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78.絵描きの息子たち ②

前回のあらすじ:グレアム怒る。

 翌朝グレアムの家に行くと、さっそく玄関扉を越えて怒鳴り声が漏れてきました。お兄さんのようです。


「はあ? 昔お前には向いてねえって言ったこと忘れたのかよ。ふざけんな」


「でも実際まともな職に就けてないんだろ。だったら仕方ないじゃん」


 とグレアム。大きさは抑えていますが、その声色には苛立ちが籠もっていました。


「自分だって逃げたくせに」


「誰のせいでこうなったと思ってんだ。生活していくためだろ」


「どちらにしろ絵描きを継ぐ気はなかったくせに」


 お兄さんにそう返されると、しーんと静まりかえってしまいました。すると、グレアムが外に出てきます。


「モモちゃん……おはよう」


「おはようございます」


「朝からうるさくてごめんね。入り辛かったでしょ」


 桃は肯定すべきか否定すべきか迷いましたが、結局嘘をつくことができず、


「ええ、まあ」


 と曖昧に頷きました。


「もう少し後になったら家に入るといいかも。暫くすればあの人も落ち着くだろうから」


「は、はい。あの、今日もお仕事頑張って下さい」


「ありがと」


 グレアムはいつも通りの柔和な、それでいて普段と違う寂しげな笑みを浮かべながら、通りを歩いて行きました。広場まで行くと、箒にまたがり大きく螺旋を描きながら空を飛んでいきます。その姿を見送ると、踵を返して家の中に入りました。


 お兄さんはまだ朝ご飯を食べていなかったみたいです。机の上に冷めたスープと飲み物、そしてパンが置いてありました。外へ顔を洗いに行っていた様子の彼が食堂に戻って来て、席について朝ご飯を食べ始めます。その間台所で二人きりというのも気まずいもの。


 仕方が無く先に洗濯をしようと中庭へ出て行くと、刺すような冷たさの風が容赦無く彼女を襲いました。できればもう少し日が照る時間になってからにしたかったのです。晴れの日は貴重なので、辛くても今日ある分を干してしまわなくては。あかぎれが広がっていく痛みに耐えながら服を洗います。


 お兄さんは手持ちぶさたなのか、ご飯を食べ終わったあとも食堂を出たり入ったり。家事の段取りが狂ってしまうのですが、邪魔だということもできず、かといって中々仕事も進まなくて困っていました。


 お昼前になって、ようやくお兄さんが工房のほうに向かっていきます、暫くちらちらと様子を見ていましたが、出てくる気配はありません。これ幸いと桃が竈の周囲を磨き始めた時、お兄さんが台所の扉から顔を覗かせて手招きしてきました。仕方が無く道具を置いて工房に向かいます。


 中にはお兄さん一人。いつも絵を描いているお父さんはいつの間にか出かけていたようです。彼はぶっきらぼうな口調で、入り口の側で縮こまっている桃に尋ねました。


「ここって掃除してる?」


 桃は申し訳なさそうに首を振ります。一度お父さんから嫌な思いをさせられたこと、普段はその彼がここにいること、グレアムから触らなくて良いと言われたこと、何より絵描きの道具をどう片付ければいいのか、どこまで手をつけて良いのか分からないこと。様々な理由から桃はほとんど工房に立ち入らないようにしてきました。


「いや、怒ってねえから。グレアムのことだから、無理に掃除しなくていいって言ったんだろ?」


 何拍か置いた後に、小さく首を縦に振ります。


「あいつ自身一切触ってないだろうな、この様子だと。このままだと荒れていく一方だし、親父がまともに掃除する訳ないし。今しかないな」


 そう言って彼は机に置かれている一枚の板を取り出しました。赤、黄色、緑、橙……様々な色が染みついており、表面が乾いてひび割れています。


「今描いているのがアレだとすると、多分こっちは使って無い方だ」


 お兄さんが棚から革で蓋をしてある、小ぶりの容器を取り出します。そして巻きつけてある細い紐をほどいていきました。鼻がツンとしてきます。中には液体が入っているみたいで、そこに雑巾の端を浸していきました。僅かに黄色っぽくなった雑巾で絵の具のついた板をこすると、ひび割れていた汚れが滲むように広がり、徐々に薄くなって木の色が露わになっていきます。


「油で溶かして絵を描くんだ。水に溶けないから、洗うときはこれで汚れを落としてから石けんで洗って乾かす」


 てっきり独り言かと思っていましたが、どうやら桃に話しかけているらしい、ということに気がつきます。桃は一歩、二歩と近づいて手元を覗き込みます。同じような板が何枚も机の端に重なっており、一つ一つ手際よく洗っていきます。桃がそれらを庭に持っていって立て掛けて来ると、今度はバケツの周りに大小様々な筆が二十本ほど並べられていました。


