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69.温泉のある別荘にて ⑥

 二人は狭い部屋に閉じ込められたまま、外から開けてくれる人もいなければ内側から出る方法もない。頼れる人もいない。桃は途方にくれて、その場に座り込みます。


 一方で、フランはずっと部屋を見渡していました。時々耳を塞ぎながら首を振ったり、じっと机の辺りを見ていたり。いつも以上に落ち着きがありません。落ち着いていられる状況ではありませんが、果たして閉じ込められたというだけで、このような動きをするでしょうか? 桃は疑問に思いました。


 それからどれくらいの時が経ったのか、空の色の変化だけでは図りかねますが、腹時計は働いていたみたいです。お腹が空くにつれて立つ体力も無くなり、壁にもたれかかるようにして座り込み、お互いに口数も減ってきます。


 それでもどのように閉じ込められたのか、考え続けていました。入る時は開け閉めできていたのに、入って閉めた途端空かなくなるというのも変な話。フランは聞き耳を立てていたのですから、誰かが扉に悪戯をしようとしていたら気がつくはずです。


 フランがぼそりと一言、二言発しました。


「鍵もついていないのよね。誰かが塞いでいないのだとしたら……まさか」


 勢いよく立ち上がり、数歩進んだところで一旦立ち止まります。チラリと桃を見やると、丁度部屋を横切るように歩いて壁にもたれかかりました。窓の灯りが群青色のシュルコとその上に掛かるうねり髪を浮かび上がらせます。窓のある壁に向かって顔を傾けると、髪もつられて動きました。その先には何もありません、机とちょっとした筆記用具が置いてあるだけです。なのに彼女は口を開きました。


「ねえ、貴方じゃないのでしょうね? 私達ここから出たいのだけれど」


 非難するかのような棘のある声が、何も無い空間に発せられます。


「あの」


「ごめんなさい。独り言よ」


「ですが……」


 明らかに誰かに向かって話しかけている口調でした。部屋には二人しかいないのに、別の誰かがいるかのような。彼女の視線は何かをはっきりと捉えているのです。そして苛立ちを募らせていながら取り繕うとする彼女の態度は、刺さった小骨のような感覚を桃に与えていました。その正体を突き止めたくても、どう切り出すべきか。それを誤れば取り返しのつかないことが起きる予感がしました。


「フランさん、怒っています?」


「怒っていないわ、貴方には。貴方は何も悪いことをしていないもの」


「ではどなた……に?」


 掠れ、消え入りそうな声。


 それでも、違和感の理由をはっきりさせなければならないという感情が、桃の中に沸き上がっていました。それができるチャンスは今しか無い気がするのです。


「誰に、と聞きたいのね。母親よ、あの時通りかかったあの女に怒っているの」


 矢継ぎ早に言い立てるフランの言葉を、信じたくても信じられません。目を背け、裾を握りしめ皺ができています。いつ開くかも分からない、今日ご飯が食べられるのか、ここで眠らなければならないのか、厠へ行きたくなったらどうするのか、三人は自分達が戻って来ないことに気がついているのでしょうか。静寂に満たされた部屋の中で、焦燥感を募らせています。


 桃は黙って待っていました。フランが打ち明ける気になることを。出ることのかなわない二人だけの空間、待つことだけはいくらでもできるのです。フランはずっとうつむいていました。潤んだ瞳を何度か瞬かせます。外で風が巻き起こったようです。木の陰が大きく揺れていました。その勢いに背中をおされたかのように、フランは顔を上げました。


