第1話【決行】いざ、自由の世界へ!〜囚われの聖女、楽園を飛び出す〜
「きゃああああ!!!」
まずい。
本当に、本当にまずい。
三階の窓から垂らした命綱のシーツを、しっかり握っていたはずだったのに。
無情にも手が滑った瞬間、私の身体は重力にどこまでも忠実に、真っ逆さまに落下していた。
地面激突まで、あと何秒!?
こういう時って走馬灯が見えるって言うけど、私の目に映ったのは、やけに澄んだ青い空と、のんきに流れる白い雲だけだった。
(……わぁ、綺麗)
現実逃避もここまでくるとあっぱれだ。
私、このまま死ぬんだわ。
そう思って、ぎゅっと強く目を閉じた。
――ぽす。
「はーい捕獲」
……え?
痛くない。
恐る恐る片目を開けると、至近距離に、薄い紫の瞳があった。
夜の闇を溶かしたような銀灰色の髪。
耳元で光る黒いピアス。
そして、凶悪なまでに整った顔立ち。
しばらく声を失うほどに美しい男が、私を軽々と腕に抱えたまま、心底不思議そうに見下ろしている。
外の世界には、こんなに綺麗な男の人がいるのね……。
そう純粋に感嘆した、次の瞬間。
その美しすぎる唇から出てきた言葉が、これだ。
「出目金みてぇ」
…………。
ねぇ。
私……
魚じゃないんだけど!!?
これが私と、口の悪すぎる護衛騎士、セシルとの、最悪で最低な出会いだった。
■■■
――さて。
どうして私が、よりによってあんな男の頭上に降ってくる羽目になったのか?
物語は、あの日からさらに5日前に遡る。
「おお……聖女様だ」
「あぁ、なんて神々しく美しいんだ」
「あの御髪を見ろ。金の奥に、桃色の光が差している……」
「深い海のような瞳が、慈愛に煌めいている……!」
広場に群がった民衆の、ウットリとした感嘆の声がさざ波のように聞こえてくる。
私は、信者たちに向けてにこりと微笑んでみせた。
慈愛に満ちた、完璧な『光の御子』の笑顔。
……けれど心の中では、盛大にドヤ顔を決めていた。
(ふふん! そうでしょそうでしょ〜?!
なんたって元がいい上に、朝の五時から侍女たちにみっちり磨き上げられてるんだから!)
赤やピンク、白の軽やかな生地が幾重にも重なったシフォンドレス。
両手には、皇帝陛下を讃えるため、皇室の紋章がこれでもかと飾られた重たい錫杖。
手首には、動くたびにしゃらんと鳴る幾つもの鈴のブレスレット。
頭には、色とりどりの花で編まれた立派な冠。
花冠の下で、私の髪が朝の光を受けて淡くきらめく。
ただの金色ではない。蜂蜜を溶かしたような淡い金の奥に、薄桃色の光がふわりと差しているのだ。光を受けるたび、桃の花びらを透かしたように輝くこの髪は、私の中に宿る『聖力』に染められた証だった。
可憐で、清らかで、触れることすらためらわれる存在。
そう見えるように、私は今日も完璧にデコレーションされている。
私は、アリア・ブランシュ・メイフィールド。
5歳の頃から、聖力保持者の保護施設〈エデン〉で育てられた、17歳の『光の御子』。
私が歌うと光が溢れ、人は癒され、空間は浄化されていく……らしい!
世間の皆は私のことを『聖女』とか『聖なる御子』とか勝手に崇め立てて呼ぶけれど、ぶっちゃけ、別にな〜んとも思ってない。
だから?って感じ!
だって、18歳になったらこの窮屈な生活をやめる約束なんだから。
18歳まで、あとたったの15日!
念願の、自由!
誕生日を迎えたら秒で退職届を叩きつけて、こんな鳥籠とは永遠におさらばよ!
もう2度と、こんな見世物みたいな仕事しないんだから!!!
そして、エデンの外に出るような大きな仕事は、今日、これで最後。
本日は、西の都クリスタルレイルで年に一度開かれる大きなお祭、美しい花を讃える〈聖花祭〉だ。
この日のために、めちゃくちゃ練習してきた。
今日で最後だから、気合いはたっぷり!
