第23話【聖戦】父の仇と、血の抱擁〜6日目の夜:君の歌は、君のもの〜
森の奥から、黒い巨体が姿を現す。
それは魔獣というより、歪んだ獣の王。
人の4倍はあるだろうか。
巨大な四肢。岩のように硬い鱗。
頭には二本の角があり、片方だけが根元から折れている。
胸には、古い槍傷のような深い傷跡――。
ハルカの呼吸が止まった。
「四年前の……」
ハルカの手が、剣の柄を握りしめる。
「父さんを殺した魔獣だ」
グルァァアッ!!
魔獣が咆哮を上げると同時に、その岩のような鱗の隙間から、青白い雷がバチバチと爆ぜた。黒い瘴気と電光が混ざり合い、凄まじい威圧感が広場を支配する。
「……ここからは、笑えないね」
「分かってる」
魔獣の鱗の隙間から、青白い雷が爆ぜる。
「雷を食うタイプか。最悪だな」
「君の親戚?」
「殺すぞ」
「冗談だよ」
ハルカは笑った。
けれど、その青い瞳だけは少しも笑っていなかった。
セシルが両手を掲げ、魔獣の雷を中和するように紫電を散らす。
「長くは持たねぇぞ」
「一回で終わらせる」
セシルが魔力を限界まで注ぎ込むと、魔獣の体の表面で中和反応が起き、パチパチという電撃の音がわずかに小さくなった。魔獣が自身の雷を制御できず、一瞬動きが止まる。
「行くぞ!」
ハルカが地を蹴った。
塔の上から、アリアの歌声が聞こえる。
城がさらに光る。
その光を受けて、ハルカの風の剣はさらに鋭く研ぎ澄まされていく。
ハルカは疾風のごとく魔獣の懐へ飛び込み、鱗の隙間を狙って風の刃を叩き込む。
だが、硬い。
鱗の強度は、雷によってさらに増していた。
中和されてなお、ハルカの剣は致命傷には届かない。
グルァァアッ!!
魔獣がハルカを鬱陶しそうに睨むと、拘束された電光を振り払うかのように、巨大な尾を横薙ぎに振るった。
「っ……!」
ハルカは瞬時に風の防御壁を展開したが、凄まじい衝撃に防御壁ごと吹き飛ばされた。身体が空中を舞い、広場の石畳へと激しく叩きつけられる。石畳が粉砕され、ハルカの口元から、ぽたり、と紅い血が滴り落ちた。
「ハルカ!!」
領民を助けながらも見守っていたカリスヴェルの叫び声が、戦場に響く。
戦神の指示が飛ぶ。
「四年前、わしが穿った傷が左胸にある! そこだけ鱗が再生していない!」
ハルカは傷ついた身体を引きずり、剣を杖代わりにして、ゆっくりと、けれど確かに起き上がった。
北部前線で潜り抜けてきた、死の気配。
けれど今は、恐怖はなかった。
降り注ぐアリアの歌声が、彼を優しく包み込み、傷ついた身体を癒やす治癒の力を与えている。
光の中で、ハルカは父の最期を思い出した。
四年前、父も同じように、家族を守るためにボロボロになりながら、それでも最後まで立ち続けたのだ。
――走れ!ハルカ!
でも今度は、逃げるためじゃない。
守るために、前へ!!
「……僕は、もう逃げない」
ハルカは血を拭うと、アリアの歌声に背中を押されるように、父の仇を真っ直ぐに見据えた。
「僕は、もう逃げない!!」
ハルカが再び剣を構えると、その足元に渦巻く青い風が、これまでとは比較にならないほど強大に、烈風となって収束していった。
「――セシル!!」
「わかってるっつーの!!!!」
セシルは雷をさらに一段引き上げ、魔獣の纏う雷属性を限界まで相殺した。
セシルの魔力も限界に近い。
雷撃が完全に封じられ、魔獣が電光の拘束から逃れようと暴れ出す。
今、魔獣の胸の古傷が、完全に無防備に晒された。
ハルカが力強く地を蹴り上げ、跳躍する。
アリアの歌声が、まるで彼の背を押し上げるかのように一段と高く響き渡る。
足元に生まれた風の足場を蹴り、ハルカは空中を駆けた。
ハルカはすべての風の魔力を、両手で握りしめた剣の切っ先へと凝縮していく。
光の御子の聖なる輝きを纏い、青い疾風となったハルカが、魔獣の胸の古傷へとまっすぐに突き刺さった。
深々と、根元まで貫通する剣。
「終わりだ」
魔獣の内側に送り込まれた風の刃が、一気に爆ぜた。内部から肉と骨をズタズタに引き裂かれ、魔獣の巨体がびくりと大きく震える。折れたもう片方の角が地面に落ち、胸から噴き出した黒い瘴気を、セシルの残った魔力の中和反応が完全に焼き尽くした。
ズズン……!!
