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デメキン姫と呼ばれた聖女、今日も華麗に逃げ出します! 〜最凶魔術師にいじめられてた私が、なぜか番契約で溺愛されて国へのざまぁも始まりました〜  作者: みょんたま
前編 /  旅路編

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第24話【灯火】はちみつとミルク。暖かな暖炉の前で、おやすみ。 〜6日目の夜:君は、選んでいい〜

 その夜。

 ハルカの家へ戻るなり、疲れ切っているはずの母親は、真っ先に台所へ立った。ハルカが慣れた手つきで小さな椅子を片づけ、弟妹たちが蹴飛ばした小さな靴を揃える。


 母親は、大きな鍋を二つ火にかけた。

 特大の鍋には水を注いで、ハーブをいくつか放り込む。

 強い火にかけ、湯を沸かす。ハルカとセシルはそれを受け取って、体を洗いに外へ出た。


 もうひとつの鍋には、たっぷりのミルクを注ぐ。

 弱い火にかけ、そこへ黄金色の蜂蜜をとろりと落とすと、甘くやさしい香りが部屋いっぱいに広がった。


「ほら、みんな。温かいうちに飲んで」


 子どもたちはそれぞれのカップを受け取ると、両手で大事そうに包み込むようにして飲んだ。 魔獣の恐怖で泣き疲れていたトアは、ひと口飲んだだけで強張っていた肩の力を抜き、ほっとした顔をする。


 リドルはまだ鼻をすすっていたが、コニカと目が合うと、ようやく小さく笑った。

 メイアとミアとマイアは、安心したように三人で肩を寄せ合っている。


 母親は温かい湯にタオルを浸し、子どもたちの頬を順番に拭ってやった。それからアリアににっこりと微笑むと、煤で汚れた鼻を拭き、擦りむいた膝から流れた血をきれいに拭き取ってくれる。そして、優しく微笑みながら髪を撫でた。優しいハーブの香りがする温かいタオルに、アリアは目を閉じた。


