第25話 【萌芽】いざ、帝都ゼノスレガリアへ!〜7日目の朝:祝福の鐘が鳴る。〜
夜の名残を含んだ空気は冷たく、けれど空は澄んでいた。
朝焼けが山の端を淡く染め、街の屋根に薄い金色の光が差し始めている。
明け方。
まだ誰も起きていない台所で、アリアは薬瓶を睨んでいた。
眉毛を限界まで寄せて、ぐっと薬瓶を握っている。
瞳を閉じ、深く息を吸って、吐いた。
小さな瓶。
何度も、命綱みたいに握ってきたもの。
飲めば楽になる。
怖いことを、怖いと思わずに済む。
でも。
昨夜、薬を飲まなくても、誰かがそばにいてくれた。
怖いと言えなくても、気づいてくれる人がいた。
泣きそうになっても、誰もアリアを壊れたものみたいに扱わなかった。
次に瞳を開けた時、その眼差しには確かな決意の光が宿っていた。
「……私、決めた」
アリアは力強く瓶の蓋を開けた。
「怖くても、ちゃんと私のままでいる」
そして、もう一度、今度は自分自身に言い聞かせるようにはっきりと口にする。
「私を、消さない」
暖炉のくすぶる火へ向けて、思い切って瓶を傾けた。
じゅ、じゅわっ、と小さな音が連続して鳴り、薬が炎に飲まれていく。
特有の苦い匂いが、朝の澄んだ空気に溶けて跡形もなく消えた。
瓶は、すっかり空になった。
空っぽの小瓶を目の高さに掲げると、アリアの口元が自然とにんまりと弧を描く。
「ふふんっ」
誰もいない台所で、わざとらしく得意げに鼻を鳴らした。
ずっと手放せなかったお守りを、たった今、自分の意志で捨ててやったのだ。
ちょっとばかり不敵に、それでいて年相応の愛嬌たっぷりに、きゅっと口角を上げて笑ってみせる。
(うん。えらいぞ、私!)
ぐっと胸を張って、心の中で自分をめいっぱい褒め称えた。
憑き物が落ちたようなその横顔は、差し込み始めた朝焼けの光を弾いて、清々しいほどに輝いていた。
■■■
数分後。
アリアはいつものように、黄金に輝く髪を布で隠そうとしていた。
左の眉毛がぐっと上がり、悩んでいる様子がありありとわかる。
左の眉がやっと下がったと思ったら、今度は右眉が上がり、もう一度左の眉毛が上がった。
「アリアちゃん。眉毛たちがもう顔から歩いて出ていってしまいそうだよ。何を悩んでいるんだい?」
ハルカが本気で眉毛を心配しながら声をかけてきた。
――君が決めていい。
昨夜、自分の意思で歌った記憶が背中を押す。
アリアは、ゆっくりと布を下ろした。
「……今日は、このままで行く」
アリアは振り返って、キリッとハルカとセシルを見た。
朝の光に、髪がふわりと透ける。
セシルは、ほのかに柑橘の香る香油で髪を整えながら、その様子を見ていた。
「目立つぞ」
瞬間、アリアの眉毛がハの字にしょげる。
「やっぱり隠した方がいい?」
「……いや。お前が選んだならそれで」
不器用な気遣いと、アリアの表情にハルカが吹き出し、アリアも小さく笑う。
また人が多いところに行く時には、布を被るかもしれない。
それでも今だけは、自分の髪を自分のものとして風に預けた。
隠していないのに、不思議と怖くなかった。
ハルカは髪を後ろで束ね、きゅっと結びあげる。
きっちりと軍服を着ると、今日帝都に着くことを考えて軍帽を被った。
セシルも、髪を整えた。最後に柑橘の香りがする整髪剤でぐっと後ろに流す。そして額の傷を、どこか誇らしげに撫でた。
出発の支度が整う頃、領主カリスヴェルが朝早くからハルカの家を訪れた。
「ハルカ」
いつもの豪快な声だった。
けれど、その目元には昨夜の疲労が色濃く残っている。ハルカが振り返るより早く、カリスヴェルは大股で近づき、そのまま分厚い腕で彼を力強く抱きしめた。
「……昨夜は、よくやってくれた。お前がいなければ、この街は終わっていたかもしれん」
「……ありがとうございます」
ハルカは一瞬驚き、それから少し照れたように笑った。
「これを持っていけ」
カリスヴェルが体を少し離し、差し出したのは小さな巾着袋だった。ハルカが受け取ると、ちゃり、と重い音が鳴る。
「これは……」
