうるさいほど警鐘を鳴らしていた。


 怖い。気持ち悪い。おぞましい。

 あの暗い廊下でサーネルカに見つめられた、お腹のあたりの皮膚がじりじりと焼け付くように熱い。衣服の上から、あのオレンジ色の歯をした男に、内臓まで生身の手で弄り回されたような生理的嫌悪感が、波のように押し寄せてくる。




「お、おい?デメキン…?どうしたんだよ! 息をしろ…!……アリア!!」


 セシルの焦ったような声が遠く聞こえる。


「くす、り……、お薬……どこ……っ」


 アリアは震える手で、床に落ちた自分の小さな旅用の鞄に飛びついた。

 なりふり構わず、爪が割れるほどの勢いで留め具を外し、中身を床へぶち撒ける。


 着替え、ノヴァリアのリーから貰った本、筆記用具。

 違う違う! これじゃない!

 違う!!!


「どこ!? ない、ない、なんでないの……っ!」


 エデンにいた頃、発作が起きるたびに神官たちから与えられていた、あの小さな薬瓶。

 あれを飲めば、この狂いそうな心臓も、おぞましい恐怖も、すべてを冷たい霧の向こうへ消し去って、何も考えなくて済むようになる。


 必死に、狂ったように鞄の裏地まで引き剥がしようと指を這わせた、その瞬間。


(あ――……)


 アリアの指先が、ぴたりと止まった。

 頭を殴られたような衝撃と共に、真っ白な絶望が脳裏をよぎる。


 ――捨てたんだ。


 ハルカの家で、朝、格好よく強がって、自分の手で暖炉の火の中へ投げ捨てたのだった。


(なんで……なんで捨てちゃったんだろう……っ!)


 猛烈な後悔が、涙となって一気に視界を溢れさせた。

 自分の足で立つなんて、全部ただの傲慢だった。

 帝国の本物の怪物と権力の前では、自分なんてただの、小さくて、無力で、いつでもすり潰される器でしかないのに…。


「あ、あああ……っ、う、…!」


 声にならない悲鳴を上げて頭を抱え、床に(うずくま)ってガタガタと震えるアリア。


「わ、私、嫌だ!嫌だよ…」


 その小さな、今にも壊れて消えてしまいそうな身体を――


 ガシッ!!!! と、衝撃が包み込んだ。


「……!?」


 視界が反転する。

 大理石の冷たさが消え、代わりに、圧倒的な、痛いほどの熱がアリアを襲った。


「……っ、この、馬鹿…!」


 セシルだった。

 セシルは床に膝をついたまま、アリアの細い身体を、自分の太い腕で、へし折らんばかりの強さでキツく、キツく抱きしめていた。


 詰襟の硬い軍礼装の生地がアリアの頬を擦り、ダイヤモンドのチョーカーがジャラリと悲鳴を上げる。

 けれど、セシルは構わず、アリアの小さな頭を自分の胸元へと強引に押し付け、これ以上ないほど強く腕を回し、彼女の全身を自分の体躯だけで完全に囲い込んだ。


「薬なんか要るかよ。そんなクソみたいなもんに頼るな。……俺が、ここにいるだろ?」


 痛いくらいにキツく抱きしめられたその腕の熱さだけが、暗闇の中で、アリアの壊れかけた心を強引に繋ぎ止めていた。


「せ、セシル、あの人、なんで番だなんて、言ってたの…?私、私…!!」


 その言葉を聞いた瞬間に、セシルは眉間に皺が寄せ、歯を食いしばった。

 分かっていたはずだ。

 この美しい女を、権力者たちが狙う可能性があることは。

 でも、あの魔力を持たないサーネルカが選ばれるはずはない。

 それなのに。

 なぜこんなのにも胸が騒ぐのか。


 もし選ばれるとしても、皇族。

 つまりゼノスの名をもつ筆頭貴族。

 もしくは戦場で功績を立てた者だ。


 皇帝陛下は既に王妃殿下と番契約をされている。

 セシルの脳裏に、王弟であるカリスヴェルや、今も北部前線で戦う恩師、マーレが思い浮かぶ。

 サーネルカが選ばれる可能性は、ない。


 そうして、考えを巡らせるうち、

 当たり前のように、自分自身が選ばれることも、ないのだということに、考えが及んだ。


 …つまり、サーネルカでなかったとしても、いずれ自分ではない誰かとアリアは、番契約を結ぶ可能性があるのだ。


 無力。

 あまりにも、無力だった。


 セシルは、今わかる事実だけを言った。


「あいつがお前の番になるなんて事は、絶対にない。それだけは、断言できる。あいつの妄想だ。」

「妄想ですら、嫌よ…絶対に、嫌!」


 ドク、ドク、ドク、と。

 至近距離で、セシルの高鳴る、けれど規則正しく力強い心音が、アリアの耳へと直接響いてくる。


 どんな結界よりも、どんな秩序の檻よりも強固な、鋼の肉体。

 サーネルカの「白い視線」すら1ミリも通さない、圧倒的なフォイエルシュタインの盾。



「あいつはここには来ねぇ。……絶対に、来させねぇ」


 アリアの黄金の髪に顔を埋め、セシルは喉の奥で、誓うように、呪うように、低く掠れた声で囁いた。


 アリアを自分の方へ強く引き寄せたセシルは、アリアが落ち着くまでじっと動かずにいた。

 ただ、見えない敵を一点に睨みつけるようにして。


(……熱い)