大地を激しく揺らし、父の仇である獣の王は、ついにその場へ崩れ落ちて動かなくなった。
だが、まだ完全な終わりではなかった。
ハルカはすぐに立ち上がり、血を拭う。
その青い瞳が獰猛に輝いた。走り出したハルカは、まだ数匹残った魔獣を、次の魔獣、そして次の魔獣と倒していく。それはまるで、かつてのカリスヴェルを彷彿とさせるような姿だった。残った魔獣を斬り、領民の退路を守ることで頭がいっぱいだった。
けれどセシルは違った。
セシルだけが、すぐに塔を見上げていた。
城の光が明滅している。アリアの歌が途絶えかけているのだ。
魔獣が一匹、塔の壁を這い上がり出した。
結界の光を嫌がりながらも、確かな殺意を持って、歌の源流である頂上を目指している。
「くそ……ッ!!」
魔力は、もうほとんど残っていない。
背中の傷は塞がったとはいえ、身体の芯は重い。
魔力を使いすぎて限界を超えた頭が、割れるように痛み顔を顰める。
それでも、迷う理由にはならなかった。
「アリア!!」
セシルは走り出した。
頭の中が、どうにかなりそうだった。
ただ、間に合え。
塔の頂上、冷たい夜風が吹き荒れる中、アリアの意識は遠のきかけていた。 空を見上げて、掠れながらも歌い続けていたアリアは、もう立っているのもやっとで、視界は白く霞み、身体はふらついている。
結界の光が瞬き、今にも消えそうだ。
その時だった。
ぬっ…
窓枠に、黒い影が這い上がり、黄色い目が顔を出しアリアをじっと見た。
闇を纏った醜悪な影が、崩れた石の窓枠に這い上がってきたのだ。
ギチリ、と硬い爪が石を噛む音が響く。
濡れたような黒い体躯。
開かれた口から滴る、吐き気を催す腐臭の粘液。
魔獣は、逃げ場のないアリアを獲物と定め、その巨大な鉤爪を振りかぶった。
歌が止まった。
「っ……あ……」
アリアの喉から、震える声が漏れる。
視界の端で、銀色の牙が迫るのが見えた。死の予感に体が凍りつく。
その時。
「――アリア!!」
引き裂くような絶叫が、石塔の空間を突き破った。
ドン!!!
