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デメキン姫と呼ばれた聖女、今日も華麗に逃げ出します! 〜最凶魔術師にいじめられてた私が、なぜか番契約で溺愛されて国へのざまぁも始まりました〜  作者: みょんたま
前編 /  旅路編

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第21話【不穏】冷たい檻の真実 〜6日目の夜:青い春を守る、炎の灯火〜

「わー! アリアちゃん、肌すべすべ!」

「きゃあああ!!!!?」


 露天風呂の外で見張りをしていたハルカが頭を抱える。


 アリアは、念願の温泉に浸かっていた。


 領主様の邸であるアラヴェル城へは、どのみち顔を出すつもりだった。

 帝都へ向かう前に、伝えておくべきこともある。

 そして、何より。

 父が守ったこの街を、もう一度、自分の目で確かめておきたかった。


 海からの夜風が、古い鐘楼をかすかに鳴らしている。

 その音を背中で聞きながら、ハルカはアリアたちの後を追った。


 アラヴェル城に着くと、執事たちが出迎えてくれた。

 湯殿は、この時間だけ貸し切りにしてもらえることになったのだった。


 領主が大理石で整えた露天風呂は、とても趣があった。

 竹で覆われて外からは見えない。けれど、声や音は丸聞こえである。


 バッシャーン!!


