第11話 【油断と限界】塞がれた唇と、ある魔術師の焦げ付く嫉妬〜2日目の夜:護衛騎士のパジャマに包まれて〜
宿の一角にある小さな浴室で、アリアは二日ぶりに湯船に浸かっていた。
薪で沸かされたお湯は少しだけ煙の匂いがしたけれど、冷え切った身体の芯までじんわりと温めてくれる。
「……はぁ」
思わず、深く息を吐き出した。
肌にこびりついていた土を落とし、髪をほどく。
リサが入れておいてくれた石鹸は、アリアの好きなピーチとアプリコットの香りのものだった。
たっぷりと泡立てて洗い流すと、浴室いっぱいに甘く瑞々しい香りが立ち込める。
それだけで、背負っていた重たい鎧を脱ぎ捨てたように身体が軽くなった気がした。
エデンのような白亜の浴室ではない。香油の高貴な匂いもしないし、湯浴みを手伝ってくれる侍女もいない。
けれど、木板の壁に囲まれた薄暗いこの空間が、アリアにはたまらなく心地よかった。
(……自分で洗うのって、こんな感じなんだ)
濡れた髪を自分の指で梳きながら、ぽつりと考える。
誰かに管理されるのではなく、自分の意志で汚れを落とし、自分の手で髪を整える。
今日、震える手で馬の手綱を握った時のことを思い出した。
怖かったけれど、自分で前に進んだという確かな感覚。
それは、お湯の温かさとは別の意味で、彼女の胸の奥をぽかぽかと温めていた。
「……アリアちゃん、お湯加減はどう? 寒くない?」
扉の向こう側から、ハルカの穏やかな声が聞こえた。
「うん大丈夫!あったかいよ」
「よかった。着替えはそこの籠に入れてあるからね。ゆっくりでいいから」
「ありがとう、ハルカ」
扉のすぐ外、つまり廊下では、ハルカとセシルが律儀に見張りに立ってくれている。
男ばかりの安宿で、しかもアリアのような目立つ少女が一人で入浴するのだ。いくら平和な村とはいえ、何があるか分からない。過保護とも言える気遣いが、今はただありがたかった。
一方、扉の外。
セシルは腕を組んで、壁に背を預けていた。
「……お前、過保護すぎんだろ」
呆れたように呟くセシルに、ハルカは微笑む。
「当然でしょ。彼女は大事な御子なんだから。それに、あんな無防備な顔でうろうろされたら、さっきの村の男みたいなのがまた寄ってくるかもしれないし」
「チッ……」
セシルは舌打ちして、そっぽを向いた。
ハルカの言うことは正論だ。護衛任務として当然の行動だ。
けれど、その完璧な保護者としての立ち振る舞いが、セシルにはなぜかひどく気に入らない。
「なんっで俺が、こんな見張り番みたいなこと」
「ふふ、大変ですねぇ坊ちゃん?」
「うるせぇ殺すぞ」
「はいはい」
苛立たしげに銀髪を掻き上げる。
扉の向こうからは、かすかな水音とともに、ふわりと甘い香りが漂ってきた。
ピーチとアプリコット。
むせ返るような男ばかりの宿屋には絶対に似つかわしくない、むき出しの『女の子』の匂い。
——私だって……お風呂くらい、入りたい。
昼間、泥だらけで泣きそうになりながら叫んでいた彼女の顔が、ふいに脳裏をよぎった。
(……あいつ、絶対今、めちゃくちゃ嬉しそうな顔してんな)
そう思った瞬間、さっきまで胸の奥に燻っていたざらついた不快感が、ほんの少しだけ薄れたような気がした。
それに気づいて、セシルはさらに深く眉を寄せる。
隙間から漏れ出してくる甘い匂いも、自分の感情の揺れ動きも、どうにも気味が悪かった。
「……何なんだよ、本当に」
誰にも聞こえないほどの小さな声で呟き、セシルは深くため息をついた。
湯上がりのアリアはすっかり油断していた。
二日ぶりの湯の温かさに、頑なに張っていた心の糸がふっと緩んでしまったのだ。
濡れた髪を拭きながら、彼女は何気なく浴室の扉を開けて廊下へ出た。
ターバンも被らず、隠すべき金髪をそのまま肩に垂らした姿で。
「ふぅ、あったまった……」
独り言を漏らしながら顔を上げた瞬間、目の前にいた二人の視線とぶつかった。
