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デメキン姫と呼ばれた聖女、今日も華麗に逃げ出します! 〜最凶魔術師にいじめられてた私が、なぜか番契約で溺愛されて国へのざまぁも始まりました〜  作者: みょんたま
前編 /  旅路編

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第18話【鈍感娘】君が僕の腕の中から出たくないって言うなら、話は別だけどね?〜5日目の朝:初めての花束と涙〜

 夜更け。

 交代で見張りをしていたハルカは、アリアの毛布がずれていることに気づいた。


 アリアは、溢れる涙と泣いている顔を見られたくなくて、毛布を顔の半分まで引き上げたまま眠ったのだ。そのせいで、細く白い足先が、冷たい夜気にさらされている。


 ハルカは、アリアの背中を見る。

 小さく、細い、無防備な女の子。

 何も知らないまま、安心して眠っている姿。


「……風邪を引くよ」


 小さく呟き、ハルカはそっと毛布を足元まで掛け直した。

 その仕草を、少し離れた場所で、腕を組んだセシルが黙って見ていた。


「……過保護」

「君に言われたくないね」


 二人は小声で言い合い、それきり黙った。


 ―――


 翌朝。

 夜の名残を含んだ空気は冷たく、濡れた草の匂いがする。


 アリアはテントから這い出し、眩しそうに目を細めて一生懸命に空を眺めた。

 夜明けの空は、夢のように美しい色をしていた。


 深い青の上に、桃色と薄紫の雲が幾重にも広がり、昇りはじめた太陽の光を受けて、雲の縁だけが淡く金色に透けている。

 細かな光の粒が、夜の星の名残みたいに空のあちこちで瞬いていた。


 アリアは、しばらく声も出せずにその空を見上げていた。


 エデンの窓から見ていた、四角い朝焼けの空とは違う。

 高い塀に切り取られていない、どこまでも続く朝焼け。

 昨夜、声を殺して泣きはらした目に、その光は少し眩しかった。


 けれど、その眩しさすら、今はなぜかひどく優しかった。


 少し離れた場所にいたハルカが戻ってきた。

 その大きな手には、小さな白い花が数本、不器用に握られている。


「……それ、どうしたの?」


「近くに咲いてた。帝都では割と高めで売られてる花なんだけど。野に咲いてるだなんてラッキーだ」


 ハルカは少し照れたように笑った。


「本当は、ちゃんとした花を用意できたらよかったんだけどね」

「え?」

「少し早いけど」


 ハルカは、白い花をそっと差し出した。


「誕生日、おめでとう。アリアちゃん」


 アリアは一瞬、意味が分からなかった。

 誕生日は5日後。もうすぐ十八歳になる。

 エデンでは、それは「御子が番契約を結ぶ年齢になる」という意味のおとぎ話の延長でしかなかった。

 誰かに祝われるものだなんて、思ったこともなかった。


「……私に?」

「うん。君に」


 ハルカの声は、朝の空気より優しい。


「このペースで進めばあと2日。早ければ、明日の夜には帝都に着く。そうしたら、僕らの任務は終わりだし。きっと着いたらすぐに儀式で、ゆっくりさよならもできないだろうから」