 やがて、一人、また一人と、子どもたちは温かいミルクの香りに包まれながら、静かにまぶたを落としていった。


 暖炉の火が、ぱち、と小さく爆ぜる。

 部屋の中には、蜂蜜入りのミルクの甘い匂いと、薪の燃える匂いが混ざっていた。





 アリアは両手で自分のカップを包み込みながら、静かにその光景を見つめていた。


 誰かが、誰かに毛布をかける。

 眠った子の髪を、母親がそっと撫でる。

 やがて戻ってきたハルカが、子どもたちの床に置いたカップを静かに集めて、台所へ持っていく。

 それは、ごく当たり前の生活の風景で。


 けれどアリアにとっては、今まで一度も見たことのない景色だった。


 エデンでは、夜はいつだって無音だった。

 決められた時間に灯りが落とされ、決められた時間に薬を飲み、決められた時間に眠る。

 誰かが泣いても、大人はただ「落ち着きなさい」と無機質に告げるだけだった。


 こんなふうに、甘いミルクを渡されることも。

 眠るまでそばにいてもらうことも。

 誰かの穏やかな寝息に囲まれることも、なかった。


「……こういうの、いいな」


 ぽつり、と声が落ちた。暖炉の前でミルクを飲んでいたハルカが、静かに顔を上げる。


「家族がいて、食卓を囲んで、誰かが怒ったり、笑ったりして……」


 アリアは深い海のような瞳をわずかに伏せ、カップの中を見つめた。蜂蜜色のミルクに、暖炉の火が揺れている。


「普通に、生きてみたかったな…」


 その言葉は、思ったよりも小さく、心細い音になった。


 ハルカはしばらく何も言わなかった。

 けれど、笑わなかった。

 慰めるように軽く流すこともしなかった。


 ただ静かに、アリアの重たい言葉を受け止めてくれた。


「簡単じゃないと思う」


 やがて、ハルカが口を開いた。


「君が置かれている状況は、普通じゃない。僕が軽々しく、大丈夫だよ、なんて言っていいものでもない」


 アリアは少しだけ目を伏せた。


「……うん」

「でも」


 ハルカの声は、やさしかった。


「選べるなら、選んでいいと思うよ」

「選ぶ……」

「うん」


 ハルカは暖炉の火を見つめながら、静かに続けた。


「誰といるのか。どこへ行くのか。何をしたいのか。怖くても、迷っても、君が選んでいい」


 その言葉は、アリアの胸の奥に、そっと深く沈んでいった。

 選ぶ。

 それは、今までアリアの人生にほとんどなかったものだった。


 歌うことも。祈ることも。

 どこで眠るかも、誰に会うかも。

 いつも、誰かが決めていた。


 けれど今日、アリアは自分で決めた。


 苦しむ人を見て、助けたいと思った。

 だから歌った。


 命令ではなく。

 誰かに押しつけられた『御子の役目』でもなく。

 自分が、そうしたいと思ったから。


「……私にも、できるかな」

「できるよ」


 ハルカは澄み切った空のような青い瞳で彼女を真っ直ぐに捉え、迷わず言った。


「少しずつでいい。今日だって、君は自分で選んだ」


 アリアは小さく頷いた。

 その時、壁際に寄りかかっていたセシルが、無言のまま動き出した。彼はすやすやと眠りこけた末っ子のトアとリリを、ひょいっと両腕に一人ずつ抱え上げる。


「……セシル?」

「邪魔だろ。こいつら、上で寝かせる」


 ぶっきらぼうに言い捨てて、セシルは慣れない手つきで小さな子どもたちを抱きかかえたまま、二階の寝室へと続く階段を上っていった。ハルカもくすりと笑い、残りの子どもたちを抱き上げて彼の後を追う。


「セシル、頭をぶつけないように気をつけてね。そこの階段、三段目が軋むから」

「うるせぇ、指示すんな。……おい、こいつらよだれ垂らしてんだけど」

「子どもはそういう生き物だよ。軍服が汚れるのが嫌なら、僕が代わろうか?」

「チッ。別にいい」


 二階から聞こえてくる、男二人の小さな言い合いと、子どもたちをベッドへ寝かしつける微かな衣擦れの音。アリアは、空になったカップを両手で包みながら、その足音を静かに聞いていた。


 選ぶ。

 本当に、私が?

