第14話【羨望】夢の国からやってきた紳士と、絶対に負けたくない番犬たち 〜3日目:ノヴァリア語が通じた日〜
町に着いたのは昼を少し過ぎた頃だった。
山道を抜けた先にある小さな町で、石畳の通りには馬車や荷馬が行き交い、干し草と焼き立てのパンの香ばしい匂いが混ざり合っている。
「ここで馬を替えるよ。アリアちゃん、少し休めるからね」
ハルカがそう言うと、アリアは重たい防具から解放されたように、ほっと息をついた。
ずっと馬に揺られていたせいで、足も腰も痛い。
けれど、宿場町の生きたざわめきは不思議と嫌ではなかった。
屋台の声。馬の嘶き。笑い合う人々。
誰かが普通に暮らしている、生の音。
静寂に包まれた鳥籠のようなエデンの、凍りついた静けさとは、まるで違う。
「……すごい」
ぽつりと呟くと、セシルが隣から鼻で笑った。
「ただの宿場町だろ」
「ただの、がすごいの」
そう言い返すと、セシルは少しだけ意外そうに眉を動かした。
「アリアちゃん、ここから歩こう。帽子とフードを深く被ってね」
ハルカはアリアの細い腰を優しく支え、壊れ物を扱うようにゆっくりと馬から下ろしてやる。
宿場町に入ると、空気が一気に変わった。
荷馬車の車輪がきしむ音。馬の熱い鼻息。焼き菓子の甘い匂いと、干し草と革の匂いが混ざり合っている。
アリアはぶかぶかの帽子のひさしとフードの奥から、そっと周囲を見回した。
海のように青い瞳が、宝石のように輝き出す。
エデンの中にはなかったものばかりだった。声も、匂いも、色も、何もかもが雑多で、少し怖くて、けれど一時も目が離せない。
「きょろきょろすんな。迷子になるぞ、出目金」
「迷子にならないもん」
「三歩でなりそうだけどな」
「ならない!」
むっとして言い返したときだった。厩舎の奥の方で、何やら激しく揉めている声が聞こえた。
宿場の男が困ったように両手を振り、顔を赤くしている。
その前には、帝国では見慣れない異国情緒あふれる衣装を着た男がいた。
褐色の肌に、鮮やかな緑の髪。短く刈り上げられた清潔感のある髪型だ。
真っ黒なのに絹のような光沢のある上着に、糊のきいた白いシャツ。首には長く垂れたタイ。
その随所に、銀や金の精巧なアクセサリーが光っている。
キリッとした太い眉毛の下には、穏やかで優しそうなグリーンの瞳。
丸いメガネをかけ、指先まで隙のない黒い手袋をしている。
金で縁取られた、キラキラとした小石がたくさんついた耳飾りが、アリアにはとても不思議で、かっこよく見えた。
背の高い馬車の傍らには、木箱がいくつも積まれている。
男は早口で、必死に何かを訴えていた。
『――――、――――!』
けれど、宿場の男はまったく理解できないらしく、困り果てた顔で何度も首を横に振る。「だから、分からねぇって。帝国語で言ってくれよ」
『――――!』
男は困ったように眉を寄せて、馬車の足元を指さした。
アリアは、その言葉を聞いた瞬間、思わず足を止めた。
聞き覚えがあった。
エデンの冷たい部屋で、本の中でしか知らなかった音。
対訳辞書を握りしめ、「こうだろうか、それともこうかな?」と、何度も何度も、独り言のように声に出して練習した言葉。
「……ノヴァリア語」
ぽつりと呟くと、ハルカが振り返った。
「分かるのかい?」
アリアは少し自信なさげに、けれど男の方を見つめたまま、深い青の瞳を揺らして頷いた。
「全部じゃないけど……たぶん」
セシルが怪訝そうに眉を寄せる。
「お前、外国語なんか分かんの?」
「……本で読んだの」
「本で喋れるようになるかよ」
