第27話 黄金の籠、壊れる夜、偽りの拍手。〜7日目の夜:これは私の歌〜
晩餐が終わり、舞台は重厚な大理石の広間へと移った。
楽団たちが、静かなBGMを奏でている。
天井のシャンデリアが放つ光は、旅の夜に見た焚き火よりもずっと明るいというのに、アリアの目にはそれがひどく冷たく、人工的なものに見えた。
アリアはふと、隣に立つセシルの横顔を見る。
さっきまで伯爵を相手に、完璧な貴族の微笑みを貼り付けていたはずの男。
けれど一瞬。
ほんの一瞬だけ、セシルは死ぬほど退屈そうに、そして忌々しそうに目を伏せていた。
その長い睫毛が落とす影は、彼がどれほどこの場所を嫌っているかを物語っているようだった。
ホールの壁際には、ハルカが影のように立っている。
いつものように穏やかに微笑んでいる。けれど、その目だけは少しも笑っていない。
アリアはその視線を背中に受けながら、無意識に背筋を伸ばした。
貴族たちの、値踏みするような目が刺さる。
「……あれが、例の光の御子か」
「思ったより幼いんですのねぇ。野卑な旅を経て、力が濁っていなければよろしいのですけれど」
「案ずるな、器さえ生きていれば力は抽出できる」
扇に隠された唇から、毒のようなささやきが漏れる。
(――は? 濁ってる? 抽出?)
アリアは長い手袋に包まれた拳を、ドレスの影でぎゅっと握りしめた。
(この人たち、本当に気持ち悪い。私のこと、なんだと思ってるの?)
エデンにいた時からそうだ。
どいつもこいつも、私を「人間」として見ようとしない。
高価な調度品か、便利な魔導具か、
あるいはすり潰して使う薬の材料みたいに、上から目線で品定めしてくる。
やがて、一番恰幅のいい貴族が、よく通る声で言った。
「ぜひ、その至高なる力の一端を拝見したいものですな! 帝都の結界を盤石にするためにも!」
それは願いではなく、あからさまな命令だった。
断るという選択肢は、このお上品な監獄には存在しない。
自分よりも二十も年上の大人たちの、隠しきれない強欲がアリアを取り囲む。
アリアは心の中で仮面を被った。
にこり。
頭は1ミリも動かさず、口角を上品にあげる。
器。
抽出。
力の一端。
(私のことをなんだと思ってんの?
――ただの道具みたいに、あんたたちが好きな時に取り出せる都合のいい蛇口とでも思ってるわけ?)
その時、胸の奥で、あの夜に聞いたハルカの声が、静かに、けれど強く響いた。
『――君の歌は、君のものだよ。誰にも奪わせちゃいけない』
手袋の裏側には、さっき手の中で粉々にしてしまったクッキーの、わずかな感触がまだ残っている。
呆れながらも「お菓子なんていくらでも用意してやる」と言って、自分の手を強引に、けれど優しく引いてくれたセシルの手の熱さが残っている。
アリアは、震えそうになる指先を、今度は自分の意思で、力強く握りしめた。
(わかった。そこまで言うなら、見せてあげる。だけど、これはあんたたちのための歌じゃない。)
そして今だけは。
(セシル。ハルカ。この歌は、あんたたちに向けて歌う。私を荷物じゃなくて、ちゃんと一人の人間として見てくれた、あんたたちのために)
広間の中央に立ち、深く息を吸う。
全視線が自分に集中する。
期待。
興味。
好奇心。
開いた襟元から覗く、息が詰まるようなダイヤモンドのチョーカーがひどく重い。心臓がバクバクと嫌な音を立てている。あわよくば自分の病や罪までも、この少女に肩代わりさせて癒やしてもらおうという、大人たちのどろりとした執着を肌に感じる。
今すぐ、この場から走り出してしまいたい。
けれど。それ以上に、猛烈に腹が立った。
(私、あんたたちのためになんか、歌わないわ。好きな歌、歌ってやるんだから。)
アリアは、ひとりで歌い始めた。
最初はハミングから始まった。
「♪ーーー」
伴奏も、楽団も、何もない。
歌うのは、聖歌ではない。
旅の途中、宿屋や街のどこかから聞こえてきた流行りの歌だった。
「♪今夜は、そうね
