第10話 【嫉妬】最強騎士、嫉妬で魔力が漏れる。〜2日目の午後:ハルカ兄ちゃんと、火花散る雷魔術師〜
小さな村に着いたのは、夕暮れ前だった。
というより、夕暮れ前に「強制的に」到着させられた。
…と言った方が正しい。
感動的で美しいアリアの「自立への第一歩」だった乗馬の練習は、最終的に、亀の歩みにも劣るその遅さにブチギレたセシルの実力行使によって幕を閉じたのである。
昼下がりから始まった道中、最後尾を歩くセシルの美しい顔面偏差値は、時間が経つごとに目に見えて下がり続けていた。
「なー、おい。……遅くね?」
開始三十分。アリアの乗る馬が「……パカッ(数秒停止)……パカッ(数秒停止)……」と進むのを眺めながら、セシルが低く唸る。
「まぁまぁ、最初はゆっくりと馬のペースに合わせるのが基本だからね」
ハルカが横を歩きながら、春風のような笑顔で手綱を引く。
「チッ……まだその『馬のご機嫌伺い』すんのかよ。歩いた方が速ぇだろ」
開始一時間。
馬が道端のタンポポを食むたびに「あっ、ご、ご飯だね、どうぞ」と待機するアリアに、セシルが派手に舌打ちをする。
「セーシールー! 君だって最初は乗れなかったろ? 馬に舐められて、三回連続で振り落とされたこと忘れたのかい?」
「あ!? テメェいつの話してんだ!」
ハルカの的確な煽りに、セシルのこめかみに青筋が浮かぶ。
開始二時間。
「うぅ……お尻が痛い……ハルカ、休憩してもいい……?」
「はぁぁ!? 休憩だぁ!? お前、今日まだ一里も進んでねぇぞ!」
涙目で訴えるアリアを庇うように、ハルカがすっと間に入る。
「セシル、女性って言うのはね。我々よりもか弱く、そして尊いんだよ。君みたいに骨と筋肉で出来た脳筋とは尻の構造が違うんだよ。」
ハルカはアリアに水筒を渡しながら、セシルに向かってどこまでも優等生な顔でウィンクすらしてのけた。
「誰が脳筋だコラ!」とセシルが吠える。
そして——開始から四時間。
山の稜線に太陽が沈みかけ、空が茜色に染まり始めた頃。ついにセシルの忍耐メーターは限界を突破した。
「いい加減にしろ!! もう夕暮れじゃねーか!
お前の『お馬初心者お散歩の会』に付き合ってたせいで、三時間どころか四時間以上かかってんだけど!!」
「まぁまぁセシル。血圧上がるよ? ほら、あそこにもう村が見えてるじゃないか」
のんきに遠くを指差すハルカをドンッと突き飛ばす勢いで、セシルが大股に前へ出た。
軍服越しでもわかる、しなやかな豹のような身のこなしだった。
「あのな、こんなちんたら進んでたら宿がいっぱいになるんだよ! 野宿になりてぇのか!」
「きゃあっ!?」
有無を言わさぬ早業だった。
馬から降りて休もうとしていたアリアの腰と膝裏に、セシルがひょいっと腕を差し入れた。
流れるような、貴族特有の洗練された無駄のない所作だった——やっていることは完全に『ひったくり』なのだが。
「えっ、ちょっ、セシ——」とアリアが抗議する間もなく、お米の袋か何かのように肩に担がれ、そのままセシルは自分の黒馬にひらりと飛び乗った。
「きゃあああ!!」
普通なら前向きに乗るのに、担がれて鞍に押し込まれたため、今アリアの視界に見えてるのは、セシルの肩越しに見える呆気に取られているハルカの姿だ。
セシルの高い体温と、景色が後ろに見えるシュールな不安定さに、アリアは情けない悲鳴を上げた。
自立への感動もへったくれもない。
ただのスタイリッシュかつ強引な荷物回収作業である。
「大人しく捕まってな、出目金姫。」
耳元で低く凄まれた瞬間、セシルが馬の腹を容赦なく蹴った。
ヒヒィン!と馬がいななき、さっきまでのタンポポ散歩が嘘のような猛スピードで駆け出す。
「わああああ! 落ちる! 落ちるってばセシル!!」
「うるせぇ! 舌噛むぞ! 振り落とされたくなかったら俺にしがみついてろ!」
激しく揺れる鞍の上で、アリアは落ちまいと必死でセシルの首に両腕を回し、その硬い肩に顔を埋めた。