 盛大な水しぶきの音とともに、元気な声が響いた。


「みて! アリアちゃん、みて! 僕、泳げるんだよ!」


 外から、ハルカがたまらず叫ぶ。


「お前たち、アリアちゃんに迷惑かけるんじゃないよ! メイア、頼んだよ!」


 一番年長のメイアに声をかけるが、そのメイア自身の甘えた声が聞こえた。


「アリアちゃん! メイが背中洗ってあげるう!」


 ハルカは「こりゃだめだ」と天を仰いだ。


「アリアちゃん!抱っこ抱っこ!」

「きゃあああ!!!!?」


 末っ子のトアが無邪気に抱きついたらしく、叫ぶアリアを見て妹たちの爆笑が弾ける。


「トア! あんたって本当おバブちゃん!」


 その声を聞いて、ハルカは限界を迎えたように眉間に手を当てた。

 隣のセシルは、腕を組んだまま、顔を赤くして地面を睨み続けている。


「……おい、ハルカ」

「何だい」


「お前ん家、やかましすぎんだろ」

「今さらだよ」


「あと、今の会話、俺は聞かなかったことにする」

「そうしてくれると助かるね」


 そしてようやく、湯から上がるころには、アリアの頬もすっかり上気していた。濡れた金髪を隠そうとしたアリアに、ハルカが静かに声をかける。


「アリアちゃん。ここでは安心して髪を出していて大丈夫だ。僕が保証する」

「……本当に?」


「うん。この城では、領主様の目が届く。誰かが君を傷つけるようなことはさせないよ」


 その言葉に、アリアは少しだけ迷い、それから小さく頷いた。ハルカが、全員の髪を順番に乾かしてやっていたその時だった。


 アラヴェル城の広大な石造りの中庭に、重々しい馬の蹄の音が響いた。


 騎士団を引き連れて領地の見回りを終えて戻ってきたその男は、王弟という身分から想像するような、絹や宝石に包まれた貴人ではなかった。


 分厚い獣の毛皮をあしらった外套。

 使い込まれた黒革の鎧。

 腰には、飾り気のない大きな剣。


 肩まで伸びた濃い色の髪は無造作に後ろへ流され、口元から顎にかけては、短く整えられた髭が影を落としている。


 くたびれている。

 けれど、みすぼらしいとは少しも思えなかった。


 広い肩も、岩のような体躯も、そこに立つだけで空気を変える重さがある。セシルのように研ぎ澄まされた美しさでも、ハルカのような風のような軽やかさでもない。


 もっと古く、もっと重い。

 戦場と、領地と、人の命を背負ってきた男の気配だった。


「カリスヴェル様。本日の見回り、ご苦労様でございました」


 駆け寄ってきた家令が手綱を受け取る。

 男――カリスヴェル・エルデスト・ゼノスは、

 分厚い革手袋を外しながら、低い声で答えた。


「ああ。南の街道沿いも、北側の山も異常はなかった」


 短い言葉だった。

 けれど、その声だけで、周囲の者たちの背筋がわずかに伸びる。

 アリアは思わず息を呑んだ。


 この人が、カリスヴェル公領の領主。

 かつて北の戦線で、“炎雷の戦神”と畏れられた王弟

 ――カリスヴェル・エルデスト・ゼノス。


 その大きな手は、貴族が優雅に杯を持つ手ではなかった。剣を握り、馬を御し、人を守るために血と土にまみれてきた手だった。


「街の灯りはどうだ」


「はい。いつも通り、つつがなく。領民たちも皆、家路についております」


「そうか。……ならいい」


 厳格な戦士の顔だった。

 けれど、ハルカを見つけた瞬間、その顔が綻んだ。

 視線の先に立つ青年を認めた瞬間、鷹のように鋭い眼差しが、深い森の静けさへと溶けていく。


「……ハルカか」


 地を這うような、重く低い声だった。


 カリスヴェルはゆっくりと歩み寄り、ハルカの前に立つ。並ぶと、その体格差は歴然だった。帝都では長身で大人びて見えるハルカだが、分厚い熊のようなこの男の前に立つと、まだ線の細い少年のように映る。


