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デメキン姫と呼ばれた聖女、今日も華麗に逃げ出します! 〜最凶魔術師にいじめられてた私が、なぜか番契約で溺愛されて国へのざまぁも始まりました〜  作者: みょんたま
前編 /  旅路編

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第20話【故郷】 風の魔術師は、打順が組めるほどの女たらしだった件 〜6日目の夕方:ハルカの家〜

 夕闇が迫るころ。

 一行はハルカの故郷に到着した。

 アリアは街に入る前に、ハルカの帽子を目深に被り、その中にツインテールを仕舞い込んだ。


 そこは、王弟カリスヴェル・エルデスト・ゼノスが治める公領の南端に位置する、海辺の古い街。


 ――旧市街、アラヴェル。


 手紙こそ時々送っていたが、彼が実際にこの地へ帰ってくるのは三ヶ月ぶりのことだ。


 ハルカは立ち止まり、深く息を吸って街並みを眺めた。

 潮風の通る石畳の道と、白い壁の家々。遠くで古い鐘楼の音が響く街。


 何度か深呼吸を繰り返したハルカは、髪を解いた。

 海の風がハルカの髪を撫でるようにすいた。


「きれい……」


 思わず呟くと、ハルカが少しだけ目を細めた。


「そうだろう? 古い街だけど、僕はここが好きなんだ」


 その声は、いつもの軽やかなものより少し柔らかかった。


 ハルカが自分の故郷を見ている。

 そう思った瞬間、アリアは胸の奥が不思議に温かくなるのを感じた。


 やがて、坂道の先に立つ古い街灯に、ぽつりと火が灯った。


 一つ。また一つ。

 誰かが見えない指先で街の輪郭をなぞっているかのように、石畳の通りに沿って火が連なっていく。


 橙色の灯りは風に揺れることなく、硝子の内側で静かに燃えた。


 それは、ただ夜を照らす火ではなかった。


 海へ向かう坂道も、古い家の窓辺も、店先に並べられた果物も、通りを走る子どもの髪も、すべてを優しく包み込んでいく。


「カリスヴェル様の火だよ」


 馬のすぐそばを歩いていた老婆が、連れの子どもにそう言った。

 子どもがぱっと顔を上げる。


「今日も灯った!」

「毎日灯るさ。あのお方が、この街を見捨てることはないもの」


 老婆の声には、畏れよりも親しみがあった。

 アリアはその言葉に、そっと街灯を見つめた。


「カリスヴェル様……?」

「この公領の領主だよ」


 ハルカが答える。


「炎と雷を扱う魔術師で、北方では“炎雷の戦神”なんて呼ばれてる。まあ、本人はその呼び名、あまり好きじゃないけどね」


「戦神……」


 炎と雷。


 急かすことも、脅かすこともなく、ただ家へ帰る人々の足元を照らしている。

 街灯は次々と灯っていく。


 坂の上から海へ。海からまた、丘の上へ。

 橙色の光は街の血管のように巡り、夕闇の中でカリスヴェル公領を浮かび上がらせていった。


 アリアはその景色を見つめながら、胸の奥で思う。


 誰かを守るために灯る火がある。

 誰かが帰る場所を照らす力がある。


 そんな当たり前のことを、アリアは初めて知った気がした。


「……素敵な街だね」


 ぽつりとこぼすと、ハルカが窓の外を見たまま、少しだけ照れたように笑った。


「ありがとう」


 その横顔は、いつもの風のような余裕をまとった魔術師ではなく、ただ自分の家へ帰ってきた青年のものだった。


「おいハルカ! 随分いい男になりやがって」


 街の人々は、ハルカを見ると優しく声をかけてきた。

 坂を上がる漁師たちが足を止める。


「昔はよく洗濯物を海まで飛ばして、婆さまにシバかれてたのになぁ」

「……昼寝の邪魔をした彼らが悪いんだよ」


 ハルカは苦笑した。

 帝都で見せる仮面とは違う、少し幼い顔だ。