「ねえ、ちょっと話を聞いてくれる……?」


 真剣な眼差しを向けられる桃。これから話されることはしっかり受け止めなければ、そんな予感がします。


「良いですよ」


「酷く変な話よ。気味悪がったり嘘だと笑ったりしないって誓える?……ええ、本当はそんなことする必要なんてないのよ、ただ、私ちょっと勇気が必要だっただけ」


 顔を窓の方に向けたフランの声が、震えていました。普段の堂々とした彼女と比べるとまるで別人のような雰囲気です。


「分かりました」


「本当の本当?」


「勿論です」


 フランは音がはっきりと聞こえるくらい大きく息を吸いました。


「もし、もしもよ。私達の他に誰かがいるって言ったら?」


 桃は反射的に部屋中を見渡しましたが、他の人の気配はありません。虫一匹すら見つけられませんでした。


「いますか? 私には分からないです」


 首を傾げる桃。フランは机の角に細い指を滑らせています。


「無理もないわ。その人はもう、生きていないもの」


「え……?」


「お化けなの。私、そういうのが見える性質みたい」


 お化け。唐突に現れた言葉が耳を通り過ぎていきます。それくらい場違いな言葉に思えました。しかし、ゆっくり考えてみると、つまり桃には見えなくてフランにだけ見える何かが部屋にいたと仮定すれば、彼女と奇行とも呼べるものに説明がついてしまうのです。


(だから、時々声を荒げていたんや。うちに怒っているわけじゃないってのは本当やったんやね)


「それなら言って下されば――」


「言えるわけないでしょう! そんなの、気味が悪いだけじゃない」


 耳をつんざくような声で言い放つフラン、その場でうずくまり、小刻みに震わせる肩。


「だって他の人には見えてないものがいるって言い張ることになるのよ。そんなの大ホラ吹きでしかないでしょう? 気が狂ってるとしか思えないじゃないの」


 声量を抑えていながらも、堰を切ったようにはき出される言葉。桃は駆け寄って小さな少女のようにか細いその体を抱き寄せました。何も見えていないのに彼女のことを理解することは不可能。桃には、悲痛な叫びを受け止めることしかできないのです。


(こういう時、何て声を掛ければいいんやろ、欲しいのはどんな言葉やろうか)


「ふらんさんは、嘘つきじゃありません」


 これが、正解が分からないまま絞り出した答えでした。背中をゆっくりと撫でながら、務めて穏やかに桃は尋ねます。


「ところで、何のお化けがいるんですか?」


「……お爺様」


「フランさんの、お爺さんですか」


 意外と身近な人物だったことや、お爺さんが既に無くなっていることに驚いてしまい、変に高い声が出てしまいました。火照った顔に手の平を当てます。


「そう」


「何か話していましたか?」


「机の引き出しの中にある物を渡して欲しいって、それしか言わないの。あまりにもうるさくて、もしかしてそのために私達を、その、閉じ込めたんじゃないかって、思ってしまって」


「そうなんですね」


 この状況ならお化けの仕業だというのもあり得るような気がしました。桃は一旦立ち上がり、「すみません」と呼びかけるように囁きながら、引き出しを開けました。手で奥の方を探ると、指先にざらついたものが当たりました。取り出すと紙を折って作った袋がでてきます。振ってみると、カサリと音がしました。


「開けて良いですか?」


 フランが頷いたのを見届け、袋の上下を逆さにします。手の平に落ちてきたのは、金色に輝く指輪でした。中心には小さな白い石がはめ込まれています。それをフランに見せると片方の眉を上げました。


「まあ、随分と洒落たものを隠し持っていらしたのね。これをお婆さまに渡したかったみたい」


(ずっとこの引き出しにあったってことは、生きて居る間に渡せなくて、ずっと心残りだたんかな)


 桃はそっと袋の中に指輪をしまいます。


「渡しましょう」


「そうね、私が預かるわ。貴方はお婆さまの顔を知らないでしょう?」


 目と鼻の辺りを赤くしたフランに袋を手渡します。袋の表裏をざっと確認して荷物入れにしまいました。


「ねえ、モモ」


 苦しみ、悲しみ、焦り様々な感情を煮詰めたような低い声で話しかけられます。いつもの元気はすっかりなりを潜めていました。


「何ですか?」


「このことは、誰にも言わないで頂戴」


「あなたが、その……見えるということを?」


「ええ。二人だけの秘密にしたいの。友人にも、同居人にも、グレアムや、一応スミスにも話さないで。本

当は貴方にも話したくなかった」


 その言葉に桃は動揺を隠せなくなります。


「何故ですか? 私たちはフランさんのこと、好きです。嫌いになりません」


 語気を強めます。彼女が見えているものが、聞いているものが他の人には分からなくても、もし彼らに恐れられることを、避けられることを心配しているのなら、それは誤解だと伝えたかったのです。そんな理由で嫌いになるような人達ではないと桃は信じていました。遠い国からやってきた桃にさえ優しくしてくれた人達なのですから。