 あと2日。

 早ければ、明日。


 その言葉は、美しい朝焼けの世界に冷たい現実を突きつけた。

 アリアは、震える手で花を受け取った。


 小さな花。高価なリボンもないし、豪華な花束でもない。

 けれど、胸の奥がじんわりと熱くなった。


 嬉しい、と思った。

 思ってしまった。


 昨夜、この人たちが自分を帝都へ連れて行く理由を聞いてしまったのに。

 逃げる自由があるべきだと話していた声も、結局は任務を捨てられない沈黙も、全部覚えているのに。

 それでも、花を差し出された瞬間だけは、ただの女の子みたいに嬉しかった。


 嬉しくて、でも、心が痛くて。

 アリアは涙を堪えた。


「……ありがとう」


 声が、震えてしまう。


「私、誕生日に花をもらったの、初めて。ありがとう」


 ハルカは一瞬だけ、胸を突かれたような痛そうな顔をした。

 けれど、すぐに笑う。


「じゃあ、初めてをもらえて光栄だね」


 そのやりとりを、少し離れた場所からセシルが見ていた。

 何も言わない。

 ただ、アリアの小さな手の中にある花を見て、なぜか胸の奥がざらりとした。


 アリアはその花を、祈るように大事に握りしめた。


「18歳の誕生日……か」


 ハルカは一人呟いた。そして地面を見て、空をみた。


「どーすべきかねぇ。う〜ん……」


 その独り言は、誰にも聞かれることなく空へ消えていった。


 ―――


 その日、アリアは目に見えて口数少なく過ごした。


(境界線を、ひくのよ)


 今日はハルカの馬に同乗させてもらっていたが、いつもなら背後からセシルと口喧嘩をするか、景色を見てはしゃぐのに、借りたフードを深く被ったまま、丸まった背中でじっと下を向いている。


(――前線じゃ血反吐を吐いて魔物の波を食い止めてるんだ)

(――面倒くせぇ)


 昨夜、毛布の中で聞いたセシルの言葉が、冷たい楔のようにアリアの頭から離れなかったのだ。

 自分がワガママを言えば言うほど、彼らの負担になり、誰かの命が失われる。


 北部前線で戦っている人たちの戦い。

 後継者としての義務、騎士としての責務。

 そして自分は、帝都で身も心も差し出すだけの道具。

 みんなそれぞれが、何かを抱えている。


「おい、出目金」


 不意に、真横に馬を寄せてきたセシルが声をかけてきた。


「なんだよ、朝からしけた顔して。お前、背中が完全に『冬を越せなかった干し芋』みたいになってんぞ」


「……」


「水分も希望も抜けきって、端っこが白くカピカピになってるやつな。なんか悩みか? 言ってみろよ。どうせ『お尻が痛い』とか『馬の揺れで酔った』とか、そんなくだらねぇことだろ」


 あまりにもデリカシーのない、けれど絶妙に的を射ていないシュールなからかいに、アリアは少しだけ目を見開いた。

 が、今日は返事をする気になれなかった。

 空を見上げて、ため息をついて目を閉じた。


「あ? 無視か?」

「ふ。アリアちゃんはついに無視することを覚えたのさ。君より3歳も年下なのに大人だね」


 ハルカが前で吹き出す。

 セシルは意地悪な笑みを浮かべたまま、アリアのフードの端を馬用の短い鞭でちょいちょいと突いた。


「出目金。お前が俺を無視するなんざ二億年は早いわ。おら! 返事しろ出目金! 昨日はリスみたいにムシャムシャ食い散らかしてただろ?!」


 アリアは一瞬、セシルに視線をやったが、すぐに馬の首に視線を戻した。


 何も知らないんだ、この人は。

 私が昨日、全部聞いてしまったことを。そして、帝都で美味しいものを食べる自由なんて、私にはきっともうないということも。


「やめないかセシル。アリアちゃん、今日は本当にどうしたんだい?」


 心配したハルカが馬上で声をかけると、


「……水浴びして、風邪をひいたかもしれない」


 と、小さな声でごまかした。

 ハルカが「それなら次の街に寄って、しっかりお湯につかって寝よう」と提案したが、アリアは首を横に振ってそれも断った。


 ―――


 日が落ちて、焚き火の準備が始まる。

 アリアは馬の横に座り込んでそれを眺めた。


 見上げる空は青いけれど、どこへ行こうと、結局この外の世界もエデンと一緒なのだ。

 ただ、鳥籠が少し大きくなっただけ。

 彼らは私を守る騎士ではなく、帝都という祭壇へ贄を運ぶ看守にすぎない。


 外の世界は美しかった。彼らと話すのは、楽しい気もした。

 けれど、その先にあるのは確実な絶望だ。


(……儀式をする前に、二人から逃げようか)


 顔を寄せてきた馬の頬を撫でながら、アリアは思い悩む。


 いや、ダメだ。

 私が結界の儀式をやらないと、魔物が溢れてみんな死んでしまう。

 前線で血を流している人たちが死ぬ。

 何も知らない村の子どもたちも。リサもトーマスも、みんな死ぬ。


(だったら……儀式をしてからエデンに帰る時に逃げよう)