「ミラは結婚したぞ。お前に振られて三日三晩泣いてたがな。あ、その前のテレサもエリーゼも、みんな幸せにやってるぜ」


 次々と出る名前に、ハルカを隠れ蓑にしていたアリアが硬直した。


「……ハルカ、そんなにたくさんいたの?」


「誤解しないで。僕は二股なんて不誠実な真似は一度もしてないよ」

「間髪入れずに次の球を投げてただけだろ。打順が組めるほど女を泣かせてきた自覚を持て」


 セシルが横から吐き捨てる。

 ハルカは、最高の微笑みでセシルとアリアを見た。


「……経験が豊富なのは、最後に誰かを最高に幸せにするための予習だったってことで、どうかな?」


 一瞬の間を置いて、セシルが首をぽきりと鳴らした。


「あんま響いてこねーわ」

「手厳しいね、セシルは」


「私、よくわかんない」

「だよね」


 ハルカは苦笑する。


「ハルカって……大人だったんだね」

「う〜ん。君が思っているよりは、たぶん?」


「節操なしなんだよこいつは!」

「……まあ、昔ちょっと荒れてた時があったのさ。若かったんだよ」


「今も若ぇだろ」

「気持ちの話だよ。あの頃は、まだ子どもだったんだ」


「今は違うの?」

「今は……少なくとも、君みたいな子を気まぐれに口説くほど、馬鹿じゃないつもりだよ」


 アリアは、なぜか少しだけ胸がしゅんとした。

 ハルカに女の子として見られていなかったことが、寂しいのか。それとも、ほっとしたのか。自分でも分からなかった。


 けれど横を見ると、セシルがひどく不機嫌な顔をしていた。


「……何見てんだよ」

「見てない」


「見てただろ」

「見てないもん」


「お前、ああいうのが好みなのか」

「ああいうの?」


「……女にだらしねぇやつ」

 アリアは思わず目を瞬かせた。

 セシルの耳が、ほんの少し赤かった。


 ■■■


 程なく、ハルカの家に到着した。


「いいかい、君たち」


 扉の前で、ハルカが足を止めた。

 いつもの軽い笑みはない。

 今まで見たこともないほど、真剣な顔だった。


「ここから先は、覚悟を決めるんだ」


 アリアは思わず息を呑んだ。


 敵がいるのだろうか。罠だろうか。

 それとも、ハルカがそこまで警戒するほどの何かが、この家の中にあるのだろうか。


 セシルだけは、なぜかうんざりした顔をしていた。


「……ああ。来るぞ」

「来るって、何が――」


 アリアが聞き返すより早く、ハルカが扉を開けた。


 中は、思ったよりも広い食堂だった。


 大きな木のテーブル。

 少し古びた椅子。

 壁際には薪が積まれ、奥の台所では母親らしき女性が大鍋をかき混ぜている。


 そして、テーブルの周りには、三歳から十六歳くらいまでの子どもたちが六人。六人とも青い瞳で、髪はは薄い茶色か黒色。みんなはるかにどこか似ている。


 一瞬、しん、と静まり返った。

 ハルカがにっこり笑う。


「……ただいま!」


 その瞬間、戦争が始まった。


「にいに!!」

「にいちゃん、おかえり!」

「おかえりおかえりおかえり!」

「抱っこして! 私から抱っこして!」

「にいちゃん、剣すっごく上達したから見て! 今すぐ見て!」

「お土産は!?」

「今回はいつまでいるの!?」


 子どもたちが一斉にハルカへ飛びかかる。


「ぐっ……! 待って、順番! 順番にしようか! にいちゃんは一人しかいないんだから!」


 ハルカは笑顔のまま押しつぶされていた。


 アリアは呆然と立ち尽くす。


 あの、いつも余裕そうに笑っているハルカが。

 帝都で誰よりも涼しい顔をしていたハルカが。


 今、子どもたちに外套を引っ張られ、髪をぐしゃぐしゃにされ、完全に負けている。


「……ハルカって、こういう顔もするのね」


 ぽつりと呟くと、セシルが鼻で笑った。