一夜にして大人になった気分」
アリアの声だけが、シャンデリアの光の中へ、細く、澄んで、静かに溶けていく。
歌い出し、アリアは少しだけ悪戯っぽく眉を跳ね上げ、ふわりと微笑んだ。
「♪もう神様に恋してた頃には戻れない。
ごめんね?好きと言わせるまでが、楽しいって気づいちゃったの」
その一音を聞いた瞬間、指揮者が動きを止めた。楽師たちが顔を上げる。
アリアは構わず歌い続ける。
「♪だって、退屈だったのに
あなたが現れたその日に
輝き出してしまったのだから
仕方がないでしょ」
声が少しずつ大きくなる。広間の空気が、その声に応えるように揺れ始めた。
「♪らららーーー」
囁くような低音から、彼女の喉は人間の限界を遥かに超えた音域を自由自在に駆け上がっていく。
指揮者はしばらくその声に聞き入ったあと、静かに目を閉じた。それから、微笑んで指揮棒を持ち上げる。
オーケストラが、後を追うように音を重ねた。
楽団が合わせているのではなかった。
楽団が、アリアの声に引き寄せられていた。
ドラムが一際大きく叩いた。
「♪あぁ、両手に花を
君に嵐を
ああ、火を灯して
君を愛して」
ハチミツ色の柔らかな聖力が波紋のように広がり、冷たい大理石の床を、壁を、天井を、ゆっくりと黄金の熱で満たしていく。
「♪私は楽しいことが好きよ
踊ったり歌ったり
だから今こうしているの
明日がないみたいに
必死に」
ドラムに向かって微笑んで、リズムに乗り出すアリアに、貴族たちの目が見開かれる。
アリアは心から楽しそうに目を細め、眉をクイと下げて愛おしそうに歌を紡ぐ。
「♪さぁ今夜は」
アリアの口から紡がれる高く澄んだ声は、神に捧げる祈りではなかった。
それは、命じられて差し出す聖歌ではない。
彼女自身の感情を、真正面からぶつけるような力強い歌だった。
「♪今夜は一晩中鳥のように歌ってあげる
私はまだ飛んでいたいから」
彼女は目を閉じ、胸元にそっと手を添える。
天を貫くような高音へとメロディが駆け上がった瞬間、ふっと片手を空へ向けて浮かせた。
華奢な指先が、空中に見えない五線譜をなぞるように滑らかに波打つ。
その魔法のような手振りに合わせて、アリアの全身からキラキラと光る聖力の粒子が弾け飛び、空間そのものを震わせていく。
歌いながら、ハルカを見つめて微笑んだ。空のような、優しい青色の瞳。ハルカの微笑みが、ふと柔らかく崩れた。
そしてセシルを見つめた。
意地悪な、だけどいつも守ってくれる紫色の瞳。セシルの指先で燻っていた雷が、ふ、と静まる。
届いてる。
私の歌は、奪われるためのものじゃない。見世物にされるためのものでもない。私が、大切な人に届けるためのものだ。
――ふいに歌声が途切れ、リュートの軽快な間奏が響き渡った。
待ってましたとばかりにドラムが軽快にリズムを添える。
その瞬間だった。
アリアは、音楽に身を任せるように、くるりとその場でターンを決める。
長い髪が揺れ、ふわりとドレスの裾が円を描いて舞い上がる。
ぴたりと止まって、リズムに揺れる。
旋律の切れ目で完璧に動きを止めたアリアは、伴奏を弾く楽師の方へと振り返り――パチン、と悪戯っぽく片目でウィンクを飛ばし、エヘヘと笑って小さく踊り出した。
「……っ!!」
それまで呆然と彼女の歌声に呑まれていた客席から、ドッと爆発するような歓声が上がる。無自覚な魔性。圧倒的な歌唱力。誰もが、その小さな歌姫から目を逸らすことなどできなかった。
間奏が終わる直前。
アリアは観客たちへ向けて、曲の合間にドレスの裾の陰でいくつか指の形を確かめ
――よし、これだ、と両手の【お姉さん指】をピンと真っ直ぐに立てようとした。
けれど、少し小指も上がってしまう。
おかしいな? と首を傾げながらも、アリアは貴族たちへ向けて指を立てて、にこりと笑って見せた。
「!」
「あいつ……」
壁際でそれを見たハルカは顔を真っ青にした。
(それはダメだ。というか指が違うけど!)
