第9話 【初乗馬】川は風呂じゃない!〜2日目の朝:自立しようとする出目金姫と、なぜか不機嫌な雷魔術師〜
パシュッ、パシュッ……。
「もう毎度思うけどね。この匂いがすると、百メートル先からでも君がいるって分かるよ」
少し離れた場所にいたハルカが、呆れ果てた顔で振り返った。
「あ?」
不機嫌そうに低く応じたセシルの手には、軍服の内ポケットから取り出された、繊細なカッティングが施された分厚い硝子の小瓶が握られていた。
特権階級のさらに一部しか手に入れることのできない、最高級の香水だ。
彼はそれを、太い首筋と手首に躊躇いもなく吹きかけているところだった。
パシュッ、パシュッ……。
パシュパシュパシュパシュパシュパシュパシュパシュッ!
パッシュゥー……。
甘く爽やかな、それでいて高貴な香りが岩棚の下を完全に支配する。
「俺はいつでも完璧なんだよ。この香りの価値も分からねぇなら、テメェの鼻をもぎ取ってやる」
「はいはい。せいぜい魔獣を匂いで引き寄せないようにしてよね、次期魔塔様」
香水を振り終えたセシルは、次に小さな缶を開けた。
柑橘の匂いがする蜜蝋の練り膏を指ですくい取り、手のひらで適当に伸ばすと、鬱陶しそうに自分の銀髪へ手を突っ込む。そのままガシガシと無造作に掻き上げるようにして、長めの前髪を後ろへ流すと、両耳についているブラックスピネルのピアスが、キラリと妖しく光る。
長く白い指先。美しい紫の瞳。
ほんの数秒の雑な手付きだったが、それだけで、いつもの近寄りがたい鋭さを持った『帝国最強の魔術師』の顔ができあがる。
そして、彼はまるで宮廷の王座にでも座るかのような傲慢な優雅さで、無骨な岩場に腰を下ろし、長い脚を組んだ。
「……あれ、ここって帝都のお城かどこかだったかな?」
「気づいたなら跪け。だが玉座にしては音楽が足りねぇな。出目金、俺の優雅な朝のために何か歌え」
「……あんたのBGMのために、聖なる歌の無駄遣いはできないわ」
岩棚の外では、細い霧雨がまだ降り続いている。
雨は明け方になってようやく弱まり、濡れた木々の匂いと、湿った土の匂いが冷たい空気に混ざっていた。
ふん、と鼻を鳴らしたセシルは、アリアの方へと顔を向ける。
そして次の瞬間、セシルはその姿に思わず息を止めた。
岩棚の隅で、アリアは出発の身支度を整えようと、一人格闘していた。
不器用な手つきで、長い桃金色の髪を高い位置で一つにまとめ上げる。
蜂蜜を溶かしたような淡い金に、朝の光が触れるたび、薄桃色の艶がふわりと浮かぶ。それはただの金髪ではなく、聖力に染められた者だけが持つ色だった。
——それまで隠れていた白磁のような首筋が、朝の光の中にすっきりと露わになった。
仄暗い雨上がりの森の中で、彼女の髪と透き通るような白い肌だけが、まるでそこだけ柔らかな光を放っているかのように鮮烈だった。
媚びたところなど一切ない。
ただ懸命に自分の髪と格闘しているだけの、ひどく無防備で純粋な姿。
視線を逸らそうとしたのに、逸らせない。
男としての欲望ではない。ただ純粋に、ひとつの極上の芸術から目を離せなくなるような、圧倒的な「美しさ」への引力だった。
(……ふうん。綺麗じゃん)
綺麗だと思ったその瞬間、それを誰かが奪おうとする光景まで、なぜか頭をよぎった。
「その髪と目、外じゃ目印みてぇなもんだな」
セシルは己の動揺を隠すように、面倒くさそうに吐き捨てた。ハルカは穏やかに微笑みながら、昨日乾かしておいたターバン用の白い布をアリアに渡す。
「とても綺麗だけど……外ではそれが危険になる。聖力保持者だと分かれば、助けを求める人も、利用しようとする人も寄ってくる。だから今は、隠しておこう」
「……わかってる」