物々しい護衛に守られながら、中央の広場へと進み出る。
白い石造りの広場。幾重にも張られた結界の中心で、私はひとり、大舞台に立った。
(さぁアリア。今日で最後よ。有終の美を飾るわよ!
完璧な『光の御子』を、最後まで演じ切ってやるんだから!)
気合を入れて、両手で持っていた重たい錫杖を高く掲げた。
――その時だった。
ガッシャンッ……!!
……って、ええええええ!?
やっばぁ……っ。
手汗で手が滑って……皇帝陛下の錫杖が、石畳に落ちた!!
そろーりと視線だけで広場を窺うと、しん……っ、と、時が止まったように数千人の群衆が静まり返っていた。
端っこにいる楽団の指揮者のおじさんなんて、白目を剥きそうなほど顔面蒼白になっている。
(……うん、め〜〜〜っちゃ引かれてる。
そりゃそうだよね、皇帝陛下から賜った激重の錫杖だもんね。
でもまぁ……いいじゃん?? だめ?)
私は一瞬の硬直のあと、何事もなかったかのように、それはもう優雅に微笑んだ。
にこっ?
(いいじゃんもう! あんな重たい棒なんてなくても歌えるし!?)
腹を括った私は、深く息を吸い、声を乗せた。
(そのまま歌っちゃえ!)
最初の一音が、高く、青い空へ溶けていく。
「♪〜……」
高く、澄んで、どこまでも透明に。
私の歌声が空気を震わせるたび、足元の石畳から柔らかな光が波紋のように広がり、指先から溢れ出した聖力が、キラキラと光の粉になって舞い上がった。
(さぁ、歌おう!)
響け! 光よ!!
私が両手を天高く掲げると、静まり返っていた群衆が、堰を切ったようにワッと応えた。
「おおおおおおおお!!」
光が、降る。
割れんばかりの歓声が爆発した。
祈るような眼差し。
熱狂。
陶酔。
「まるで、天上の鐘が空から鳴り響いているようだ!」
「光の御子様、なんて美しい……!」
「これでこの街は、今日も平和だな」
「あぁ、心の底から癒されていくのを感じる……!」
私はにっこりと笑う。
鏡の前で何度も何度も練習した、1ミリの狂いもない完璧な笑顔のまま、私は歌い続けた。
そして、最後の一音まで完璧に歌い終えると、ドレスの裾をつまみ、静かに、深く一礼した。
(グッバイ。私の聖女人生。お疲れ、私)
地面を見つめながら、私はフルフルと震え、自らのやり切った感慨に深く浸ってしまった。
でも、最後まで絶対に気は抜けない!
「黎明の御子どの! 本日も大変素晴らしい歌声でございましたなぁ!!」
舞台から降りるや否や、私はすぐさま偉い神官たちにぐるりと囲まれた。
信者たちの熱狂的な視線を背中に浴びながら、舞台袖へと歩を進める。
いつもの完璧な仮面をかぶって。
完璧な、美しい、慈愛の笑顔をキラキラと振り撒きながら。
けれど、その内側では。
(……うっざぁ!!!!)
にっこりと貼りつけた笑顔の下で、私は心の中で盛大に絶叫していた。
(あーもう!!!
この花冠、重すぎて首がもげる!!
ていうか神官長! 息がニンニク臭い!
朝から何食べたらそんなにドブみたいな臭いになるの?!
こっちは朝からお水一杯しか飲ませてもらってないっつーの!)
早く!
早く!
早く早く早く!
顔面は神々しい聖女のまま、ドレスの下の足は、競歩の選手も顔負けの限界ギリギリのスピードで動いている。
馬車まで、あと十歩。
あと五歩。
あと三歩!
ああああ早く!!
早く扉を閉めてえええええ!!!!!
バタンッ!!