中を覗いたハルカの表情が変わった。
「こんなにたくさん、受け取れません」
「持っていくんだ」
カリスヴェルは静かに、だが有無を言わさぬ声で告げた。
昨夜までの豪快な笑みはない。
領民の命を背負う領主として、そしてハルカを幼い頃から見守ってきた一人の「父親」としての顔だった。
「帝都は、魔物より恐ろしい化け物が平気で笑っている場所だ。綺麗事や誇りだけでは、大切なものは守れん」
ハルカの指が、巾着袋を強く握りしめる。
「金は剣より早く、静かに命を救う場合があることを覚えておけ。賢く使うんだ」
その重い言葉に、ハルカはすべてを察したように目を伏せた。
そして、こくりと頷く。
「はい。……カリスヴェル様、母たちのことを……」
ハルカがそう言うと、カリスヴェルは険しい顔のまま、静かに、だが大地のように揺るぎない声で言い放った。
「お前がこの地に残していくものは、このカリスヴェルが、ゼノスの名に懸けて必ず守り抜く。だから――お前は、お前の戦いだけを生き抜いてこい」
「……はいっ」
ハルカの声がわずかに震えた。そして彼は、自分からカリスヴェルを強く抱きしめ返した。
「本当に……ありがとうございます」
カリスヴェルは一瞬だけ目を細め、それからいつものように豪快に笑って、ハルカの背中をばんばんと叩いた。
「わしにとっては、お前も守るべき大事な家族の一人だ!」
少し離れたところでは、ハルカの母――アーシャがそのやりとりを静かに見守っていた。カリスヴェルの視線が、ほんの一瞬だけ母へ向く。
「……アーシャ。またしばらく寂しくなるな。何かあれば、いつでも遠慮なく領主邸を頼ってくれ」
その声だけが、ひどく不器用で、柔らかかった。
アーシャは困ったように微笑み、深く頭を下げる。
「いつも、ありがとうございます」
その短いやりとりに、アリアはなぜか胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。すると、カリスヴェルはゆっくりと向き直り、少し離れた場所で馬の手綱を握っていたセシルへと歩みを進めた。その足取りには、先ほどまでの父親のような温かさはなく、歴戦の王弟としての重厚な威厳が戻っている。
「――セシル殿」
不意に声をかけられ、セシルがわずかに肩を揺らして振り返った。
「……何だよ」
カリスヴェルはいつもの豪快な笑みを引っ込め、セシルの紫の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「帝都に足を踏み入れれば、ハルカにもアリアにも、公的な後ろ盾は一切ない」
地を這うような低い声が、朝の静寂に響く。
「あそこは、牙を持たぬ者が、権力という化け物に生きたまま貪り喰われる街だ。寄る辺なきあの二人が、貴族どもの巣窟でどう扱われるか……お前が一番よく知っているはずだな」
セシルは何も言い返さず、ただ、苦いものを噛み潰したような顔でカリスヴェルを睨み返した。
その通りだった。
帝都の血生臭い権力闘争も、平民や聖力保持者がどれほど容易く使い潰されるかも、高位貴族の家に生まれたセシルが誰よりも熟知している。
「あの大舞台で、あの二人の盾になれるのは――フォイエルシュタインの名を持つ、お前だけだ」
カリスヴェルは一歩近づくと、セシルの細い、けれど研ぎ澄まされた肩に、ずしりと重い掌を置いた。
「窮屈な役割を押し付ける。だが……よろしく頼む」
セシルはカリスヴェルの手の重さに、一瞬だけ圧倒されそうになった。
だがすぐに、ふっと不遜に口の端を上げる。
「……フン。言われなくても」
セシルはカリスヴェルの手を肩から払いのけるようにして、馬の背に飛び乗った。そして、手綱を握り直しながら、視線をハルカたちの方へと外す。
「……王弟殿下直々の頼みだ。頭の片隅にくらいは置いておいてやるよ」
憎まれ口。
けれどその紫の瞳には、烈火のような決意が宿っていた。カリスヴェルはその横顔を見上げ、一瞬だけ驚いたように目を丸くした。それから、合点がいったように喉を鳴らして豪快に笑う。