どれだけ馬が荒々しく跳ねても、セシルの体幹は幼い頃から叩き込まれた乗馬術の基本通り、微塵もブレない。
石のように硬い筋肉越しに、怒っている彼の心音がドクドクと伝わってくる。なんだか無性にドキドキするけれど、それ以上に風圧と砂埃がすごすぎて目も開けられない。
「やれやれ……乱暴な番犬だな。女性をエスコートする気はゼロだね」
呆れたようにハルカが後方から馬を飛ばして追いついてくる頃には、三人は巻き起こる土煙と共に、夕暮れの小さな村の広場へとなだれ込んでいたのだった。
「……おい」
村の入り口にある広場に馬が止まり、ドタバタ劇がようやく終わった。
土埃が収まる中、セシルが頭上からひどく冷ややかな、けれどどこか焦ったような声を降らせた。
「……いつまで抱きついてんだ。着いたぞ。いい加減離れろ」
「は……っ!」
言われてハッと気づく。
アリアは村に到着して馬が完全に停止してからも、目をきつく閉じたまま、セシルの首に全力でしがみつき続けていたのだ。
「ご、ごめん……!」
慌てて腕を解き、セシルの胸板から離れようとするが、横抱きの体勢のままでは上手く降りられない。
焦ってモゾモゾと動くアリアに、セシルが「あーもう、動くな!」と苛立ったように舌打ちをした。
そのまま彼は、アリアを抱きかかえたままヒョイと馬から飛び降り、広場の地面に乱暴におろした。
「いっったぁい!!乱暴にしないでよ! もっと優しくできないの!?」
キッと睨みつけて立ち上がるや否や、真っ赤な顔で抗議するアリア。
「優しく乗ってて日暮れになったんだろうが! 感謝しろ!」
顔を背けながら言い返すセシルの耳元が、夕陽のせいだけではなく微かに赤く染まっていることに、アリアは気づかなかった。
そこは、木造の家々が寄り添うように並んだ村。
広場には井戸があり、近くでは女たちが洗濯物を取り込み、子どもたちが裸足で走り回っている。
馬を降りた瞬間、アリアは小さく息をついた。
「……人が、ちゃんと暮らしてる」
ぽつりと零れた言葉に、ハルカが振り返る。
「そりゃあ、暮らしてるよ」
くすりと笑う。
「クリスタルレイルみたいに派手じゃないけどね。こういう村の方が、落ち着かない?」
「……うん」
アリアは素直に頷いた。
エデンとも、貴族の屋敷とも違う。
誰かが笑って、誰かが怒って、子どもが転んで泣いて、母親がそれを叱っている。
ただ、それだけの場所。
なのに、胸の奥が少しだけ温かくなった。
生きているということが、こんなに音を立てているのだと、アリアは初めて知った。
「ハルカ兄ちゃん!」
不意に、広場の向こうから子どもが駆け寄ってきた。
泥だらけの膝。
砂をかぶった頭。
それでも顔だけは満面の笑みで、真っ直ぐにハルカへ突っ込んでいく。
「また来てくれたの!?」
「またって、僕はここの村の人間じゃないんだけど」
ハルカは苦笑しながら、走ってきた男の子の頭を軽く撫でる。
「でも前に魔獣追い払ってくれたじゃん!」
「はいはい。覚えててくれてありがと」
そのやりとりを見て、アリアは目を瞬かせた。
ハルカが、自然に村の中へ溶け込んでいる。
挨拶をされれば優雅に笑って返し、荷物を持とうとしている老婆にはすっと手を貸し、井戸の水汲みに困っていた少女には、まるで手品のように風魔法で桶を引き上げてやる。
誰に対しても、紳士的で優しい。
当たり前みたいに。
セシルなら、確実に面倒くさそうに舌打ちして無視するところを、ハルカは毎回止まって、毎回笑う。
その差を、アリアはなんとなく感じていた。
「……すごい」
アリアは思わず呟いた。
「何が?」
「ハルカって、どこに行っても人に好かれるんだね」
その言葉に、ハルカは少しだけ困ったように笑った。
「そんな大層なものじゃないよ。エデンに行く前に立ち寄っただけ」
「行く前?」
「うん。向かっている時に魔獣が出たんだ。それで少し手伝った。」
「それで、みんな覚えてるの?」
「田舎の村は、そういうのをよく覚えているものなんだよ」
「でも、みんな嬉しそう」
「そう見える?」
「うん」