「お久しぶりです、カリスヴェル様。ご健勝そうで何より――」


 ハルカが帝都仕込みの洗練された礼をとろうとした瞬間、丸太のような太い腕が、有無を言わさず青年を抱きすくめた。


「っ……!」

「よく帰った。少しは男の顔になったな」


 決して声を張り上げているわけではない。

だが、腹の底に響くような深く温かい声と、分厚い胸板から伝わる圧倒的な大人の男の体温に、ハルカが被っていた余裕の仮面があっけなく崩れた。


「……く、苦しいです、カリスヴェル様。鎧が、肋骨に……」

「はっは。ひ弱な魔術師め」


 カリスヴェルは小さく喉を鳴らして笑い、ハルカの肩を無骨な掌でばんばんと叩いた。その一撃ごとに、ハルカの体が木の葉のようにぐらぐらと揺れる。


「先ほど、お前の家に寄ってきた。見回りのついでのつもりだったが……アーシャに……母上に唐揚げを馳走になってしまってな。相変わらず、母上の飯は温かくて美味かった」


 どこか気恥ずかしそうに目を伏せる大男の姿に、ハルカは小さく息を吐いて苦笑した。


「カリスヴェル様、母のことになると相変わらずですね。後で、領主様がご無事でお戻りになったと伝えておきます」

「うむ。……頼む」


 不器用で誠実なやり取り。

その声は、領主が領民を気遣うものにしては、あまりにも優しすぎた。アリアは不思議に思ったが、何も言えなかった。


 次に、カリスヴェルの灰色の瞳がセシルへと向けられる。


「……で。そちらで露骨に嫌な顔をしているのは、セシル殿だな」


 ぎくりと、セシルの肩が跳ねた。


「お、王弟殿下にあられましては、大変お元気そうで――」

「何が王弟殿下よ。末端すぎて忘れられておるわ。

さぁ固い挨拶は抜きだ。帝都で抱き上げた時はあんなに小さかったというのに、随分と背が伸びた。

だが……生意気な目つきはあの頃のままだな」


 カリスヴェルが大きな掌で、セシルの頭をわしゃわしゃと無造作に撫で回す。


「なっ……やめ、俺はもう子供じゃ――!」


「いくら魔力量が帝国一だろうが、俺から見ればお前たちなど等しくひよっこだ。しっかり食べて、しっかり寝ろ」


 抵抗しようとするセシルを赤子のようにあしらい、カリスヴェルは低く笑った。王族とは思えない豪快さと、有無を言わさぬ分厚い包容力。


 アリアがぽかんとその光景を見上げていると、不意にカリスヴェルと目が合った。


「……そちらの娘は?」


 その瞬間、カリスヴェルの纏う空気が微かに変わった。歴戦の戦士としての、鋭い嗅覚。ただの街娘ではないことなど、一目で見抜いている目だった。


「僕の……いえ。僕たちの、大切な連れです」


 ハルカが、すっとアリアを背に庇うように動く。カリスヴェルはじっとハルカの目を見つめ、それからアリアへと視線を移した。


「……そうか」


 カリスヴェルは静かに一歩下がり、まるで高位の姫君に接するかのように、重厚な鎧を鳴らして深く頭を下げた。


「我がアラヴェルへようこそ、小さき客人。このカリスヴェルの庇護下にある限り、何人たりとも貴女の髪一本傷つけることは許さん。ゆっくり羽を休められるといい」


 その言葉には、決して揺るがない大地のようなどっしりとした重みがあった。アリアは思わず、ぽうっと頬を赤くして頷くことしかできなかった。ハルカが少しだけ悔しそうに、けれどどこか嬉しそうにカリスヴェルを見上げていた。