「はっは! これだから帝都の若者は可愛げがない! だが……いい目だ」
ハルカは、出発の前に弟妹たちを一人ずつ抱きしめていった。
「ちゃんと母さんの言うこと聞くんだよ」
「にいに、また帰ってくる?」
「帰ってくるよ」
「絶対?」
「絶対」
小さなトアが、泣きそうな顔でハルカの軍服の外套を握る。ハルカは膝をつき、その頭をぽんぽんと撫でた。
「にいちゃんが嘘ついたことある?」
「ある」
「……そこは、ないって言うところだよ」
子どもたちが一斉に笑う。
その笑い声に、ハルカも笑った。
最後に、アーシャが台所から包みをいくつも抱えて出てきた。
「ハルカ、無理しちゃだめよ。はい、お弁当」
「わぁ、ありが――」
「お母様」
横から、セシルがすっと前に出た。
背筋を伸ばし、またしても完璧なよそ行きの貴公子の微笑を浮かべている。
「ハルカくんのことは、私にお任せください」
「まあ、セシルくん。頼もしいわぁ」
アリアは横で固まった。
誰。
今の、本当に誰。
セシルは涼しい顔のまま、アーシャから包みを受け取る。
「こちらはセシルくんの分ね」
「ありがとうございます。ところで、このお弁当には例のものは……」
「うふふ。唐揚げとトマト、ちゃんと入れておいたからね」
セシルの目が、わずかに輝いた。
「感謝いたします」
「セーシール」
ハルカがじとりと目を細める。
「君ってやつは、いつの間に母さんを買収してるんだい?」
「人聞きの悪いことを言うな。礼儀だ」
「唐揚げの確認をする礼儀って、何?」
アーシャはころころと笑い、最後に赤い布で包んだ小さなお弁当をアリアへ差し出した。
「はい、アリアちゃんの分。あまり食べないって聞いたけど、よかったら食べてね」
「あ……ありがとうございます」
アリアは両手で包みを受け取った。
赤い布に包まれた、ずっしりと温かい小さなお弁当。
それは、エデンで決まった時間に配られていた無機質な食事とはまるで違った。
自分のために作ってくれたもの。
「ありがとうございます」
もう一度、アリアは小さく呟いた。
胸の奥が、じんわりと温かかった。
やがて馬に乗り、三人は街を出た。
「じゃあ! 行ってくる!」
ハルカが大きく手を振る。
弟妹たちが口々に叫ぶ。
「にいに、またね!」
「アリアちゃんもまた来て!」
「セシル兄ちゃん、唐揚げ食べすぎないでね!」
「うるせぇ!」
最後の一言に、子どもたちが笑った。
馬がゆっくりと道を進む。
アリアはハルカの前に乗り、手綱を握る彼の腕の中で、遠ざかっていくアラヴェルの街を見ていた。
輝きながら波打つアリアの髪が、風をまとう。
赤い屋根。
煙突から上がる白い煙。
手を振る子どもたち。
台所の前で、笑っているアーシャ。
そして、そのすべてを少し寂しそうに見つめるハルカ。
アリアの胸が、きゅっと痛んだ。
「待って!」
突然、アリアは声を上げた。
「止まって!」
「どう、どう……。何か忘れ物かい?」
ハルカが驚きながら馬を止める。
アリアは振り返り、彼を見上げた。
「ハルカ、手綱を貸して」
「え?」
「お願い」
ハルカは少し驚いた顔をした。
だが、アリアの真っ直ぐな瞳を見て、すぐに柔らかく頷いた。
「いいよ」
アリアは手綱を握ると、少しだけ馬の向きを街の方へ変えた。街を遠くに見つめ、そして自ら馬を降りた。
セシルが眉をひそめる。
「おい。何する気だ」
アリアは答えなかった。
静かに目を閉じる。
「天よ……」
うつむき、祈るように唇を開く。
ハルカも馬を降りて、アリアに声をかける。
「アリア?」
「静かに」
アリアは小さく息を吸った。
「どうしても、歌いたいの」
その声に、ハルカは何も言えなくなった。
アリアの身体から、淡い金色の光が滲み出す。
朝の光と溶け合うように、やわらかな輝きが彼女を包んでいった。
『我が祈りに応えよ。この街を光で包み、癒し、清め、守り給え』
風が、ふわりとアリアのローブを揺らした。
『歌え、風よ。光よ、届け!!』
アリアの歌声が、朝の空気に溶けていく。
