第8話 【極上の癒やし】ヤンキー貴族の高級香水と魔法のドライヤー〜1日目深夜:初めて薬なしで眠れた夜〜
夜の街道を少し外れた森の端。
頭上を覆う枝葉が、雨を含んだ湿った風にざわざわと騒いでいる。
ポツポツと降り出した雨に、少しずつ服が重たくなり、容赦なく三人の体温を奪っていく。
アリアは長すぎる髪を横に流したが、きちんと留めていないためにすぐに風になびき、蜂蜜色を含んだ黄金の長い髪が濡れて頬に張り付いた。
ようやく見つけた大きな岩棚の下に馬を繋いだ頃には、アリアの体力はほとんど残っていなかった。
山肌が深くえぐれ、奥だけが浅い洞穴のようになっている。
完全な洞窟ではない。けれど、雨をしのぐには十分だった。
岩棚の手前では、雨粒が白い糸のように落ち続けている。
そこだけが、雨の夜から切り取られた小さな避難場所のようだった。
「……っ」
アリアの細い腰をハルカが両手で掴んで優しく下ろす。
…が、馬から降りた瞬間、がくりと膝が折れそうになる。
昨日の昼間から続く緊張。慣れない乗馬。
そして何より、華奢な肩に食い込む鞄の重さが、小柄なアリアの体力を容赦なく削り取っていた。
それを見逃すほど、セシルの目は節穴ではない。
「おい」
低い声が落ちる。
「……貸せ、それ」
「な、なに……いいよ、自分で持てる」
「強がってんじゃねぇ。その鞄、中に石でも詰まってんのか? 重すぎだろ」
セシルは答えを待たず、アリアの肩から鞄をひったくった。男特有の骨張った大きな手が、重い鞄を羽のように軽々と奪い取る。濡れた灰色の前髪が鬱陶しそうに目元にかかり、セシルは短く舌打ちをした。
「ちょっ、返して!」
「見せろ。何が入ってんだよ」
「嫌! 勝手に見ないで!」
アリアは必死に手を伸ばす。
だが、セシルはそれを軽々と片手でいなした。
小柄なアリアに対し、セシルは天を衝くように背が高い。圧倒的な巨躯を持つ彼がひょいと腕を上に掲げれば、アリアがどれだけ必死に跳ねても指先すら届かなかった。
「重い荷物持って潰れられても、俺たちが面倒なんだよ。……金貨か?」
「女の子の鞄を勝手に開けるもんじゃないよ、セシル」
ハルカが呆れたように割って入る。
「まったく。優しさと一緒に、デリカシーまで北部の戦場に置いてきたのかい?」
「うるせぇ。……あ」
その時だった。
アリアが鞄の端を掴もうとした指先が、雨に濡れた留め具を弾いた。
ぱちん、と冷たい音がする。
次の瞬間、鞄の口が大きく開いた。
どさどさっ、と鈍い音がして、中身が湿った落ち葉の上に散らばる。
「……あ」
アリアの顔から血の気が引いた。
暗闇の中、地面に散らばったのは、金貨でも宝石でもなかった。
表紙が擦り切れ、何度もめくられたせいで角が丸くなった厚い本。
綴じ糸が緩み、無数の紙片や栞が挟まった古い辞書。
薄っぺらな単語帳。
それは、アリアがエデンで、たった一人で抱え続けてきた“自由”の断片だった。
「……本?」
セシルが、毒気を抜かれたように眉を寄せる。
ハルカも驚いたように目を見開き、一冊を拾い上げた。
「これ……ノヴァリア語の原典か。かなり古いね」
「見ないで」
アリアは這いつくばるようにして、泥のついた本を必死に胸に抱え込んだ。
声は震え、今にも泣き出しそうだった。
「お願い……返して、ハルカ」
セシルの指先が、わずかにぴりついた。
自分でも無意識の放電だった。
アリアの必死な拒絶が、なぜか胸の奥をひどくざらつかせたのだ。
ハルカはすぐに表情をやわらげ、澄み切ったスカイブルーの瞳を優しく伏せて、そっと汚れを払って本を返す。
「ごめんね。……大切なものだったんだね」
「……当たり前でしょ」
アリアは本をぎゅっと抱きしめ、伏せていた顔を上げた。
深い青の瞳が、涙で潤みながらも、見下ろすセシルをまっすぐに射抜く。
「エデンでは……窓の外を見ることしか、許されなかった」
ぽつり、と。
アリアの桜色の唇から言葉が零れ落ちる。
「市場にも、港にも、どこにも行けなかった。」
濡れた指先が、辞書の背を愛おしむようになぞる。
「……だから、これを読んだ。これは、前のソリストが置いて行ってくれたノヴァリアの本なの。王様のいない国のこと。魔導列車が走って、空飛ぶ船がある、自由な国のことが書いてある。」