「昔からだ。ここじゃ、あいつはただの便利な兄貴だ」

「便利な兄貴……」


「おい、聞こえてるよセシル!」

 子どもたちに埋もれたまま、ハルカが抗議する。

 けれど、その声には怒りなど一つも混じっていなかった。


「ほら、みんな。お客様だよ。まずは挨拶」

「えー!」

「えー、じゃない」


 ハルカが一人ずつ子どもたちの肩を押さえながら、なんとか並ばせる。


「上の三人がメイア、ミア、マイア。あそこにいるのがコニカとリドルで、そこの小さいのがトア」

「今、ミアとマイア逆だった!」

「にいに、また間違えた!」


「……ほらね。覚悟が必要だって言っただろ」

 ハルカは額を押さえた。

 その時だった。

 優しそうな空色の瞳に、ふわふわの栗色の髪。

 華奢だけれど背の高い女性が奥の台所から女性が顔を出した。


「まあまあ、賑やかだこと。ハルカ、おかえりなさい」


「ただいま、母さん」


 ハルカの声が、少しだけ柔らかくなった。

 アリアはその響きに、胸の奥がきゅっとした。


 母さん。


 それは、エデンにはなかった言葉だった。

 そして、私を捨てた人の名前だった……。


 ハルカの母は、にこにこと笑いながら、ハルカの後ろに立っているアリアへ目を向けた。


「それで、この子が?」


「ああ。今回、僕たちが帝都まで護衛している子だよ。事情があって、あまり目立たせたくないんだ」


「そう」


 母親はそれ以上、深くは尋ねなかった。

 ただ、アリアへ向き直り、優しく微笑む。


「遠いところをよく来てくれたわね」


 アリアは慌てて帽子を取り、流れ落ちた髪をいそいそと整えた。

 右足を少し後ろに引き、背筋を伸ばしたまま、膝を軽く曲げる。


 エデンで何度も教え込まれた、聖女としての挨拶だった。


「アリア・ブランシュ・メイフィールドです。ハルカさんとセシルさんに助けていただいて、ここまで来ました。よろしくお願いします」


「まあまあ、なんて可愛い子!」


 母親は両手を合わせ、嬉しそうに笑った。


「そんなにかしこまらなくていいのよ。ここでは、ただのアリアちゃんでいてちょうだい」


 その言葉に、アリアは一瞬だけ目を見開いた。


 ただの、アリア。

 その響きが、胸の奥にやわらかく落ちる。


「髪、きれい!」


 髪を見た途端、子どもたちが一斉にアリアの周りへ集まった。


 櫛とリボンを持ってきた妹たちは、ハルカの制止も聞かず、あっという間にアリアの髪を二本の三つ編みにしてしまう。

 鏡の中には、御子でも祭壇の歌姫でもない、どこかの家に遊びに来た普通の女の子みたいな自分がいた。


「……変なの」


 そう呟いた声は、少しだけ笑っていた。


 少し離れた場所で、セシルが腕を組んだまま見ていた。


「……警戒心なさすぎだろ」


 そう吐き捨てた声は不機嫌だった。

 けれど、子どもたちに囲まれて戸惑いながら笑うアリアから、目を逸らそうとはしなかった。


「セシル様も、ようこそおいでくださいました。狭い家ですけど、ゆっくりなさってくださいねぇ」


 母親が改めて、にこにこと頭を下げる。

 すると、セシルが一歩前に出た。


 背筋を伸ばし、いつもの不機嫌そうな顔を完全に消し去って、信じられないほど整った貴公子の微笑を浮かべる。


「お母様。いつもハルカくんには大変お世話になっております。これは、ほんのお礼です」


 セシルが、綺麗な紙で包まれた菓子の箱を差し出した。

 その箱は、前の町で、珍しくセシルが吟味して買い、潰れないように注意して持ち歩いていたお菓子だった。


 アリアは仰天してセシルを見上げた。


 誰。

 今の誰。


 あまりにも完璧なよそ行きの顔に、背筋がぞわっとする。


「まあまあ、セシル様ったら。いつもご丁寧にありがとうございます」


「いえ。ハルカくんには、日頃から助けられておりますので」