「ぷっはぁぁぁぁぁぁぁ! っっっ疲れたぁぁぁぁぁ!!」
扉が閉まり、外からの視線が完全に遮断された瞬間、私は全身の力を抜いて長椅子にへたり込んだ。
侍女のリサがさっと差し出してきたグラスの水を、風呂上がりの親父のような勢いで一気に飲み干す。
「ア、アリア様!? はしたないです。聖なる御子としての自覚を――」
「だって疲れたんだもーーん!」
■■■
ガタゴトと小気味よい音を立てて、馬車が走り出す。
窓の左右には、立派な馬にまたがった護衛の騎士たちがキリッとした顔で並走していて、なんだかものものしい雰囲気だ。
そんな外の緊張感とは裏腹に、馬車の中では本日何度目か分からないリサの説教フェスティバルが開催されていた。
「全く! 大事な御用務の最中に錫杖を落とすなんて……後ろで見ていてどれだけハラハラしたか分かりますか!?」
「あはは……いやぁ、私もまさかあのタイミングで手が滑るとは思わなくてびっくりしちゃった。でもほら!とにかく最後まで歌い切ったでしょ!?」
「そういう問題ではありません!」
「うぐっ、そんなに怒らないでよ〜……」
お怒りモード全開のリサから逃れるように、私はそそくさと窓の外へと視線を逸らした。あちゃー、これはしばらく許してもらえないやつだ。
流れる景色に意識を向けると、窓の向こうからは香ばしい焼き立てパンの匂いがふわりと鼻腔をくすぐる。
賑やかな屋台の前で、お小遣いを出し合って楽しそうに笑い合う学生たち。
お母さんの手を引いて、元気にそこら中を駆け回る子どもたち。
――全部、全部。
すぐそこにあるのに、私には絶対に触れられない、遠い世界の宝物みたいだった。
「……リサ。あの市場、行ってみたいなぁ」
「いけません」
食い気味に即答された。うん、知ってた。
これまで何度も、それこそ何百回もお願いしてきたけれど、私の「外に行きたい」に許可が出ることなんて、ただの一度もなかったのだ。
ちょっとだけ拗ねて唇を尖らせつつ、私は気持ちを切り替えるように、ぽつりと言葉をこぼした。
「でも、ついに最後の歌が終わったね」
「……。はい。本当にお疲れ様でした、アリア様」
リサの声が、さっきの小言モードから、少しだけ柔らかいものに変わる。
私は、自分の膝の上に置いてあった小さな本に視線を落とした。
お仕立てのいい上品な白い表紙。けれどそれはカモフラージュで、その下にはエデンでは発禁処分を喰らいそうな異国・ノヴァリア共和国の本が隠されている。
この本によると、海の向こうにあるノヴァリアでは、誰もが自分の意志で自由に生きていて、生まれによる差別も、ドロドロした権力争いもないらしい。皆がのびのびと、自分の足で人生を歩んでいるのだという。
数年前、かつてエデンにいたソリストの御子が、部屋の隅にこっそり残していったらしいこの本。私は見つけた日から今日まで、神官たちの目を盗んでは、ぼろぼろの辞書を片手に何度も、何度も何度も読み返してきた。
だって――「十八歳になれば、ここを出られるから」
リサも、意地悪な神官たちも、口を揃えて何度もそう言っていた。この本を残していった先輩ソリストも、18歳になって無事にエデンを出たと聞いている。
だから私は、いつか訪れる『その日』のために、寝る間を惜しんで必死にノヴァリア語を覚えたのだ。
自由の国、ノヴァリア共和国へ行くことを夢見て。
本の最後のページには、かすれたノヴァリア語で、短いけれど力強い言葉が書き込まれている。
『――私は、私のままに生きる。誰にも、奪わせない』
指先で、そっとその文字をなぞる。胸の奥がじん、と熱くなった。
きっと、この本を書いた彼女は今頃、大好きなノヴァリアの空の下で自由を満喫しているんだろうな……。
「ま〜たその本を読んでるんですか」
「うん! だって私、エデンを出たら絶対にこの国に行くんだもん!」
私が鼻をフンスと鳴らして宣言すると、リサは何かを言いかけて――けれど結局、困ったような笑みを浮かべたまま、何も言わずに口を閉じてしまった。
