第19話【素直】無意識のキスを落としたのは、誰。~6日目の朝:その感情に、名前をつけてはならない〜
「我らがデメキン姫、さらに出目金魚になってるぞ」
翌朝。腫れた瞼を見たセシルは、開口一番そう言った。おまけに、通りすがりにアリアの髪を指で引っ張ってくる。今日は街道から外れた野営地で、周囲に人目もない。だからアリアは、あの重い帽子を被っていなかった。顔周りに柔らかな後れ毛を残し、耳の下あたりで緩くまとめられたふたつ結び。そこから太ももの半ばまで、ゆるやかなウェーブを描くハチミツ色の髪が、豊かに垂れ下がっている。
ハルカは髪を結びながら、何度も「綺麗だね」と言ってくれた。優しい人だから、きっと何度でもそう言ってくれるのだと思った。
それなのに。
「お前、今日はデメキンじゃなくてクラゲだな!」
アリアは無言でそれを無視した。
「セシル」
ハルカが割って入り、無言でセシルを見つめて首を振る。
「てめーは俺の兄貴にでもなったつもりかよ」
「ふ。学年は同じでも、十一ヶ月僕が早く生まれているからねぇ。その分のリーチは確かに兄といえるね」
「うっぜ〜〜〜お前昨日からマジでうぜえ」
「お兄ちゃんがお仕置きしてあげましょうかねぇ」
「ぐえええ、やめろバカ!」
ハルカがセシルを後ろから羽交い締めにすると、セシルは本気で苦しみだした。
「わかってるよねぇ、僕が言いたいことぉ〜〜」
「ギブ! ギブギブ!! わかったわかった!!!」
二人が戯れ合っている横で、アリアの胸の中には、昨夜テント越しに聞いた彼の声が、冷たい棘のように残っていた。
『面倒くせぇ』
自分は、彼らにとってただ運ばれるだけの面倒な荷物なのだ。だからこそ、これ以上迷惑をかけたくない。自分の足で生きていくという気持ちが、アリアの中でこれまでになく強く芽生えていた。そのためにも、一人で馬に乗れるようにならなくちゃいけない。
セシルが自分の黒馬の前に立ち、当然のように顎で「乗れ」としゃくった時だった。
アリアはふるふると首を横に振り、一歩後ずさる。
「……私、今日も自分で乗る練習する」
変わりたいから。私も、強くなりたいから。
ハルカは少しだけ驚いたように目を瞬かせたが、すぐに「いい心意気だね」と優しく自分の馬を引いてきてくれた。
一方、当然のように乗車拒否されたセシルは、面白くなさそうに鼻を鳴らす。
「まーた手が震えてんじゃねぇか」
「放っておいて」
「あ? お前なんだよ昨日から。態度悪いぞ」
「関係ないでしょ」
かくして、ハルカの親身な指導のもと、アリアの自立へ向けた乗馬練習が始まった。
アリアはひとりで手綱を握りしめながら、少しだけ得意げな息を吐く。
「……ねぇ、私乗れたわ!前より早く歩いてる!」
馬の横を歩くハルカが、眩しいものを見るように目を細めた。
「ああ、とても上手だ。手綱の引き方も丁寧だし。このまま僕のペースに合わせてごらん」
「うん。ハルカが横にいてくれると、なんだか安心――」
ハルカの横なら安心。
その一言が、セシルの胸の奥に妙な火を点けた。
「――は? ハルカ、お前教え方ぬるすぎ。そんなお散歩気分でいつ走れんの?」
不機嫌さを隠そうともしない声が、空気を割った。アリアの肩がびくりと跳ねる。いつの間にか、背後までセシルの黒馬が迫っていた。そこに跨るセシルは、長い脚を持て余すように揺らしながら、心底つまらなそうに特大の舌打ちをする。
「今から走るわ。走る練習もする。」
「……ちんたら練習してる暇なんてねーっつの」
「セシル?」
黒馬が、アリアの乗る馬の真横にぴたりと並んだ。
「来い」
「え」
言うが早いか、長い腕が伸びてきた。
「えっ!? ちょっと、まさか――」
抵抗する間もなかった。アリアの身体は腰からひょいと攫われ、宙に浮き、次の瞬間にはセシルの乗る黒馬の鞍の上――彼の腕の中へとすっぽり収められていた。