アリアは、少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
自分が褒められたわけではないのに。
ハルカが誰かに慕われていることが、なぜか嬉しかった。
その時だった。
井戸のそばにいた村の娘たちが、ひそひそと声を弾ませる。
「ねえ、あの方、また来てくださったのね」
「ハルカ様でしょう? 前にうちの父が助けてもらったって」
「本当に素敵な人ね。優しくて、背も高くて」
「ただの騎士様じゃあないのよ!魔術だって使えるんだから!」
「ゼノスレガリアの魔導騎士団っていうのよ。並の騎士では入れないって父が言ってたわ!」
きゃあ、と小さな笑い声が上がる。
その熱を帯びた視線に気づいたハルカが、ふっと顔を向け、絵画のように完璧な王子様スマイルで優雅に目元を細め、会釈をすると、空のような青い瞳がきらりと光る。
瞬間。
『キャアアアアッ!?』
ひそひそ声は、一気に黄色い絶叫へと変わった。顔を覆う村娘たち。
アリアはそれを聞いて、ぱっと顔を明るくした。
「ハルカ、人気者なんだね」
「え?」
「みんな、素敵な人だって」
「いや、あれは……」
珍しくハルカが少しだけ照れたように視線を逸らす。
こういう顔もするのか、とアリアは少し意外に思った。
「田舎の子たちは、ちょっと大げさなんだよ」
「そうかな。でも、私も、分かる気がする!」
バチッ!!
すぐ横で、青白い火花が派手に弾けた。
厩舎脇の柱に吊るされた古い馬具の金具がビリィッ!と鳴り、近くにいた馬が「ヒヒィン!?」と完全に裏返った声で怯えて前足を上げる。
「……は?」
セシルだった。
アリアとハルカが同時に振り返る。
セシルは馬の手綱を千切らんばかりの力で握りしめ、眉間にこれでもかというほど深く皺を刻んでいた。
「何が分かるって?」
「え?」
アリアはきょとんとする。
「だから。何が分かるんだよ」
「えっと……ハルカが素敵な人だって言われる理由?」
アリアが1ミリの悪気もなく正直に答えると、セシルの眉間の海溝がさらに深くなった。
「……はぁ?」
二回目だった。しかも、さっきより一段階声が低い。
ハルカが横で小さく吹き出す。
「セシル、顔怖いよ。鬼神みたいになってる」
「うるせぇ」
「何その反応。別に変なこと言ってないでしょ?」
「どこが変なんだよ」
「いや僕が聞いてるんだけど?」
セシルは一瞬黙った。
どこが変なのか。言葉にしようとして、できなかった。
村の娘たちがハルカを褒める。
アリアがそれを聞いて嬉しそうにする。
それだけだ。それだけのはずなのに。
なぜか、胸の奥がひどくざらつく。
最高に面白くない。ちゃぶ台があればひっくり返しているところだ。
「……別に」
セシルは、ふいっとそっぽを向いた。
「どうでもいい」
「どうでもいい顔じゃないけど」
「黙れ」
アリアは二人のやりとりを見比べて、不思議そうに首を傾げた。
「セシル……怒ってるの?」
「違う」
「セシルも……褒められたいの?」
「は?」
三回目。
今度はハルカが堪えきれずに、腹を抱えて声を上げて笑った。
「アリアちゃん、それはなかなか鋭いね。傑作だ」
「違ぇよ! やめろ、その顔!」
「そうなの?」
「違う!」
即答だった。けれどアリアはまったく納得していない顔をしている。
「セシルもすごい人だよ」
その一言に、セシルの動きがぴたりと止まった。
馬の手綱を持ったまま、かすかに指先が固まる。アリアはそれに気づかず、一生懸命に指を折りながら彼の長所を数え始めた。
「魔獣を倒すのすごく早いし、馬も上手いし。口は悪いけど、危ない時はちゃんと助けてくれたし。あ、あと、目がピカって光る!」
それは果たして褒めているのか。
セシルは喉まで出かかった「深海魚かよ」というツッコミを、なぜかぐっと飲み込んでしまった。
ハルカが横でにやにやと笑う。
「よかったねぇ、セシルぅ。目が光るってさぁ〜〜」
「黙れって言ってんだろ……」
セシルは特大の舌打ちをし、アリアからさっと視線を逸らした。
