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出目金姫と呼ばれた聖女は今日も華麗に逃げ出します! 〜最凶魔術師にいじめられてた私が、なぜか番契約で溺愛されて国へのざまぁも始まりました〜  作者: みょんたま
前編 /  旅路編

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第13話 【吐息】頬スレスレで歌われる聖女の歌〜3日目の朝:「二度と体に傷つけるな」耳まで真っ赤な雷魔術師〜

 朝の宿屋の一室。


 アリアは、いつもより少しだけ頭が重かった。

 昨夜、眠る前の記憶がぼんやりしている。

 帝都のことを考えて、胸が苦しくなって、それから――。


 そこまで思い出しかけて、アリアは小さく首を振った。


 そんなアリアの様子に気づいているのか、いないのか。

 木製の櫛を持ったハルカは、椅子を軽く叩きながら、やけに気合いに満ちた顔でアリアを呼んだ。


「いや〜、こんなに見事な長い髪は腕が鳴るねぇ」

「……そんなに楽しそうにすること?」

「もちろん。うちの妹たちの髪を結って、おめかしさせていた頃を思い出すよ」


 そう言って、ハルカはアリアを椅子に座らせると、毛先から丁寧に髪を梳きはじめた。


 朝の光を受けてやわらかく輝く蜂蜜色の髪は、絹糸のように美しい。

 外の世界では、アリアの金の髪と深い青の瞳は、ただ美しいだけのものではない輝きを放っている。

 聖力保持者であることを示す、あまりにも分かりやすい印だった。


 見つめれば、人が集まる。

 祈る者。縋る者。あるいは、その力を利用しようとする者。

 だから旅の間、アリアはその髪と顔立ちを隠さなければならなかった。


「リボンはいくつ持ってるの? ヘアピンは? あぁ、これだけあれば色々できるね。いつもはどんな髪型にしてた?」


 ハルカは、まるでお気に入りのお人形で遊ぶ子どものように、嬉々として矢継ぎ早に聞いてくる。


「え? り、リボンとヘアピンはいくつか持ってきてるよ。普段? えっと……編み込みとか、三つ編みとかが多いかも」

「なるほど。じゃあ、動きやすくて崩れにくい編み込みにしようか」


 ハルカはアリアの髪を左右に分けると、額まわりがすっきり見えるように丁寧に編み込んでいく。

 その手つきは、剣を振るう男の指とは思えないほど滑らかで、意外なほど手慣れていた。


 毛先まで三つ編みにしたあと、それをくるくると後頭部に巻き込んで、ヘアピンでしっかりと留める。

 最後に、ピンク色の太めのリボン二本と白のリボン一本を手に取った。


 輝く金髪が目立ちすぎないように、顔まわりへ三本も巻き、後頭部の下で結んだ。


「できた!」


 ハルカが満足げに息を吐く。

 アリアは鏡を覗き込み、ぱっと顔を明るくした。


「わぁ……! すごいよ、ハルカ! 全然痛くないのに、しっかりまとまってる!」

「ふふ、妹が多いからね。こういうのには慣れてるんだ」


 その和やかな様子を、セシルは少し離れた壁に寄りかかり、腕を組んでじっと見ていた。

 その髪はすでに整えられており、後ろに流されていた。


「……お前、魔術師やめて街角で髪結いになった方が稼げるんじゃねぇの」

「おや? 不器用な破壊神にはこの繊細な芸術が理解できないみたいだね?」


 ハルカは涼しい顔でふわりと微笑み返し、アリアの髪の崩れがないかをもう一度確認する。


「魔術師たるもの、指先の緻密なコントロールは必須だからね。君みたいに、何でも雷で焼き払えば解決すると思っている脳筋には辿り着けない境地さ」

「あ?」

「ところで、どう? 可愛くできただろう?」


 ハルカに話を振られ、セシルは改めて、アリアに視線を戻した。


 綺麗に編み込まれた金髪。

 額を縁どるリボン。

 昨日までより少しだけ旅人らしく、けれど隠しきれない品の良さが残る姿。


 セシルは一瞬だけ目を奪われたように動きを止め、すぐにバツが悪そうに視線を逸らして、ふんと鼻を鳴らした。

 アリアとハルカが期待に満ちた目で見てくるのが視界に入る。


「……かわいんじゃね? 知らねーけど」


 かわいい、で一瞬顔が輝いたが、知らねーけど、で分かりやすくシュンとなる素直なアリアだった。


「おっと、目を逸らしての『知らねーけど』は照れ隠しの常套句だね。きゃ〜っか!」

「うるせぇ! さっさと準備しろ!」


 照れ隠しを指摘されて苛立ったセシルは、ハルカを押しのけるようにして洗面台の鏡の前に立った。

 彼は指先に硬めの整髪剤を取ると、下ろしていた長い銀髪を、手ぐしで一気に後ろへと流し上げた。


 アリアは、鏡越しにその姿を見ていた。


 昨夜の風呂上がり、雨に濡れて無防備に垂れていた前髪がすっきりと上がり、形のいい額と、大きく好戦的な紫の瞳が露わになる。

 額を出したことで、彼の整いすぎた顔立ちと、特権階級特有の傲慢なまでの美しさがより一層際立った。


(……余計なこと言わなきゃ、普通にかっこいいかも)