 カリスヴェルは一瞬だけ、何かを思い出すように目を細めた。だがすぐに、いつもの豪快な顔に戻った。


「?」


 アリアが首を傾げると、カリスヴェルはすぐにいつもの豪快な顔に戻った。


「ここは帝都やエデンとは違う趣があると思わないか!」


 華やかさはない。

 綺麗な飾りもシャンデリアもない。

 だけどどこか清らかさや優しさを感じる。


 アリアは気づいた。

 エデンやこれまでソリストとして招待されてきた貴族の屋敷と違って、厳重な結界がないことに。それなのに、屋敷の周りだけは空気が少し澄んでいる。


「アラヴェルの街には、エデンみたいな結界はないの?」


 アリアがふと尋ねると、カリスヴェルは少しだけ目を細めた。


「あるにはある。この城の周囲に、古の結界がな。だが、街全体を覆えるほど強いものではない」

「エデンにあるような術式を帝都から取り寄せれば、もっと強い防壁も張れるんじゃないの?」


 アリアが不思議そうに言うと、カリスヴェルは苦笑した。


「セシル殿の前で言うのも気が引けるがな」

「……何だよ」


 セシルが片眉を上げる。

 カリスヴェルは、少しだけ声を落とした。


「フォイエルシュタイン家の術式、とくにサーネルカ殿の手が入ったものは、たしかに優秀だ。強い。美しい。帝都の連中がありがたがるのも分かる」


 そこで一度、言葉を切る。


「だが、あれは守るだけではない。何を閉じ込め、何を見張り、誰の手元へ情報を返すのか分からん」


 アリアの背筋が、ぞくりと冷えた。


 エデンの白い外壁。

 窓枠にはめられていた楔。

 外へ出ようとすると弾かれる、あの見えない壁。


 あれは、自分を守っていたのではなかったのか。

 それとも、守るふりをして、閉じ込めていたのか。


 セシルが「ふ」と小さく息を吐いた。

 けれど次に口を開いた時、その声はいつもの乱暴なものではなかった。

 帝都の社交場で使うような、冷ややかで整った声音だった。


「……ご慧眼です、カリスヴェル卿」


 アリアは思わず、セシルを見た。


「帝都の連中は、あれを“防壁術式”と呼びたがる。外敵から守るための、ありがたい壁だと」


 セシルは皮肉げに口の端を上げる。


「だが、本質は違う。守るための壁ではなく、管理するための檻です」


 その言葉に、アリアの胸が冷たくなる。


 檻。


 その一文字が、やけにはっきりと耳に残った。

 セシルは続けた。


「サーネルカの術式は美しすぎる。だから厄介なんです。美しいものほど、人は疑うことを忘れる」


 一拍置いて、彼はさらに声を落とした。


「しかも、あの手の檻には必ず鍵がある」

「鍵……?」


 アリアが思わず呟く。

 セシルは、冷ややかに目を細めた。


「開けるための鍵じゃなく。閉じ込めるものを、好きな時に開け閉めするための鍵だ」


 一拍置いて、彼は低く続ける。


「問題は、その鍵を誰が独占しているか、だ」


 鍵。


 アリアは無意識に、自分の手を握りしめた。

 カリスヴェルは静かに頷いた。


「だから、わしはこの村にあれを入れなかった。守るために檻を買うくらいなら、多少不便でも、古い結界と自分の剣を選ぶ」


「……領主様らしいね」


 ハルカが小さく笑った。

 カリスヴェルは豪快に肩をすくめる。


「疑い深いだけだ。年を取るとな、綺麗すぎるものほど信用できなくなる」


 その言葉に、アリアは何も言えなかった。


 綺麗な白い壁。

 清らかな部屋。

 花の香りのする廊下。

 光の御子を守るための、美しい箱庭。


 ずっと守られているのだと思っていた場所が、急に別のものに見えた。


 カリスヴェルは、アリアの姿を見下ろし、ふと目を細めた。


「……そうだ。客人への歓迎の印に、この地の民族衣装を贈らせてくれ」


「え……! そんな! 申し訳ないです!」


 アリアは慌てて手を振ったが、威厳のある低い声のまま、彼はふっと父親のような温かい笑みを浮かべた。


「むさ苦しい男どもの後に隠れているより、若い娘には華やかなものが似合う。それに、この地の衣を着ていれば街にも馴染むだろう。……おい、手の空いている者たち。この娘に似合う仕度をしてやってくれ」


 領主のその重みのある、けれど優しい一声で、あれよあれよと話が進み――。


 湯上がりのアリアは、そのまま別室へと連れて行かれ、民族衣装に袖を通すことになった。


「まあ、アリア様! スカートは赤にしましょう! そして上のブラウスはもちろん白! 金髪に映えますわぁ」


 アラヴェル城のメイドが、目を輝かせる。

 妹たちも負けていない。


「アリアちゃん、このリボン可愛いよ! つけてみて!」

「こっちのレースも!」

「もっとこっち向いて! すごい、かわいい!」


 きゃっきゃと騒ぎながら、アリアはあっという間に改造されていった。


 村で用意された衣装は、御子が着る神聖な衣装とはまるで違っていた。


 白い刺繍ブラウス。

 赤い花刺繍のスカート。

 黒いコルセット風のエプロン。


 どこか素朴で、それでいて華やかだった。

 最後に、水色のリボンを編み込まれた三つ編みへ、レースでできた可愛らしい飾りをカチューシャのように結ぶ。


 鏡の中の自分は、御子ではなく、祝祭に招かれた村娘のようだった。


 アリアは頬を熱くした。

 こんな格好、セシルに見られたら、絶対に何か言われる。

 そう思っただけで、胸の奥がそわそわと騒いだ。


 廊下に出されたアリアは、あまりの恥ずかしさに顔を真っ赤にしていた。


 その頃。

 男たちの湯殿のすぐ外にある薄暗い回廊で、ハルカはカリスヴェルと真剣な面持ちで話し込んでいた。


 「北部前線は、そんなに厳しいのか」


 領主であるカリスヴェルの静かな問いかけから、その話は始まった。ハルカの口から語られる、彼自身が身を投じてきた北部前線での熾烈な戦いの報告。そして、これから彼らが向かわねばならない、先の読めない帝都での儀式について。


 若くして死地を潜り抜けてきた青年の重い言葉を、かつて戦神と謳われたカリスヴェルは一言も聞き逃さないように、真剣な瞳で聞いていた。


 やがて、冷たい夜風が回廊を通り抜け、ふっと二人の間に沈黙が落ちた時。


 ハルカは意を決したように、静かに、けれど切実な響きを帯びた声で切り出した。


 ――もし自分に万が一のことがあった時の、残される家族のこと。


 16歳から4年間。

帝都の学園の魔道騎士過程で、魔術と武術を学んできた。そして今年度から実戦過程に入った途端に、準騎士として戦場へ派遣された。北部の崩壊も原因だが、日々魔獣を相手に戦うことは、自分が思っていたよりも命懸けの現場だったのだ。


 静かに、けれど切実な響きを帯びたハルカの言葉に、カリスヴェルは険しい顔のまま深く頷き、はっきりと言い放った。


「当たり前だろう。万が一の時は、この俺に任せておけ」


 その声は決して大きくはなかったが、大地に根を張る大樹のように力強く、揺るぎない重みがあった。


「お前の家族は俺の領民であり、俺が守るべき大切な者たちだ。帝都で何が起きようと、このアラヴェルには指一本触れさせん。お前はただ、自分の成すべきことだけに集中しろ」


