第12話 【カラダ】同じ部屋で眠る夜〜2日目の深夜:騎士2人は筋肉を追い込む。……あんたたちって本当に変。
ギシギシ……。
「……はぁ」
「ふ……」
護衛のため、三人は同じ部屋を取ることになった。
宿屋の一室は、広いとは言えなかった。
寝台が二つと、古びた長椅子が一つ。窓辺には小さな机があり、ランプの明かりが木の床に淡く揺れている。
窓の外では、雨上がりの夜気が静かに流れていた。
静まり返った部屋の床で、セシルは黙々と腕立て伏せを繰り返していた。
ハルカは少し離れたところで腹筋をしている。
大粒の汗が床へ滴り落ちる。
上着もシャツも脱ぎ捨てた二人の背中に、ランプの淡い光が深い陰影を刻んでいた。
ただ鍛えられている、というだけではない。
血なまぐさい前線で、幾度も魔獣と渡り合い、命を拾ってきた男たちの身体だった。
肩から背中、腕へとつながる線は強く、しなやかで、無駄がない。
荒い呼吸のたびに肌がわずかに揺れ、汗が光を拾って滑り落ちてしていく。
どれだけ身体を追い込んでも、胸の奥にざらつく焦燥感は消えてくれない。
(守るって、何を護衛してんだよ、俺たちは)
さっき、マントの中で自分の衣服に押し付けられた、柔らかくて温かいアリアの身体の感触。
ハルカの男物の服に包まれて、太ももまで露わにした生足を晒し、油断しきっていたあの無防備な少女の姿が脳裏をよぎる。
(……あんな恰好でっ!)
そのたびに腕を突く速度が上がり、床が悲鳴を上げた。
アリアは部屋の隅に腰を下ろし、ノヴァリアの本を開いていた。
本には、海の向こうの共和国のことが書かれている。
ノヴァリアでは、聖力や魔力を持つ人間も、普通の市民と同じように暮らしているという。
誰かの所有物になることもなく、血筋のために番を強いられることもない。
肌の色も、髪の色も、瞳の色もさまざまだ。
チョコレート色の肌。象牙色の肌。淡い緑の髪。薔薇色に近い瞳。
そこでは、金の髪も深い青の瞳も、隠さなければならないものではないのかもしれない。
アリアは憧れを宿した目でページを見つめ、そっと、自分の髪に触れた。きゅっと切なげに眉の端を下げ、指先に金の毛束を絡める。
(ノヴァリアでなら、この髪を隠さずに歩けるのだろうか……)
そんなことを考え、ほんの少しだけ夢見るように口元を緩めた。
ふと視線を上げると、部屋の中央では、セシルとハルカがまだ自分を追い込んでいた。
二人の荒い呼吸が室内に満ちている。
剥き出しの背中がランプの火に照らされて、力強く陰影を揺らしていた。
不意に、床を睨んでいたセシルの鋭い紫の瞳が跳ね上がり、アリアと視線がぶつかった。
アリアはカタッと両方の眉を大きく跳ね上げ、丸い目をさらに丸くした。
「見てんじゃねーよ、出目金」
「み、見てないし!」
アリアはサッと本で顔を隠した。
(なによ、あんなに汗かいて……)
けれど、本で隠した顔は、林檎のように赤く染まっていた。恥ずかしさに眉をハの字に歪め、熱くなった頬を隠すように本をぎゅっと顔に押し付ける。
エデンにいた神官たちのような、ぶよぶよとした肉体とは全く違う。
生きるために研ぎ澄まされた、強い男の身体。
汗で湿った銀髪を振り乱し、自分に向けて「見てんじゃねーよ」と吠えたセシルの瞳には、熱病のような圧があった。
「……あんたたち、本当に変」
アリアが本の陰から目を少しだけ覗かせ、不満げに眉をひそめてぼそりと言うと、ハルカが腹筋をやめて、にこりと笑った。
床に肘をついて、どこかリラックスしている様子は、やけに艶めいて見える。
「寝る前に身体を整えておかないと、いざという時に動けないからね」
「いざという時?」
アリアは本を少し下げ、怪訝そうに片方の眉を小難しく持ち上げた。
「夜中に襲われたり、追っ手が来たり、君が窓から逃げようとしたり?」
「逃げないわよ!」
図星を突かれたような気がして、アリアは頬をぷっと膨らませ、キッと眉を吊り上げてハルカを睨んだ。
「三階からシーツで降りた実績がある子の言葉は、少し信用が難しいかなぁ」
「うるさい!」
口元をきゅっと尖らせて怒るアリアの前で、セシルが床から身体を起こし、濡れてもいないのに乱れた前髪を掻き上げた。