「違うの。本当に怖いのはあの人達に嫌われることじゃない、街中に知られること。だって、市長の娘が狂っていて、妄言ばかり吐いているだなんて、あってはならないことでしょう? そんなことがしれたらお父様の地位に傷がついてしまう。私のせいでお父様が引きずり下ろされるかもしれない。街の評判そのものに響くかもしれない……」


 フランの頬には涙が伝っていました。嗚咽を漏らしながらなおも訴え続けます。


「私は、私は才女とまではいかなかったけれど、せめて普通のお嬢様でなくてはいけないの。お父様は、私を心配してくださったわ。お祓いにも連れて行ってくれた。なんの意味もなかったけれど。当然よね。私が取り憑かれていないことくらい、自分自身が一番分かっているもの。そもそも、そんなことさせてはいけなかったのよ。だから、私は治ったふりをし続けなければならないし、見えないふりをし続けなければならない、ならないのよ。……なのに、なのに」


 たまらず桃は再びフランを抱き寄せました。服が涙で濡れるのも構わないで。柔らかく艶やかな髪をゆっくりと撫で、背中をトントンと優しく叩きます。腕の中にいるのは、年上の女性では無く、世間の荒波に怯え続け、一時の癒しを求めて涕泣する少女でした。


「ずっと、ずっと頑張ってきたのですね。寂しかった、ですよね」


(きっと誰かに打ち明けてしまいたいと思ってたんやないかなあ。きっと言えなかったのは、親不孝な娘だと思われたくなかったから、愛して欲しかったから)


 お化けのことは詳しくない桃ですがきっと怖いものも沢山いるだろうということは推測できます。それを目にして叫ぶことも、誰かに話すことも許されない。恐怖心を押しとどめ続けるのがどれほど大変か、それほど途方もないことを彼女は生きている限り、やり遂げようとしていることに、胸が苦しくなります。せめて少しでも肩の荷を下ろして上げられたら、と願わずにはいられませんでした。


 桃は教えてもらった歌を口ずさみます。歌うのが好きだという彼女が、少しでも落ち着きを取り戻せるように。ゆったりとした拍子の歌を。



 太陽が闇に隠された 月が満ち 淡い光が歌い踊るとき

 天の扉が開かれぬ 地を這う扉が開かれぬ



 桃の素朴な歌声に伸びのある、澄んだ声が重なります。時々すすり泣きが混じりながら、ハーモニーを生み出していました。



 海を渡り 地に根を下ろし木に住まおう

 火を炊き 金を叩き 豊穣を願おう



 段々と歌声が大きくなっています。フランが幼い頃に教えて貰ったという歌。歌詞の言葉は難しく、意味が良く分からないままなのだそう。それでも歌い続けているのだと語っていたのを思い出します。繊細で幻想的でありながら、どこか力強い。



 竜の導きに続け 風の鳴る方へ 雪降る方へ

 さあ歌い踊れ 時が来るまで舞ひ遊べ

 さすれば扉は閉じられむ 扉は閉じられむ



 桃に抱きしめられて泣いていた彼女の面影はもうすっかり消え失せていました。部屋中に声を響かせる、まるで舞台の上にいるかのような堂々たる姿があります。満足げに口角を上げ、高らかに笑うフラン。桃も顔をほころばせました。そして、ギギギという床を引きずるような重苦しい音と共に暖かな光が二人を包みこみ――。



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