 そう思った瞬間、昨夜の近すぎた距離と、雨に濡れていた彼の姿が脳裏をよぎる。

 アリアは慌てて目を逸らした。


「あったあった」


 そんなアリアの動揺を知ってか知らずか、ハルカがカバンの底から取り出してきたのは、黒い艶を放つ革製の軍帽だった。

 正面には翼を広げた銀の鷲の紋章が輝き、硬いツバの付け根には太い鎖の装飾があしらわれている。


 本来なら、軍服を着た大柄な男が被るものなのだろう。

 無骨で、重々しく、アリアには少し物々しすぎるくらいだった。


「うーん、チョ〜〜っと大きい気もしないでもないけど、まあ、ないよりマシでしょ」


 そう言ってハルカがポンと帽子を被せると、大柄な軍人向けに作られた革の帽子は案の定大きすぎて、ずぼっと斜めに傾いてしまった。


 厳つい鷲の紋章と黒い鎖の装飾が、アリアの子どもっぽい服装と小柄さをかえって際立たせ、まるで父親の帽子を被して遊ぶ子どものようなアンバランスさを生んでいる。


「あはは! かわいい! アリアちゃんって本当子どもサイズだよね」

「これから成長するの!」

「はいはい」

「実は妹がアリアちゃんと同じ目の色なんだ。昔、僕の帽子を勝手にかぶってたことがあってね」

「……その妹って何歳?」

「今は十三歳さ」

「一緒にしないで!」

「あはは!」


 むすっと唇を尖らせるアリアに、ハルカは笑いながらさらにローブのフードを被せ、重たい帽子が落ちないように固定した。


 鏡を見ると、そこには無骨な革帽子とフードにすっぽりと包まれ、完全に金髪と素顔が隠れた自分がいた。

 アリアは、守られている安心感にほっと息をついた。


 ■■■


 宿を出て、森へ入る。


 今日の運転手であるハルカの前に乗って揺られていたが、昨日、夜の間に少し降った雨のせいで、馬の蹄が湿った土を踏むたび、ぐしゃりと鈍い音がした。

 木の根が入り組み、馬が何度も足を取られかける。


 やがて、これ以上は馬の脚に負担がかかると判断し、三人は馬を降りて歩くことになった。


「足元、気をつけて」


 ハルカが振り返る。

 漆黒の軍服を隙なく着こなした彼は、小さな風魔法を足元に纏わせているのか、泥を避ける所作すら優雅で完璧だった。

 けれど、その微笑の裏にある瞳は、常に周囲の気配を冷静に探っている。


「このあたり、雨の後は滑りやすいからね」

「……うん」


 アリアは深いローブの裾を持ち上げ、慎重に歩を進めた。


 昨日の村で見た、ハルカが村人と笑い合っていた温かな景色が、まだ胸に焼き付いている。

 檻の中にいたアリアにとって、彼が当たり前のように人と関わり、感謝される姿は眩しくて、少しだけ羨ましかった。


「アリアちゃん」

「え?」

「前、見て」


 ハルカの声が、ふっと温度を変えた。

 優等生の響きから、戦士の冷たさへ。


 森の奥で、枝が不自然に折れる乾いた音が響く。

 先頭を歩いていたセシルが、ぴたりと足を止めた。


 重厚な黒 of 軍服を纏い、彼が腰の剣に手をかけた瞬間、全身から圧倒的な魔圧が立ち昇る。

 ただそこに立つだけで、周囲の空気がビリビリと震え、森全体が彼の力に支配されるのが分かった。