『慈しみ深き、永久なる光は
穢れ、憂いを、清め給わん
光の盾、しるしの祈り
安らかに、安らかに、ここにあれ
さあ歌え、光よ。
輝け、風よ。
響け、空へ。
彼方へ』
アリアは今までの人生で一番強く輝いた。
光が、気持ちが、胸の奥から溢れていく。
国のために捧げる儀式の歌でもない。
神官に命じられた祈りでもない。
ただ、温かい食事をくれた人たちへ。
自分を笑って迎えてくれた子どもたちへ。
お弁当を持たせてくれたアーシャへ。
ありがとう、と伝えるための祈りだった。
小さかった祈りの歌は、次第に大きく膨れ上がり、風となる。
心地よい風が三人を包んだ。
アリアは瞳を閉じ、両腕を羽のように広げて歌う。
鐘が鳴り響くように、歌が空へと広がっていく。
やがて朝日が街全体を照らし、光が波のように流れた。
歌いながら、アリアは、視線に気づいてハルカを見た。
そして口角をあげ、さらに大きな声で歌い上げた。
アリアの瞳がキラキラと輝く。
空から鐘が鳴り響く。
金色の光をまとった風は、朝日に照らされた街へ向かっていった。
屋根の上を撫で、井戸の水面を揺らし、畑の土を柔らかく照らす。
昨夜、瘴気に触れた家の壁から黒い影が薄れ、倒れかけていた花がゆっくりと顔を上げた。
「鐘が鳴ってる……?」
領主カリスヴェルが天を仰いだ。
遠くで、子どもたちの歓声が、はっきりと聞こえた。
「光だ!」
「アリアちゃんだ!」
「すごい、街に光が降ってる!」
ありがとう。
どうか。
元気で。
そんな気持ちを込めて、心を込めて歌い上げる。
最後の光がぽっとアリアの手から離れ、風に乗って街へいく様を、アリアは愛おしげに見送った。
セシルは、なぜか目を離せなかった。
エデンで飾られていた御子でもない。
帝都へ運ぶ荷物でもない。
国に使われるための存在でもない。
朝日に髪を光らせ、自分の意思で歌う、
ただの女の子だった。
そのことが、腹立たしいほど綺麗だった。
歌い終えると、アリアは「ふう……」と息を整えた。
そして振り返り、少し照れたように笑う。
「えへへ」
誇らしそうで、恥ずかしそうで、少しだけ子どもっぽい笑顔だった。
ハルカが、言葉を失って、アリアを見つめている。
人が、恋に落ちる瞬間を、
セシルは初めて見た。
ただ、見つめている。
見つめている。
それだけだ。
それだけなのに、昨日までと何かが違う。
セシルには、そう見えた。
「……ありがとう、アリアちゃん」
ようやく出た声は、いつもより少し掠れていた。
御子に祝福された土地は、魔獣が近づきにくくなり、病の気配も遠ざかるという。
それは、ハルカがこの街へ与えたくても、決して与えられなかったものだった。
本当は、魔獣がいつまた来るかも知れないという不安を抱いての出発だったのだ。
「どういたしまして」
アリアがぺこりと頭を下げると、ハルカは優しく目を細め微笑んだ。
アリアは照れ隠しのように、えへへと笑った。
小さな頭が右にこてんと倒れ、右肩が少し上がる。
アリアが、見かけだけの上品な笑顔を振り撒く時には、しない仕草だと、セシルは思った。
セシルは我に返ったように二人から視線を外した。胸が、心臓が、感じたことのない苦しさに締め付けられて、どこを見たらいいかわからない。出てきたのはいつもと同じ、からかいの言葉で。
「……やるじゃねぇか、出目金」
「いいことした時くらい、その呼び方やめてよね!」
「じゃあ、何て呼べばいいんだよ」
「普通にアリアって呼べばいいでしょ!」
「調子に乗んな」
「ひどい!」
ハルカは二人のやり取りを聞きながら、もう一度だけ街を振り返った。
光に包まれた街。
騒がしくて、貧しくて、手のかかる弟妹たちがいる故郷。
そこに、アリアの祈りが残っている。
ハルカは胸の奥で、何かがほどけるような気がした。
「さぁ行こう!」
アリアはハルカの馬の鐙に自ら足をかけようとした。
その瞬間、セシルが低く言った。
「おい。こっちに乗れ」
「え?」
アリアが振り返ると、セシルはすでに馬上から片手を差し出していた。