 そうだ、それがいい。

 そのためには、誰にも頼らず、もっと一人で馬に乗れるようにならなくちゃいけない。生きる術を身につけなくちゃいけない。


 髪も隠さないといけない。

 この眩しすぎる金髪がある限り、人目についたら終わりだ。


 自分ひとりの頭の中で思い悩んでいるうちに、テントの設営が終わり、焚き火と夕食の準備で二人が慌ただしく動き始める。


 ふと視線を落とすと、荷物のそばに立てかけられたハルカの長剣が目に入った。

 美しい装飾の施された鞘に収まった、重く鋭い武器。

 二人は今、背を向けて野営の準備で忙しい。


(……髪を、切ってしまおう)


 アリアは、まるで何かに吸い寄せられるようにふらふらと近づき、こっそりとその剣の柄に手を伸ばした。

 両手で掴み、そっと持ち上げる。


 ずしりと重い。

 けれど、これがあれば、この邪魔な髪を根元から――。


「何してる?」


 背後から、地を這うような低い声が降ってきた。

 ビクッと肩を震わせ、アリアは弾かれたように振り返る。


 セシルが、枯れ枝の束を抱えたまま、冷ややかな紫の瞳でこちらを見下ろしていた。


「……なんでもない」


 アリアが慌てて剣から手を離すと、ガチャン、と鈍い金属音が響いた。

 火を起こしていたハルカも振り返る。自分の剣のすぐそばに立ち尽くすアリアを見て、彼も静かに立ち上がった。


「なんでもなくはないよね」


 ハルカの声はいつも通り優しかったが、その奥には明確な警戒の色が滲んでいた。

 素人が許可なく魔術師の武器に触れるのは、最も危険で不自然な行為だ。


「……ごめんなさい」


 アリアはうつむき、ぎゅっと自分のローブの裾を握りしめた。


「何企んでんだ出目金。やめとけ。お前じゃ俺らは倒せない」


 セシルが一歩近づき、鋭い殺気を孕んだ声で威圧する。

 そのひどい言葉に、アリアは勢いよく顔を上げた。


「違うよ! 本当に、なんでもない……!」

「嘘つけ。剣なんか触って、ただのイタズラなわけねぇだろ」


 さらに詰め寄ろうとするセシルの前に、ハルカがすっと腕を差し出して制止した。


「やめないか、セシル」

「ハルカ、こいつ――」

「いいから」


 ハルカの静かな、けれど有無を言わさない声が、夕暮れの野営地に響いた。

 アリアは逃げるように「先に寝るね」と二人に声をかけ、そそくさと野営のテントに入った。


 ―――


 ハルカからもらった小さな白い花は、すっかり萎れてしまった。

 しばらくそれをじっと見つめて、ノヴァリアの商人からもらった本を開いた。最初のページと最後のページに、丁寧に挟んで押し花にした。


 ポタポタと、涙が本にしみ込んでいく。

 鼻を啜って、ローブを脱ぎ、ハルカの帽子を取った。乱暴に髪をほどき、黄金の束をぎゅっと握る。握りしめる。


 こんな髪、すぐにでも切ってしまいたい。


 おばあちゃんが自分を丸坊主にした時のことを思い出す。

 おばあちゃんは、私を守ろうとしてくれてたんだ。


「おばあちゃん……」


 アリアは震えながらうずくまり、小さな声でえづいた。


「ふ…うぅ…っ」


 その姿を、テントの入口を開けてずっと後ろから見ていたハルカは、耐えきれなくなってアリアに近づいた。


「アリアちゃん……」


 バッと振り向いたアリアの瞳から、滝のように涙が流れていた。


「なんでもない。あっちへ行ってて」

「なんでもなくはないだろう」


「大丈夫」

「泣いてるじゃないか」


「平気。少し疲れただけ」


 アリアは、震える手で鞄の奥から薬瓶を取り出した。


「待ってアリアちゃん。どうしたのか教えてほしい。僕らが何かした?」

「!」


 優しく、でも力強く両方の手首を掴まれたアリアは、ドクドクと警報のように鳴る心臓を止めたくて息が乱れた。