ピンク色のリボンを口にくわえ、指先で必死に髪を束ねる。朝の光を受けた金髪はさらさらと零れ落ち、まるで彼女の言うことを聞かない。
「……もう。またずれた」
本人はただ必死なだけだった。けれど、白い歯の間にリボンを挟み、少し上目遣いで髪と格闘するその姿は、小動物のように愛らしく、そして男から見ればひどく無防備だった。
そう思った瞬間、セシルは自分で自分に舌打ちしたくなった。
「見てらんねぇ。手ぇ離せ、出目金」
セシルはアリアの手からリボンを取ると、大きな手で彼女の髪をまとめた。
その指先は乱暴なようでいて、頭皮が痛くないように絶妙な力加減で梳いている。最後に白い布を頭にかぶせ、最低限、金髪が見えないように結んだ。
顔周りを白い布でタイトに巻いたことで、つるりとなめらかな額と、芸術品のように形の良い輪郭がすっきりと露わになった。
華やかな髪という『飾り』を奪われたことで、かえってパーツの完璧な造形が剥き出しになる。
「……きつい」
「我慢しろ。あとフードも被れ。目立つよりマシだ」
「ひどい」
「生きて帝都に着きたきゃ、ひどくても我慢しろ」
アリアはむっとした顔で黙り込んだ。
けれど、セシルの大きくて熱い指先が、一瞬だけ自分の首筋に触れた感覚は……なぜかしばらく消えなかった。
馬の荷を整え、出発しようとした、その時だった。
ドォォォォン!! バリバリバリッ!!
地鳴りのような轟音と、空気を切り裂くような雷鳴が同時に響く。アリアが反射的に身を伏せて岩棚から飛び出すと、そこには立ち上る土煙と、無残に黒焦げとなって転がる巨大な魔獣の死骸があった。
そしてその中心で、青白い雷光をその美しい指先に纏わせたまま、セシルが退屈そうに肩をすくめている。
「……チッ。朝っぱらから雑魚が湧いてたわ」
残響が消える中、紫の瞳が獲物を見下ろす獣のように妖しく光った。
その圧倒的な強さを前に、アリアは言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
森に再び静寂が戻り、焦げた獣の匂いが鼻をつく。
セシルは焦げた魔獣を一瞥し、退屈そうに馬へ向かった。
「急ぐぞ」
アリアは、その圧倒的に強く、頼もしい男たちの背中を見つめた。
「セシルは、雷なんだね」
ぽつりと呟くと、ハルカが馬の手綱を取りながら振り返った。
「魔術師には、生まれつき魔力の"癖"があるんだ。セシルは雷と攻撃。僕は風と防御寄り」
「他の魔法は使えないの?」
「初歩ならね。でも高位魔法は、ほとんど生まれつきの系統に縛られる。だから魔術師は少ないうえに、代わりが利かない」
セシルが面倒くさそうに鼻を鳴らした。
「俺に治癒しろって言われても無理だし、こいつに魔獣を焼き払えって言っても無理。そういうこと」
「じゃあ、結界は?」
「結界術はまた別だよ」
ハルカが答える。
「属性魔法というより、学問に近い。聖力や魔力を組み合わせた儀式で維持するものもあるし、術式で力を底上げして発動させるものもある。北の魔窟を中心に張り巡らされているのは、大昔の聖者が作った魔獣をいなすための大規模な術式なんだ」
「そうなんだ」
「だから、アリアちゃんみたいな聖力持ちが必要になる」
「……私みたいな」
アリアは自分の手を見下ろした。
癒すことはできる。浄化することもできる。けれど、魔獣に襲われたとき、自分ひとりでは何もできなかった。あの男たちのように戦う力はない。その事実が、胸の奥に重く沈んだ。
思えば昨日の夜から、何もかもがめちゃくちゃだった。
エデンを逃げ出した。家に帰ろうとした。けれど、家には誰もいなかった。おばあちゃんは、もういなかった。魔獣に襲われて、知らない男たちに助けられて、馬に乗せられて、雨の中を走った。
そして今。朝から魔獣が現れて、また逃げるように出発しようとしている。