「……来るぞ。雑魚が」


 セシルの声は傲慢で、けれど絶対的な自信に満ちていた。

 紫の瞳が淡く光りだし、口角がニヤリと上がる。

 獲物を前にした猛獣の顔だった。


 直後、茂みの奥から、濁った目をした巨大な魔獣がうなり声を上げて飛び出してくる。


「下がって!」


 ハルカが即座に防御魔法を展開する。

 不可視の風の壁が魔獣を弾き飛ばした。

 だが、魔獣は一体ではなかった。

 横手の茂みから、死角を突くようにもう一つの巨影が飛び出す。


「……っ」


 アリアが慌てて後ずさった瞬間、ぬかるんだ土の下に隠れていた木の根に足を取られた。

 身体が大きく傾く。


「アリア!」


 ハルカが手を伸ばす。

 だが、アリアを庇うために動いた一瞬、展開していた風の壁がわずかに揺らいだ。


 直後。

 空を切り裂くような、青白い雷光が弾けた。


「覚悟しろよ、クズども」


 セシルの掌から放たれた雷撃が、空中の魔獣の脳天を正確に貫く。


 爆音。

 焼け焦げた肉の匂い。


 雷に撃ち抜かれた魔獣が、最後の痙攣のように尾を振り回す。

 その尾が近くの枝を叩き折り、焼けた破片が鋭く弾け飛んだ。


 アリアは眩しさに、思わず両腕で顔を覆う。

 その拍子に、熱を帯びた鋭い枝の破片が彼女の腕を掠めた。


 じゅ、とローブの布が焦げる嫌な音がした。


「……っ!」


 細い腕に、火傷のような鋭い痛みが走る。


 セシルの魔法が魔獣を一瞬で消し炭に変え、残った一匹もハルカの放った不可視の風刃に叩き伏せられ、森には焦げた匂いと凍てつく沈黙だけが残った。


「終わったよアリアちゃん……って、怪我してるじゃないか。大丈夫かい?」

「……平気。後で聖力で治すから」


 痛みを堪え、震える声でアリアが言った。

 だが、焦げたローブの袖から滲む赤い血が、彼女の痛々しさを際立たせていた。


「平気じゃないよ。見せて。治すにしても先に周りを綺麗にしないと」


 ハルカがすぐに膝をついた。

 柔らかな、けれど有無を言わさない響きだった。


 軍服の袖を少し捲り、ハルカの大きな掌が、アリアの細い手首をそっと支える。


「ごめん。痛かったね」


 ハルカはすぐに手を緩め、ふうっと息を吹きかける。


「我慢しなくていいよ。痛いなら、痛いって言っていいんだ」


 その言葉に、アリアは少しだけ目を伏せた。


「ハルカって、そういうこと、すぐ言うよね。……言わないと分からないから、って」

「そうだよ」


 ハルカは目を細め、クスリと笑う。


「男は言葉にしないと分からない生き物だからね。特に、舌打ちと睨みつけることでしか感情表現できないような不器用なタイプには、はっきり『痛い』って言わないと伝わらないよ」


 チラリと、ハルカの視線が背後へ向く。

 アリアはそれに気づかず、小さく吹き出した。


「つまり鈍感ってことさ。嫌なことも、痛いことも、ちゃんと言葉で言いなさいって、妹たちにもいつも言ってるんだ」

「ふふ……ハルカって、本当にお兄ちゃんみたい」

「そう見えるなら光栄だね」


 バチッ!!