「まあ、逃げたら捕まえるだけだけどな」
「絶対に逃げないから!」
「その台詞、逃げる奴が言うんだよ」
「最低!」
セシルと言い合うたびに、アリアの眉はハの字になったり吊り上がったりと忙しく動く。セシルが鼻で笑うと、ようやく立ち上がった。アリアはフンと横を向きながらも、その動きを意識せずにはいられない。
汗ばんだ首筋に、ランプの光が薄く反射している。
「風呂行ってくる」
「僕もあとで使うよ。アリアちゃんは先に寝てていいからね」
■■■
「……ふぅ。そろそろ、明日の道を確認しようか」
ハルカが風呂から戻ってきた。首筋の汗を無造作にタオルで拭う。
セシルも「ああ」と短く吐き捨てると、長い指先で湿った銀髪を後ろへ掻き上げた。
狭い室内は、二人の男が発する熱気と、湯上がりの瑞々しい匂いで満ちていた。
あまりの暑さに、二人はシャツを着直すことすらしない。
剥き出しの上半身のまま、中央の小さな机を囲む。
机に地図を広げ、覗き込んだ。
ランプの光を正面から斜めに浴びる二人の背中は、広く、厚い。
セシルの肩甲骨から腰にかけて刻まれた深い線。
ハルカの腕に宿る、しなやかで静かな強さ。
同じ年頃の青年とは思えない。二人の身体は、血なまぐさい前線で生き抜いてきた時間を、黙って物語っていた。
同じ男物のパジャマに包まれているのに、アリアが着るとあんなに華奢でぶかぶかだった生地が、ハルカの肌のすぐ隣に脱ぎ捨てられている。
それを見て、アリアは逃げ場のない体格差を改めて突きつけられた気がして、圧倒されながら眉の間にかすかな力を込め、本をぎゅっと握りしめた。
「街道をずっと行く道もあるけど。人目を避けるという意味では、最善ではないかもしれないね」
ハルカが、冷静な声で地図を指差す。
「山をいく。最短で突っ切りたい」
「君はすぐそういうことを言う」
「北部前線を考えたら、最短がいいに決まってるだろ」
セシルの腕に、怒りを抑え込むような力がこもる。
浮き出た血管が、ランプの光の中で静かに脈打っていた。
いつもは後ろできっちりと一つにまとめているハルカの髪が、今は無造作に下ろされ、さらさらと揺れている。
ランプの光を反射するその姿は、普段の完璧な優等生の顔つきに、どこか気怠げな大人の色気を混じらせていた。
一方のセシルは、蜜蝋でオールバックにしていた銀髪が、湯上がりで完全に下りている。
無造作に垂れた長い前髪の隙間から、妖しく光る紫の瞳が覗いていた。
まだ少し濡れて額に張り付いた銀の束が、整いすぎた顔立ちに深い影を落とし、普段の凶暴な雰囲気とは少し違って見える。
アリアは、思わず二人を睨みつけた。鼻先を少しだけツンと尖らせ、ムッとした表情を作る。
(何よ。二人だって警戒解いてるくせに……)
けれど、その考えはすぐに間違いだと分かった。
階下では、酔っぱらいたちが流行りの歌を歌いどんちゃん騒ぎをしている。
酒を飲み、大声で話して笑っている。
時々階段を乱暴に登ってくる音がする。
廊下の向こうで床板がかすかに鳴るたび、セシルの指が地図の上で止まる。その瞬間、アリアはセシルの目元が険しくなるのを見た。
窓の外で枝が揺れる音がするたび、ハルカの視線が一瞬だけそちらへ流れる。
口では好き勝手なことばかり言っている。
けれど二人は、私を守るために、ずっと気を張ってくれているのだ。
ふたりとも、私を閉じ込めようとしているわけじゃない。
私を弱いものとして見下しているわけでもない。
ただ、守ろうとしてくれている。
私が怖がらないように、できるだけ何でもない顔をして。
そのことに気づいた瞬間、アリアはハッと小さく目を見開き、それから胸の奥が少しだけ痛くなって、そっと睫毛を伏せた。
守られるのは、安心する。
でも、安心するだけではいけない気がした。
二人の低く心地よい声を聞きながら、アリアは寝台の端に横になった。
本を胸に抱えたまま、ぼんやりと天井を見上げる。
帝都。
そこへ行けば、自分は大きな儀式をするのだという。
北部の魔窟から、帝国全土に広がっている結界を立て整えるための儀式。
当代で最も強い聖力を持つ自分にしかできないこと。
そう聞かされている。
けれど。
その後は?