髪は湿って重い。服は肌に張りついて気持ち悪い。靴の中は半乾きの泥でぐちゃぐちゃ。裾には跳ねた土がこびりついている。
セシルとハルカが出発の準備をしている間、アリアは岩棚の端に座り、膝を抱えてぼんやりと空を見上げていた。
エデンでは、こんなことはなかった。
毎朝、決まった時間に湯を使わされて、髪を梳かれ、香油をつけられ、白い服を着せられた。それは管理だった。綺麗に飾られるための、儀式のようなものだった。
嫌だったはずなのに。今は、その清潔な湯が、少しだけ恋しい。
「……おい」
低い声が飛んできた。顔を上げると、セシルがこちらを見ていた。
銀髪を雑に掻き上げ、軍服の襟を片手で直している。ただそれだけの動作が、絵画のように様になっている。
「出目金。立て。今日は俺だ」
「……」
アリアはむっとして立ち上がった。けれど、一歩踏み出した瞬間、靴の中で泥がぐにゃりと動いた。
「……っ」
気持ち悪い。思わず顔をしかめたのを、セシルは見逃さなかった。
「なんだよ」
「なんでもない」
「嘘つけ。めちゃくちゃ嫌そうな顔してんぞ」
「してない」
「してる」
「してないってば」
セシルはふんと笑うと、馬の横に立った。
「ほら、乗れ」
反論できない。
アリアが黙り込むと、セシルは面倒くさそうに息を吐き、彼女の細い腰を大きな両手で掴んで軽々と持ち上げた。
「わっ……!」
あっという間に、アリアはセシルの黒馬の鞍の前に座らされる。続いてセシルが後ろに乗り、アリアを背後からすっぽりと抱き込むようにして手綱を握った。
「落ちんなよ」
「落とさないでよ」
「あ?」
「なんでもない」
セシルが馬の腹を軽く蹴る。馬はゆっくりと歩き出した。
セシルがアリアの腰をぐっと自分に引き寄せると、彼女は男の硬い腕の間で小さく身を縮めた。
ふとした瞬間に、朝一番に彼が髪に塗っていた、あの気高く鋭い柑橘の香りがふわりと鼻先をかすめる。
雨と泥の匂いが残る軍服から香る、その鮮烈で浮世離れした匂い。
彼が呼吸をするたびに、背中越しに力強い命の鼓動が伝わってきて、嫌でも彼が「大人の男」であることを意識させられた。
しばらく、三人は霧雨の残る森道を進んだ。
「……おい」
頭上から声が降ってくる。
「まだ嫌そうな顔してる」
「してない……」
セシルは背後からわざと屈み込んで、アリアの顔を真横から覗き込んできた。
妖しい紫の瞳が、至近距離で意地悪く細められている。彼の吐息が耳元にかかり、アリアは心臓がドクンと跳ねるのを感じた。
「いいや、してる。すげぇしてる。どんよりしてるぞ、御子サマ」
「……うるさい!」
思わず振り返って言い返すと、セシルは少しだけ目を丸くした。それから、面白くてたまらないというように口の端を上げる。
「へぇ。御子サマ、機嫌悪いんだ」
その言い方に、胸の奥がちくりとした。御子サマ。
その呼び方が嫌だった。でも、嫌だと言うのも悔しかった。
アリアは唇を噛み、セシルから目を逸らす。
「……アリアちゃん?」
ハルカが馬を横につけてきた。濡れた髪をひとつに結び直し、柔らかな目でこちらを見る。
「顔色が悪いよ。寒い?」
「……寒くは、ない」
言った瞬間、くしゅん、と小さなくしゃみが出た。
ハルカが眉を寄せる。セシルが即座に吹き出して笑った。
「寒いんじゃねぇか」
「寒くない!」
「今くしゃみしただろ」
「……ほこり!」
「雨上がりの山で、どこのほこり吸ったんだよ」
「知らない!」
意地悪く笑うセシルに言い返しているうちに、胸の奥に溜まっていたものが、ぷつりと切れた。
足が冷たい。髪が気持ち悪い。服も泥も全部嫌。なのに、また馬に乗って、知らない場所へ連れていかれる。自分の行き先も、休む場所も、着る服も、何もかも自分で決められない。