「ハルカくん……」


 アリアは思わず小さく繰り返した。

 セシルの眉がぴくりと動く。


 次の瞬間、完璧だった微笑がすっと消えた。


「おい、デメキン。突っ立ってんな」


「えっ」


「お母様を手伝え。人数が多いんだ。手はいくらあっても足りねぇ」


「あ、はい!」


「セシル、君の切り替え、怖いんだけど」


「うるせぇ、ハルカくん」


「やめて。君にその呼び方されると気持ち悪い」


 母親はころころと笑った。


「まあ、助かるわ。正直、人数が多くて大変なのよ。一人でも増えるとありがたいわぁ」


 アリアは慌てて台所へ向かった。


 エデンでは、食事はいつも運ばれてくるものだった。


 白い皿。

 決められた分量。

 音のない食堂。


 誰かと鍋を覗き込みながら、湯気の向こうで笑い合うことなんて、一度もなかった。


「アリアちゃん、これをお願いできる?」


「はい!」


 差し出された木の匙を受け取る。

 大鍋からは、肉と野菜の匂いがした。


 温かい匂い。

 人が生きている匂い。


 背後では、まだハルカの戦争が続いている。


「メイア……じゃない、ミア! そこで服を脱がない!」

「暑いんだもん!」

「コニカ、暖炉を見てきてくれる? トア、外の薪を手伝って。こら! にいにの剣を勝手に抜かない。危ないから」

「にいに、これ本物?」

「本物だから触るなって言ってるんだよ!」

「にいちゃん、剣見て!」

「あとで! あとで見るから!」

「お土産!」

「ある! あるから、まず座って!」


 夕食の支度がひと段落し、子どもたちがようやく席につき、嵐のような食事が始まった。


 大皿に盛られた肉と野菜の煮込み。

 山のように積み上げられた、揚げたての鶏肉。


 子どもたちは我先にと手を伸ばし、あちこちで「僕の肉だ!」「にいに、お代わり!」と賑やかな声が飛び交っている。


 そんな大混乱の食卓の片隅で。

 セシルだけは一人、信じられないほど優雅に食事を進めていた。


 騒ぐ子どもたちには目もくれず、背筋をピンと伸ばし、両手で美しく輝く銀のナイフとフォークを操っている。

 そもそもこの家にそんなカトラリーがあったのか、それともマイ・フォークを持参しているのかは謎だ。


「お母様。本当に美味しいです。特にこの唐揚げは絶品ですね」


 完璧な貴公子の微笑みを浮かべ、フォークに刺した大きな唐揚げを口に運ぼうとした――その瞬間だった。


 横からぬっと顔を出した小さな影が、セシルのフォークの先から見事なフェイントで唐揚げをぱくりと咥え取った。


「……は?」


 もぐもぐと唐揚げを頬張る、一番下の子のトア。

 空になったフォークを持ったまま、セシルが完全にフリーズした。


 次の瞬間、セシルの指先で青白い雷がばちばちばちっ!! と危険な音を立てて激しく弾け始める。


「テメェ……ッ! 万死に値するぞクソガキ!!」


「セシル! ストップストップ!! 相手は五歳児だから! 頼むから雷はしまって!!」


 ハルカが慌ててトアを庇うが、セシルの凶悪な殺気は全く収まらない。


「知るか! 俺の唐揚げだぞ!! 一番いい形の一番美味そうなやつを残しておいたってのに!!」


 しかし、そんな一触即発の空気を、台所から戻ってきた母親がふわりと打ち消した。


「あらあら、トアったらはしたない。でも大丈夫ですよ、セシル様。お肉はまだたくさん揚がってますからねぇ」


 どさっ。


 母親が、セシルの皿の上に山盛りの揚げたて唐揚げを笑顔で追加した。


「ささ、遠慮せずにいっぱい食べてくださいな」


「…………」


 セシルは一瞬だけ青筋を立ててトアを睨みつけていたが、すぅっと深呼吸をすると、指先の雷をしゅんっと消滅させた。


 そして、居住まいを正し、再び完璧な貴公子の微笑みを貼り付ける。