指先が微かに震えた。
「辞書を引いて、新しい言葉を覚えるたびに……私の心だけは、壁の外へ行けた」
夜風が、アリアの蜂蜜色の髪を揺らす。
「重くても、これだけは持っていく。これがなかったら……私は、自分がアリアだってことも、どこへ行きたいのかも、分からなくなっちゃう…」
セシルは黙っていた。
この女は、エデンという冷たい籠の中で、自分たちが血なまぐさい戦場で剣を振るうのと同じくらいの覚悟で、この古びた紙を握りしめて生き抜いてきたのだ。
「……重すぎ」
セシルが、ぶっきらぼうに呟いた。
そして地面に落ちたままだった一番分厚い辞書を拾い上げると、自分の荷袋に乱暴に突っ込んだ。
「えっ? セシル、何……」
「いくつかは俺が持つ。文句あんのか」
「だ、だめ! 汚しちゃうし、私の——」
「捨てねぇって言ってんだろ」
セシルはアリアからさっと顔を逸らす。
「重くて潰れそうなら、分けろ」
そう言って、数冊の本を自分のマントの内側——自身の高い体温が伝わる場所へと押し込んだ。
「……これでいいだろ。行くぞ」
セシルは岩棚の奥へ進んだ。
アリアは、ぽかんとその大きな背中を見つめた。
ハルカが横で、必死に笑いを堪えるように肩を揺らしている。
「セーシール〜。君って本っ当に優しいよね」
「殺すぞ、ハルカ。ニヤニヤすんな」
「はいはい」
アリアは自分の腕の中に残った数冊の本を見つめた。
十年、誰にも見せないように、自分ひとりだけで抱えていた夢の本。
それを今、ひどく不器用な男が、半分背負っている。
「……ありがとう」
蚊の鳴くような小さな声だった。
セシルは足を止めない。
分厚い背中を向けたまま、ただ一度だけ、ばちっと小さな雷の火花を散らせた。
「……聞こえねぇよ」
「じゃあ、二度と言ってあげない」
「そこはもう一回言えよ、出目金!」
「絶対に言わない!」
アリアは鞄の口を閉じた。
中身は半分以上減り、鞄は驚くほど軽くなっている。
けれど、心臓の奥には——温かい何かが、新しく居座ったような気がした。
その時だった。
不意に降り出した雨は瞬く間に本降りとなり、冷えた空気と湿気が岩棚に流れ込んできた。
「お!ありがたい、本降りになってきたね!」となぜか嬉しそうなハルカをアリアは不思議そうに見た。
「あー、やっと流せる」
セシルが迷いなく軍服のボタンを外し始めた。
「三日間、自分の匂いで発狂しそうだったぜ」
「同感だね」
ハルカも泥にまみれた軍服とシャツに手をかける。
「アリアちゃん、悪いけど岩壁の方を向いていて。少し失礼するよ」
「えっ……服を絞るくらいなら……」
言いかけたアリアの耳に、がちゃがちゃと重たい金属のバックルを外す音が飛び込んできた。
続いて、濡れた革ベルトが引き抜かれる音。
布が擦れ、彼らが躊躇いなく下の衣服まで脱ぎ捨てる気配。
「っ……!? な、なな、何下まで脱ごうとしてるのよ! 最低! デリカシーってものがないわけ!?」
アリアは悲鳴を上げ、慌てて岩壁にぴったりと張り付いた。
真っ赤になった顔を隠し、両手で耳を塞ぐ。
けれど雨音の向こうから聞こえてくる男たちのくぐもった声は、容赦なく鼓膜を打った。
「セシル、石鹸貸してくれないか。自分の荷物を解く余裕がなくてね」
「あーん? ほらよ。一般人には一生買えねぇ高級石鹸だ。すり減るから大事に使えよ」
「はいはい、ありがたく」
ざぁぁっ、と激しい雨粒が彼らのむき出しの身体を叩く音がした。
エデンでは嗅いだことのない、異国の香草のような高価で鮮烈な石鹸の香りが、湿った夜風に乗ってふわりと漂ってくる。
「……ふぅ。生き返る」
ハルカの声が少し緩む。
「それにしてもセシル」
「あ?」
「胸筋の厚さは、私の勝ちだね」
アリアは思わず息を呑んだ。
「はぁ!? お前、目ぇ腐ってんのか! どう見ても俺の方がデカいだろ!」
「いや、君は少し線が細い。私の方が剣で鍛え上げられている分、厚みがある」
「んなわけあるか! ほら見ろ、ここ! ここ触ってみろよ!」
雨の冷たさなど微塵も感じさせない、意地を張り合った男たちの声。