曲芸のような強奪。
アリアの脳裏に、数日前の暴走乗馬事件が蘇る。あの時も、乗馬練習をしていたらセシルがキレたのだった。
「ちょっと、何!? まさかまた!?」
「前より手際いいだろ」
「褒めてない!」
「俺が直接教えてやる。スパルタだぞ。感謝しろよな」
あまりに強引なセシルの振る舞いに、ハルカがすっと目を細めた。いつもの柔らかな笑みが消え、静かに、けれど底冷えするような声が響く。
「セシル。怯えているじゃないか。……あまり野蛮な真似は感心しないな。彼女を下ろせ」
しかし、セシルは悪びれる様子もなく「はぁ?」と鼻で笑った。
「怯えてねーし。こいつがトロいから俺が手伝ってやってんだろ。……行くぞ」
「待っ――」
セシルが手綱を鋭く鳴らすと、黒馬が風のように駆け出した。
「ひっ……!」
一気に景色がすっ飛んでいく。凄まじい風に煽られ、アリアのふたつに結ばれた髪が黄金の波となって宙に舞う。不規則に大きく跳ねる馬の揺れが、容赦なくアリアの身体をセシルの胸元へ押し付けた。
「こ、怖い……っ! セシル! 落ちるっ!」
「落ちるわけねーだろ。俺が抱いてんだから。お前バカ?」
悪態をつきながらも、アリアの腰に回された腕は、絶対に逃がさないと言わんばかりにがっちりと力を込めている。パニックになりかけるアリアの耳元で、ふいに声のトーンが一段低く落ちた。
「放すなよ」
さっきまでの生意気さが消え、息が詰まるような男の声になる。背後からすっぽりと覆い被さる体勢で、逃げ場を完全に奪うように腕が食い込んだ。
「てゆーか、別に馬なんて乗れなくてもいんじゃね?」
「え!? なに、風で聞こえない!」
「……っ、俺が乗せてやるって言ってんだよ! はいや!!」
「きゃあぁぁっ!!」
照れ隠しのように馬の腹を蹴り、セシルは思い切り駆け抜けた。安全で優しいハルカの隣にいた時とは、まるで違う。乱暴で、息ができなくて、怖くて――けれど背中から伝わる彼の心音と体温に、身体の奥底が微かに疼くような熱い感覚を覚えてしまう。
アリアはぎゅっと目を閉じた。
私だって、自分で乗れるようになりたいのに。
『面倒くせぇ』
昨夜の冷たい言葉が頭の中に蘇り、悔しさと怖さと揺れで、アリアの目からぽろぽろと涙が溢れた。
「セシル!! 何やってるんだ! アリアちゃん泣いてるじゃないか!!」
凄まじい速度で追いついてきたハルカの怒声に、セシルが肩を揺らした。
「!」
どうどう、と慌てて黒馬を止める。
「ちょ、おま、なに。何も泣くことねーだろ」
「……っ、ひくっ」
「セーシールー。だから言っただろう。おいでアリアちゃん、怖かったね」
ハルカは手を伸ばしたが、それに先立つようにセシルは先に馬から飛び降りて鞍の上のアリアの腰をひょいと掴んで地面に下ろした。ぐすん、と鼻をすするアリアが、着地するなりセシルから距離を取って、きっと睨みつけようとした――その時だった。
「痛っ……!」
「おわっ、馬鹿、動くな!」
アリアの頭がぐんっと後ろに引っ張られ、思わずセシルの胸元へ引き戻される。
見ると、風で激しく舞っていた後れ毛が、セシルの軍服の硬い銀ボタンに複雑に絡みついていた。
「ちょっと、引っ張らないでよ! 痛い!」
「お前が動いたからだろ! 動くなっつってんだろ、千切れるぞ」
セシルは黒手袋を口でうっとおしそうに引き抜き、それをくわえたまま、魔術の構築に使う細い指先で、絡まった髪を解こうと格闘し始めた。けれど、アリアの髪はあまりにも細く、柔らかい。不器用なセシルの指ではうまく解けず、数秒後には苛立ちが限界に達したらしい。
「あー!クソッ、イライラすんな!」
ぶちっ。
「えっ!?」