「我らが出目金姫サマは、ご機嫌斜めのご様子で〜す!」
セシルがふざけだす。
アリアはぎゅっと鞍を握った。
「……お風呂」
「「……は?」」
セシルとハルカの声が重なった。
アリアは顔を真っ赤にする。でも、一度口にしてしまった言葉は、もう戻せなかった。
「お風呂に入りたいって言ったの!」
その場に、妙な沈黙が落ちた。
雨粒が葉から落ちる音と、馬の蹄の音だけが響いている。
セシルは数秒、黙った。
そして、真剣な顔で道沿いを指差す。
「……それなら、そこにあるだろ」
「え? どこ?」
「ほら見ろ。風呂(川)だぞ」
セシルが指差した先には、雨で水かさの増した茶色い川が流れていた。
「……えっ?」
「だから、水浴びてこいって言ってんだよ。ほら、石鹸(草)もあるぞ」
彼は足元の草を顎で示した。
アリアは数秒思考が止まった。
「おら、行けよ」
セシルに腕を引っ張られて、完全にプツンと切れた。
「いやあああああ!! 違う! こんなのお風呂じゃない!!」
「水と草で洗え」
「絶対に嫌!!!」
アリアは本気で泣きそうになりながら、腕を引っ張るセシルを思い切り叩いたが、丸太のように硬い腕はびくともしない。
「馬鹿なの!? 川はお風呂じゃない!」
「水があれば同じだろ」
「同じじゃない! 全然違う! 綺麗なお湯がいいの! 温かいやつ!」
「贅沢言うなよ、御子サマ」
「贅沢じゃない!」
「キャンキャン、キャンキャンうるさいでございますよ出目金のお姫サマ」
「出目金じゃない!」
自分でも驚くほど、声が大きくなった。
「髪も、服も、靴も、全部気持ち悪い!泥だらけだし、昨日からずっと走ってばかりだし……!」
言いながら、喉の奥が熱くなる。
「私だって……お風呂くらい、入りたい!… お風呂に入るまでここから一歩も動かない!!」
最後の声は、思ったよりも大きく森に響くほどだった。
…………。
ピチチチ……
静まり返った森に、小鳥が可愛く鳴く声が遠くに聞こえた。
川のせせらぎと、馬の蹄の音だけがやけに大きく耳に届く。
ハルカとセシルは顔を見合わせた。
「てかお前が動かないっつっても、馬は歩いてんだけどな」
「ううううるさい! お風呂に入る! 絶対に!!!」
「だから〜風呂はあるっつってんだろ!」
「セシル、さすがにそれは……」
ハルカが苦笑いしながら割って入る。その場が静かになる。
ハルカはしばらくアリアを見つめていた。それから、少しだけ目を細める。
「うん。そうだね」
柔らかな声だった。
「それは、当然のお願いだ」
その言葉に、アリアは一瞬、息を止めた。
当然。そんなふうに言われるとは思っていなかった。
ハルカはセシルへ視線を向ける。
「このまま進ませるのはよくない。体も冷えてるし。」
「時間がねーんだよ。なんのために護送してんだよ。俺らこうしてる間にも……」
「聖力保持者を発熱させて帝都に連れていく方が問題だよ」
「……チッ」
セシルは面倒くさそうに舌打ちした。けれど、それ以上は反論しなかった。
ハルカは馬を止めて、降りると地図を広げた。
アリアとセシルも降りて覗き込む。
「ここから馬で三時間ほど行った先に、小さな宿場町がある」
ハルカが地図を指でなぞった。
「その向こうの街道沿いには僕の実家もある。領主様は優しい方だから、事情を話せば泊めてくれる」
「……お前の実家ぁ? 」
「領主様の家には大きなお風呂があるしね」
ハルカは静かに言った。
「アリアちゃんが、お風呂に入りたいそうだから」
その言い方があまりにも真面目で、アリアは逆に恥ずかしくなった。
「……そんな大げさに言わないで。」
「大げさじゃないよ。大事なことだ」
ハルカは笑う。
「女の子だし。泥だらけは嫌だよね」