「……本当に、ありがとうございます」


 深く頭を下げるハルカの背中を、カリスヴェルの大きな手が一度だけ強く叩いた。


 どん、と重い音が響く。

 それだけで、言葉よりも確かな励ましが伝わった。


「必ず生き延びて、また母上の飯を食いに帰ってこい」

「はい!」


 その光景を。

 セシルは少し離れた回廊の暗がりに背を預け、腕を組んだまま黙って見つめていた。


 紫の瞳に映るのは、少しだけ痛そうに顔を顰めながら、それでもどこか安堵したように笑う親友の姿。


(……同い年、か)


 自分と同じ、二十歳。あと二年の学生期間を与えられているとはいえ、大人とも言える年齢。


 カリスヴェルと対峙する今のハルカの横顔は、青臭い学生のそれではない。

 すでに家族の命と暮らしを背負い、大切なものを自らの手で守り抜く覚悟を決めた男の顔だった。


 セシルは小さく鼻を鳴らし、視線を夜の庭へと外す。


 決して口には出さないが、その瞳の奥には、親友に対する確かな敬意と、どこか眩しすぎるものを見るような複雑な光が揺れていた。


 部屋から出てきたアリアを見て、ハルカはいつもの穏やかな笑みに戻る。


「うわぁ! 似合ってるよ、アリアちゃん!」


 真っ直ぐな称賛に、アリアの頬は林檎のように赤く染まった。


 一方で、壁に背を預けていたセシルは、その光景をじっと見つめていた。


「……案外サマになってんじゃねぇか」


 鼻で笑って誤魔化す。

 けれど、胸の奥では、得体の知れない苛立ちがじりじりと燻っていた。


 自分の知らない場所で、自分の知らない顔を見せるアリア。

 そして、それを家族のように当然の顔で受け入れているハルカたち。


 その光景が、なぜかひどく面白くなかった。

 セシルの指先から、ばちりと紫の火花が漏れる。


「おぉ〜! 綺麗だねぇ!」

「本当、お人形さんみたい!」


 集まってきた使用人たちが、あまりの可憐さに声を上げる。

 ハルカは少し焦ったように、アリアの前に割って入った。


「はーいはいはい! みなさん、鑑賞会は今日はもう終わりですよ! さぁアリアちゃん、はい、くるっと回ってぇ! はい拍手!」


 ハルカの掛け声に、一同がわっと拍手する。


「はい、おしまーい! 解散! アリアちゃんはもう寝る時間だからね!」

「えー!」

「ハルカ、ケチ臭いぞ!」


 巻き起こるブーイングを爽やかな笑顔で受け流しながら、ハルカは背後でアリアを凝視しているセシルを鋭く見とがめた。


「セシル。君もあんまりジロジロ見ちゃダメだよ。教育に悪いからね。ほら、その紫の目もバチバチさせないの」


「……っ、うるせぇ! この世話焼きジジイが!」


 その時、ハルカの足元にしがみついていた末っ子のトアが、セシルを指差して無邪気に声を上げた。


「ねぇニイニ! セシルお兄ちゃん、さっきからアリアちゃんのこと、ずぅっと見てるよ!魔獣みたいに!