その時、馬車の揺れに合わせて、リサの袖口がわずかにずれた。
白い肌の手首の内側に、淡い金色の紋章が、夕暮れの光を浴びてぼんやりと浮かび上がっている。
番契約を結んだ者の身に現れるという、生涯消えない『番の刻印』だ。
この世界には、魔力を持つ人間と、私のように聖力を持つ人間、そして何も持たない人間がいる。
そして『番契約』とは――力を持つもの同士が特別な魔法の儀式を行うことで、互いの力を分け合い、魂も命も、すべてを一つに結びつけるという絶対的な契約なのだ。
時々、エデンにリサの『番』の人が迎えに来ることがある。そのたびにリサはどこかへ連れていかれ、数日後、何事もなかったような澄ました顔でエデンへ戻ってくる。
どんな人なのか、何をしているのか、何度聞いてみてもリサは絶対に教えてくれない。
「規則ですから」
ただそれだけを言って、静かに押し黙ってしまうのだ。
窓ガラスにうっすらと映るリサの横顔が、どこか遠くを見つめているようで、少しだけ悲しそうに見えた。
「……リサ、大丈夫?」
胸がキュッとなって、私はリサの隣へにじり寄ると、その少し冷たい手を両手でそっと包み込んだ。いつも私の世話を焼いてくれる、大好きなお姉ちゃんのような存在のリサ。悲しい顔なんて、してほしくない。
私の突然の行動に、リサはハッと息を呑んだ。
けれどすぐに、いつもの優しいリサの顔に戻って、私を見つめ返した。
「はい、大丈夫です。……アリア様は、大丈夫ですか?」
「うん。大丈夫だよ」
私たちは、お互いの手の温もりを確かめ合うように、ギュッときつく手を握り合った。
この先にどんな未来が待っているのか、この時の私はまだ何も知らなかったけれど――リサの手の温もりだけは、本物だと信じられた。
■■■
馬車はガタリと音を立てて、私の大嫌いな「エデン」に到着した。
背後で、重たい鉄の内門がガラガラと容赦なく閉まっていく。この、世界から完全に遮断されるような重苦しい音が、本当に昔から苦手だ。
ふぅ、と小さくため息をついて館に入るなり、待ち構えていたかのように神官たちが奥からズラズラと湧き出てきて、私を取り囲んだ。
なんだかいつもより、全員の顔が引き締まっているというか、ぶっちゃけめちゃくちゃ怖い。
「皇室からお達しです。古の結界が弱まっているそうで、聖力をご所望です」
ごしょもう。
その、まるで高級レストランで「本日のおすすめを一つ」とでも注文するかのような軽い響きを聞いた瞬間、私の胸の奥がひやりと冷えた。
ちょっと待って。結界? 聖力? なんの話をしてるの?
「帝都、ゼノスレガリアへ行っていただく」
「……帝都?」
聞き返した私の口から、自分でも驚くほど低くて掠れた声が出た。
「そのあと、私は……またここへ戻ってくるんですか?」
神官は、眉ひとつ動かさなかった。憐れみも、申し訳なさも、人間らしい感情が一切抜け落ちた冷たい視線。
「その後については、私どもも聞かされておりません。追って通達されるでしょう」
おってつうだつ。
それはつまり、「お前がどうなろうと知ったこっちゃないし、知る権利もない」と、そう言われているのと同じだった。
「で、でも! 18になったら外に出られるって言いましたよね!? 今日で最後の歌だって、だから頑張れって言ったじゃないですか!」
思わず叫んでいた。
エデンに集められた子供たちは、18歳になればみんなここを出ていく。そのままエデンで働く子もいれば、生まれ育った家に帰る子、素敵な人と結婚する子。みんな、自分の未来を自分で選ぶんだ。ずっと、ずっとそう聞かされてきた。
そして私は、いつか自由になって、憧れのノヴァリア国に行くんだって、それだけを言い続けてきたのに。
帝都なんて、ここから馬車で半月以上はかかる大都会だ。
あと15日で、私は18歳になる。今日が最後の御用務だって信じていたのに。
約束が違う。こんなの、絶対におかしい!!
この白い檻からいつか出てやる。
そう信じて、毎日、毎日毎日、何年も喉がちぎれるほど歌ってきた私の努力は、一体なんだったのよ……っ!?