「二つとも古代ラティウム語を語源としてるから学びやすいの。帝国語とノヴァリア語は、発音や言葉は違っても、文字が一緒なのよ」
アリアは、おずおずと男の方へ近づいた。
ハルカが守るようにすぐに半歩後ろへつく。
セシルも、面倒くさそうな顔を隠さず、けれど周囲を威圧するように黙ってついてきた。
「……あの」
アリアが声をかけると、ノヴァリアの男が振り返った。
アリアは緊張で、細く白い指先をぎゅっと握る。
それから、胸の鼓動を抑えながらたどたどしく言った。
『――……馬車、困って、いますか?』
発音は少し硬く、幼さが残っていた。
けれど、確かに意味は通じたらしい。
男のグリーンの瞳が、驚きで大きく見開かれる。
『――! ――――?』
勢いよく、弾むような声で話しかけられ、アリアはびくっと肩を跳ねさせた。
「は、早い……」
「何て?」
セシルが短く聞く。
アリアは必死に意味を拾い上げようと、男の口元をじっと見つめる。
知っている単語を拾う。馬。金具。壊れた。固定できない。走れない。
頭の中でパズルのピースを繋ぎ合わせるように、少し考えてから言った。
「……たぶん、その人、馬具の留め具が壊れたって言っています」
宿場の男が目を丸くした。
「留め具?」
アリアはノヴァリアの男が指さす先を見る。
荷馬車を繋ぐ革の馬具、その金属の留め具が歪んで外れかけていた。
「このままだと、走っている途中で荷馬車が外れるかもしれないって……それで、替えの金具か、直せる人を探してるみたい」
宿場の男は慌てて馬車の下を覗き込んだ。
「うわ、本当だ。こりゃ危ねぇな。おい、鍛冶屋を呼んでこい!」
周囲の者たちがばたばたと動き出す。
ノヴァリアの男は、ほっとしたように深い息を吐いた。
それからアリアに向かって、黒手袋をはめた手を胸に当て、深く頭を下げる。
『ありがとう。名前を聞いても?』
最後に聞こえた言葉に、アリアは目を瞬かせた。
『!あ、アリア・ブランシュ・メイフィールド』
『アリア、素敵な名前だ』
「なんだって?」
「……名前を聞かれた……と思う。す、素敵な名前だって。」
「お前、勝手に名乗るなよ」
即座にセシルの地を這うような低い声が響いた。
アリアはびくっと肩をすくめる。
「え?」
「知らねぇ商人に名前を教えんな」
「でも、お礼を言われただけで……」
「それでもだ」
セシルはアリアのフードを乱暴なほど深く引き下げ、その細く白い手首を掴んだ。
「お前は目立つんだよ」
「……目立ちたくて目立ってるわけじゃないもん」
小さく言い返したが、シュンとなって俯いてしまったその時だった。
ノヴァリアの男が、ほんの少しだけ表情を変えた。
商人らしい人当たりの良い笑みが、すっと消える。
ぶかぶかのフードの奥に見え隠れする輝く金髪と、吸い込まれるような深い青の瞳。
そして、セシルに手首を引かれ、反射的に肩をすくめたアリアの姿は、彼の目には怯えているように映ったらしい。
男は、周囲に聞こえないほど低い、けれど確かな声でノヴァリア語を口にした。
「――――?」
アリアの心臓が、ドクンと跳ねた。
知っている言葉だった。
本の中で何度も目にし、辞書の端に「大切な言葉」として自分で発音を書き込んだ。
けれど、誰かに直接向けられたのは初めてだった。
「……大丈夫か、って」
アリアは思わず呟いた。セシルが振り返る。
「は?」
ノヴァリアの商人は、ゆっくりと、でもはっきりと、こう続けた。
『ここからは、訳すな。もし、囚われているなら、瞬きを繰り返すんだ』
「!」
驚きのあまり、アリアは言葉を失った。
(この人、私を助けようとしているの……?)