けれど、軍服の襟足から覗くその耳が、ほんのわずかに赤い。
アリアは気づかない。ハルカだけがそれに気づいて、底意地の悪そうな、けれどひどく楽しげな目で細めた。
「……へぇ」
小さく漏れた声。
セシルはそれを聞き逃さなかった。
「何だよ」
「いいやぁ? 別にぃ? ふぅん?」
「その顔やめろ。殴るぞ」
「ふふ、どの顔?」
「今の顔だよ。腹立つ」
ハルカはいつもの柔らかな笑顔に戻り、わざとらしくセシルの方へ声を投げた。
「セシル、漏れてるよ」
「……何が」
「魔力」
「漏れてねぇ」
「今、馬具の金具が鳴ったけど」
「古いんだろ」
「馬も怯えてるよ」
「馬が繊細なんだよ」
ハルカは小さく笑った。
「そういうことにしておこうか」
「黙れ」
セシルは苛立ったように馬の手綱を乱暴に引いた。
「行くぞ。宿取るんだろ」
「はいはい」
ハルカは肩をすくめ、アリアに手を差し出す。
「足元、石が多いから気をつけて」
「ありがとう!」
アリアは自然にその手を取った。
その瞬間。
セシルの指先で、また『ぱちっ』と小さく火花が散った。
けれど今度は、ハルカはニヤニヤするだけで、誰も何も言わなかった。
三人は村の広場から少し離れた、酒場兼宿屋へ向かう。
三月の夕暮れ。
村には薪の匂いと、焼いた肉の香ばしい匂いが混じり、冷え切った空気をわずかに和らげていた。
家々の窓にはオレンジ色の明かりが灯りはじめ、路地を駆ける子どもたちの声も少しずつ遠ざかっていく。
アリアは深いローブのフードの下で、物珍しそうに周囲を見回していた。
髪を隠すためのターバンのせいで、その顔立ちはより一層、削ぎ落とされたような儚い美しさを放っている。
「……村って、夜になるとこんな感じなんだね」
「エデンとは違うかい?」
ハルカが穏やかに尋ねる。
「うん。なんか……あったかい」
アリアの無垢な笑顔を見て、ハルカの目元がわずかに細められる。
「気に入った?」
「うん。少しだけ」
「ならよかった」
そのやりとりを、セシルは少し後ろから見ていた。
別に、何でもない会話だ。
それだけのはずなのに、胸の奥には、砂を噛んだようなざらつきがまだ残っている。
「……くだらねぇ」
小さく吐き捨てた言葉は、夕暮れの風に消えた。
やがて酒場兼宿屋の前に着いた。
ハルカが宿の主人と話をしに中へ入り、アリアは店先の長椅子に腰掛けて待つことになった。
セシルは少し離れた場所で、馬の手綱を柱に結んでいる。
その時だった。
「ねえ、君」
横から声がかかった。
振り返ると、一人の若い村人の男が立っている。
日に焼けた肌に、人懐こい顔つき。
悪意のある男ではない、とアリアは瞬時に感じた。
ただ、その視線がまっすぐすぎて、少しだけ居心地が悪かった。
「見ない顔だからさ。旅の人?」
「はい。帝都へ向かっていて……」
「へぇ、帝都へ。すごいな。ひとり?」
「いえ、あの……」
アリアが答えようとした瞬間、男の視線が彼女の顔に釘付けになった。
ローブの隙間から覗く白い肌、深い青の大きな瞳は、この辺鄙な村にはおよそ存在し得ない神々しさを湛えている。形の良いおでこと輪郭が現れて、男はゴクリと息を飲んだ。
「君、綺麗だね。……いや、本当に。村じゃ見ない感じっていうか……」
男がさらに一歩、距離を詰める。
「宿、まだ決まってないなら案内するよ。俺、この辺詳しいし」
ただの親切心と、目の前の美しい少女を繋ぎ止めたいという、男の浅はかな浮かれ。
アリアは困ったように微笑んだ。
「あ、ありがとうございます。でも——」
「大丈夫だよ! もし宿屋が空いてなかったら、俺の家でも——」
その瞬間、セシルの堪忍袋の緒が切れた。
(……こいつ)
馬の手綱から手を離し、男の胸ぐらを掴んで引き剥がそうと、どん、と力強く一歩を踏み出す。
——が。
すっ、と。
セシルの視界の端を、黒い影が滑り抜けた。
「ありがとう」
穏やかな声。
完璧な優等生の微笑み。
いつの間に店から出てきたのか。
ハルカが、アリアを背後に庇うように、男との間に立ち塞がっていた。