 その瞬間。

 背後の空気が、盛大に火花を散らした。


 振り返ると、魔獣を片付け終えたセシルが、こちらを射抜くような鋭い眼差しで立っていた。


 ハルカがアリアの手首を大事そうに支え、アリアがその温もりに安心した顔で笑っている。

 その光景が、なぜかひどく、どうしようもなく気に食わなかった。


 環境の、アリアの焦げた袖と、白く細い腕に血の滲む傷口がセシルの目に飛び込んでくる。


「……それ、なんだよ」


 低い、地を這うような声だった。

 アリアが顔を上げると、セシルは無言で大股に近づき、二人の間に強引に割って入るように膝をついた。


 そして、アリアの手首を支えていたハルカの手を、ドンッと乱暴に払い除ける。


「……何だよ、セシル」

「どけ」


 ハルカの声は穏やかだ。けれど、その目は少しも笑っていない。


「……俺の雷撃が当たったのか」


 セシルが傷跡を睨みつけながら低く問う。


「違うよ。君の雷が魔獣を撃った後、枝が弾けたんだ」

「同じだろ」


 セシルの声が、さらに重く沈んだ。


「俺が撃ったせいじゃねぇか」

「傷病中だった。それに、君が撃たなければ彼女は魔獣にやられていた。仕方ないよ」

「仕方ない、ね」


 セシルは自分を嘲るように短く吐き捨てた。

 それから、ぶっきらぼうにアリアの腕を引き寄せます。


 カバンから乱雑に水筒を取り出し、自分のハンカチに水を染み込ませると、丁寧に傷口の周りを拭いてやる。

 その手つきは、ハルカの滑らかな所作に比べれば圧倒的に乱暴で、不器用だった。


 けれど、傷口に布が触れる直前、彼の無骨な指先は不自然なほど慎重に、震えるほど優しくなった。

 まるで、絶対に壊したくない宝物を扱うように。


「……痛ぇか」

「……ううん、少しだけ」

「……そうかよ」


 セシルはそれだけ言って、歪な包帯を巻き終えた。

 ひどく不格好な結び目。

 けれどそこには、口下手な彼なりの、言葉にできない不器用な謝罪と後悔が凝縮されていた。


「……悪かったな。次からは気をつける」

「き、気にしてないよ」


 セシルは気まずそうに顔を逸らした。

 けれど、アリアの腕を離さない。


 包帯を巻き終えてもなお、彼はアリアの細い手首を、自分の高い体温で塗りつぶすように、親指でゆっくりとなぞり続けていた。

 アリアの血のついた傷口を見つめるその紫の瞳は、激しく動揺して揺れている。


「……すっげー気分が悪い。お前、もう二度と体に傷つけるな。……マジで気分悪い」


 胸の奥をかきむしられるようなセシルの苦しげな響きに、アリアは目を丸くした。


「セシル……。それって、私のこと、心配してくれてる……の?」

「違う! ただ俺はお前が……ッ、チッ、知らねぇ!!」


 耳まで真っ赤にして怒鳴るセシルに、アリアが圧倒されていると――背後から、少し拗ねたような低い声が降ってきた。


「あのー……。実は僕も、さっきの余波で頬に怪我をしてるんですが〜……」


 ハルカが自分の右頬を指差している。

 見れば、確かに肌にすっと一条の赤い筋が走り、薄く血がにじんでいた。


「テメェはいいんだよ! 唾でもつけと……」

「えっ! 本当だ! ごめん、ハルカ、気づかなくて!」


 アリアはセシルの手をすり抜け、慌ててハルカの元へ駆け寄った。


「すぐ治すから、動かないでね」


 アリアはハルカの前に回り込み、膝をついた。

 その綺麗な顔にそっと手を伸ばす。

 聖力がすぐに届くように、頬の傷へ顔を近づけた。


 そして息を吸い込み、歌う。