「ハルカは荷が多いだろ。お前まで乗せたら、馬が潰れる」
「潰れないよ。僕の馬、そんなに弱くないからね」
「うるせぇ。乗れ、出目金」
「だから、その呼び方やめてってば!」
文句を言いながらも、アリアは差し出された手を見つめた。
大きな手だった。
傷だらけで、少し冷たそうで、それなのに不思議と怖くない。
アリアがおずおずと手を重ねると、セシルはぐい、と迷いなく引き上げた。
「わっ」
次の瞬間、アリアの身体はセシルの前に収まっていた。
背中に、セシルの胸が触れる。
手綱を握る彼の腕が、アリアの両脇から伸びた。
近い。
昨日よりも、ずっと。
背中越しに伝わってくる熱が、衣服の布地を容易く通り越して、肌を直接焦がすように熱い。馬の足並みが揺れるたび、逃げ場のない鞍の上で、硬い胸板が背中に幾度も押し付けられる。
「……セシル、近い」
「落ちたいのか」
「落ちたくないけど」
「なら黙って前見てろ」
ぶっきらぼうな声。
けれど、耳のすぐ後ろ、うなじを撫でるように吐息がかかって、アリアの肩がびくりと跳ねた。
いつも彼からふわりと香る、爽やかな柑橘の匂い。
それが今は、頭の芯を痺れさせるほど濃く纏わりついてくる。
どうして?
胸が、うるさい。
背中に密着した体温が気になって、息の仕方が分からなくなる。
彼の手綱を握る両腕が、アリアの華奢な身体をすっぽりと檻のように囲い込んでいる。
自分で手綱を握ろうとしても、指先がひどく冷たくなっていて、力が入らない。
「……お前、今、何考えてる?」
ふいに、鼓膜を直接震わせるような低い声が、首筋に落ちてきた。
「な、何も考えてない」
「嘘つけ。耳まで真っ赤だぞ」
「赤くない!」
「赤い」
「見えないでしょ!」
「見なくても分かる」
セシルが、喉の奥で小さく、ひどく甘く笑った。
彼の低い笑い声の振動が、背中を伝ってアリアの心臓を直接揺らす。
「男にくっつかれて、どうしたらいいのか、分からなくなってんだろ」
「……っ!」
アリアは言い返そうとして、声が掠れて出なかった。
当たっていたからだ。
怖い、とは少し違う。
嫌、でもない。
ただ、セシルの体温に溶かされてしまいそうで、心臓が痛いほどに警鐘を鳴らしているのに、身体のどこに力を入れればいいのか分からなくなる。
どうして、こんなに息が苦しいの。
アリアは震える唇をぎゅっと結び、服の裾を強く握りしめた。
少し後ろから、ハルカのひどく呆れたような、それでいて少しだけ冷たさを孕んだ声が飛んでくる。
「セシル。やめなよ」
「あ?」
「アリアちゃんは、男に慣れてないんだ。面白がってからかうものじゃない」
「分かってる」
セシルは悪びれもせずに言った。
けれど、その紫の瞳には、からかい以上のものがあることを、ハルカだけは見逃さなかった。
「分かってやってんだよ。反応が面白いからな」
「最低だね、君」
「褒め言葉として受け取っておく」
「褒めてないよ」
二人のやり取りを背中で聞きながら、アリアは真っ赤になった顔を誤魔化すように、必死に前を向いた。
「セシルなんか、嫌い」
「へえ」
すぐ後ろで、また喉を鳴らす気配がした。
今度は、他の誰にも聞こえない、アリアの耳元だけの微かな囁き。
「じゃあ、何で逃げねぇんだよ」
「……落ちるからでしょ!」
「そういうことにしといてやる」
「もう、本当に大嫌い!」
そう言って、精一杯の反抗を見せたはずなのに。
アリアの腰に回されたセシルの腕が、ほんの少しだけ引き寄せられるように強くなった。
大きな手が、アリアの細い腰をすっぽりとホールドする。
決して逃がさないと告げるような、絶対的な拘束感。
――ドクン。
腰を支えていたセシルの腕に、ほんの少しだけ力がこもった瞬間、アリアの胸はまた勝手に跳ねてしまった。跳ね上がった心臓の音が、背後の彼にまで伝わってしまっていないか。
アリアは熱くなった頬を風に晒しながら、ただひたすらに、嵐のように乱れる自分の胸の音を聞いていた。
(もう! なんでこんなにドキドキするの!)