そう言いたげに、両手をブンブンと振っている。
一方、セシルはクククと肩を揺らして笑いを堪えた。
「中指だって教えてやらねーとな」
立てた指が間違っていたので、周囲の貴族たちは何のことだかわからない。
けれど、アリアだけは「やってやった」と満足そうに笑った。
そして、フィナーレ。
楽師たちの音がさらに大きくなる。
アリアは両手を顔の横へ静かに上げた。目を閉じる。
両足を踏ん張り、地面をしっかりと踏みしめる。
全身で、息を吸う。
次の瞬間。声が、爆発した。
「♪あぁ、両手に花を
君に嵐を
ああ、夢の中で
火を灯して
君を愛して
明日がないみたいに
必死に歌って
踊り続けて」
それまでの澄んだ旋律とは次元の違う、魂の底から絞り出すような高音。
7オクターブの最高音に達したその神がかった声は、空気をびりびりと震動させる。
アリアの表情は極限の解放感に満ちていた。眉を凛と上げ、目を輝かせて、限界まで歌い上げる。
両手がこぶしとなって力強く下ろされた瞬間、光が広間全体に炸裂した。
「♪雛鳥が、嵐を知らないままに
飛びたつ日のように」
打楽器に合わせてこぶしが空を打つ。
床が震える。
シャンデリアのクリスタルが細かく揺れ、光の粒をあたり一面に散らす。
限界まで伸びた首の先に、天を仰いで歌うアリアの顔があまりに美しい。
「♪今夜は一晩中鳥のように歌う
燃えるように歌いすぎて
もしも焦げて焼け死んでも
また歌の中で生まれるの
思いのままに飛んでいくよ
そう、何度でも」
鼓膜が、震える。
それはもはや聖なる祈りではなかった。
一人の少女が、全身全霊で世界へ叩きつける、命そのものの叫びだった。
貴族たちは、最初は聖力の奇跡に目を奪われていた。
けれど今は違う。
誰もが、歌そのものに呑まれていた。
この声が、この歌が、ただただ凄まじかった。
「……素晴らしい」
「これほどの純度とは」
「本物だ……」
呟きが漏れる。けれどその声にはもう、獲物を見つけた狩人の色はなかった。
打楽器が力強くアリアの歌にリズムを添える。
「♪ねぇ見てて。
私がどれだけ高く飛べるか。
私がどれだけ強く歌えるか。
聞かせてあげる
何度でも!」
最後にドラムがダダン!!と低く叩くと、音が一斉にやんだ。
アリアの身体を包む光が、ゆっくりと収束していく。
最後の一音が、震える夜気に溶け、消えた。
シャンデリアの光だけが残る。
広間は、しばらく沈黙した。
誰も、拍手をしなかった。できなかったのだ。
それから、嵐のような拍手が来た。
アリアはそれを聞きながら、けれど客席を見なかった。視線の先にいるのは、ただ二人だけ。
アリアは、息を切らしながらも静かに微笑んだ。
――そして。
嵐のような拍手が止んだ時。
ぱん。
乾いた音が、ひとつ。
遅れて、広間の最も暗い奥から響いた。
ぱん。
ぱん。
誰よりも遅く。けれど、誰よりもはっきりと。
その拍手は、アリアの心臓を、汚れた手で直接掴むように鳴り響いた。
「……見事だ。実に見事だ」
低く、絹が擦れるような滑らかな声。
周囲の貴族たちが、氷水を浴びせられたようにはっとして振り返る。
その男は、広間の影に溶け込むように立っていた。
壁にもたれかかる、その優雅すぎる姿勢。いつからそこにいたのか、誰も気づかなかった。
男が薄い笑みを浮かべると、口の中にオレンジ色の歯が並ぶ。
そして、真っ白な手が、ゆっくりと拍手を止める。
月明かりよりも白く、血の気の失せた手が、静かに胸元へ下ろされる。
その上質な袖口で、銀糸で縫われた蔦の紋様が、アリアを嘲笑うように光った。
アリアの喉が、ひゅ、と小さく鳴る。
(……この模様)
見覚えがある。
あの銀の蔦。あの冷たい術式の気配。
自分をエデンに繋ぎ止めていた、あの檻と同じ匂い。
男の視線が、まっすぐアリアを射抜いた。
品定めするように。愛でるように。
「噂以上でございますなぁ」
男は、残酷なほど優雅に微笑んだ。
「黎明の御子、アリア・ブランシュ・メイフィールド」
セシルの指先から、バチッ!! と青白い雷火が弾けた。
周囲のグラスが数個、衝撃波で粉砕され、広間の空気が一瞬で氷点下まで凍りつく。
「……サーネルカ」
その名を聞いた瞬間、アリアの体温が氷点下まで一気に奪われた。
恐怖のあまり眉は引きつり、大きく見開かれた瞳からは先ほどの生き生きとした輝きが嘘のように消え去る。血の気を失った顔が、わななと震えた。
その男――サーネルカ・フォイエルシュタインは、笑みを深くする。
彼はもう一度だけ、ゆっくりと拍手を打った。
ぱん。
その音は、先ほどの美しい歌の余韻をすべて塗り潰し、アリアの胸の奥に、消えない呪いのように残った。
前編からちょこちょこ出てきてた悪党が登場しました。明日も21時更新予定です。最後まで書き切ってますので、ぜひお楽しみに。いいね、感想など頂けましたら更新の励みになります、よろしくお願いします!




