第17話【欺瞞】悲しみの深淵〜4日目の深夜:眠れない夜〜
焚き火のぱちぱちという音と、ハルカが作るスープの匂い。
三人だけの、静かな空間。
大きな木々と月が、見下ろしていた。
アリアは膝の上の本を閉じた。
ノヴァリアのことを話している間は、胸が温かかった。
けれど、ふと会話が途切れた瞬間、別の不安が戻ってくる。
帝都。
儀式。
十八歳の誕生日。
そして、番契約。
胸の奥が、どくん、と鳴った。
アリアは無意識に鞄へ手を伸ばしていた。
指先が、冷たい小瓶に触れて引き寄せる。
鎮静薬。
飲めば、少しだけ楽になる。
怖いことを、怖いと思わなくて済む。
考えなくて済む。
瓶を握る指に、力がこもる。
けれど。
アリアは、そこで手を止めた。
ハルカが言った言葉を思い出す。
『――痛いなら、痛いって言っていいんだ』
怖いなら。
怖いって、言ってもいいのだろうか。
「……ねぇ」
ぽつり、と声が落ちる。
セシルが面倒くさそうに目を向けた。
「何だよ」
アリアは膝の上で瓶を握りしめた。
薬ではなく、自分の声で、不安を押し出すように。
「ねえ、帝都での儀式が終わったら……私はまた、エデンに戻されるのかな」
ぽつりと漏らした言葉に、セシルが枝で火をつつきながら答える。
「さあな。そこまでは俺たちの任務じゃねぇ」
「……そっか」
アリアは膝を抱え直した。
「もう、戻りたくないな。……エデンに帰ったら、18歳になったら、見知らぬ人と『番契約』を結ぶかも知れないの」
その言葉に、ハルカの手が微かに止まった。
「……番契約は、18歳になってからだと聞いているのかい?」
「うん。リサや執事が言ってた。18の誕生日を迎えた御子は、エデンから出るって。別の神殿へ行く子も入りし、帰る子もいるし…、国が決めた大人と番契約を結ぶ子もいるって。魔力をもらうんだって。相手の人は私たちの聖力をもらうんだって」
「大人って?」
ハルカが聞く。
「国に功績を立てたことのある人だって、リサが言ってた。その人と、家族になるんだって」
そう、リサは、夫婦とは言わなかったのだ。
事実リサは、誰かと番契約を結んでいたが、時々その人が会いにくるものの、ずっとエデンに住んでいた。
アリアは毛布に顔を半分埋めながら、ハルカを見た。
「ねえ、番契約を結ぶって、どうするの? ずっと手を繋いでお祈りするの? 歌うのかな。それとも……童話みたいに、口づけをしたら成立するのかな」
真面目な顔でそう聞いてきた少女に、優秀な魔術師二人は見事に言葉を失った。
童話。口づけ。
彼女の頭の中にある「番契約」は、おとぎ話の延長でしかなかった。
エデンに置いてあった絵本。そこには、こう書いてあったのだ。
<そうして2人は誓いの口づけを交わし、番となりました。>
悪者に囚われていたお姫様を、王子様が救い出し、2人は愛し合うようになり、番となった話だった。
それが、国家が管理する強制的な繁殖と魔力譲渡の儀式——つまり見知らぬ男との性行為を意味することなど、微塵も想像していないのだ。
「……は?」
「だから、その……絵本で、みたの。王子様が、お姫様にキスをしたら……」
言い淀む。
エデンで教えられたこと。
『聖力と魔力を結びつけるもの』
『国を守るために必要な儀式』
それ以上は——
「……詳しく聞こうとすると、みんなはぐらかすの」
小さな声だった。
「大したことじゃねぇよ」
間髪入れずに、セシルが言う。
焚き火の向こうで、足を組んだまま、だるそうに視線を寄越す。
「魔力と聖力、混ぜるだけだろ」
「……混ぜる?」
「そう。くっつけるだけ」
軽い。あまりにも軽い言い方。
アリアは、少しだけ眉を寄せた。
「……それだけ、なの?」
「まぁ」
セシルは肩をすくめる。
「身体は使うけどな」
その一言に、アリアの肩がぴくりと揺れた。
「……からだ?」
聞き返す声が、わずかに細くなる。
だがセシルは、あくまで興味なさげに続ける。
「儀式っつっても、形式だけだ。大げさに考えんな」
「……リサが、最初は痛いって言ってた。本当?」
一瞬。
ほんの一瞬だけ、セシルの視線が揺れた。
だが、それもすぐに消える。