「は、離して、薬、薬飲みたい、飲まなきゃ……」

「息を大きく吸うんだ。大丈夫」


 ふわり、と。

 ハルカが座り込み、アリアの小さな身体を包み込むように両手で抱きしめた。

 そして、過呼吸気味の彼女の背中を、一定のリズムでトントンと叩く。


「大丈夫。大丈夫だよ」


 その決定的な温もりに触れた瞬間、アリアは涙が止まらなくなった。


「何がしたかったの? 教えてくれたら手伝うよ」

「い、言えない。言ったら、怒る」


「大丈夫だよ。セシルを殺したかったのなら僕が殺してあげる。だから教えて?」

「違うよ! ただ、髪を、私は、髪を……」


 そこまで言ってアリアは言葉が詰まった。


「髪?」

「わ、私、髪を切ろうとしただけだよ!」


 ほとんど叫び声に近かった。

 そこからアリアは堰を切ったように泣き出した。

 ずっと張り詰めていた糸が切れた、子どものように。


 ハルカは呆気に取られてアリアを見つめた。

 空色の瞳がさらに美しく冴えて見えた。


「あ、呆れてる! だからっ、言いたくっ、なかったのに!!!」


 アリアは泣きすぎてつっかえながらハルカに抗議した。


「い、いやいや違うよ、ちょっとびっくりしただけで……。だってあれは魔物退治用の長剣だから、まさかあれで髪を切ろうだなんて……」


「ぐす……持ってきて」

「え?」


「今すぐ持ってきて! 理由を話したんだから、良いでしょ!?」

「い、いやいやちょっと待ってアリアちゃん。そもそもその髪は勝手に切って良いの?」


「……だめに決まってるでしょ。聖なる髪なんだから」

「だよね」


「でも私が決めたの!! 切る!! って!!!」

「そうは言ってもだね」


「……やっぱりハルカも、トーマスと一緒なんだね」

「え! トーマスって…まさかあの、エデンにいた執事のジジイかい?」


「うぅっ」


 自分の意思を尊重してくれない大人の態度に絶望し、アリアはまた顔を歪めて泣き出した。


「そ〜れはちょっと心外だなぁ。これでも僕は、君の願いは叶えてあげたいって思ってるんだよ?」

「ほんと?」


「本当」

「じゃあ今すぐ切って」


「え〜〜〜、うーーん……困ったなぁ」

「わ、私は髪も自由にできない……う、ううあああん!!」


「アリアちゃん、君は自由だよ。少なくとも僕の前ではね。ただ、その綺麗な髪を、自由がないからと苛立って切って欲しくないんだ」


「うう!」


 アリアは、ハルカの言葉によって胸の奥で何かがほどけた。

 テントの床に座り込んだハルカの、その長い両足の間に、アリアの小さな身体はすっぽりと収まっていた。


 ハルカは片方の膝をゆったりと立て、そこに肘をついて、彼女が寄りかかりやすい姿勢を作ってくれている。アリアはその厚い胸に顔をぐりぐりと押し付けるようにして、ずっと我慢していた感情を吐き出すように、ひたすら声を上げて泣き続けた。


「うう……っ、ひっ、あぁぁん……っ」


 トントン、と。

 彼女の震える背中を、一定のリズムで叩き続けるハルカの大きな手。


「よしよし……」


 微かに香る石鹸の匂いと、耳に直接伝わってくる規則正しい彼の心音。

 その優しさが、アリアの張り詰めていた心をさらにどろどろに溶かしていく。いつしか、彼が着ている軍服の胸元は、アリアの流す大粒の涙でぐっしょりと濡れ、濃い色に変わっていった。


 その時、ハルカの青い瞳が、ふとテントの入口へ向いた。

 外に、気配がある。足音がテントの前で止まる。


 セシルだ。

 ハルカは気づいたはずなのに、気づかなかったふりをした。

 あるいは――気づいたからこそ。


(君たち2人は、ちょっと学ぶべきだね。男と女が2人きりで狭い空間にいることが、何を意味するのか。)