「まずは帝都。そこからのことは、追って。以上です」
冷酷に言い放った神官の背後に、いつの間にか総勢30人以上の神官たちがずらりと並び、一斉に私を睨みつけてきた。
……う、ううっ。数の暴力が凄まじい。
詰め寄ろうとした私は、ぐっと言葉を飲み込むしかなかった。
悔しいけれど、ここでギャーギャー喚いて状況が変わるような相手じゃない。
「護衛が来次第、出立となります。それまで自室で体調を整えておくように」
神官は私の返事なんて最初から期待していない様子で、くるりと私に背を向けると、隣に控えていたリサへ視線を向けた。
「リサ。保持体の確認と報告をせよ。あと、持っていく衣装についてだが、皇室の前に出るに相応しいものを……」
――保持体。
私のことを、そう呼んだ。
完全に私という人間はシャットアウトされて、目の前で事務手続きが淡々と進んでいく。
大荷物で届いた高級な壺か、あるいは、代わりのいくらでもある便利な魔導具でも運ぶかのように。
(……ふざけないでよ)
俯いた私の両手が、ドレスの裾をきつくきつく握りしめる。
神官たちの分厚い背中をこれでもかと睨みつけながら、私の胸の奥で、静かに、けれど絶対に消えない反骨精神の炎がメラメラと着火した瞬間だった。
■■■
その夜。
私は怒りと不安と、あとほんの少しの悔しさで、一睡もできなかった。
寝返りを打ちすぎてぐちゃぐちゃになったベッドから起き上がり、むしゃくしゃした足取りで薄暗い部屋の窓へと向かう。
……ん?
その時、窓の結界を繋ぎ留めている『銀の楔』に、目が留まった。
よく見ると、金属の表面に細いひび割れがいくつも走っている。
いつもなら、指先をほんの少し近づけただけでも「あだっ!?」って飛び上がるくらい、火傷しそうなほど強い魔力でぱちっと弾かれるのに。
けれど、今日はなんだか様子が違う。
恐る恐る、息を止めて指先でそっと触れてみた。
――痛くない。
かすかにふるふると震えるだけで、私を拒絶するようなバチバチ感はどこにもなかった。
「……弱くなってる?」
(ひょっとして、外の結界が弱くなってるって話、ここも同じなんじゃ……!?)
窓ガラスに目をやると、そこに薄く映る自分と、ばちりと目が合った。
綺麗なドレスを着せられて、お行儀よくお座りしているだけの、従順で空っぽの可愛いお人形。
それを見た瞬間、胸の奥からふつふつと、マグマのような怒りが湧き上がってきた。
嘘つき。みんな大嘘つき!
「18歳になれば自由に出られる」って優しく微笑んだくせに!
本当は帝都に連れて行って、私を都合のいい道具としてどうするつもりなのよ……!
窓ガラスに映る私の青い瞳に、じわじわと強い熱が宿っていく。
……もういい。
……もう、誰かの「いいよ」を待つお利口さんな私は廃業よ!
……シャッターガラガラ〜!よ!!!
これまで、誰にも見つからないようベッドの中で必死にノヴァリア語を覚えた日々が、走馬灯のように頭を駆け巡る。
分厚い辞書を引きながら、まだ見ぬ空飛ぶ船や、魔導列車が颯爽と走る街を夢見てきた。
いつかこの窮屈な国を飛び出して、大好きなノヴァリアで思いきり言葉を学ぶんだって、それだけを心の支えにして生きてきたのに!
ぼろぼろの本の最後に、前の持ち主が書き残していたあの言葉が、今、胸の奥で何度も熱く、激しく響いていた。
『――私は、私のままに生きる。誰にも、奪わせない』
そうよ、その通り!
この本の本当の持ち主の女の子も、きっと私と同じ思いで、この部屋のどこかで必死に勉強していたに違いない。
そして、また強く思う。彼女はきっと今頃、夢を叶えてノヴァリアの街で楽しくエンジョイしているはず。なら、私にできないわけがない!
私はガラスの中のお人形(私)を、そしてその向こうに広がる真っ暗な夜の闇を、力いっぱい睨みつけた。
「……私だって、やってやるんだから!」
そうだ。
やってやろうじゃないの。
部屋の隅でシクシク泣いて、可哀想な悲劇のヒロインぶって、大人たちの決めた運命をおとなしく受け入れるなんてまっぴらごめんよ!!!