廊下の壁に背を預けて立っていたセシルと、その横で座っていたハルカが、揃って石のように固まる。
窓から差し込む月光と、宿の薄暗いランプの火。
その微かな光を吸い込んで、濡れたアリアの髪は、まるで絹糸に命を吹き込んだかのように輝きを放っていた。
蜂蜜色の金に、薄桃の光を含んだ髪は、光を浴びると花びらを透かしたように淡く桃色が浮かんだ。
そして何より、扉が開いたことで、彼女を包み込んでいたあのピーチとアプリコットの香りが、廊下いっぱいに弾けるように広がったのだ。
「……?」
アリアは、どうしたの?と首を傾げた。
一瞬、セシルとハルカは息を忘れた。
籠の中に用意されていた着替えは、ハルカの私物のパジャマだった。
長身の彼が着ている男物の衣服は、小柄なアリアにとってはあまりにも大きすぎた。
肩のラインは不格好に落ち、長すぎる袖の先からは、白い指先がほんの少し覗くばかりだ。
しかも、ダボっとしたパジャマの裾がアリアの太ももの半ばまでをすっぽりと覆ってしまっていたため、下に穿いたはずの半ズボンが完全に隠れてしまっている。
まるで何も穿いていないかのように、衣服の裾からすらりと伸びた、無防備で白い生足。
圧倒的な男と女の体格差をこれでもかと見せつけるその姿は、かえって剥き出しの、容赦のない扇情的な色気を放っていた。
タオルで拭っただけの濡れた金髪がしっとりと首筋に張り付き、湯上がりで林檎のように赤く染まった頬。そして、少し潤んだ宝石のような深い青の瞳。
廊下に出た瞬間、その姿を正面から浴びた二人が、完全に石のように固まったのも無理はなかった。
一瞬の間を置いて、アリアはすぐに自分の失態に気づいた。
しまった、という顔をして、慌てて手元のタオルで頭を覆おうとしたが、長すぎる髪は小さなタオルでは隠れきれない。
だが次の瞬間、廊下の向こうの階段から、不規則な足音が聞こえ、セシルの顔から余裕が消えた。
「アリアっ……!」
セシルは弾かれたようにアリアへ詰め寄ると、その長い指先で彼女の華奢な肩を乱暴に掴み、自分の懐に強引に引き寄せた。
驚くアリアの顔も、そして彼女の輝く髪もすべて隠すように、彼は自分の大きな紺色のマントを力任せにばさりと被せて壁に押し付ける。
「な、何っ?」
「『何』じゃねぇよ、この馬鹿出目金!隠せっつっただろ!」
「……っ、忘れてたの!」
「忘れるな、命に関わるんだぞ」
「でもっ」
「静かにしろ。」
セシルはグッとアリアに体を寄せてさらに隠した。
セシルの声は怒っているようでいて、どこか余裕がなかった。
「あ〜〜? なんだぁ、すげぇいい匂いがするぞぉ〜?」
階段を上がってきたのは、大柄な酔っ払いの男たちだった。一階の飲み屋から上がってきたらしい彼らは、鼻をひくつかせ、肩を組んでご機嫌に歌いながら、セシルたちのすぐ横を通り過ぎていく。
ハルカが冷ややかな目で男たちを見張る。
アリアはマントの暗闇の中でフイと顔を上げた。
セシルを見つめようとした、その拍子だった。
シャツ一枚で包まれただけのアリアの胸が、グッとセシルの硬い軍服の胸板に、逃げ場なく押し付けられた。
「……っ」
押し潰されるような、温かく、あまりにも柔らかな感触。
セシルが息を呑んで見下ろした瞬間、眉を八の字に下げたアリアと目が合う。
窓から差し込む微かな月光が、マントの隙間からアリアの首元へ滑り込み、視線が自然と降りていってしまう。
顔を上げたアリアの、顎から首筋へのなめらかなライン。
そして、襟元が重力に負けてわずかにずり落ちていた。
薄暗がりの中で剥き出しになった、つるりと白い鎖骨。
その下、シャツのV字の境界線に、深く、柔らかに波打つ、生々しい胸の谷間が、はっきりとセシルの瞳に映り込んだ。
谷間から立ち上る、むせ返るようなピーチとアプリコットの、熱を帯びた甘い匂い。
アリアは苦しくなって口を少しだけ開いた。
「…っハア」
(……クソッ、こいつ……!)