そこに立っていたのは、セシルだった。 雷鳴を使いすぎた代償か、その顔色は死人のように青ざめ、激しい頭痛と吐き気に身体を震わせている。額には青筋が浮き、呼吸は肩で大きく乱れていた。それでも、その紫の瞳だけは、獲物を狙う猛禽のようにギラりと光っている。
「下がれ、アリアッ!!」
セシルが地を蹴った。
魔力は、もう一滴も残っていない。
頼れるのは、剣と、執念だけだ。
魔獣が標的をアリアからセシルに変え、容赦なくその腕を振り下ろす。 鋭利な鉤爪を避けきれず、セシルの額を斜めに切り裂いた。
「ぐっ……!」
鮮血が、整った顔を熱い線となって伝い落ちる。
視界が赤く染まり、脳が激痛で割れそうになる。
胃の中身が逆流しそうなほどの吐き気が襲うが、セシルはそれを奥歯で噛み殺した。 一歩も引けない。庇ったアリアを背後に隠したまま、ジリジリと後退し、ついに壁に背が触れた。
魔獣が再び大きく口を開け、食い殺そうと首を伸ばし、灰色の舌が目に入る。
セシルは、ゾッとするような恐怖を感じてしまった。
セシルは前線で戦う時ですら死を感じたことはなかった。
でも今、初めて感じた死の恐怖。
魔力が切れた自分が肉弾戦で挑む命懸けの勝負。
剣をグッと掴み直した。
恐怖に打ち勝つための叫びをセシルが放つ。
「……うああッ!!」
セシルは震える身体をねじり、渾身の力を剣の切っ先に一点集中させた。 下から突き上げるような、無骨で荒々しい一撃。
剣は魔獣の堅い胸骨を砕き、そのまま心臓を一突きに貫いた。
魔獣の下で、セシルの紫の瞳が光る。
――ズブリ、と嫌な音がして、魔獣がその場に崩れ落ちる。
どさっ。
魔獣の死骸が石床に転がった。
「セシル……ッ!」
アリアが駆け寄ると、セシルは血塗れの剣を投げ捨てた。
無言のまま、アリアの肩を強く、壊れそうなほど力強く抱き寄せる。
息が荒いままに、塔の窓から眼下を見下ろした。
ハルカが、最後の一匹を貫いていた。
次の瞬間、アラヴェル騎士団から地鳴りのような歓声が上がる。
あちこちで鳴り響いていた警鐘の音が、ふっと止まった。
街に、静寂が落ちた。
核の光が、淡い余韻だけを残して静かに落ち着いていく。
それと同時に、アリアの身体を繋ぎ止めていた最後の糸が、ぷつりと切れた。
足元から、一切の力が抜け落ちる。
手すりを掴もうとした手が、空を切った。
「……あ」
膝から崩れ落ちた瞬間、強い力で引き寄せられた。
セシルが滑り込むように膝をつき、アリアの身体を抱きとめていた。
もう、指先一本動かせない。
身体の芯まで冷え切っているのに、セシルの腕の中だけが、ひどく温かかった。
眼下では、まだ鐘の余韻が空気に残っている。
(みんな、無事だといいな)
それだけを思いながら、アリアはゆっくりと目を閉じかけた。
「……アリア?辛いのか?」
焦りを孕んだ、低く震える声。
アリアは薄く目を開けた。
星が瞬く夜空を背に、目の前にひどく険しい顔をしたセシルがいる。
額から流れる血が痛々しい。
アリアは重い腕をどうにか持ち上げ、そっとその傷跡に手を当てた。
「光よ……」
かすれた声で治癒を施そうとするが、セシルがその手首を強く握って止めた。
「やめろ」
「でも……」
「お前が元気で、力が余ってしょうがねぇって時にしろ」
乱暴な言葉遣いとは裏腹に、手首を握る力は痛いくらいに優しかった。
セシルは自分の袖で額の血を乱暴に拭う。
それから、アリアの手を握ったまま、ふらりと顔を伏せた。
そして、そのままアリアの首すじに深く顔を埋める。
「……っ!」
「今は、これだけでいい」
微かに震える声。
セシルは、アリアの鼓動を確かめるように、深く、深く息を吸い込む。
失うかもしれない。
その恐怖で、頭の中が真っ白になった。
理由なんてどうでもよかった。
ただ、塔へ走っていた。
腕の中にいる。
息をしている。
まだ、触れられる。
それだけで、胸の奥が焼けるように痛んだ。
――考えるな。
この熱に、名前をつけたら終わる。
認めた瞬間、きっと自分は、取り返しがつかなくなる。
セシルは固く目を閉じた。
ただ、今だけは。
この夜の、誰も見ていないこの瞬間だけは。
セシルは、壊れ物を扱うような力でアリアを抱きしめた。
その温もりが肌に伝わった瞬間、頭の奥で暴れていた痛みが、ほんの少しだけ遠のいた。
まだ身体は重い。吐き気も残っている。
それでも、腕の中にアリアがいる。
ただそれだけで、息ができた。
(……生きてる)
ドクン……!