(……よし。逃げてやる。絶対逃げてやるんだから!)
――その日から、私による私のための『大脱走計画』が始まった。
昼間は澄まし顔でお人形を演じつつ、夜は息を潜めて、毎晩窓枠の楔のひびをチェックし続けた。
フンス、と鼻息荒く拳を握りしめる。
いい気気味よ、見てなさい。
あなたたちが後大事に囲い込んでいる、一番高価で便利な“最高級の道具”が、自ら意思を持って、自力で盛大に転がり出ていってやるんだからね!
■■■
5日後。
誕生日まで、あと10日。
逃亡にはうってつけの、よく晴れた金曜日。
私は自室で、誰にも気づかれないよう静かに、けれど心の中ではファンファーレを鳴らしながら動き出した。
頭には布をぐるぐる巻きにして、怪しさ満点。
動きやすい短めのズボンに、だぼっとしたベージュのローブを羽織る。
足元は、夜中のうちに倉庫で見つけておいた頑丈な革のブーツだ。
(んんっ、ちょっと大きすぎて歩くたびにパカパカするけど……まあいっか! これなら石ころだらけの道でも走れるはず!)
くすねておいた金貨と、ぼろぼろになるまで読み込んだノヴァリア語の辞書、それに分厚い本。それらを黒いリュックにぎゅうぎゅうに詰め込む。
「う、重い……っ。私、間違えて石でも入れた?」
よろけそうになりながらも、シーツを固く結び合わせた手作りのロープを、三階の窓から外へ垂らす。
白い布の道が、レンガの壁を伝って下へ真っ直ぐ伸びていく。
さようなら、息の詰まる真っ白な鳥籠。
「脱出準備、完了!」
いよいよだ。
私は窓枠に打ち込まれた『銀の楔』にそっと手をかけた。
ごくり、と息を呑む。
これさえ外せば、私は自由だ。
カチャリ、と。
……えっ?
何の抵抗もなく、いとも簡単に抜け落ちた。
(やった!!! 私ってば天才!?)
満面の笑みで窓を大きく開け放つ。
ぶわっと、外から流れ込んできた風がカーテンを大きく揺らした。
土の匂い。
花の匂い。
遠くから聞こえる、街の喧騒。
ずっと憧れていた、生きた世界の匂いがした。
「よし。まずは荷物から下ろして……っと」
重たすぎる黒いリュックを両手で抱え上げ、窓の縁までよっこいしょと持ち上げた。
そっと下へ下ろそうとした、その時だった。
――グシャッ。
(あっ)
大きすぎるブーツのつま先が、自分のローブの裾を思いきり踏んづけた。
ぐらりとバランスが崩れる。
腕の力が、ふっと抜けた。
ずっしりとした辞書の重みに耐えきれず、私の手からリュックが、するりと滑り抜ける。
「あぁぁっ!?」
私の全財産! 私の辞書! 私の未来!
黒い塊が、容赦なく三階から真っ逆さまに落ちていく。
た、大変!! 中身が飛び出したらどうしよう!
私は焦ってシーツのロープを力いっぱい握りしめ、窓枠に足をかけた。
大きすぎるブーツが引っかかって「ふんぬっ!」と変な声が出たけれど、もう後戻りはできない。
私はぐっと勢いをつけ、窓から飛び出した。
「よし……いざ、自由の世界へ!!!!」
風が全身を打ち据える。
自由だ。
私はついに、鳥籠から抜け出したんだ!
両手でしっかりシーツを握りしめ、するすると壁を下りていく。完璧!
――と、歓喜したのも束の間。
スポンッ。
「……え?」
今度は、右足のブーツがすっぽ抜けて落ちた。
嘘でしょ。
慌ててそのブーツを追って下を見た瞬間、私は自分の目を疑い、思わず息を止めた。
(……げ!!!)
私が着地しようとしていた花壇のすぐそばに。
どう見ても一般人じゃない、背の高い男の人が2人も立っている。
ひとりは、銀色の髪に紫の瞳。
もうひとりは、黒い髪にスカイブルーの瞳。
彼らは上から降ってきたリュックとブーツに驚き、そして今度は、壁にへばりついている私を凝視している。
(う、嘘でしょ……っ!?)