「――♪ ――……」


 鈴の音のような、小さな歌声がアリアの唇から零れる。

 その瞬間、白い光がふわりと灯り、ハルカの頬の傷を包み込んだ。


 アリアの吐息が、傷口にかかるほど近い。

 柔らかな桃とアプリコットの香りが、ほんの一瞬、風に混じる。


「っ……」


 ハルカの身体がわずかに強張った。

 だが、アリアはそれに気づかない。

 ただ真剣に傷口を見つめ、聖力を流し続けている。


 ほどなくして、赤い筋は跡形もなく消えた。


「はい、できた! ……って、ハルカ? 顔がすっごく赤いよ? もしかして熱が――」


 アリアが不思議そうにハルカの額に手を伸ばそうとした、その瞬間。


 バチバチッ!!!!!


 二人のすぐ横で、空気を引き裂くような凄まじい雷の火花が爆ぜた。


 セシルが、見たこともないような狂暴で、冷酷な眼差しで二人を睨みつけて立っていた。

 指先から漏れる紫の電撃が、地面の草をジリジリと焦がしている。


 ハルカは、アリアから一歩距離を取るようにして、静かに立ち上がった。

 触れられた頬が、まだ熱い。

 ハルカは何事もなかったように笑おうとして、失敗したように少しだけ息を吐いた。


「……なるほどねぇ」


 ハルカの呟きに、セシルの視線が鋭く跳ね上がる。


「何が」


 ハルカは見下ろすような角度で、口角だけを深く吊り上げた。

 いつも通りの食えない大人の笑み。


「君、やいたんだね!」

「はっ!? 誰が! くだらねぇこと言うな!」

「あれ〜? 雷撃で焼き払ったって意味で言ったんだけど〜? 違った〜?」


 セシルは顔を真っ赤にして声を荒らげた。

 だが、その瞳には、自分でも制御できない熱が宿っていた。


 ハルカの頬に、アリアの吐息がかかる。

 ハルカが一瞬、息を止める。

 その全部が、セシルの胸の奥を乱暴に掻き回した。

 何がそんなに腹立たしいのか、自分でも分からない。

 ただ、目の前の二人の距離を、今すぐ引き剥がしたくてたまらなかった。


「? セシルが雷で焼いたってこと?」


 アリアがトンチンカンな質問をする。


「うるせぇ。お前に関係ない」

「私の怪我の話なんじゃないの?」

「違う。行くぞ。もう歩けるだろ」


 セシルがぶっきらぼうに返す。

 そして立ち上がった。


 今度は、手首ではなく。

 アリアの小さな手のひらを、自分の大きな手で直接包み込むようにして、強引に引いた。


「えっ、ちょ、セシル!?」

「泥で滑るんだろ。さっさと歩け」


 心配だとも、離れたくないとも言わない。

 けれど握られた手だけが、やけに熱かった。


 文句を言わせない強引さで前を歩くセシルの耳が、ワックスで上げられた銀髪の隙間から、真っ赤に染まっているのが見えた。


 ハルカは差し出しかけた自分の手を、ゆっくりと下ろす。

 解けて、繋がれた二人の手と、ずんずんと進んでいくセシルの背中を見つめながら、たまらなく可笑しそうに肩を揺らした。


「やれやれ。番犬が優秀すぎるのも、考えものだね」


 ハルカの口元には笑みが浮かんでいた。

 けれど、その目は少しだけ鋭い。


 環境不意に、すぐ近くにあったアリアの唇を思い出し、無言で天を仰いだ。


「なんてね。僕もまだまだだなぁ」


 ハルカの独り言は、森の湿った空気に溶けて消えた。


 旅の空気は、あの一瞬の血の匂いと、セシルの不器用な熱によって、また少しだけ甘く、厄介なものに変質していた。

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