「でも、彼女は僕の連れだから。案内は大丈夫だよ」
セシルは、空を掴みかけた手をぴたりと止める。
男は一瞬、ハルカを見上げた。
「あ、そうなんすね。いや、別に変な意味じゃなくて」
「分かっているよ」
ハルカはにこりと、さらに深く笑った。
「親切にしてくれたんだよね。ありがとう」
声音はどこまでも優しく、慈愛に満ちている。
だが、その青い目だけが、絶対零度の氷のように冷たく、一切笑っていなかった。ただ静かに見下ろすだけで相手の魂を射すくめる、本物の騎士の覇気。
「……っ」
男の顔色が、みるみるうちに青ざめていく。
ハルカは怒鳴ることも、剣を抜くこともしない。
けれど、その瞳は、それ以上近づけばお前の存在を消すと、静かに宣告していた。
アリアは気づかない。
けれど、セシルだけがその嘘の笑顔の裏にある殺気を明確に読み取った。
「あー……じゃあ、気をつけて」
男は這々の体で、逃げるようにその場を去っていった。
「ハルカ、ありがとう。どう返事したらいいか分からなくて」
アリアはほっとしたように、ハルカの背中を見上げて言った。
「ああいう時はね、無理に返さなくていいんだよ。困ったら、僕の後ろに隠れて」
「……うん」
素直に頷くアリアの横顔は、ハルカを守護者として完全に信頼しきっている。
セシルは、それを少し離れた場所から見ていた。
宙を掻いた自分の右手を、ゆっくりと下ろす。
先に動いたのは、ハルカだった。
アリアを背に庇ったのも、安心させたのも、あいつだった。
その事実が、たまらなく、猛烈に腹立たしかった。
(……なんか腹たつ。……クソ!)
セシルの中で、何かがぷつんと音を立てた。
気がつけば、柱から背を離し、大股で二人の間へ割って入っていた。軍服を着崩し、態度はとてつもなく悪いのに、
その歩き方や立ち姿にはどうしても隠しきれない特権階級の優雅な品格が滲み出ている。
「セシ……わっ!」
アリアが目を丸くするより早く、セシルはその細い手首をガシッと掴んだ。
荒々しい言葉とは裏腹に、長く美しい指が彼女の肌を包む。そして、もう片方の手で彼女のフードをぐいと深く被せ直す。
「ちょっと、前が見えない!」
「見えなくていい。愛想よくしてっから変な虫が寄ってくんだろ。行くぞ」
「痛っ、ちょっと待ってよ! ハルカがまだ——」
「宿の手続きならアイツが勝手にやる」
言い返す隙も与えず、セシルはアリアの手首を掴んだまま、宿屋の方へずんずんと歩き出す。
「ちょっと、セシル! 歩くの早い!」
「転ばねぇように持っててやるよ」
「そういう問題じゃない!」
アリアがフードの端を押し上げようとすると、セシルはその手首を軽く握り直した。
強くはない。
けれど、絶対に逃がさない、有無を言わせない力だった。
少し怒ったように頬を膨らませているアリア。
そのくせ、セシルは歩幅をほんの少しだけ彼女に合わせて緩めている。
その背後で、残されたハルカは少し驚いたように目を瞬かせた。
それから、たまらなく楽しそうに目を細める。
セシルは、再びアリアの手首を引いた。アリアは何が何だかわからないまま、フードの奥から顔を上げる。
掴んでいる手の力は、ほんの少しだけ弱くなっていた。
ハルカはその背中を見ながら、またひとつ「へぇ」と呟いた。
その声は、今度こそセシルには聞こえなかった。
少し離れた場所で、ハルカは宿の扉を開けながら、もう一度だけ小さく呟いた。
「……面白いことになってきたな」
セシル本人だけが、まだ気づいていなかった。
自分がなぜ、アリアとあの男の間に割って入ったのか。
なぜ、ハルカに先を越されたことが、こんなにも腹立たしかったのか。
ただ、その日から。
アリアが誰かに笑うたび、セシルの指先には、ほんの小さな火花が散るようになった。
ここまで読んでくださりありがとうございます!
アリアが少しずつ自分の声を取り戻していく旅になります。
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