アリアの心臓が、大きく跳ねた。
「……私」
かすれた声が、自分でも驚くほど頼りなく響く。
「すごかったでしょ……」
首元にあるセシルの気配が、一瞬だけ揺れた。
「ばか」
ひどく低い声だった。
「……ばか」
もう一度、繰り返す。
その声は怒っているようで、どこか泣いているようにも聞こえた。
アリアは、胸の奥がきゅっと締め付けられるのを感じた。
魔力切れの痛みじゃない。
怪我の痛みでもない。
もっと熱くて、苦しくて、どうしていいか分からない痛みだった。
「ばかって、言った……」
「うるさい」
顔を埋めたままのセシルから、いつもの爽やかな柑橘の香りと、かすかな血の匂いがした。
首筋にかかる熱い吐息。
自分を包み込む、大きくて力強い腕。
ドクン。
ドクン。
心臓の音が、うるさい。
怖かったからだろうか。
セシルが血を流していたからだろうか。
分からない。
ただ、セシルの体温に触れているだけで、息の仕方を忘れたように胸の奥が苦しくなる。
どうしてこんなに痛いのか、熱いのか。
アリアにはまだ、分からなかった。
少しだけ身体が離れて、至近距離で視線が交差する。
紫と青の瞳が、互いを真っ直ぐに見つめ合った。
ごつん、と。
セシルの額と、アリアの額が不器用に触れ合った。
混ざり合う呼吸。
言葉にできない感情が、二人の間に満ちていく。
「……行かねぇと」
まるで、自分自身に言い聞かせるような、ひどく低い声だった。
セシルはアリアの身体を抱き上げた。
驚くほど慎重な手つきで。
驚くほど丁寧に。
羽のように軽い細い身体を両腕でしっかりと支え、立ち上がる。
「降りるぞ」
「……うん」
アリアは抵抗せず、セシルの胸にそっと頬を預けた。
軍服越しに、どくどくと速い鼓動が伝わってくる。
ああ。
この人も、心臓が速い。
怒っているのか。
それとも、別の何かなのか。
アリアには、もう考える力が残っていなかった。
ただ、温かかった。
セシルは塔の階段を降りていく。
その足取りは、来た時よりずっと、ゆっくりだった。
塔から降りると、カリスヴェルとハルカが迎えてくれた。
「……みんな、だいじょうぶ?」
「お前が一番大丈夫じゃねぇよ」
セシルの声が怒っている。
けれど、その腕はひどく慎重だった。
ハルカが近づき、アリアの額に触れる。
「熱はない。でも、かなり力を使ってる」
「……ごめん」
アリアが小さく呟く。
ハルカは首を振った。
「謝ることじゃないよ」
その声は優しかった。
けれど、少しだけ震えていた。
「君が、自分で選んだんだろう?」
アリアは、かすかに笑った。
「……うん」
魔獣との戦いで傷ついた軍服のまま、それでもハルカは、いつもの穏やかな目でアリアを見た。
「君の歌が聞こえてたよ」
「……聞こえてた?」
「うん。ずっと。戦いの間じゅう」
ハルカは少しだけ笑った。
「おかげで、僕は諦めなくて済んだ」
その言葉に、アリアの胸がじんわりと温かくなった。
カリスヴェルが、深く頭を下げた。
「アリア殿」
領主の声は、先ほどまでの豪快さを失っていた。
「この街を救ってくださったこと、心より感謝する」
アリアは驚いて、首を振ろうとした。
けれど、うまく力が入らない。
「君の歌の影響だろう。傷の血が止まっている」
「そんな……私は……」
「君が望んで救ってくれたのだろう」
カリスヴェルは静かに言った。
「ならば、これは君の善意だ。わしはそれに礼を言いたい」
その言葉に、アリアの胸が小さく震えた。
命令ではない。
利用でもない。
善意。
自分で選んだことに、誰かが礼を言ってくれる。
それがこんなにも温かいものだと、アリアは知らなかった。
「領主様の言う通りだよ」
ハルカは、いつもの穏やかな声で言った。
「君は命じられたから歌ったんじゃない。守りたいと思ったから歌ったんだ」
「……私が?」
「うん。君の歌は、君のものだよ」
君の歌は、君のもの。
その言葉が、胸の奥に、静かに落ちていく。
私はずっと、歌わされているのだと思っていた。
国のために。
結界のために。