よりによって。
本当に、よりによって。
どうしてこんなところに人がいるの?!
しかも、めっちゃこっち見てる! 絶対目が合ってる!
焦りで手汗が噴き出した。
ツルリ。
「!きゃああああああ!!!」
彼らに気を取られた私は、命綱であるシーツから、あっさりと手を滑らせてしまった。
止まれない。避けられない。
銀髪の男に向かって、私が真っ逆さまに落下していく。
(やばいやばいやばい!! ぶつかるぅぅぅぅ!!!!!)
私はぎゅっと目を瞑り、全身の力を抜いて衝撃に備えた。
ごめんなさい、下の人! どうか一緒にクッションになって!
――ぽす。
「はーい捕獲」
……あれ?
痛くない。死んでない。
地面に激突するはずだった私の身体は、ふわりと宙に浮いたまま止まっていた。
恐る恐る目を開ける。
すぐ目の前に、薄い紫の瞳があった。
至近距離で交錯する視線。
少しだけ顔を離すと、私を抱き止めてくれた人の全貌が見えた。
銀色の髪に、吸い込まれそうな紫の瞳。
すっと通った鼻筋に、綺麗な輪郭。
顔は、これでもかというくらい、腹立たしいほどに美しい。
しばらく声を失うほどに、見惚れてしまった。
が。
その美しい唇から出てきた言葉は、私をどん底に突き落とすものだった。
「出目金みてぇ」
…………。
はぁああ!?
誰が魚よ!
誰が出目金よ!
確かにびっくりして目をひん剥いてたかもしれないけど!
命の恩人かもしれないけど、第一声がそれってどういう神経してるの!?
「失礼なっ――!」
そう怒鳴りつけてやろうと、口を開きかけた。
……のに。
なぜか、肝心の声が喉に引っかかって出てこなかった。
だって、気づいてしまったから。
この男、口は最悪なのに。
私を抱える腕だけは、少しも乱暴じゃない。
落とさないように。
壊さないように。
私の背中と膝裏を、大きな手でしっかりと、けれどひどく優しく支えている。
顔が、近い。
黒い軍服から、乾いた土と汗の匂いに混じって、かすかな柑橘のような爽やかな香りがした。
背中越しに伝わってくる体温が、驚くほど熱い。
男の人って、こんなに体温が高いの?
どくん、と。
さっきまでの落下とは違う理由で、心臓が大きく跳ねた。
「……何だよ。急に黙って」
彼が怪訝そうに眉を寄せる。その声が、私の鼓膜を直接震わせた。
「べ、別に!」
「顔赤いぞ、出目金」
「赤くない!」
「赤い」
「落ちかけたからでしょ!」
「ふうん」
銀髪の男――セシルは、紫の瞳を少しだけ細め、私の顔をじっと見つめた。
それから、意地悪そうに片方の口角を上げる。
「落ちかけたわりには、俺の服、ずいぶんぎゅっと握ってるけどな」
「っ……!」
ハッとして手元を見ると、私の両手は、彼の胸元の軍服を親の仇みたいにしっかりと握りしめていた。
慌てて手を離すと、男が喉の奥で、面白そうに低く笑った。
最悪。
本当に、最悪。
こんなに綺麗な顔をしているくせに、性格はひん曲がってる。
でも、どうしてだろう。
さっき触れた軍服の硬い感触と。
私を包み込んでいた腕の強さと。
耳のすぐそばで響いた低くて甘い笑い声だけが、胸の奥に変にこびりついてしまった。
そう。
これが私と、セシルの最悪で――どうしても忘れられない出会いだった。
読んでいただきまして、ありがとうございます。
リアクションや、☆☆☆☆☆を★★★★★に変えていただけると、執筆の励みになります^^
感想、ご指摘、ブクマも嬉しいです。
毎日21時更新予定です。完結約束、ハッピーエンドです(^ ^)
よろしくお願いします!
何度も申し訳ありません。誤字脱字を修正し、表現を追加しました^^;
※誤字脱字、改行など改変しました!