岩壁を向いたままのアリアの頭の中に、嫌でも彼らの均整の取れた分厚い筋肉と、剥き出しの肉体が想像されてしまう。
(……なんなの、あの人たち……っ)
エデンでは、すべてが清潔で、静謐で、感情の起伏すら許されなかった。
けれど今、背中越しに感じるのは、三日間風呂にも入らず、馬を乗り潰し、泥と血にまみれて自分を迎えに来た大人の男たちの、暴力的なまでの生命力だった。
恐る恐る、ほんの少しだけ振り返ってしまう。
激しい雨に打たれながら肌をこする、二人の巨大な背中が視界に映った。
雨に濡れて白く光る、彫刻のように隆起した分厚い肩と背中。過酷な訓練と実戦で鍛え上げられた、一切の無駄がない引き締まった腰のライン。
彼らの異常に高い体温が白い湯気となって、冷たい夜気の中に立ち上っている。
それは、最強の魔術師というただの記号ではなく、生きた雄としての圧倒的な熱量とフェロモンだった。
アリアは心臓を早鐘のように打たせ、さっと視線を岩壁に戻す。
やがて、セシルが腰にタオルを巻いて戻ってくる足音がした。
「おい、出目金。盗み見してただろ」
「だっ、誰が出目金よ! あああぁあ、あんたこそ、白ナマズみたいな髪してるくせに!」
「あーん!? 誰がナマズだ!? 助けてもらった分際でどの口が!」
「ひゃっ、ひゃめて! 痛い!」
セシルが、からかうようにアリアの柔らかい頬を引っ張る。
ばちりと至近距離で目が合った。
意地悪に細められた、妖しく光る紫の瞳。シャープな顎のラインからは冷たい水滴が滴り落ちており、その顔は雨の滴と高級石鹸の香りをまとい、思わず息が止まるほど抗いようのない大人の色気を放っていた。
整髪料で後ろに流されていた銀髪が、そのまま下りている。雨に濡れて額に張り付いた灰色の前髪のせいで鋭い紫の瞳が少しだけ隠れ、不機嫌そうな顔つきが、ずっと年相応の青年のように見えた。
セシルはふん、と鼻を鳴らして手を離す。
まだ頬がじんじん痛い。それ以上に、顔の熱が引かない。
「おー? 俺の体に惚れるなよ」
「んなっ!? 誰が! あんたなんかに!」
「おら〜、出血大サービスで見せてやるって。アリアちゃ〜〜ん?」
「やめてやめてやめてやめて!!」
アリアは真っ赤になって、再び岩壁に顔を押し付けた。
三月の冷たい雨の夜。
世界はあんなにも冷え切っているのに、目の前の男たちは焦げるほどに熱い。
初めて知るその熱量に、アリアは自分の胸の奥が、これまでにない激しい鼓動を刻み始めているのを止められなかった。
「やめないか、セシル」
ハルカの穏やかな声が落ちる。
「アリアちゃん、もう大丈夫だよ。こっちにおいで」
アリアは恐る恐る振り返った。
そこには、泥を落として見違えるほど清潔になり、スカイブルーの瞳を優しく瞬かせているハルカがいた。普段は固く結わえられている漆黒の髪が今はさらさらと解かれている。
セシルもまた、濡れた灰色の髪を犬のように乱暴に振り払い、雨に濡れて流れる前髪が妖しく揺れていた。
額を出している時とはまた違う雰囲気にアリアはじっと彼らを見てしまうが、見つめすぎていたことに気づき、目を焚き火の炎に逸らした。
「まだ服が濡れてる……火をおこしても、そんなにすぐには乾かないよ」
三月の冷たい雨。
このままでは風邪を引いてしまう。
アリアが心配そうに呟くと、ハルカが軽く手をかざした。
「あぁ、それなら心配いらないよ。セシル、君の分もまとめてやるから動かないで」
ハルカが指先で小さな円を描くと、岩棚の下に温かな微風が生まれた。
単なる風ではない。
精密に温度を調整された、優しく包み込むような熱の渦。
彼らの分厚い身体を包む濡れた軍服がみるみるうちに湯気を上げ、瞬く間に本来の乾いた質感を取り戻していく。
「……すご。魔法って、こんなこともできるの?」
「便利だろ? そこらへんの魔術師じゃ、こんな繊細な温度調節はできねぇけどな」
セシルが完全に乾いた軍服を羽織り、バックルを無造作に締め直す。
だが、その整った顔には微かに不満げな皺が寄っていた。
自分の手首の匂いを嗅ぎ、チッ、と短く舌打ちをする。
「……石鹸だけじゃ、まだ泥臭ぇな」
セシルは鞄の奥底から、月光を反射して妖しく輝く、水晶で作られた小さなスプレー瓶を取り出した。