儀式が終わったら、自分はどうなるのだろう。
またエデンへ戻されるのか。
それとも、誰かと番契約を結ばされるのか。
リサのように、笑っていても目の奥が遠い人になってしまうのか。
考えた瞬間、心臓がどくんと大きく鳴った。
どく、どく、どく。
胸の奥で音が膨らんでいく。
アリアの美しい眉が、痛ましげにキュッと中央に寄せられた。
息が浅くなる。血の気が引き、ぷるぷると唇がわずかに震え、指先が冷たくなる。
アリアは、二人に気づかれないように、必死でこわばる顔を隠しながら寝返りを打った。
鞄をそっと引き寄せ、奥の方を探る。
上目遣いで、地図を睨む二人の背中を盗み見ながら、指先にひんやりとした小瓶が触れた。
エデンで、泣き叫ぶたびに飲まされていた鎮静薬。
飲めば、少しだけ楽になる。
怖いことを、怖いと思わなくて済む。考えなくて済む。
小さく栓を抜く。
息を殺し、眉根を寄せて音を立てないように細心の注意を払う。けれど、きゅぽん、と乾いた音がした。
アリアはびくりと肩を揺らし、慌てて息を止め、瓶の中から丸薬を二粒だけ取り出した。
二粒だけ。
それ以上は、飲まない。
そう自分に言い聞かせるようにして、ぎゅっと目を閉じ、乾いた喉へ押し込む。
苦い味が舌に広がり、アリアの眉が苦渋に小さく歪んだ。
すぐに栓を戻し、何事もなかったように本を抱き直して、寝台へ横になる。
窓の外には、月が出ていた。
きっと明日は晴れるだろう。
思考は少しずつ遠くなっていく。
胸の奥で暴れていた不安が、薄い布をかけられたように鈍くなる。
怖い、という感情の輪郭がぼやける。
宿屋の1階で流れている、流行りの歌が遠くに聞こえる。
<♪今夜は、そうね
一夜にして大人になった気分>
帝都のことも、儀式のことも、祖母の死も、母の顔も。
すべてが、少し遠くなる。
楽になったのか。
それとも、考える力がなくなっただけなのか。
もう、よく分からなかった。
さっきまで強張っていたアリアの眉から、ふっと力が抜けていく。
<♪もう神様に恋してた頃には戻れない。
ごめんね?好きと言わせるまでが、楽しいって気づいちゃったの>
遠くに聞こえる音楽が、頭を支配していく。
<♪だって、退屈だったのに
あなたが現れたその日に
輝き出してしまったのだから
仕方がないでしょ>
流行りの歌だった。
誰が歌っているんだろう。
まぶたが重くなり、とろんとした虚ろな目元のまま、ゆっくりと意識が沈んでいく。
指先から力が抜ける。
「へったくそ…」
(私の方が、上手よ)
抱きしめていた本が、腕の中から滑り落ちた。
とさり。
小さな音がした。
「……アリアちゃん?」
先に気づいたのは、ハルカだった。
地図から顔を上げ、寝台の方を見る。
アリアは、長い金の髪を月明かりに照らされながら、深く眠っていた。
表情からは一切の険しさが消え、まるで無機質な人形のように、ただ穏やかに呼吸を繰り返している。けれど、あまりにも急に眠りに落ちたように見える。
ハルカは静かに歩み寄り、床に落ちた本を拾った。
開かれていたページをそっと閉じ、枕元へ置く。
それから、アリアの肩に布団をかけようとして——ふと、寝台の端に転がった小瓶に気づいた。
「……」
ハルカの柔らかな表情が、少しだけ消える。
瓶を拾い上げる。
半透明の小さな薬瓶。中には、白い丸薬がいくつも入っていた。
ただし、残りは多くない。
「……鎮静薬、か」
低く呟いた声に、セシルが地図から顔を上げた。
前髪の隙間から覗く紫の瞳が、剣呑に細められる。
「何だそれ」
ハルカは返事をせず、瓶を軽く振った。
かちゃ, と乾いた音がする。
「半分以上、減ってる」
セシルの目がさらに細くなった。
「……あいつが飲んだのか」
「たぶんね」
ハルカは瓶を握ったまま、眠るアリアを見下ろし、静かにセシルへ渡した。
セシルは無言で薬瓶を見る。
「エデンに渡されていたか、あるいは飲まされていたかだね。泣いた時、暴れた時、不安になった時に」