 アリアはお腹を押さえた。触れられてなどいないのに、あの男が指先で示した腹のあたりが、服越しにひどくヒリヒリと痛む。

 見えない火印を刻まれたかのようなおぞましさに震え、アリアは再び呼吸を乱した。

 セシルはまた乱れ出したアリアに気づき、少し離れてその細い手首を掴み、アリアを覗き込んだ。

 じっとアリアを見つめ、空いた手で、流れ続ける涙を袖で拭ってやる。


「……っ、いたい……」


「……悪い。少しだけ我慢しろ」


 掴んだ手首は、驚くほど細く、涙はどんどん流れ出た。

 セシルの掌の中で、アリアの脈が小鳥の羽ばたきのように震えている。その細さが、頼りなさが、たまらなく腹立たしかった。 こんなものを、あの男が値踏みした。傷つけるつもりで見た。触れもしないのに、汚すような言葉を投げた。  


 それが、許せなかった。


 壊したいのはアリアではない。  

 あの男がアリアに残した、気配のすべてだ。

 熱を持ったセシルの暗い瞳が、不意に下へ落ちた。  

 ほとんど無意識だった。

 

 流れ落ちる涙の先、小刻みに震えているアリアの柔らかな唇。  

 少し開いた先にある、可愛い白い歯と、赤い舌。

 さらに涙は顎を伝い、アリアの胸に落ちる。

 ドレスによってふっくらとせりあがったお椀型の胸が目に入る。ドレスに指をひっかけて下にずらせば、全てが溢れ出てしまいそうに白く柔らかに輝いている。

 

 食らいついて、しまいたい。

 そう、思ってしまった。


 その唇から、まだサーネルカの名がこぼれそうで。  

 まだ、怖いと言いそうで。  

 まだ、あのクソみたいな薬を探しそうで。

 腹が立った。


 ――塞いでしまいたい。

 そう思った瞬間、セシルは自分の中で何かが一線を越えかけたのを感じた。  


 理性がそう訴えるのに、我慢ができない。  

 薬なんか探すな。  

 あの男のことなんか、考えるな。  

 俺の腕の中にいる時くらい、俺だけでいっぱいになれ。


 荒れ狂う雷よりも醜い感情が、喉の奥までせり上がってくる。  

 アリアの口元を汚しているのは、サーネルカの気配だ。


 それを拭い去る方法は一つしかない。

 自分の気配で、自分の熱で、あの男の痕跡を一つ残らず塗りつぶしてやるのだ。


 脳みそが焦れて焼けてしまいそうな焦燥感がセシルの身体中をズキズキと襲う。

 もう、視線が縫い留められてしまって、後戻りできない。  


 自分自身すら御せない、獣のような本能が暴れ出していた。  


 食べる。  

 そうだ、何も考えられないくらいに。

 俺の手で。口で。

 喰らい尽くしてしまえばいい。


 もう目が離せないその唇を下目に見ながら、セシルは口を開いた。  


 後頭部に添えた手が、アリアの意志を確かめることもなく、強引にその顔を引き寄せる。掴んだ手首の脈動すら、自分のリズムに合わせるように強く、支配的に。



(えっ……なに?)


 端正な顔が、遮るものなく近づいてくる。  

 ふわりと、柑橘の香りが濃くなった。  

 至近距離で見つめられ、アリアはぱちぱちと瞬きをした。  


 なぜ、そんなに真剣な顔で顔を近づけてくるのだろうか。  


「……セシル?」


 呼吸が触れ合うほどの距離で、セシルの動きが一度ぴたりと止まる。アリアがさっぱり訳がわからないといった様子で、不思議そうに小さく小首を傾げた。  


 セシルは、アリアのあまりにも無防備で、これから何が起こるかの理解すら欠け落ちているきょとんとした顔を見て、微かに眉間を寄せた。  


 自分の中の衝動と葛藤するように、じっとアリアの瞳の奥を覗き込む。 それでも、見えない引力に吸い寄せられるように、セシルの顔がさらに近づく。


 その唇がまるで何かを食べる時のように開く。



 もう、境界線は消えかかっていた。  

 熱い吐息がアリアの唇を掠める。




 ――まさに、その瞬間だった。

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