『あ、あの……』
『変なことを聞いてすまない。でも、この国は野蛮なところがあるから』
商人はゆっくり、だけど確実に、帝国という国の在り方を批判した。
「だからなんて言ってんだよ」
「今、その人……私に………………」
ノヴァリアの男は、アリアの戸惑いを察したのか、すぐにまた隙のない商人の顔に戻った。
何事もなかったように、軽く頭を下げる。
けれど去り際、もう一度だけアリアをまっすぐに見つめた。
その目は、畏怖の対象である「聖なる御子」を見る目ではなかった。
珍しい「商品」を見る目でも、奇跡に縋って祈る目でもない。
ただの一人の少女を、純粋に心配し、慈しんでいる目だった。
アリアは、包帯が巻かれた自分の腕をぎゅっと握る。
歌ったわけではない。強制された聖力を使ったわけでもない。
ただ、冷たいエデンの部屋でひとり読み耽ってきた言葉が、外の世界で生身の誰かに届いた。
そして、その外の世界から初めて、「大丈夫か」という問いかけが自分へと返ってきたのだ。
『……だ、大丈夫、です』
アリアは、震える声でたどたどしいノヴァリア語を絞り出した。
商人はアリアの怯えたような震える声を聞き、彼女の言葉が本心ではないことを見抜いたのだろう。納得がいかないといった様子で、メガネの奥のグリーンの瞳を冷ややかに細め、アリアの手首を掴んでいるセシルを上から傲然と見下ろした。
その瞳は明らかにセシルを攻めていた。
この少女を好きなように売り飛ばそうとしているに違いないと、軽蔑の目をセシルにぶつける。
セシルは、その売られた喧嘩を真っ向から買うように、牙を剥き出しにした猛獣のごとき眼差しで激しく睨み返す。
――だが、それが、いけなかった。
セシルのそのあまりにも凶暴な態度が、商人に「やはりこの少女は不当に虐げられ、脅されているのだ」と確信させてしまったのだ。
商人はセシルの威圧に1ミリも怯むことなく、フッと交戦的に笑った。そして真っ黒な絹の上着の内ポケットから、独特の鈍い光沢を放つ最高級の革製財布を滑らかに取り出した。
セシルからアリアを遮るように一歩前に踏み出すと、アリアだけに聞こえる低く滑らかな声でこう囁いた。
『聞いてくれ。私は金ならいくらでも持っている。君を彼らから買い取って、その場で解き放つくらい、なんてことない。我が国ノヴァリアと、この野蛮な帝国との間にある金の価格差は、商人である私たちには恐ろしいほど有利なんだ。言い値を払ってやろう。だから――』
そう言いながら財布を開くと、これでもかと金貨が入っていた。
「テメェ……、アリアを買おうってか……!?」
ノヴァリア語の意味は分からずとも、「財布を取り出し、アリアを見つめながら、自分を値踏みするように見下ろした」その行動だけで、セシルは商人の意図を察知したつもりになった。
『ふん。見たところ魔道騎士団の制服だな?魔法を使えるのが自分だけだと思ったら大間違いだ。』
商人がおもむろに右手の黒い手袋を外す。
肌が露わになったその手の甲には、まるで生きているかのように怪しくうねる、鮮烈な【炎のマークの刺青】が刻まれていた。
魔力を帯びたその刺青を目ざとく見付けた瞬間、セシルの紫の瞳がギラリと獰猛に輝く。
「面白いじゃねーか。」
セシルの額にドクドクと青筋が浮かび上がり、怒りで全身の筋肉が爆発寸前まで膨れ上がる。掴んでいたアリアの手首から、バチバチッ、と焦げ付くような紫の電撃が漏れ出た。
「ち、違うのセシル! この人はただ、私にお礼をしたいだけよ……!」
このままではセシルがこの街ごと男を雷撃で消し炭にしてしまう。
アリアは恐怖を押し殺し、セシルの手をすり抜けて、必死の思いで商人と向き合った。
そして、男が広げようとした高価な財布の上に、自分の細く白いてのひらをそっと重ねた。
これ以上、お金を出さないで、それをポケットにしまって、と懇願するように優しく押し戻す。
深い青の瞳を真っ直ぐに男のグリーンの瞳へと向け、アリアはありったけの誠意を込めて、たどたどしいノヴァリア語を紡いだ。
『本当に、大丈夫。本当に、ありがとう』
言葉は拙くとも、アリアの瞳には嘘がなかった。 自分を所有物(商品)としてではなく、一人の人間として救おうとしてくれたこの異国の紳士への、心からの感謝と、「だからこそ、あなたに巻き添えになってほしくない」という必死の気遣い。
重ねられたアリアの手の平の、小さくて柔らかな熱を感じながら、男は一瞬だけ目を細めた。