 ほんの少しだけ声を大きくし、調子を軽くする。


「君は僕の前で自由に望みを言っていいんだよ」


 アリアの背を支えたまま、ハルカはわざと外へ聞こえるように言った。


(反応なしか。もうひと越えいるかな)


「…でも、君が僕の腕の中から出たくないって言うなら、話は別だけどね?」


 言うが早いか、ハルカはすっと指を伸ばし、アリアの形のいい顎をクイッと持ち上げ、自分の方へ向けさせた。

 そのまま、甘い吐息がかかる距離まで、ゆっくりと自分の顔を傾けていく。


 いつもは優しい空色の瞳に、少しだけ獰猛な色が宿る。


(さあ、どうする?

 これならアリアちゃんも、男と至近距離でいることがどれほど危険なことか気づ――)


 アリアは、ハルカの整った顔を至近距離でじっと見つめ返した。

 その大きく潤んだ青い瞳が、ハルカの目元を捉えて、パチパチと瞬きをする。


 そして。


「……ハルカ」

「ん?」


 ハルカは極上の笑みを浮かべた。


「左目に、目くそついてるよ」

「えっ」


 極上に甘かった大人の空気は、一瞬にして木端微塵に粉砕された。


「朝、顔洗わなかったの? 取ってあげるね」

「あっ、いや……うん、ありが、とう……?」


 完璧なイケメンスマイルを貼り付けたまま、ハルカの心は静かに膝から崩れ落ちていた。


(僕の渾身の口説きが、まさかの身だしなみチェックに……!?)


 アリアは、ハルカが仕掛けた「危険な男の誘惑」に、1ミリも気づいていなかったのだ。


 ■■■


 一方外では。

 セシルが一人、焚き火の番をしていた。


(ふん、バカじゃねーの)


 パチパチと爆ぜる火の音。夜の虫の声。遠くで馬が鼻を鳴らす音。

 それだけのはずだった。


 ハルカが心配してテントの前に立っているのが見える。


 ――そのとき、くぐもった、かすかな声が聞こえてきた。


 セシルは顔を上げた。

 テントの薄い布越しに、小さな嗚咽が漏れている。

 息を殺して、それでも溢れてくるような、子どもの泣き声だった。


 セシルは立ち上がりかけて、止まった。


(……何しに行くんだ、俺は)


 慰めの言葉など、一つも持っていない。温かい言葉を言えた試しがない。入ったところで、何ができる。

 また立ち上がりかけて、止まる。


(てゆーか、あれは俺が泣かせたのか?!)


 怪我を心配して癒してくれた、あのささくれのやり取りを不意に思い出し、自分のせいなのかと胸が締め付けられる。

 泣き声は小さいのに、なぜか焚き火の音より大きく聞こえた。


 セシルは結局、焚き火の前で、腕を組んで地面を睨みつけた。


 幼い頃から次期魔塔主としての後継教育ばかりを詰め込まれ、女との交流なんて、夜会で群がってくる花嫁候補たちと嫌々踊らされた経験くらいしかない。

 こんな時、気の利いた言葉のひとつでもかけてやるのが正解なのだろうが、その「正解」を、セシルは全く知らなかった。


(……情けねぇ)


 ただそこに立って、足元の草を踏みしめながら、夜の空気に混じる泣き声を黙って聞いていた。


(……うるせぇ)


 心の中で悪態をついても、胸の奥のざらつきは消えなかった。

 しばらくして、ハルカがテントに入った。


『アリアちゃん……』


 ハルカの声と、衣擦れの音。そして、より深くなる泣き声。

 静かになるまで、セシルは立ったり座ったりを繰り返した。


 胸の奥の何かが、まだざわついている。なんだこれは。


 任務だ。

 護送だ。

 あいつは俺には関係ない。関係ないはずだ。


「……うるせぇよ」


 誰にも聞こえない声で吐き捨てた。

 炎が、風もないのに激しく揺れた。


「くそっ」


 意を決してテントの前に立った。

 テントの中に入らずとも、アリアが泣いていて、ハルカが慰めているのを感じ取れる。

 立ち去ろうとした、その時だった。


『でも、君が僕の腕の中から出たくないって言うなら、話は別だけどね?』


 指先では、抑えきれない青白い雷がバチバチと危険な音を立てて弾けている。


(あの野郎、ぶっ殺す……!)