「さぁな」
そっけない返答。
「どうせすぐ慣れるだろ」
軽く言い捨てる。まるで、他人事みたいに。
「……嫌だったら?」
アリアは、さらに小さく問う。
その言葉に、セシルは鼻で笑った。
「やめりゃいいだろ」
即答だった。
「別に強制じゃねぇんだし」
――嘘だ。
その場にいた二人は、それを知っている。
セシルは知っていて、言っている。
ハルカは知っていて、何も言わない。
沈黙が落ちた。
焚き火の音だけが、やけに大きく響く。
「……そっか」
ハルカは、ほんのわずかに目を伏せた。
「……アリアちゃん」
優しい声。
けれど、その続きは出てこない。何かを言いかけて、やめる。
代わりに、そっと毛布をかけ直した。
「……冷えるよ」
それだけ。
アリアは「ありがとう」と微笑んで、目を閉じた。
やがて、寝返りを打ち、二人に背を向けた。
しばらくして、静かな寝息のような呼吸が聞こえ始める。
焚き火の火を見つめたまま、ハルカがぽつりと呟いた。
「……いいの?」
セシルは視線も動かさずに答える。
「何が」
「さっきの話」
少しの沈黙。
「アリアちゃんの誕生日、もうすぐだよ」
「……」
「執事のトーマスが言っていただろう。あと10日で誕生日だって」
「今日で出立して4日か」
「だから6日後だ。政府が、彼女を帝都へ急がせている本当の理由。……結界の修復だけじゃないかもしれない」
ハルカの声が、夜の闇に重く沈んだ。
「帝都に着いたら、結界の儀式の前に……彼女は、番契約を結ばされるんじゃないのか。……魔力を持たせるために」
セシルの手が、膝の上で強く握り込まれた。
それは、道中から二人の中で微かに燻っていた疑惑だった。
より強い結界を張らせるために、儀式を急ぐのではない。儀式の前に、強力な魔力を持つ相手と強制的に番契約を結ばせるつもりなのではないか。
「……憶測だろ。あと2日も走れば帝都につく。ついたその日すぐに儀式をさせるんだろ?」
「そう聞いてるね。」
「神殿側がエデンに返せと言ってくるはずだ。それに、誰もが番になるわけじゃねぇ。あの聖力を独り占めさせないために任務につく可能性だって高いだろ。」
「そう願いたいけどね。でも、もしもと言うこともあり得る。もしそうなら……あれじゃ、アリアちゃんは誤解したままだよ」
セシルは面倒くさそうに舌打ちした。
「大したことじゃねぇだろ」
「本気で言ってる?」
ハルカの声が、少しだけ低くなった。
「僕には妹が三人いるから、分かるんだけどね」
ハルカは、焚き火の向こうで眠っているように見えるアリアへ視線を落とした。
「あの子は、何も知らないよ」
「……何が」
「番契約の本当の意味。身体のこと。見知らぬ男に触れられるってこと。……自分が、帝都で何をされようとしているのか」
セシルの指が、ぴくりと動く。
「番契約は、ただの結婚じゃない」
ハルカの声が、焚き火の向こうで低く落ちた。
「魔力と聖力の回路を、身体ごと結びつける契約だ。一度結べば、相手の魔力なしでは身体が保たなくなることもある。強く結ばれた番は、片方が死ねば、もう片方も引きずられると言われている」
「……だから、国は御子を逃がさない」
セシルが吐き捨てるように言った。
「番にしちまえば、首輪をつけたのと同じだからな」
沈黙。
「……エデンは、あの子を綺麗に飾ることは教えた。でも、自分を守るための知識は与えなかった」
ハルカは静かに続けた。
「それって、ほとんど檻だよ」
セシルは答えない。
焚き火の火だけが、二人の横顔を赤く照らしていた。
「……知ったら逃げるからだろ」
やがて、セシルが低く吐き捨てた。
ハルカは、何も言わなかった。
ただ、眉間に深く皺を寄せると、片手で額を押さえた。
「……違う」
掠れた声だった。
セシルが、わずかに視線を向ける。
「何が」
「知ったら逃げる、じゃない」
ハルカは、焚き火の火を見つめたまま、低く続けた。
「知ってたんじゃないのか。皆までではなくとも。だから、彼女はエデンから逃げ出したんじゃないのか」
セシルは黙った。