その言葉に、胸が少しだけほどけた。アリアは小さく頷く。
「……うん」
後ろから、セシルが低く言った。
「お前さ」
「…なに」
「最初からそう言えばいいだろ」
アリアはむっとして振り返る。
「どうせ聞いてくれないじゃない」
「風呂くらいなら聞いてやるよ」
「……本当?」
思わず聞き返した。セシルは一瞬、気まずそうに視線を逸らす。
「だから、行くっつってんだろ」
その言い方は乱暴だった。けれど、不思議と嫌ではなかった。
アリアは少しだけ黙ってから、ぽつりと言う。
「……ありがとう」
セシルは顔をしかめた。
「なんでそこで素直になんだよ。調子狂う」
「お礼くらい言えるわよ」
「さっきまで馬鹿って言ってたくせに」
「馬鹿なこと言うからでしょ」
「は?」
「川はお風呂じゃない」
ハルカが小さく吹き出した。
「笑うな」
「いや、悪い。二人とも、案外相性がいいなと思って」
「「よくない!」」
アリアとセシルの声がピタリと重なった。
その瞬間、ハルカはますます楽しそうに笑った。アリアは顔を赤くして、そっぽを向く。
「よし。そろそろ行こうか」
ハルカが地図を畳んだ。
「ほら、乗れ」
セシルが馬の鞍を軽く叩く。アリアは警戒して一歩下がった。
(また、セシルの前に座らされる。彼の腕の中にすっぽりと収まって、安全な場所でただ運ばれるだけ。……それじゃあ、エデンにいた時と同じだ)
「出ー目ー金!!早くのれ!」
(言うのよアリア。自分の言葉で!さっきは言えたでしょ!!)
「い、いやだ」
「は?」
アリアは胸の前で鞄を抱きしめる。
(言え、私。さっき「お風呂に入りたい」って、あんなに大きな声で我儘を言えたじゃないか。なら、もう1つだけ、自分の口で言え!)
「い、今は、座らされるの嫌」
ハルカが少し驚いた顔をした。
「どうしたの?」
(魔術は使えなくても。戦う力はなくても。……自分の足で前に進むことくらい、私にだってできる!)
「じ……自分で、乗りたい」
言った途端、心臓がどきどきした。自分でも、なぜ今それを言ったのか分からない。けれど、言わずにはいられなかった。
断られるかも知れない恐怖と恥ずかしさで、声が少しだけ震えた。
「ず、ずっと誰かに運ばれてるの、嫌。う、うまくできないかもしれないけど、でも…」
それは、お風呂に入りたいという我儘よりも、ずっと小さな声だった。
でも、口にした瞬間、胸の奥にあった重たいものが、少しだけ軽くなった気がした。
ハルカは、この小さな女の子が、自分達のような大きな男二人に意志を伝えてきた勇気を感じ取った。小さな妹がいるハルカ。もし自分の妹だったら、言えただろうかと考えた。
ふう、とため息をつくと、ゆっくりと優しく微笑んだ。
「うん、じゃあ、少しだけ練習しようか」
「本当に?」
アリアがぱっと顔を上げる。その瞳には、不安よりも期待の色が勝っていた。
「うん。どうせ今日は三時間だけの行程だしね。ゆっくり行こう。」
「……うん!!」
アリアはぱっと顔を上げると、今日一番の満面の笑みを浮かべた。
「わぁ…嬉しい…!」
誰に向けたでもない。自然とでた、飾りのない、そのままの気持ちだった。
泥だらけの頬のまま、どんよりとした雨上がりの空気を一掃するような、純粋で無防備な笑顔。
ハルカは軽く瞬きをしてから、そして穏やかに笑った。
「アリアちゃんは、笑ったらもっとかわいいね」
「えっ……」
予想外の真っ直ぐな言葉に、アリアは一気に顔を林檎のように赤くして俯いた。
「照れてる。かわいい」
「は、ハルカがそんなこと言うから!」
慌てて両手で頬を覆いながら言い返したアリアだったが、ふと、不思議な温かさが胸の奥にじわじわと広がるのを感じた。
(……こんなふうに、心の底から笑ったのって、どれくらいぶりだろう)