至近距離にあるアリアの潤んだ瞳。
息が漏れる形のいいピンクの唇。
軍服越しに伝わる、どくどくと波打つ彼女の鼓動と、柔らかすぎる肉の感触。
グッとアリアに体を寄せ、さらに隠し――というのは建前で、実際は、体で寄せることで腰に回していた手を空けて、その手で口を塞いだのだった。見ていられない。そしてこれ以上誰の目にも触れさせたくないという、狂暴なまでの独占欲と、暴れ出しそうな自身の身の熱を押し殺すための、必死の行動だった。
「おっ、にーちゃん、いい女でも抱いてんのかぁ〜? えっへへ、若いねぇ」
酔っ払いが下品に笑いながら、アリアを庇うセシルの背中をバンッと叩いて、奥の部屋へと入って行った。
もし一歩遅れて見つかっていれば。
あるいは、匂いに釣られた男たちが無理やりマントを剥がしていれば。
この異質に輝く髪と、宝石のような青色の瞳で、すぐに聖なる御子だとバレただろう。
マント越しに伝わるセシルの高い体温が、アリアの火照った肌に重なる。
壁に押し付けられ彼に見下ろされる形になり、アリアは自分がセシルの胸にすっぽりと包み込まれていることに気づいた。
見上げる彼の顔はひどく整っていて、上下する喉仏の上に、男らしい骨格と薄い唇がすぐ上にある。
近すぎる距離に、アリアの心臓が不規則に跳ねた。
バタン、と酔っ払いたちの部屋の扉が閉まる音が響く。
「……だから言っただろ? 見張りがいるって」
ハルカが静かに、けれどチクリと刺すような冷たい声で言う。魔獣は攻撃したことはあっても、人を攻撃したことはないハルカ。群衆の怖さを想像して、その顔は全く笑っていなかった。
しかし当のアリアは、セシルに顔の半分を隠され、少しずつ酸素が苦しくなってきていた。
(っ! 苦しい! まだなの!?)
「この先は、人目につくようなことは絶対にするな」
(……っ! わかったから手をどけてよ!!)
アリアは目で必死に訴えたが、セシルは一向に離そうとしない。それどころか、自身の暴れ出しそうな熱を抑えるように、さらに腕に力を込めてアリアを胸に押し付けてくる。
(もう、無理……ッ!)
酸欠で意識が遠のきかけたアリアは、ついにキレた。
口がダメなら、手だ!!!
アリアはダボダボの袖から白い両手を突き出すと、密着したセシルの硬い軍服の胸元を、ポカスカと連続パンチで叩き始めた。
「……ッ、!?」
帝国最強の魔術師の肉体には、蚊に刺されたほどの痛みもない。
だが、その小刻みな振動と、軍服越しに伝わる柔らかい感触に、セシルの背筋に嫌な熱が走る。
(クソッ、暴れるな、余計に……ッ!)