光の御子だから。
でも。
この街で歌ったのは、違う。
怖かった。
逃げたかった。
それでも、助けたいと思った。
それは、私の意思だった。
■■■
遠くで、ハルカの母が弟妹たちを抱きしめているのが見えた。トアが泣きながら、こちらに手を振っている。
ハルカはそれを見て、優しく目を細めた。
ハルカの父の仇は倒れた。
街は傷ついた。
けれど、生きている。
その事実だけが、夜の冷たい空気の中で、確かな温度を持っていた。
『――ハルカ、よくやったな』
ふいに、夜風に混じって懐かしい声が聞こえた気がした。
ハルカは弾かれたように振り返る。
そこには、誰もいなかった。
静かな闇が広がっているだけだ。
けれど、ハルカの空のように青い瞳から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ハルカ! どうして泣いてるの……?」
アリアが、驚いたように声をかける。
「あれ? 本当だ。なんでだろう……」
ハルカは自分の頬に触れ、不思議そうに呟いた。
けれど、一度あふれ出した涙は止まらなかった。
ボロボロと、止めどなく溢れてくる。
「……!」
ハルカの喉から、抑えきれない嗚咽が漏れた。
その震える背中を見て、カリスヴェルが息を呑む。
四年前、父を失ってからも泣かなかった少年。
母と弟妹たちを守るため、気丈に立ち続けてきた青年。
その彼が、今ようやく、背中を震わせて泣いていた。
カリスヴェルはそっと彼の背中に手を添えた。
「……父さんに、顔向けできますかね」
震えて、掠れた声だった。
「できるに決まっておる……!」
カリスヴェルの声は、低く、温かかった。
ハルカは目を伏せた。
「よくやった。お前は、今日まで本当によくやった」
カリスヴェルは、ハルカの体を力強く、きつく抱きしめた。
それは領主としてではなく、まるで父親のような、温かくて大きな腕だった。
「すみません……止まらなくて……」
ハルカは止まらない涙をどうにかしようと、何度も頬を拭った。
カリスヴェルは、優しいため息をついた。
「泣きなさいハルカ。人は涙を流して、大人になって良いんだ。君は、今こそ泣いていいんだ。よく頑張った」
「……っ!」
ハルカはカリスヴェルの腕に顔を押し当て、くぐもった声で泣いた。
ハルカの母親が歩み寄る。
カリスヴェルはその腕に母親も抱え、母と息子を力強く抱きしめた。
アリアが泣いているハルカを見つめている。
セシルは抱いているアリアを一瞥し、次いでハルカを見つめた。
毎日どれだけ疲れていようとも、剣の素振りを繰り返し、およそ読書など似合わない大きな体で食い入るように魔道書を見てきたハルカの姿を思い出していた。
金持ちの貴族だらけの学園で、ひたすらに励む姿をそばで見てきた。
「お前はすごいやつだよ」
小さく呟いたその声は、夜空へ消えていった。
「……帰ろう」
泣き腫らした目を隠さず、ハルカが言った。
「今日は、城は避難してきた人たちでいっぱいだ。うちで休もう。アリアちゃんも、セシルも」
「俺もかよ」
「君もだよ。かなり魔力を使っただろう」
「別に」
「はいはい」
セシルは面倒くさそうに舌打ちをした。
けれど、セシルはアリアを抱き上げた腕を、最後まで離そうとはしなかった。アリアはその腕の中で、薄く目を閉じる。耳元で、まだ鐘の残響が鳴っているような気がした。
身体は鉛のように重い。
意識も、眠りの底へ沈みかけている。
それなのに、胸の奥だけが、セシルの鼓動をなぞるように熱かった。
ふと視線を上げると、アリアの瞳は自然とセシルの横顔を捉えていた。
どうしてだろう。
何度も見てきたはずの厳しい表情が、今はどうしようもなく気になってしまう。
彼が呼吸をするたび。
喉元が上下するたび。
なぜか、視線を外せなくなる。
名前も形も分からない。
けれど、この冷たい夜の空気に、あまりにも不釣り合いなほど温かな何か。
その小さな灯火は、誰にも気づかれないまま、アリアの胸の奥で静かにまたたき始めていた。