鈍い音とともに、アリアは目を丸くした。セシルはあろうことか、絡まった自分の軍服の銀ボタンを力任せに引きちぎったのだ。結果として、セシルの軍服のボタンがアリアの髪にぶら下がったまま残されてしまった。
「な、何して……!」
「後で取ってやる! 先に馬止める!!」
セシルは馬を止め直し、鞄を下ろすと、奥をごそごそと漁り始めた。そしてずんずん近づいてくると、呆然とするアリアの頬をむにっと掴み、口の中に何かをぽいぽい放り込んだ。
「……機嫌直せ」
「むぐ!?」
舌の上に、苺のような甘酸っぱい味が広がった。
「ひゃいほれ?(なにこれ?)」
「飴玉だよ。女は甘いものが好きだろ」
セシルはカラカラと小さな缶を鳴らし、アリアの手に押し付けた。可愛らしい苺の絵が描いてある小さな缶だった。
「……ひひほ?(いいの?)」
「機嫌、直ったか?」
「へ?」
「怒ってたんだろ? 昨日も泣いてたし。機嫌直せ、これで」
視界の端で、ハルカが少し離れたところからセシルに合図を送っている。「もっとだ、もっと言葉を足せ」とでも言うように、首を左右に振り、指をくるくると回していた。
「あー、くそ。……あれだ。俺は、楽しかったんだよ。お前、面白い反応するし。つい調子乗って、からかいすぎた。かも知れない。……謝る。悪かったな」
ぶっきらぼうにそっぽを向きながら言うセシルの耳が、ほんの少しだけ赤い。テント越しに『面倒くせぇ』と吐き捨てていた彼からの、あまりにも不器用すぎる謝罪だった。
…楽しい?面倒なだけじゃ、ないのかな。
アリアは、丸い苺の飴を舌の上で転がした。乱暴で、口が悪くて、デリカシーなんて欠片もない。けれど、落ちそうになれば必ず太い腕を回して支えてくれた。火傷をすれば、不格好な包帯を巻いてくれた。そして今、泣かせてしまったからと、自分にはまったく似合わない可愛らしい苺の飴を差し出している。
「涙、止まったかよ、デメキン」
いつもなら腹が立つ呼び方だった。けれど、その声があまりに低く、困ったように優しかったから、アリアは言い返す言葉を失った。
アリアはこくんと頷いた。
「……なんか言えよ」
気まずそうに急かすセシルに、アリアは小さく息を吐いた。完全に許したわけではない。昨夜知ってしまった残酷な真実と、彼への不信感が綺麗に消えたわけでもない。それでも、この甘い苺の味を拒絶して、今すぐ一人で逃げ出してしまうには――彼らからもらった温もりは、どうしても手放しがたかった。
「……えっと、私も、叩いてごめんね」
「おう」
「でも、絶対に許したわけじゃないから。次あんなに速く走ったら、本当に馬から突き落とすからね」
「はっ。落とせるもんならやってみろ」
「やるもん。……だから、もう一回乗せて」
アリアの言葉に、セシルは少しだけ目を丸くした。それから、ふっと好戦的に口角を上げる。
「言ったな、デメキン。舌噛んでも知らねぇぞ」
口の中に広がる甘い苺の味に、アリアの胸の奥で、また別の熱がちくりと痛んだ。
そのまま三人は休憩を取ることにした。
道から少し外れた、大きなクヌギの木の下。セシルは嫌がるアリアをあぐらの上に無理やり座らせ、彼女の髪にぶら下がったままの銀ボタンを、今度こそ千切らないように、ちまちまと慎重に解いていた。アリアは「早くしてよ」と言いながらも、ノヴァリア語の本を開いている。
「で? 結局、昨日の夜、剣で何をどうしようって思ったんだよ」
ボタンと格闘しながら、セシルがふと思い出したように言った。
本を捲るアリアの手がぴたりと止まる。隣で地図を見ていたハルカが、苦笑しながら割って入った。
「蒸し返すのやめなよ、セシル。別に君を殺そうとしたわけじゃないさ。ただ……」
「だめ! 言わないで!」
アリアが慌てて声を上げる。
けれど、一拍遅かった。
「髪を切ろうと……あ、ごめん。内緒だった?」
沈黙が落ちた。
「……髪を切りたかっただァ!?」