 何を選ぶの。


 もし選んだとして、許してもらえるの。


 もう少しで、十八歳になる。

 そのことが、こんなにも恐ろしい。


 頭の中に、数日前に聞いてしまった言葉が蘇る。


 ――男に触れられるということを、分かっていない。

 ――もし自分の妹がそうなったら、殺しに行く。


 殺しに行くほどのこと。

 知っていたら、逃げたくなるほどのこと。


 それを私は、何も知らないまま命じられるのだろうか。


 知るのが怖い。

 知らないままなのも、怖い。

 どくどくと、心臓の音が大きくなる。

 息が、うまく吸えない。

 だめだ。

 また、変になりそう。

 アリアは堪らず鞄の底を探り、薬の瓶を取り出した。


「それは、お薬?」


 びくりと肩が跳ねた。

 振り返ると、ハルカの母が立っていた。


 叱られる、と思った。

 エデンでは、薬を飲む時も、飲まない時も、いつも誰かに管理されていたから。


 けれど、ハルカの母は責めなかった。

 ただ、少しだけ眉を下げて言った。


「……つらいのね」


 アリアは声が出なかった。


 はい、つらいです。

 そう言って泣いてしまいたかった。


 けれど、どうしても、その一言が喉を越えてくれなかった。


「眠れない時はね、強いお薬より、温かいものを飲むといいわ。気の済むまでね。」

「……そんなので、眠れるんですか」


「眠れる日もあるし、眠れない日もあるわ」

 彼女は静かに笑った。

「でも、眠れない夜に、ひとりで震えていなくていいの」


 その時、二階から二人が降りてきた。


「母さん?」

「ハルカ。セシルさんも。今日はアリアちゃんのそばにいてあげなさい」


 ハルカは、アリアが震える手で握っている薬の瓶に気づいた。


「強くなろうとしている子を、ひとりにしちゃだめよ」

「はい、母さん。アリアちゃん、おいで」


 セシルは眉を顰め、母親からマグカップを受け取ると、温かいミルクのおかわりをアリアに差し出した。


「飲め。落ち着くまで、そばにいてやる」


 三人は寄り添うように暖炉の前に座った。

 暖炉の炎は、ぱちぱちと弾けて、まるでセシルの雷のようだった。


 アリアは両手でマグカップを包み込み、その温かさを感じる。

 その隣で、ハルカが時々、暖炉に薪をくべる。


 母親は、そっと台所に戻っていった。


 誰も何も喋らなかった。


 セシルは長い脚でアリアを囲うように座り込み、膝に肘をついて、自分の頭を支えた。揺れる紫の瞳に複雑な色を滲ませながら、暖炉の炎を見つめる彼女の横顔を見ていた。


 ――選ぶ。


 その言葉が、胸の奥に残っている。


 アリアが、自分で何かを選ぶ未来。

 それが、ハルカの言葉に導かれる未来。

 あるいは、ハルカの隣にある未来。


 ……なんだ、それ。


 本来なら、どうでもいいはずだった。

 アリアは護送対象だ。

 帝都へ連れていく任務の相手でしかない。


 誰と笑おうが、誰に心を開こうが、自分には関係ない。

 そのはずなのに。


 ハルカの言葉にアリアが静かに頷いた瞬間、胸の奥に小さな棘が刺さった。


 面白くない。


 セシルは、その感情に名前をつける前に、目を閉じた。


 こんなことを考えている場合じゃない。

 明日には帝都に着くだろう。

 何時につこうが、すぐに儀式が始まるはずだ。


 アリアを帝都から出せば、それで終わりだ。

 そのはずなのに。


 もし、帝都から出られなかったら。

 もし、ハルカが言ったように、番にさせられたら。

 その想像だけで、胸の奥の棘が深く沈んだ。


 いいや、ハルカに任せておけばいい。

 あいつなら、どうにかするだろう。

 それまで、自分はそばで守ればいい。


 そう思うことにした。

 でも、胸の奥に刺さった小さな棘だけは、

 どうしても抜けない。

 セシルの指先で、小さな雷がぱち、と弾け、セシルは暖炉を睨んだ。




 ハルカは、これからのことを考えていた。

 この街、アラヴェルのことは、領主様が守ってくれるだろう。

 でも、アリアはどうなる。

 このまま帝都へ連れて行けば、儀式は問題なく執り行われるはずだ。


 でも、そのあと彼女はどうなるのだろう。

 番契約は、どのタイミングで行われるのか。


 また薬に頼らなければ息もできない夜へ戻されるくらいなら。


 ハルカは目を伏せた。


 自分にできることは何か。

 優しい言葉をかけるだけでは、足りない。

 そばにいるだけでは、きっと守れない。


 道を作らなければ。

 彼女が、本当に選べるように。


 帝都へ行く道があるなら。

 帝都から出る道も、必ずあるはずだ。


 そうであってほしい。

 けれど、そうではない気がしていた。


 考えを巡らせるうち、ハルカはいつの間にか、暖炉の前で眠りに落ちていた。



 ■■■


 ふと、セシルの額に落ちた髪の隙間から、赤く腫れた傷が見えた。アリアはマグカップを置き、もう一度セシルの顔をじっと見た。


「なんだよ」

「……じっとしててね」


 いつもなら後ろへ無造作に流されている髪が、湯で流したあとだからか、額に落ちている。アリアがそっとその髪を上げると、血は止まっているものの、痛々しい傷が残っていた。