「……」
セシルの声が地を這うように低くなる。
「薬で黙らせてたってことか」
ハルカが静かに答える。
「言い方は悪いけど、そういうことだろうね」
けれど、その目は決して穏やかではなかった。
「彼女は昨日、薬を飲まずに寝ていた。雨の夜でも、魔獣に襲われた後でも。なのに、今日は飲んだ。帝都のことを考えたんだと思う」
ハルカの声が少し沈む。
「儀式のこと。その後のこと。自分がどう扱われるのか」
セシルは黙った。
アリアは眠っている。
月明かりの中、金の髪が枕に広がっていた。
さっきまであれほど眩しく見えた髪が、今はどこかひどく頼りない輝きに見える。
小さな瓶ひとつで、怖さを押し込めなければ眠れない少女。
それが、国を救う御子。
「……胸糞わりぃ」
セシルは吐き捨てるように言い、薬瓶をしばらく見つめていた。
やがて、乱暴に机の上へ置く。
「取り上げるのは簡単だよ」
「じゃあ取り上げろよ」
「でも、それをしたら彼女はもっと怖がる」
セシルが苛立たしげに眉を寄せる。
ハルカは眠るアリアを見たまま、続けた。
「じゃあ、どうすんだよ」
「さぁね」
「はぁ?」
「別に飲み続けたっていいし、飲まない選択をしてもいい。決めるのは彼女んだ」
セシルは何も言わなかった。
ただ、机の上の小瓶を睨む。
それから、低く呟いた。
「……次、飲もうとしたら?」
「さぁねぇ。どうしたらいいんだろうね。何が正解なのか、わからないよ。飲むのがただただ悪いとは思わないんだ」
「なんでだよ」
「人は弱い生き物だからね」
「……」
「でも、この薬を、彼女が飲まなくてもいいようになればいいと、そう思うよ」
セシルは深くため息をついた。
長い前髪が揺れ、その奥にある苛立ちを隠す。
「面倒くせぇな」
「そうだね」
ハルカは少しだけ苦笑する。
「でも、そういう子を連れてるんだよ、僕たちは」
部屋に沈黙が落ちた。
窓の外では、雨上がりの夜気が静かに流れている。
「……クソが」
深夜。
静まり返った部屋の床で、セシルはまた自分を追い込み始めた。
ハルカの男物の服に包まれて、生足を晒して油断しきっていたあの無防備な少女が、いま、自分たちのすぐ横で、薬に頼らなければ眠れないほどの絶望に怯えている。
魔術の天才と持ち上げられながら、その不安の小瓶ひとつ奪うこともできない。
その事実が、腸が煮えくり返るほど腹立たしかった。
「セシル。床が壊れるよ」
長椅子に腰掛け、静かにナイフの手入れをしていたハルカが、低く呆れた声を出す。
そのハルカも、いつもの完璧な笑みを完全に消し、氷のように冷徹な目をしていた。
「うるせぇ。……明日からの行軍、さらに速度を上げるぞ。魔獣が出たら全部俺が焼く」
汗を滴らせたまま、地を這うような声でセシルが言う。
「帝都に着いたら、魔塔とエデンの連中に問いただしてやる」
アリアを檻に閉じ込め、薬を飲ませ、都合のいい贄にしようとする大人たち。
その全員を焼き尽くすほどの魔力が、セシルの指先から紫の火花となって漏れ出ていた。
ハルカは小瓶を見つめたまま、小さく頷いた。
「……うん。そうだね。僕も、手伝うよ」
窓の外では、雨上がりの夜気が静かに流れている。
アリアは眠っている。
自分が直面する残酷な未来を何も知らずに。
ただ、薬で不安を薄められたまま、静かに息をしている。
セシルは息を整えると、アリアの横に立った。
しばらくその寝顔を見下ろしていた。
そして、自分でもよく分からない苛立ちを押し殺すように、乱暴に椅子へ腰を下ろした。
月明かりの中。
机の上の薬瓶だけが、冷たく、切なく光っていた。
旅も半分まできました!
旅の前半は3人の気持ちの積み重ね、そしてアリアの「生きること」や「力を持つこと」に対する学びを深めていきます。
いいねやブックマーク、感想、ご指摘などいただけると本当に嬉しいです!毎日21時更新です^^