セシルの怒声に近い驚きが、木々の間に響き渡った。
アリアは顔を真っ赤にして、本をぎゅっと握る。
「ち、違うの! 違わないけど、でも、その……!」
「お前、あの長剣で髪を切ろうとしてたのかよ」
セシルは信じられないものを見るような顔をした。それから、こらえきれないといった風に肩を揺らし、腹を抱えて笑い出す。
「馬鹿じゃねぇの!? あれは魔獣の首を骨ごと叩き落とすための重剣だぞ!? 床屋のハサミじゃねぇんだよ!」
「う、うるさい! だって、刃物なんてそれしかなかったんだもん!」
「だからって長剣かよ。雑すぎんだろ。お前みたいなトロいのがそんなもん振り回してみろ、髪どころか耳ごと落としてたぞ」
「落とさないわよ!」
「まあまあ」とハルカがなだめる。
「セシル、笑いすぎだよ。アリアちゃんは、それくらい切羽詰まってたんだから」
「切羽詰まって長剣ってのが、一番やべぇっつってんだよ」
セシルはまだ面白そうに鼻を鳴らしていた。けれど、ふと。指先で格闘しているアリアの髪が、微かに震えていることに気づいた。アリアが俯いたまま、ふたつに結ばれた長い髪の先を、白くなるほど強く握りしめていたのだ。
「……目立つんだもん」
ボタンを解いていたセシルの指先が、ぴたりと止まる。
「この髪があるから、すぐに見つかる。どこにいたって、『御子』だって分かっちゃう。逃げてるってことも」
アリアは髪を握る指に、さらに力を込めた。その指先は細く、頼りなく震えている。
「おばあちゃんが昔、私の髪を一度だけ切ってくれたことがあるの。男の子みたいに短くして、布を巻いて、隠してくれた。……私を守ろうとしてくれた」
風が、三人の間を静かに通り抜けた。
「だから、私も……これを切ったら、少しは楽になれるかなって。ただの女の子になれるかなって、思ったの」
セシルは黙った。さっきまでの茶化すような笑みは、もう欠片も残っていない。
ハルカも、何も言わずにアリアを見守っていた。
「こんな髪……なければよかったのに」
自嘲気味に吐き捨てられた、その言葉。
その瞬間、セシルの指先が、再び静かに動き始めた。決して千切らないように。痛ませないように。
彼女の細い金糸を、不器用ながらも一生懸命に解いていく。
「……切んなよ」
地を這うような、低い声だった。
アリアは弾かれたように顔を上げる。
「え?」
「切んな」
もう一度、念を押すように言う。
「お前の勝手だろうが何だろうが……今は、絶対に切るな」
「……なんで」
アリアの声は、かすかに震えていた。
セシルは一瞬だけ気まずそうに視線を逸らすと、ボタンに絡みついた最後の一房を、するりと優しく解き放った。
「綺麗なんだから」
ころん、と。アリアの髪から解放された銀ボタンが、セシルの大きな手のひらへ落ちた。
時間が止まった。
アリアは何を言われたのか理解できず、ただ大きく目を見開いてセシルを見つめる。
ハルカも、驚いたように目を丸くしていた。
「……セシル?」
「何だよ」
「今、ものすごく素直なことを言ったね。明日は槍でも降るかな」
「……黙れ」
セシルは不機嫌そうにそっぽを向き、手のひらのボタンをポケットに突っ込んだ。
けれど、ワックスで上げられた銀髪の隙間から覗く耳の先が、隠しようもないほど赤く染まっている。
「別に褒めてねぇ。ただの事実を言っただけだ」
「それを世間一般では『褒めてる』って言うんだよ、セシル」
「るせぇ、殺すぞ」
アリアは、ついさっきまでボタンが絡まっていた自分の髪を、そっと見下ろした。
ハルカにも、綺麗だとは言われた。何度も、優しく。
けれど、セシルのそれは違った。
慰めるための言葉でも、気遣いでもなく。照れ隠しでも、冗談でもなく。ただ、口からこぼれてしまった事実みたいに聞こえた。