セシルが今にも背後から剣を抜きかねない一触即発の空気の中、男の口元に、ふっと柔らかく、安心したような大人の微笑みが戻る。 彼女が自分の意志で「大丈夫」と言っているのだと、その手の温もりから察したようだった。
『そうか。君がそこまで言うなら、これ以上は無粋だね。安心したよ』
男は一瞬だけ目を細め、安心したように微笑んだ。
『それにしてもすごいね、どうやってノヴァリア語を学んだ?』
『! ノヴァリアの本、たくさん、読みまし、た』
『素晴らしい。とても上手だ。…そうだこれをあげよう、助けてくれたお礼だよ』
商人は自分の鞄から、一冊の本を取り出した。
そして裏返すと、そこにさらさらと流麗な文字で何かを書いた。
『アリアへ 感謝を込めて。リビオネアーロ商会 リー・ジェイン』
『リビ、オ? リージェイ……?』
『リー・ジェ・イン』
男は自分の名を、ゆっくりと区切って教えてくれた。
「こ、これをくれるの?」
男はこくこくと頷いた。
『ノヴァリアで流行っている本なんだ。旅のお供だったけど、もう読んだしね。君にあげる』
「あ、ありがとう!!! じゃない……『ありがとう』
商人は楽しそうに笑うと、最後にアリアの小さな手を取り、漆黒の手袋を外した素肌のまま、恭しくその白い手の甲に深いキスを落とした。
『いつかノヴァリアで会えたら、素敵だね?』
その瞬間、アリアの鼻を、ふわりと甘いムスクの香りが掠めた。
帝国にはない、海の向こうの異国を思わせる、どこか官能的で洗練された大人の香り。それが至近距離で一気に肺腑まで染み込んできて、アリアは思わず息を呑んだ。
キラキラと輝くグリーンの瞳が、その甘い香りの奥から、じっとアリアを見つめている。
「!!・・・『はい!』」
いつかノヴァリアで会えたら素敵…
アリアはその言葉を胸の中で繰り返した。
これまで、そんな風に異性から情熱的でスマートな親愛を示されたことなど一度もない。
アリアは耳まで一瞬で真っ赤にして動揺しながらも、幼い頃に叩き込まれた最高位の礼儀作法が反射的に身体を動かし、おずおずと右膝を少し曲げて、異国の挨拶に完璧に応えてみせた。
「何してんだよテメェエエエエッ!!!!!」
セシルが鼓膜をぶち破るほどの声で吠えた。
指先どころか全身からバチバチと狂ったように紫の雷光が暴発し、今すぐリーの首をねじ切らんばかりに手を伸ばす。
だが、商人はそんなセシルの脅迫を、ゴミでも見るかのように冷ややかに一瞥しただけだった。
そのままヒラヒラと優雅に手を振りながら、石畳の向こうへと去っていく。
セシルは最後にビッと中指を立てて威嚇するのを忘れなかった。
ハルカは心から感心したように、アリアの頭を優しく撫でた。
「アリアちゃんすごいね。あのまま走っていたら、荷馬車ごと横転していたかもしれない」
アリアは、ノヴァリアの男から受け取ったばかりの、まだ温もりの残る本を胸元に抱きしめた。
変な感じだった。
歌ったわけではない。誰かに命じられたわけでもない。
ただ、エデンの部屋で、ひとりで積み重ねてきた本の言葉が、外の世界で誰かの役に立った。
これが「自分の力で生きる」ということなのだろうか。
「……本当に、通じた」
思わずこぼれた声は、自分でも驚くほど小さかった。
けれど、胸の奥が熱く、誇らしい気持ちで満たされている。
セシルが横目で、じっとその顔を見る。
「何、にやけてんだよ」
「にやけてない」
「にやけてる」
「嬉しかっただけ」
「言葉が通じて?」
「うん」
アリアは少しだけ頬を朱に染めながら、けれど今度は、セシルをまっすぐ見つめてはっきりと言った。
「私が、自分で覚えたことだから!」
その凛とした言葉に、セシルは一瞬言葉を詰まらせて黙った。
アリアは貰ったばかりの本を愛おしそうに見つめながら、うっとりと頬を緩める。
「はぁ!あの人、すっっごくかっこよかったぁ!」
「……あ?」
「……は?」
セシルの地を這うような低く掠れた声と、ハルカのいつもよりワントーン低い声が、見事にハモった。
アリアは二人のただならぬ気配に気づかず、自分の世界に入ったまま言葉を続ける。
「お洋服もすごくお洒落だったし、メガネも素敵だった。みて!ここに商会って書いてある。きっと何か仕事をしにここへきたのね。それに、なんだか、すごく……甘くていい匂いがしたの。なんていうか、大人の男の人って感じの――」
ピシッ……!!!!!