「この油はできるだけ汚したくないから、空のカップに少し移してから洗う」


 そう言って一回り小さなカップにそっと液体を注ぐと、筆を浸して軽く横に振り始めました。細い筆、太い筆、先の尖ったものや平べったくなっているものを次々と洗っていきます。見ているだけでは手持ちぶさたなのと、この本数で洗い終えることができるのかという不安、そして触ってみたいという単純な好奇心から、桃も真似をしてみようと筆を手に取ってみます。しかしすぐさま止められてしまいました。


「あっ、そっちはテンペラの筆なんだ」


 桃の側にある十本ほどの筆を抱えて離れたところに置きます。


「こっちは卵の黄身に色を溶かして描くやつだから、石けん水で洗えばいい」


「分かりました」


 桃は小ぶりの桶に水を入れて持って来ました。そこに石けんを溶かしてぬめりを落とすように筆先を洗います。この筆からは確かに生臭い匂いと微かなリンゴの香りがしました。お兄さんが言うには、何日間か使えるようにリンゴの酢が混ぜてあるそう。


 水で石けんを流した後に布で水気を取ると、先ほどまで真っ赤に染まっていた毛先が、灰色になっていました。触って見ると、柔らかく弾力があります。これを使って絵を描いているところを想像すると、道具を洗っているだけなのに楽しくなってきました。


「本当は色が混ざらないように筆を使い分けたり、絵の具がこびりつかないうちに洗ったりするものなんだ。……親父はそういうことしないけど」


 筆は大事な仕事道具のはず。お裁縫をするときだって、新しい針と錆びた針では使い勝手も仕事の速さも雲泥の差だというのに。きちんと手入れをせずにすごい絵が描けるものなのかという疑問が沸いてきます。


「それで描けますか?」


「描けるんだろうな、多分」


「へえ」


「こういうナイフも洗っておきたいところなんだけどな。下手したら油絵用を使い回してるんじゃないかこれ」


 絵の具を広げる時に使うという、刃の無いナイフを手にとります。それも油をしみこませた布でこびりついた絵の具をこそげ落とすように力を入れながら拭き取っていきました。乾いた布で拭き取ったナイフや筆は、引き出しの中に並べて片付けます。


 机の上にはぼろぼろになった紙の束が積み重なっており、似たような人物の絵がいくつも描かれていました。剣を持った女性の体が描かれているもの、それに服を着せたもの、馬がいるもの、別のポーズを取っているもの……。白黒で描かれていますが、髪のうねりや腰つきからして、フランの絵だとすぐに分かりました。立て掛けてあるキャンバスに目をやると、色が塗りかけになっている大きな絵があります。全身に鎧を纏い、馬にまたがって、剣を掲げている場面でした。人物の隣には蛇の様な魔物がいるので、倒そうとしている場面なのでしょう。


(ひとつの大きな絵をつくるのに、何回も何回も描くんやなあ)


 ぼろぼろに散らばった木炭の屑をかき集めながら、感心していました。


 色の元となる顔料というものが入った容器も棚に並べ直し、机の上についた汚れも拭き取ると工房が見違えるほど整然とした場所になりました。お父さんが喜ぶかどうかは分かりませんが、作業しやすくなっているはずです。すくなくとも、掃除をした二人の気分は晴れやか。


「お兄さんは、絵を描く道具をよく知っていますね」


「まあ、絵描きの息子だからな」


「お兄さんは絵を描きますか?」


 暫くの間目を泳がせました。


「描かない。絵描きにはならないって決めたんだ」


 違和感を覚えてそれ以上の言葉が出なくなります。すると父親が帰ってきてしまいました。ご飯の支度をするために慌てて台所へ戻っていく桃。お兄さんの方も、お昼を済ませるとどこかへ出かけていってしまい、結局理由を尋ねることはできませんでした。入れ違いになるようにグレアムが帰ってきます。


「ただいま。兄貴が迷惑を掛けなかった?」


「いいえ。お父さんの部屋を掃除してくれました」


「仕事場のこと?」


 グレアムは勢いよく扉をかけて工房を覗き込みます。


「本当だ。綺麗になってる」


 台所に行ってお茶を入れながら筆のことや、絵の具について色々教えて貰ったことを、あれこれ話します。初めて聞いた言葉が多かったせいか、たどたどしい話し方になってしまいました。


「仕事場まで、綺麗にしてくれてありがとう。兄さんも多少は役に立って良かったよ。あっ、そうだ」


 グレアムが飲んでいたお茶のカップを机に置きます。


「そろそろ祭りの日も近いから物置の掃除をしたいんだ。明日、僕の仕事が休みの日なんだけど、来られるかな?」


 グレアムの仕事が休みの日は桃も仕事を休むことになっていました。その日に自分達の買い物や面倒な家事をまとめて行っていたのですが、一日くらいはやらなくても問題ありません。最悪サムに任せてしまえばいいのです。


「勿論です」


「助かるよ。父さんや兄さんが手伝ってくれるとは思えないし、一人だと片付く自信がなかったんだ」



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