ずっと嫌いだった。目立つから。隠さなければならないから。自分が御子だと、どこにいても知られてしまうから。でもセシルは、その髪を「綺麗だ」と言った。祭壇に捧げるための印ではなく、ただ、私の髪として。
「……変なの」
アリアは小さく呟いた。
「あ? 何がだよ」
「セシルが、そんなこと言うなんて」
「二度と言わねぇから安心しろ」
「ほんとに?」
「ほんとだ」
「じゃあ……今の、ちゃんと覚えておくね」
「忘れろっつってんだろ!」
ハルカが横で、心底楽しそうに肩を揺らした。
「いやぁ、いい休憩だねぇ。お腹も心もいっぱいだよ」
「どこがだ! 行くぞ、時間の無駄だ!」
セシルは乱暴に立ち上がり、逃げるように黒馬の方へ歩いていく。
その、どこか落ち着きのない背中を見送りながら、アリアはもう一度、自分の髪に触れた。
切りたい、と思っていた。今でも、怖くなればそう思うかもしれない。
けれど、今はまだ、このままでいいかもしれない。
「綺麗だ」と言ってくれた誰かの言葉が、髪の先に熱を持って残っているような気がして。
アリアはほんの少しだけ、この不自由な金色の髪を、愛おしく思った。
「ごめんね、お待たせ……どうしたの?」
無邪気に笑って駆け寄ってくるアリアを見つめながら、セシルはポケットの中の銀ボタンを、血が滲むほど強く握りしめていた。
「なんでもねぇ」
そう言って、いつもなら先にアリアを乗せてから自分も跨るところを、今日は抱き上げたまま、一緒に黒馬へ乗り上げた。すっぽりと腕の中に収まったアリアが、少し振り返って下から上目遣いに見つめてくる。
「ねぇ、どうしたの?」
宝石のような青い瞳が、無邪気に覗き込んでくる。
馬の上で、お互いに見つめ合う。あまりにも至近距離なのに、どちらもすぐには顔を離さなかった。
「セシル?」
形の良い桃色の唇が、自分の名前をかたどって動く。
馬が何かを察知して、足踏みした。そのせいでアリアが少しバランスを崩し、すかさずセシルが腕を添えて引き上げる。
さらに、顔が近づいた。
首筋から、いい匂いがする。
そう思った瞬間。そう、思ってしまった、その瞬間。
ごつん!!!
セシルの頭突きが炸裂した。
「……いったーい!!! 何すんのよ!!!」
「……前見ろ、デメキン。行くぞ」
「何よ! もうっ!」
アリアはぷりぷりと前を向いた。
セシルは手綱を握り直す。
『綺麗だ』と肯定した。その美しい姿のまま、自分はこの少女を、帝都の祭壇へと引き渡さなければならない。
作戦は変えられない。早く進めば、明日には帝都だ。すぐに儀式をして、それで終わらせればいい。任務を遂行するだけだ。
誕生日まで、あと四日。
帝都まで、あと一日。
残酷なタイムリミットまで、あとわずか。
三人の歪で優しい旅の終わりが、すぐそこまで迫っていた。
■■■
そうして、さらに馬を走らせ続けた後のこと。
茜色に染まり始めた夕暮れの街道。一定のリズムで揺れる黒馬の背で、アリアはこくり、こくりと船を漕ぎ始めていた。
「……無防備すぎんだろ」
呆れたように小さくため息をつきつつも、セシルは彼女の頭が安定するよう、そっと自分の腕を枕代わりに寄せてやった。すると、アリアはまるで甘える猫のようにすりすりとその腕に頬を擦り寄せ、完全に寝息を立て始める。普段のセシルなら「起きろデメキン!」と容赦なく叩き起こすところだが、今日ばかりはどうしてもそれができなかった。
傾いた頭から、長い髪がふわりとこぼれ落ちる。
そこから無防備に覗く、白く細い首筋。
トク、トクと微かに脈打つ柔らかな肌から、なぜか目が離せなくなる。
周りの音が、一切聞こえなくなった。
吸い寄せられるような、完全な無意識。
セシルは何かに魅入られたように前屈みになって――
顔を首筋に寄せ――
その匂いを吸い込みため息をついた――
そして、そっと、その首筋に、唇を落とした。
ちゅ……。
パァンっ!!