 考えるよりも先に、布を思い切り引き裂いて怒鳴り込もうとした――まさにその瞬間だった。


『左目に、目くそついてるよ』


 テントの薄い布越しに、アリアの間の抜けた声がはっきりと聞こえた。


「…………」


 セシルは目が点になった。


 セシルの指先で弾けていた雷が、しゅぅぅ……と情けない音を立てて消滅した。

 掴みかけていた手をゆっくりと下ろし、セシルはそのまま、きびすを返すと、スタスタと歩き、ちょこんと焚き火の前に座った。


(あいつ、俺よりもガキだ……)


 いつの間にか出来上がったスープを、ぐるぐると無になって混ぜ続けた。

 目はしばらく元に戻らなかった。


 ―――


 しばらくして。

 テントの入口が開き、ハルカが焚き火のそばへと戻ってきた。


 いつも纏っている完璧な優男のオーラはすっかり消え失せ、その背中はどこか哀愁を漂わせている。

 ハルカが重いため息をつきながら、無言で焚き火の前に座り込んだ。


 パチパチと薪が爆ぜる音だけが、気まずく響く。

 腕を組んで向かい側に座っていたセシルは、同情とも嘲笑ともつかない目でハルカを一瞥し、言い放った。


「……で? 目くそは無事に取れたのかよ」


 ピキッ、と。

 ハルカのこめかみに、青筋が浮かんだのが見えた。


「……セシル。今、僕に一言でも話しかけたら、君の夕食のスープに毒キノコを混ぜるからね」

「あっそ。せいぜい気をつけるわ。つーか結局なんで泣いてたんだよ」


「疲れが出たのさ。少しだけゆっくりさせてあげよう」

「チッ。これでもかってくらい、ゆっくり行ってやってんのに」


「あと君ねぇ、物言いをもう少し優しくだねぇうんたらかんたら」

「もーお前時々マーレ先生みたいに説教くさくなるのやめてくんねぇ?マジでウゼェ」


 男たちの静かな敗北感を乗せて、焚き火だけが、ぱちぱちと虚しく鳴っていた。


 ―――


『チッ。これでもかってくらい、ゆっくり行ってやってんのに』


 テントの薄い布越しに、そんな言葉が聞こえてきた。


 アリアはまた、ぎゅっと目を閉じた。

 また、震える手で薬瓶を手に取り、2錠……いや、3錠を口に放り込んだ。


 結局、薬なしでは自分を保てず、薬を手にし、感情を誤魔化すことしかできない自分の弱さに、軽く絶望して一人で笑ってしまう。


 段々と薬が頭と心を支配して、何も考えられなくなるまで。

 セシルの言葉が、暗闇の中で何度も何度も繰り返された。


『面倒くせぇ』

『ゆっくり行ってやってんのに』


 彼の不器用な優しさすら、今の彼女には、自分の存在を否定する棘にしか思えなかった。


(もう、期待しちゃだめ)

(自分で考えて、儀式の後どうするか決めなくちゃ)


 ぼやけていく意識の中で、アリアはただそれだけを固く心に誓った。


 明日からは、絶対に頼らない。

 彼らとの間に線を引くのだと。


(そう、彼らは大人で、軍隊に所属してて、これは任務。それを忘れちゃだめ)


 薬の冷たいまどろみに沈んでいくアリアは、まだ知る由もなかった。


 ――明日、彼女が必死に引こうとした「境界線」が、ある男の理不尽なまでの強引さに無残に突破されてしまうことを…。


 ――アリアの固い決意を、不器用な熱が甘酸っぱく溶かし尽くすことになることを…。

あーおかしい。書いてて自分で笑いました。皆さんはどうだったんだろう。

でもアリアは結局悲しいままですけども・・・。

ブクマ、応援、ご意見、ご指摘、ご感想など頂けましたら死ぬほど喜びます(^ ^)

明日も21時更新予定。

よろしくお願いします!


※ずっとアリアを関西弁にするかどうか迷いながら筆を進めてます。

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