アリアちゃんを見るな! えっち!!!」


「トア……!」


 ハルカはゆっくりと、完璧な「お兄ちゃん」の笑顔でセシルとトアを振り返る。


「よく言ったね、トア! セシル。君、うちの五歳児にまで『獲物を見つけた目』って言われてるじゃないか。不純な視線は厳禁だよ」


「……見てねぇっつってんだろ! 殺すぞ!」


 図星を突かれたセシルの咆哮とともに、放電された魔力が、その場にいた全員の髪をびりびりと逆立たせた。わっと笑い声が弾ける中、セシルはバツが悪そうに顔を背けた。


 そんな中、ハルカの妹が結んでくれたアリアの三つ編みのリボンが、少し緩んで解けそうになっていた。

 それに気づいたセシルは、ぶっきらぼうに手を伸ばし、アリアの肩に触れてそのリボンを掴んだ。


「おいデメキン。じっとしてろ。リボンが解けかかって――」


「……さわるな、えっち?」


 アリアは小首を傾げ、先ほどのトアの真似をして、上目遣いでそう言ってみた。

 悪気はまったくない。

 ただ、さっきの言葉の響きが少し面白かったから、覚えたてのご挨拶感覚で試してみただけだ。


 しかし。

 その破壊力は、セシルにとって致死量だった。


「――ッッ!!?」


 セシルの動きが、ぴたりと止まる。

 ぼんっ! と音が聞こえそうなほど、彼の顔が首の根元から耳の先まで一瞬にして真っ赤に染め上がった。


「お、おまっ……! な、なに言って……ッ」

「え?」


 普段の憎まれ口も、威圧感もゼロ。

 ただただ限界まで動揺して後ずさるセシルを見て、アリアは「あ、怒らせちゃったかな」と慌てて手を振った。


「ご、ごめんね? 言ってみただけなの。そんなに怒るとは思ってなくって、えーっと、そういう意味じゃなくって……」


「そういう意味じゃなくて何なんだよ!! くそっ、お前マジでふざけんな……ッ!!」


 セシルは真っ赤な顔を両手で覆い、その場にしゃがみ込んでしまった。

 彼の中では、先ほどの夕暮れ時に「思わず首筋にキスしてしまった」という特大のやらかしの記憶が、鮮明に残っているのだ。


 アリアの「えっち」という言葉は、見事にその罪悪感と羞恥心を抉り出していた。


「ぶっ……!!」


 そして、そのすべてを理解している男が一人。

 少し離れた場所で様子を見ていたハルカが、ついに耐えきれずに吹き出した。


「あーっはっはっはっは!! ひぃーっ、お腹痛い!! セシル、君、顔っ……! 最高傑作だよその顔!!」


「てめぇハルカ! 笑うな殺すぞ!!」


「む、無理だ……っ、アリアちゃん天才すぎる……っ!」


 腹を抱えて床を転げ回るハルカと、顔から火を出して悶絶するセシル。アリアだけが「???」と頭に疑問符を浮かべながら、不思議そうに二人を見下ろしていた。


 こんなふうに、誰かに囲まれて笑う夜が、自分に訪れるなんて思っていなかった。エデンの白い部屋では、一度も知らなかった温かさだった。


 その騒ぎから少し離れた場所で。

領主カリスヴェルは、眩しそうに三人の若者たちを見つめていた。


 かつて、同じ場所で。

自分と、ハルカの父、そしてその妻となる前のアーシャが、同じようにはしゃいでいた日々が、確かにそこにあった。


「……存分に青春を謳歌してくれ。若者たちよ」


 無骨な大男がぽつりとこぼしたその優しい言葉は、誰の耳に届くこともなく、明るい笑い声の中に静かに溶けて消えていった。


 ぱちぱちと爆ぜる、カリスヴェルの魔法の灯り。

その優しくも力強い炎のもとで、三人はすっかり安心しきっていた。


 


 その時、夜の境界線が、どろりと歪んだ。

 

 響いたのは、咆哮ではない。

どさ、どさ、と重い肉塊が、領主邸を囲む森に次々と降り立つ、不吉な地鳴り。


 カリスヴェルが誇る「古い結界」のすぐ外側を、闇と同化した巨躯たちが、逃げ場のない檻のように包囲していく。楽しげな笑い声を嘲笑うかのように、闇の中で、巨大な口が静かに開かれた。


 だが、この中にいる誰もまだ知らない。


 数時間後、深い闇の中でこの美しい灯火の街が





 ――生きたまま喰われようとしていることを。




今夜もお読みいただきありがとうございます!

明日も21時に更新予定です。リアクションや感想、ブクマなどいただけると励みになります(^ ^)いつもありがとうございます(^ ^)


今回はとにかくカリスヴェルの大人でダークなかっこよさを出したかった!今までずっと強い強い言うてた2人も、強いだけでなく責任感を持って日々領地を守る仕事をしている領主様の前ではまだまだヒヨッコです(^ ^)

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