セシルが我慢の限界(色んな意味で)に達しようとした、その時だった。
「セシル、そこまでにしてあげなよ。……アリアちゃん、本当に死んじゃうからね」
ハルカの、呆れ果てた、けれど有無を言わさない制止の声。
「……チッ」
セシルは忌々しげに舌打ちをして、アリアの口から手を離し、マントをバサリと退けた。
「ぷはぁッッ!!!!! ……っ、はぁ、はぁッ!」
解放されたアリアは、大きく口を開けて、まるで溺れていたかのように空気を吸い込んだ。
肩を大きく上下させ、林檎のように真っ赤になった顔(湯上がり+怒り+羞恥)で、セシルを涙目で睨みつける。
その視線は、明確に(「殺す気!? この野蛮人!」)と叫んでいた。
セシルはアリアのその凄まじい睨みに、気まずそうに視線を逸らした。
だが、隠しきれない照れと、我慢した反動で、ぶっきらぼうに悪態をつく。
「……うるせぇ。声が大きいんだよ、この馬鹿出目金。見つかったらどうすんだ」
「……誰のせいで、こうなったと、思って……ッ! この、変態ッ!」
「あぁ? 誰が変態だ、ぶっ殺すぞ!」
ハルカが横で、深いため息をつく。
「やれやれ。人目につくなと言った直後に、夫婦喧嘩を始めるなんてねぇ」
「「夫婦喧嘩じゃない!!」」
「ははは」
ハルカがいつもの穏やかな足取りで二人の間に割って入る。
彼はアリアを優しくセシルから引き離すと、彼女の頭にかかったタオルを整え、金髪を丁寧に覆い直した。長身のハルカに見下ろされると、まるで大きな樹に守られているような不思議な安心感がある。
タオルを直された際、アリアのおでこにターバンの跡がくっきりとついているのが見えた。
「アリアちゃん。……ターバンのあとが。痛かったのかい?」
「……うん。頭が締め付けられて、少しだけ」
アリアが俯いて小さく答えると、ハルカは納得したように頷く。
「そうだよね。これから帝都へ向かうにつれて、人も厳しくなる。でも、痛いのは辛い」
ハルカは少し考えるようにアリアの濡れた髪と、そこから漂う甘い香りを眺め、それからセシルを一瞥した。
「明日からは、髪を三つ編みにしてまとめよう。その上で、僕の帽子と、予備の深いフード付きのマントを貸すよ。ターバンよりは楽だし、顔も隠しやすい」
「……三つ編み、自分でしたことない」
「うん。僕がやってあげる。これでも妹の世話をしてたから、少しは自信があるんだ」
ハルカの言葉に、アリアは驚いて顔を上げた。
「ハルカがやってくれるの?」
「もちろん。それとも、セシルの方がいい?やったことないだろうけど」
振られたセシルは、不機嫌そうに鼻を鳴らして視線を逸らした。
「……俺にそんな細かい真似ができるかよ。ハルカにやらせとけ」
突き放すような言い方だった。
けれど、セシルの耳元はマントの影でわずかに赤く染まっている。
アリアは不思議そうに彼を見つめたが、やがてハルカに向き直り、小さく頷いた。
「……ありがとう。三つ編み、したことないから」
エデンでは、すべて侍女の仕事だった。
自分で自分の髪を編む方法なんて、知らない。
「明日からは三つ編み。街に入る時は、絶対にフードと帽子を脱がないこと。いいね?」
ハルカの念押しに、アリアはこくりと頷いた。
セシルはアリアに視線をやった。
ハルカの服に包まれて、眠ろうとしていることが、なぜか気に入らなかった。
泥と冷たい雨に追われた昨日に比べて、宿屋の廊下は静かで、どこか落ち着かないほど穏やかだった。
三人の間に流れる空気が、ピーチとアプリコットの香りと月明かりの中で少しずつ、形を変え始めていた。
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