アリアが呆気にとられる間もなく、セシルは躊躇いなくその高級な霧を、己の白く美しい首筋、そして大きくはだけた胸元へと容赦なくぶっかけた。
ぱしゅ、ぱしゅ、と小気味よい音が洞窟内に響く。
次の瞬間、岩棚の下の空気は、ベルガモットと冷たいサンダルウッドが混ざり合ったような、気高くも危険な、鋭い柑橘の香りに一変した。
セシルはサラサラに乾いた灰色の前髪の隙間から紫の瞳を細めると、陶酔したように深く息を吐いた。
「……はぁ。生き返る。やっと人間に戻った気がするぜ」
エデンでは嗅いだことのない、圧倒的な富と権力を感じさせる異国の香。その浮世離れした美しい横顔と、身にまとう極上の香り。
アリアは、彼が三日間風呂にも入らず、泥と血にまみれて魔獣を蹴り飛ばしていた粗暴なヤンキー魔術師だということを、一瞬忘れそうになった。
「君って本当に……。戦場にまでそんな高価なものを持ち込んでいたのかい」
ハルカが呆れ果てたように笑いながら、アリアの元へ歩み寄った。
「さすがはお貴族様だね。アリアちゃん、彼の脳みそはきっと、高級香水がヒタヒタに詰まってるんだよ。帝都じゃ『戦場のヤンキー貴族』とか『騎士団で一番金のかかる問題児』って陰で言われてるんだ」
「光栄だね。泥臭いままじゃ、俺の雷まで安っぽくなっちまうだろ」
セシルは涼しい顔で、鼻でふんと笑った。
「ふん。美学を持たねぇ平民には、一生理解できねぇ境地だろうな」
セシルは全く悪びれる様子もなく、気高く胸を張った。ハルカは真顔でセシルを見つめ、
「さっアリアちゃん、君も濡れてしまっている。おいで」
と、話題を変えることでセシルを制した。
「テメェ無視してんじゃねぇ。てゆうか俺の半径一メートル以内に入るなら、せめて息止めてろ。お前らの泥臭さで、せっかくの高貴な香りが濁るだろうが」
「はいはい、息は止められないけどね…ごめんねぇアリアちゃん。あの銀髪がうるさくて」
「ふん」
「乾かしてあげるからおいで?」
「えっ、でも、私はそんなに……」
「いいから。風邪を引かれたら、任務が失敗だ」
巨体の騎士にそう言われ、逆らえるはずもなく、アリアはハルカの前にちょこんと座り込んだ。
後頭部から首筋にかけて、温かな風が入り込んでくる。
陽だまりの中にいるような、心地よい熱。
剣ダコのある分厚く硬い掌なのに、髪をすくハルカの手つきは男のそれとは思えないほど、驚くほど優しかった。
そこからは高級石鹸の清涼な香りがふわりと漂っている。
やがて風は、髪から肩へ、背中へと流れ、濡れていたアリアの服まで完璧に乾かしてくれた。
「……あったかい」
思わず口から零れた言葉に、ハルカがくすりと笑う。
「よかった」
蜂蜜色の髪が完全に乾き、金の絹糸のような艶やかさを増してアリアの肩にふわりと広がっていく。
祖母の死を知らされた衝撃。
初めての馬。
初めての夜の旅。
清潔さと魔法の余熱が、張り詰めていたそれらの感情を、一気にほどいていく。
「薬、飲まなきゃ……」
こくり、こくりと頭が揺れる。
「……はい、おしまい。ふわふわになったね、って、あれ? アリアちゃん?」
「……寝てんじゃん」
セシルが、自分のすっかり乾いたマントを岩棚の奥に広げた。
ハルカがそっとアリアを抱き上げ、そこへ寝かせると、金色の髪が波打った。
外では、依然として激しい雨音が響いている。
けれど今のアリアを包んでいるのは、三月の冷たい夜風ではなかった。
ハルカが残した魔法の温もり。
隣で静かに息を吐くセシルの、圧倒的なまでの存在感。
高級石鹸と雨と、気高い柑橘の香水、そしてまだ知らない外の匂い。
雨、そして火の粉の爆ぜる音。
そして、初めて知った大人の男たちの、荒々しくて優しい、剥き出しの生命力。
アリアは、ハルカが乾かしてくれた自分の美しい髪の香りに包まれながら、深い、深い眠りへと落ちた。
エデンで毎日のように飲んでいた鎮静薬を飲まずに
——朝を迎えた
いつもお読みいただきありがとうございます!
今回は、栄養素(イケメン・エモ・エロ・笑い・癒やし)をすべて詰め込んだ、怒涛のフルコースでした。いいね、ブクマいただけると嬉しいです^^