「……失礼いたしました、お母様。ありがたく頂戴いたします」


「セシル、君のその切り替え、本当にどういう情緒の構造してるの……?」


 呆れ果てたハルカのツッコミに、アリアは思わず「ふふっ」と吹き出してしまった。


 うるさくて、温かくて、忙しくて。

 誰かが誰かの名前を間違えて、誰かが笑って、誰かが怒って、誰かの唐揚げが奪われる。


 これが、家族。

 エデンの白い部屋には、一度もなかったもの。


 アリアは自分の取り皿のスープを飲みながら、小さく息を吸った。


 湯気の向こうで、ハルカが子どもたちにもみくちゃにされている。

 その顔は、帝都で見たどんな顔よりも、少しだけ幼く見えた。


 ■■■


 食事が中盤に差し掛かったころだった。

 アリアは、ふと食卓の端にある空いた椅子に気づいた。


 他の椅子より少し大きく、けれど誰もそこには座っていない。


「……ハルカのお父さんは、今日はお留守なんですか?」


 何気なく尋ねた瞬間、食堂の空気がほんの少しだけ静かになった。


 母親が手を止める。

 ハルカも、子どもたちに取り分けていた皿を持ったまま、一瞬だけ動きを止めた。


 アリアは、聞いてはいけないことを聞いてしまったのだと悟った。


「……ご、ごめんなさい。私……」


「いいのよ」


 母親が、ふっと寂しそうに微笑んだ。


「あの子の父親はね、四年前に天国へ帰ったの」


「え……」


「村の近くに、大きな魔獣が出たの。あの人は、村人たちを逃がすために最後まで残って……」


 母親の声は穏やかだった。けれど、その奥にある悲しみは、湯気の向こうでも分かった。


「私が一人でこの子たちをどう育てていけばいいのか、途方に暮れていた時に……ここの領主であるカリスヴェル様が助けてくださったの」


 母親は、遠くを見るような優しい目をした。


「領主様が、ハルカの魔法の才能を見出してくださってね。『この子には帝都で学ぶ権利がある』と、王立の魔術学園への推薦状を書いて、学費まで工面してくださったのよ」


「魔術学園へ……」


「ええ。ハルカは、今度こそ守れる強い人間になるって言って……帝都で懸命に勉強して、魔術師としてあんなに立派に仕事をしているの」


 母親はハルカを見た。


「自慢の息子だわ」


 ハルカは困ったように笑って、視線を逸らした。


「母さん、そういうのはやめてよ。食事がしにくい」


「本当のことでしょう?」


 母親は微笑んだ。


 けれど、ハルカの笑みはいつものものとは少し違った。

 どこか苦いものを噛み潰したような、痛みを押し込めた顔だった。


「……四年前のあの時、僕はもう、風の魔法が使えたんだ」


 ぽつりと落ちた声に、食卓が静かになる。


「小さな風の壁くらいなら張れた。物を浮かせることもできた。子どもにしては、よくできる方だったと思う」


 ハルカは、自分の手を見下ろした。


「でも、父さんが魔獣の前に立った時、僕は何もできなかった」


 アリアは息を呑んだ。


「逃げろと言われて、逃げた。母さんと弟妹たちを連れて走った。それが正しかったのは分かってる」


 ハルカは笑った。

 笑ったのに、その青い瞳は少しも笑っていなかった。


「でも、振り返った時、父さんはまだ戦っていた。僕は風の魔法が使えたのに、父さんが死んでいくのを、ただ見ていることしかできなかった」


 誰も、何も言わなかった。


「戻って、戦うことを、しなかったのさ」


 子どもたちでさえ、パンを持つ手を止めていた。


「だから、家を出たんだ」


 ハルカは静かに続けた。


「強くなりたかった。今度こそ、逃げるだけじゃなくて、守れる人間になりたかったんだよね」


 母親が、そっと目を伏せる。


「でもハルカ、あなたはそれからよくやってくれているわ。私が泣いていた時ですら、あなたは泣かずに家族を支えてくれた」