エデンにいた頃は、完璧な、作られた微笑みしか許されなかった。
こんなふうに我儘を叫んで怒って、無防備に笑うなんて、いつ以来だろうか。
アリアは覆っていた手をそっと外すと、ハルカを見上げて、照れ隠しのようにもう一度小さく笑った。
「……えへへ」
「じゃあ早速乗ってみようか?」
「うん!」
はにかんだその笑顔は、さっきの無邪気なものとはまた違う、年相応のやわらかな愛らしさに満ちてい
た。
その、甘やかな空気を孕んだやり取りを少し離れた場所から黙って見ていたセシルは、腕を組んで、ふんと面白くなさそうに鼻を鳴らす。
「手ぇ震えてるぞ」
「震えててもやるの!」
むきになって言い返すアリアを、セシルは見下ろした。
泥だらけの、ひどくボロボロの格好なのに、その青い瞳だけは昨日までとは違う強い光を宿して彼を睨み返している。
セシルはまた一瞬だけ黙った。
それから、なぜか少しだけ笑った。馬鹿にするような笑いではなく、どこか彼女の意地っ張りさを認めたような、呆れたような笑みだった。
「……じゃ、やってみろよ」
その声は相変わらず意地悪だった。けれど、アリアの背中を押すには十分だった。
アリアは意を決して、ハルカに助けられながら自らの力で鞍に跨った。
視界がぐんと高くなる。後ろからセシルに抱えられて乗っていた時とは違う、自分ひとりでバランスを取らなければならない不安定さに、心臓が跳ねた。
ハルカが馬の横に立ち、手綱の持ち方を丁寧に教える。
「力を入れすぎないで。馬は敏感だから、怖がると伝わる」
アリアは小さく頷き、革の手綱をぎゅっと握った。
手のひらから、馬の力強い体温が伝わってくる。微かに動く筋肉の脈動。大きくて、少し怖い。
でも、生きている温かさだった。
ハルカが横からそっと、アリアの足首のあたりを支える。
「大丈夫。ゆっくり進もう」
ハルカが手綱を引くのに合わせて、馬が一歩、前へ出た。
アリアの身体がぐらりと揺れる。思わず声が出そうになったけれど、必死に唇を噛んで堪えた。もう一歩。また一歩。
誰かに運ばれているのではない。ほんの少しだけ。自分で進んでいる。
「……進んだ」
思わず感極まったように呟くと、隣を歩くハルカが優しく笑った。
「うん。ちゃんと進んでる」
その言葉が、胸にじんわりと広がる。
アリアは、泥だらけの服のまま、湿った髪を揺らしながら、誇らしげに笑った。
その笑顔を、セシルが少し離れた場所から見ていた。何も言わない。ただ、じっと。
ハルカにかわいいと言われて照れているアリア。
ハルカに手取り足取り教えられ、彼の言葉に嬉しそうに笑うアリア。
その隣で完璧なエスコートをしているハルカの存在が、なぜかひどく目障りだった。
胸の奥で、じわりと苛立ちのようなものが広がる。
「……ずいぶん楽しそうじゃん」
その声は雨上がりの空気に紛れて、前を行くアリアには届かなかった。
けれどハルカだけが、ちらりと後ろのセシルを見た。
不機嫌そうに唇を尖らせた相棒の顔を見て、口角をほんの少しだけ楽しげに吊り上げる。
そして何も言わず、再びアリアの馬の横を歩き出した。
いつの間にか霧雨は完全に上がり、頭上には透き通るような青空が広がっていた。
春の陽射しを受けた山道では、雨の雫を纏った若葉たちが、きらきらと宝石のように輝いている。
アリアは、手綱を握りしめた。
自分の意志で、馬を一歩、また一歩と前へ進めた。
――だが。
この感動的で美しいアリアの「自立への第一歩」が、わずか数時間後、
ある男の堪忍袋の緒を盛大にぶち切り、
理不尽な実力行使によって幕を閉じることになるとは、
この時のアリアは知る由もなかった……。
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