アリアは抑えきれない鼓動を打ち消すように、きっと前を睨んだ。
「〜〜〜っ! 今日は私が手綱を取る!」
「は?」
アリアがそう言って手綱に手を伸ばすと、セシルが眉をひそめた。
「お前、昨日まで鞍の前後も怪しかっただろ」
「大丈夫! 上手くなったもの!」
「根拠のない自信が一番怖ぇんだよ」
「セシルは黙ってて!」
アリアが軽く馬の腹を蹴る。
馬が、思ったより勢いよく朝の道を駆け出した。
「わっ!」
背後でセシルの腕が、反射的にアリアを囲う。
「おい、急に走らせるな!」
「こうするんでしょ!? はい!」
「違う! もう少し加減しろ、出目金!」
「アリアって呼んでってば!」
「ねぇ! 落ちないようにちゃんと支えててよ!?」
「だったら言うことを聞けっ! うわ!?」
少し後ろから、ハルカの明るい声が追いかけてくる。
「セシル! 今ならアリアちゃんの気持ちが分かるんじゃない? すっごく怖いんだろう!?」
「笑ってんじゃねぇ!」
朝の道に、三人の声が響く。
街での出来事を経て、アリアは少しずつ変わっていた。
怯えるだけではなく、
自分で馬に乗り、
自分で言葉を選び、
自分の力を誰かのために使おうとしている。
その変化に、ハルカは自然に寄り添っていた。
無理に引き寄せることもなく、急かすこともなく、ただ歩幅を合わせるように言葉をかける。
アリアもまた、その穏やかな距離に、少しずつ心を開いていく。
セシルの胸の奥に、ほんの小さな棘のようなものが刺さる。アリアが誰かに向けて笑うたび、胸の奥がざらりとすることだけは、もう誤魔化せなくなっていた。
ダァン、ダァンッ――!
力強い蹄の音が、夜明けの冷たい空気を震わせていく。
土を力強く蹴り上げ、風を切り裂きながら、二頭の馬が街道を疾駆していた。
見上げる空は、息を呑むほどに美しい。
藍色の空に、まだ名残惜しそうに星々が瞬いている。
だが東の地平線からは、それを塗り替えるように、黄金色に燃える朝陽が滲み出し始めていた。
夜と朝が混ざり合う、ほんの一瞬だけの魔法のような空。
手綱を握るアリアの指先は、微かに震えていた。
もう、知ってしまったのだ。
自分が歌わない未来に、どれだけの惨劇が待ち構えているかを。
――怖い。
この道が続く先にある、あの白く美しい檻へ向かうことが。
そこで待ち受けている、得体の知れない運命が。
どうしようもなく足がすくみ、逃げ出したくなる。
けれど。
「……っ!」
アリアはぎゅっと唇を噛み締めると、自らを鼓舞するように手綱を強く握り直した。そして、胸の中の恐怖を振り払うかのように、躊躇いなく馬の腹を蹴る。
もう、ただ守られて怯えているだけの自分じゃない。
アリアの静かな決意に応えるように、馬が甲高くいななき、さらに速度を上げた。
風が金髪を大きく巻き上げ、朝露の匂いが頬を勢いよく撫でていく。
誕生日まであと三日。
このまま走り抜ければ、夕方には帝都へ辿り着く。
彼らの旅の、一つの大きな終着点へ。
やがて、道を覆っていた朝靄が、引いていく波のように晴れていった。
その先、朝陽を受けた街道の向こうに。
高く、美しく、そして冷酷なまでに圧倒的な威容。
帝都、ゼノスレガリア。
その中心にそびえ立つ白い宮殿が、遠く、眩しいほどに輝いていた。
ついに前編/旅路編が終わりました。このまま帝都編に続きます。ここまで読んでくださった皆さん、本当にありがとうございます。いいねや、感想、ブクマなどいただけると、執筆の励みになります(^ ^)
後編もよろしくお願いします!