「十八歳になれば自由になれると信じていた。なのに、直前で帝都行きだ。儀式の後にどうなるのかも知らされない。そのまま、番契約をさせられるかも知れない。自由を奪われることを勘付いていたんじゃないのか」
ハルカは、苦しそうに息を吐いた。
「……今の、僕たちが、勘付いたように……」
焚き火の火が、ぱちりと鳴った。
「僕たちは、彼女を魔獣から助けたつもりでいた。でも……」
そこで言葉が途切れる。
ハルカは両手で顔を覆い、深く項垂れた。
「結局、彼女が逃げようとした場所へ、僕たちが連れて行っているのかもしれない」
ハルカはあの日、馬の上でアリアに自分が言った言葉を思い出した。
<『君の聖力が必要だから』>
<『たくさんの人が死ぬ』>
<『聖樹の前でただ歌うだけだよ』>
その時彼女はなんと返しただろうか。
<『……ずるいよ』>
その後彼女は、薬を飲み項垂れていた。
そして自分は彼女の了承を得る前に馬に乗せ、腕で閉じ込め、馬を走らせた。
ハルカは、眉間に皺を寄せた。
セシルは何も言わなかった。
紫の瞳の奥で、焚き火の火だけが揺れていた。
セシルは、奥歯を噛み殺すような乾いた声で言った。
「この旅に出る前日、シオンが死んだ。あいつだけじゃない。俺たちがこうして呑気に焚き火に当たって、おままごとに付き合ってる今この瞬間も、前線じゃ血反吐を吐いて魔物の波を食い止めてるんだ」
ハルカの目が、微かに伏せられる。
本来なら、こんなにゆっくりと進むべき旅ではないのだ。
「帝都にこいつを連れていって、急いで結界を張り直さなきゃ、いずれ北部が落ちる。そうしたら、魔物が好き放題だ。次は国が落ちる。逃げたいです、はいそうですかで済む話じゃない」
「それは、次期魔塔主としての意見かい?」
セシルは答えなかった。
ハルカは静かに続けた。
「でも、それでもさ」
少しだけ間が空く。
ハルカは焚き火から視線を外し、セシルを見た。
「セシル」
「何だよ」
「君、もし妹のうち誰かが、何も知らされないまま、知らない男と番になれって言われたらどうする?」
空気が止まった。
セシルの紫の瞳が、わずかに細くなる。
「……妹?」
「そう。たとえば僕の妹でもいい。まだ何も知らない子に、大人たちが“国のためだから”って言って、相手の顔も、何をされるのかも、本当の意味も教えずに差し出そうとしたら」
ハルカの声が、低くなる。
「君なら、どうする?」
セシルはしばらく黙っていた。
「番契約をすれば、お互いに離れられなくなるって聞いたことがある。もしも相手が気に入らなくても、死ぬまでずっと体を交えるんだ」
答えるまでもない、という顔だった。
やがて、彼は焚き火の火を見たまま、地を這うような声で言った。
「……殺しに行く」
ハルカは笑わなかった。
「だろうね」
「相手も、決めた奴らも、止めなかった奴らも、まとめて焼く」
「うん。君ならそうする」
ハルカは静かに頷いた。
「じゃあ、アリアちゃんは?」
セシルの指先が、再びぴくりと動いた。
「彼女には、そう思ってくれる家族がいない。だから、誰も殺しに来なかった。誰も止めなかった。誰も、本当のことを教えなかった」
ハルカは眠っているように見えるアリアを見る。
「だから今、ここにいる」
焚き火の音だけが響いた。
セシルは何も言わない。
ただ、膝の上で組んでいた指に、骨が白く浮き出るほど力がこもっている。
「お前ならどうすんだよ。妹がもし」
「想像もしたくないね」
ハルカは即答した。
「僕は、妹が転んで泣いているだけでも、胸が痛いんだ」
焚き火を見つめる目に一瞬の殺意が宿る。
「もしそんなことがあれば、相手を地獄へ落としてやる」
セシルは黙った。ハルカは続ける。
「僕はね、セシル。あの子を帝都へ連れていくこと自体が間違いだとは言わない。結界が落ちれば、多くの人が死ぬ。シオンの死を無駄にするわけにはいかない。それも分かってる」
「なら黙ってろ」
「でも、知らないまま差し出すのは違う」
ハルカの声が、初めて明確な強さを帯びた。
「選ばせないなら、それは保護じゃない。ただの利用だ」
セシルの目が、激しく揺れた。
「……選ばせたら、逃げるだろ」
「かもしれないね」
「だったら意味ねぇ」