その瞬間、二人の男の何かが、あからさまに、同時に凍りついた。
セシルの指先からバチバチッと黒い火花が暴発し、ハルカの周囲の空気が一瞬で笑顔を忘れた極寒の嵐へと変貌する。
「お前、男の匂い嗅いでんじゃねぇよ馬鹿出目金……!!」
「セシル、口が悪いよ。……でもアリアちゃん、僕たちだって毎日ちゃんと湯を使って、それなりに身だしなみには気をつけているつもりなんだけどなぁ? あの見ず知らずの異国の男の方が、僕たちよりいい匂いがしたのかな……?」
ハルカは口元だけは笑っていたが、その目が完全に笑っていない。それどころか、いつも以上に凄まじい圧を放っている。 アリアは、さっきまでお兄ちゃん(あるいはママ)のように優しかったハルカまでが、セシル並みに剣呑なオーラを放ち始めたことに本能的な恐怖を覚え、ひぃっと肩をすくめた。
「な、なによ二人とも……。ただ、本当のこと言っただけじゃない……っ」
ハルカは、フッと一息つくと、無理やりいつもの優等生の笑顔を顔面に貼り付け直した。
「……ノヴァリアか。いいね。素敵な紳士だった(ということにしておこうか)」
「そ、そうだね……」
「でも本当にすごいね、アリアちゃん」
「すごくないよ。まだ、少ししか分からないし」
「普通は、本だけでここまで話せるようにはならないよ」
「……そうなの?」
「そうだよ」
ハルカが当たり前のように、確信を持って言うと、アリアの表情がぱあっと明るくなった。
セシルはそれを見て、なぜか少しだけ面白くなさそうに眉を寄せる。
「ただの本の虫なんじゃん」
アリアは少しだけ、小さな胸を張った。
「ただの、がすごいの!」
アリアは貰ったばかりの異国の本を胸にぎゅっと抱きしめ、泥だらけの靴のまま、くるりと振り返る。
「今度、新しいノヴァリア語の辞書が欲しいな! 行こう、ハルカ、セシル!」
初めて彼女の方から、彼らの前を堂々と歩き出した。
その足取りは、背中に透明な羽が生えたように軽やかだった。
「私、いつか必ずノヴァリアへ行くわ!そしてもっと勉強するの!!」
セシルは呆れたように息を吐きながらも、誇らしげに揺れる小さな背中から、どうしても目を逸らすことができなかった。
■■■
・・・・・・その夜。
暗い、暗い、あまりにも深い闇。
昨夜まで、アリアたちが確かにそこに泊まっていたはずの、温かな残り香すら感じられないほど冷え切った部屋。
そこに、先ほどまで灰色の雲に分厚く隠されていた月明かりが、そっ…と、這うように差し込んだ。
窓から滑り込んだ冷たい蒼白の光は、空虚な空間を照らし、誰もいない床の上に、奇妙に歪んだ不気味な影の模様を浮かび上がらせた。それはまるで、彼らの足跡を消し去るために現れた、冷徹な死神の指先のようでもあった。
誰の気配もない。
乱れていた寝台は整えられ、使われたカップも片づけられ、鏡台の上には淡い月光だけが落ちている。
けれど。
部屋の隅の暗がりが、ぬるり、と揺れた。
黒い影の中から、真っ白な手が這い出てくる。
ぬる、ぬる、、、ぬるり・・・。
細く、長い指だった。
血の気のない白い手が、壁の影から、ぬるり、ぬるりと伸びていく。
手首はない。
腕もない。
ただ、手だけがそこにあった。
指先は何かを探すように、床を撫で、椅子の脚をなぞり、鏡台の縁を這った。まるで宮廷ダンスを踊っているかのような軽やかさだ。
トっ!トトトトトっ!
指先が軽快に床を鳴らす。まるで小さな動物のようでもあった。
やがて、鏡の前で止まる。
そこに、淡いピンク色のリボンが鏡の裏に落ちている。
白い指が、指先でつまんで、鏡の裏からそっと引き摺り出す。長いリボンだ。サテンが月光を柔らかに反射しながら、引き摺り出された。
袖口で、銀の蔦の刺繍が、月明かりを受けてかすかに光った。
手は、しばらくリボンを眺めていた。
ひらり、と揺らす。
指に巻きつける。
ほどく。
また、巻きつける。
やがて、その白い指が、リボンをぎゅうううっと握った。
まるで、そこに残った誰かの体温を確かめるように。
それから、手はゆっくりと壁へ戻っていく。
ぬるり。
ぬるり、と。
蛇が巣穴へ戻るように、白い手は影の中へ後ずさった。
最後に、リボンの端だけが月明かりの中で一度だけ揺れた。
次の瞬間。
手が壁の中へずぶずぶと入っていき、引き摺り込まれるように長いリボンが消えていく。
部屋には、何事もなかったかのように、静寂だけが残った。
最後まで描き切ってますが、ちょこちょこ修正しながらアップしてます。
いいね、ブクマ、感想などいただけるととても嬉しいです!