「気にするな」


 セシルはそう言ったが、アリアは自分が痛みを感じたみたいに眉を寄せた。


「動かないで」


 膝立ちになって、セシルにそっと近づく。

 それから、額に唇が触れそうなほど近くで、囁いた。


「守ってくれて、ありがとう」


 小さく、歌がこぼれた。

 昔、おばあちゃんが歌ってくれた子守唄だった。


「♪空に月が流れている間

 目を閉じないわ

 あなたが夢の世界に行くまでは

 私があなたの番人ね


 眠ってしまう前に言わなくちゃ

 お休みあなたのおめめ

 いっぱい見て疲れたでしょう

 お休みあなたのお口

 いっぱい喋って疲れたね


 お休みお休み、また明日

 私があなたの番人よ」


 他のみんなは、戦闘中にアリアが歌っていたため、傷が癒えていた。

 けれどセシルだけは違った。

 アリアの歌が途切れたあと、塔の上で最後まで戦っていたから。


 小さく瞬くような聖なる力が、ぽうっと輝きながらセシルの傷に届く。


 セシルは、アリアから目が離せなかった。

 瞳を閉じて、自分のためだけに小さく歌うアリアを、見つめ続けた。


 光は届き、傷は癒えていった。

 けれど、完全には消えなかった。

 額には、うっすらと跡が残っている。


「ごめんね……完全に、消えなかった」


「……いい。その方が……」


 セシルは、それ以上を言えなかった。


 ふ、と力が抜けたように、額がアリアの肩に落ちる。

 眠ってしまったのだ。


 アリアはその重みを受け止め、支え合うようにして座った。

 セシルの温もりを肩先に感じながら、自分もゆっくりと目を閉じた。


 薬を飲まなくても、こんなにも安心できる夜がある。


 リサ。トーマス。ノヴァリアの商人。街の人々。

 そして、セシルとハルカ。


 これまで出会った人たちの顔と、この旅路のすべてが、ゆっくりと胸の奥に浮かんでは消えていく。


 私は、馬に一人で乗れるようになった。

 嫌なことを、嫌だと言えるようにもなった。


 二人は、それを聞いてくれた。

 笑わずに。怒らずに。

 ちゃんと、聞いてくれた。


 そう。

 私は、自分で選ぶことができる。


 この夜、アリアは薬を飲まなかった。

 それでも、眠れた。


 ■■■


 夜がさらに更けたころ。


 台所での明日の仕込みと片付けを終えた母親が広間へ戻ってくると、暖炉の前では、ふかふかのカーペットの上で、三人が身を寄せ合うようにして静かに眠っていた。


 中心には、アリアがまるで子どものように無防備に寝そべって、穏やかな寝息を立てている。その左側では、セシルが長い脚でアリアを囲うようにして片膝を立てて座り、その膝に腕をかけて頭を預けたまま寝落ちしていた。


 そして右側では、ハルカが大きな身体を少し丸め、自分の腕を枕にして静かに眠っている。


「あらあら……」


 母親は目を細め、音を立てないように静かに微笑んだ。


 空になった三つの小さなカップをそっと拾い集め、部屋の隅にあった大きめの毛布を広げると、子どもたちにそうしたように、一人ずつ、ふわりと包み込むように掛けてやる。


「……んん」


 毛布の温もりに反応したのか、ハルカが小さくみじろぎし、母親の方へ無防備な寝顔を向けた。


 母親の目が、暖炉の赤々とした火を受けてきらりと光った。


 すう、すう、と規則正しい寝息を立てるその横顔は、亡くなった夫の面影に驚くほど似てきている。広い肩幅も、少し骨張ってきた顎の輪郭も。


 もう20年も経つのか。

生まれたばかりのハルカの頬に何度もキスをした日々を思い出す。ふかふかの頬、かわいい足、小さな手。抱き上げるたびに幸せでたまらなかった。次の子どもに恵まれるまで、母子で抱きしめ合いながら眠った日々。全てが愛おしかったあの日々は、2度と帰ってこない。あんなに小さくて、転んでは泣きべそをかいていた息子。それが、今や魔術師として立派に国の依頼を受けて戦っている。


 その立派すぎる成長が、母親としては心から誇らしく、嬉しかった。


 けれど同時に、もう自分の手の届かない、危険で遠い世界へ行ってしまったのだという一抹の寂しさが、胸の奥をふわりと撫でていく。


 母親は膝をつき、ハルカの目にかかっていた髪を、指先でそっと払った。


 そのまま、少しだけ冷たくなっていた頬を、愛おしむように優しく撫でる。


(……私の、可愛い息子)


 剣を握り、過酷な前線に立つ青年の顔も、眠っている間だけは、昔と少しも変わらない「ただの男の子」の顔だった。


 母親はハルカの頬から手を離す。




 もう一度三人分の毛布の端を整え、ランプの火をそっと落とした。




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