 アリアは、弟妹たちにパンを配るハルカの広い背中を見つめた。


「……次に同じことが起きたら、僕はもう逃げない」


 ハルカが、静かに言った。


「今度は、守れる側に立つ」


 食卓が、ほんの少しだけ静かになる。

 セシルが、面倒くさそうに鼻を鳴らした。


「ふん。俺がいるんだ。負けるわけねぇだろ」


 ハルカは一瞬だけ目を丸くして、それから小さく笑った。


「……セシル」


「なんだよ」


「君のそういうところ、嫌いじゃないよ」


「気持ち悪ぃ言い方すんな」


「照れてる?」


「照れてねぇ」


 ハルカが、からかうようにセシルの肩を軽く組んだ。


「うわっ、バカやめろ。スープがこぼれるだろ!」


「トアも、セシルだーいすき!!」


 トアが椅子から大ジャンプして、セシルにしがみつく。


「やめろっつってんだろ!!」


「あはは!!」


 さっきまで張り詰めていた食卓に、少しずつ笑い声が戻っていく。

 アリアは、その光景を見つめた。


 いつも完璧で、優しくて、弱音なんて吐かない彼。

 その背中の奥にも、ずっと消えない夜があるのだと、初めて知った。


 ■■■


 怒涛の夕食時間が終わり、アリアはハルカの横に立って皿を拭いていた。


「ねぇ! アリア! お風呂に行こう!!」


 ハルカの妹たちが、タオルを抱えてドタバタと駆け込んでくる。


「領主様のお城に温泉があるの!」

「領地民はただで入れるんだよ!」

「アリアも行こ!」


「温泉……?」


 アリアがぽかんと目を瞬かせた瞬間、食後のコーヒーを飲んでいたセシルが、露骨に眉をひそめた。


「待て。こんな町中で髪を出したら、どうなるか目に見えてる。やめと――」


「行ってきまぁす!!」


 バタン!


 妹たちは、アリアの手を引いて嵐のように飛び出していった。


「チッ」


 セシルがカップを置く。


「あはは! セシルでも妹たちには勝てないよ。僕ですら手を焼いてるからね」


 ハルカは苦笑しながら、エプロンを外した。


「母さーん! ちょっと護衛で外に出るよ!」


「はいはい。領主様によろしくねぇ」


 台所から母親ののんびりした声が返ってくる。


「メイア! アリアちゃんの髪はちゃんと隠してあげるのよ!」


「はーい!」


「……絶対聞いてねぇな」


 セシルが低く吐き捨てる。

 ハルカは慌てて自分の軍帽を持って走り出した。


「行こう、セシル。ここで置いていかれたら、僕たち護衛失格だ」


「誰のせいだよ」


 二人は慌ただしく、少女たちの後を追いかけた。








 その頃。

 暗闇の中で、いくつもの黄色い瞳がぎょろりと光った。

 音もなく、静かに。


 確かな殺意を持った闇が、平和な街へと迫っていた――。

今夜もお読みいただきありがとうございます。前編/旅路編の完結まであと4話。旅路編が終われば、ついに帝都へ入ります。クライマックスへ向けて頑張ります!


いいねやブクマ、ありがとうございます( ; ; )

本当に嬉しいです!ブクマ頂いているにも関わらず、これまでupした話に誤字脱字が多く、それを修正すると同時に一部加筆もしております( ; ; )(内容は一緒です!)


リアクションや、☆☆☆☆☆を★★★★★に変えていただけると、執筆の励みになります^^

感想、ご指摘、ブクマも大歓迎です!

よろしくお願いします!


※ハルカの故郷は日本で言いますと、千葉とか、横浜的な位置ですー!

色々と悩みながら書いてます。。。例えばもっと描写したいんですよね。長めに。でも見にくいかなぁと悩んだり。。。景色とか、料理とか、気持ちの描写を入れまくると、途端に2万字行きそうになるので結局あっさり描写。

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