「でも、逃げるかどうかを決めるのは、他の誰でもない」
ハルカは、アリアの背中を見つめた。
「アリアちゃん本人だ」
セシルは黙った。
長い沈黙のあと、彼は深く、ひどく苦しげに舌打ちをする。
「はぁ。よりによって、なんでこのタイミングなんだ。」
「同感だね。」
「……面倒くせぇ」
ハルカは小さく息を吐く。
「でも、彼女は“面倒な荷物”じゃない」
セシルの視線が、初めてハルカへ向いた。
ハルカは、逃げ道を塞ぐように真っ直ぐに言った。
「人間だよ」
薪が、ぱちりと鳴る。
眠っているはずのアリアは、自分が近づきつつある地獄を、何も知らない。
何も知らず、優しいおとぎ話の夢を見ながら、静かに眠っている。
――そう、男二人は、疑いもなく信じていた。
――しかし。
ハルカが優しくかけてくれた、暗闇の毛布の中。
二人に背を向け、微動だにせず横たわるアリアの顔は――
寝顔などでは、断じてなかった。
闇の奥底で、アリアの両目は、恐ろしいほど大きく見開かれていた。
涙の膜に濡れた、深い青の瞳。
それは優しき御子の眼差しではなく、自分の処刑台の会話を聴かされている罪人のように、爛々(らんらん)と、狂気的な光を帯びて夜の闇を睨みつけている。
声を出したら、終わる。
呼吸を乱したら、自分がすべてを聴いていたことがバレてしまう。
アリアは、闇に包まれた毛布の内側で、ただ一人、喉をかき毟るような声なき絶叫を上げていた。
(おばあちゃん!!!!)
あの恐ろしい真実を。
男たちに運ばれる、生贄としての自分の運命を。
最初から、最後まで、全て聞いていた。
絶望と恐怖で溢れ出しそうな涙の膜に濡れている。
眠ってなど、いない。
あの恐ろしい真実を、毛布の下で息を殺して、最初から最後まで全て聞いてしまったのだ。
もしも大事な人が同じことをされるなら、セシルは殺しに行くと言った。
なら、私は。
殺しに行かれるほどのことを、これからされるのだ。
もしも相手が気に入らなくても、死ぬまで一生体を交える。
番にされたら、その人の魔力なしでは生きてはいけなくなる。
それは、体に触られると言うことだと。
相手の顔も知らない。
何をされるのかも知らない。
嫌だと言えるのかも分からない。
それなのに、私は帝都へ運ばれている。
国のために。
結界のために。
たくさんの人を救うために。
その言葉の前では、私の怖いも、嫌だも、全部わがままになってしまう。
突如、脳裏に神官たちの皺だらけの手と薄っぺらな笑顔が浮かんだ。
髪を触るだけで、癒されると言って、ベタベタ触る神官もいた。
そして歌っている時に見える、あまりにもたくさんの群衆。
全ての顔が自分を見ていて、聖力を少しでも受け取ろうと押し寄せる。
結界でガードされていなければ、もみくちゃにされて死ぬだろう。
その中の、自分を求める誰かの元へ生かされるのだろうか。
この体を、聖力を、何をどうされるのだろうか。
「!」
突如たくさんの手が自分に触れてくる光景が浮かんでしまい、アリアは思わず目を閉じた。
(これは私の妄想、これは私の妄想、こうなるわけじゃない。勝手に触られるわけじゃない!)
必死でその想像を取り消そうとした。
肩にぎゅっと力を入れ、両手を口に強くあて、嗚咽しないように全力をこめる。
叫んでしまいたかった。
誰か助けて、と。おばあちゃん、と。
けれど、助けてくれる人など、もうどこにもいない。
この二人の優秀な魔術師は…
優しいと思っていたハルカも、
守ってくれていたセシルも、
結局は自分を「国のための贄」として帝都へ連行する者でしかなかったのだ。
毛布を深くかぶり、震える手で、飲まないと決めた薬の瓶を、暗闇の中で探り当てる。
静かに、静かに開けた。
ドクドクと、うるさい心臓。
2粒、冷たい薬を放り込む。
『――面倒くせぇ』
そう言ったセシルの声が、呪いのように何度も頭の中で繰り返される。そしてもう2粒、口の中へ放り込んだ。
アリアは、頭の中で鳴り響く警報音のような思考を、冷たい薬の底へと手放した。
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