「っっっっだぁ!?!?」
突然、セシルの頬に強烈な平手打ちが炸裂した。いきなりの痛みに声にならない叫びを上げ、手綱を取り落としかける。
「んん……あ、ごめんね。変な虫がいたの……」
「む、し……っ!?」
目をこすりながらむにゃむにゃと呟いたアリアは、セシルの言葉を待たず、再びすっと深い眠りへ落ちていった。完全なる寝ぼけ眼の、無自覚な一撃だった。
じんじんと痺れる頬を押さえながら、セシルは完全に固まる。
(――ッッ、くそ!俺は今、何して……!?)
遅れてやってきた事の重大さに、羞恥と混乱で顔を一気に沸騰させ、セシルは声なき声で天を仰いだ。
一方、少し後ろを馬で進んでいたハルカは、その一部始終を特等席で目撃していた。
(ぶっ……!!むし!!!!)
必死に口元を覆い、肩を震わせて笑いを噛み殺す。もちろん、セシルが振り返った時には「何も見ていない爽やかな顔」を作る準備は完璧だ。
(あーあ。
帝都に着いて彼女を手放すまで、その感情に名前がつかないままの方が、お互いのためなのに。
てゆーか、もしや名前がつく前に体が先走っちゃったとか!?)
予想外すぎるセシルの暴走と撃沈ぶりに、ハルカは一人、呆れと可笑しさで目を白黒させていた。
馬は進む。
地平線に近づくにつれ、海風の湿り気が冷たさを増してきた。
空はまさに、魔法にかけられたような時間を迎えていた。
夜の帳が空の端からじわりと冷たい影を落とし始めている一方で、沈みかけた太陽が地平線を美しい真紅へと染め上げている。
その中を、鳥の群れが、海へ向かって飛んでいく。
肌を刺すような夕冷えが空気を支配しているのに、視界の先だけが業火に焼かれているかのように熱を帯びていた。美しくて、それでいてどこか突き放すような冷酷さを秘めたその光景に、セシルもハルカも言葉を失う。
ただ、胸の奥で鐘が鳴るような焦燥感だけがあった。
この歪な旅路の終わりを告げるような赤が、これからの未来を予感させるように心をざわつかせる。
セシルは、アリアの寝顔を見た。安心しきって自分に全体重を任せて眠るその無防備な顔に、赤い光がさす。どんどん太陽が沈み、長いまつ毛の影が伸びる。また近づきたい焦燥に駆られ、目をそらす。
頭の中で、セシルの傷を癒そうとする少女が歌い出す。
雷を制御できなかった時。
自分がわがままを言って無理に指を握らせた時。
セシルを思って歌った少女の歌は、
夕焼けには切なすぎる歌声だった。
こんな旅になるだなんて、
出発した頃は思ってもみなかった。
ただ、運んで、歌わせる。
それだけのはずだった。
それなのに。
今の3人には、確かなものなどない。
何も、ないのだ。
自分の気持ちにすら、名前をつけることができないままに旅を進める。
セシルは人生で初めて、明日が怖いと思った。
それでも、今日のこの景色を一生忘れたくないと思った。
その一方で、軍人として、貴族としての自分は歩みを止めない。
熱と冷たさの狭間で、ようやくハルカの故郷の輪郭が浮かび上がってきた。
――この街を越えれば、すぐそこは、
帝都・ゼノスレガリアだ。
あと5話で前編終了です!もう描き切ってるので、毎晩更新していきたいと思います!
あー、ハルカが好きすぎて色々迷いながら書いてます!
今日の夕暮れは、自分が学生時代に友達と見た夕焼けを思い出しながら書きました。
まだ若かったあの頃は、夕焼けを見て変な焦燥感を覚えたものです。友人と話しながら、帰るあの道がとても好きで、絶対に忘れたくないなと思っていたのに、しばらく忘れてました。
リアクション、ブックマーク、感想などいただけましたら大変嬉しいです(^ ^)




