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68.温泉のある別荘にて ⑤

 桃は今、左右どちらへ進むべきか悩んでいました。部屋へ戻ろうとしたのですが、そこまでの行き方を覚えていないのです。暫く歩いた記憶があるので一番近くにある建物の中では無いはず。外壁に沿って歩くことにします。


 しかし、歩いても歩いても他の建物が見えてきません。向こうから一人、籠を片手にこちらへ来る人の姿があります。飾り気の無いシュルコの上に使い古した前掛け、無地の頭巾を被った、使用人かと思える格好をした老婆でしたが、その背筋を真っ直ぐ伸ばして歩く姿は気品に満ちていました。


「こんにちは」


 桃は立ち止まり、声を掛けます。すると老婆も足を止めました。


「こんにちは。どうぞごゆるりとおくつろぎ下さいませ」


 歳の割に切れのある話し方で述べ、会釈した老婆。すれちがった後も、ついその後ろ姿を見送ってしまいます。


 建物の角を曲がっていくのを見届け、再び歩き始めると、手前と奥に別の建物が現れました。桃はそこでまた思案しはじめます。角を曲がって奥の建物に入るべきか、そのまま真っ直ぐ行って手前の建物に行くべきか。どちらの外壁も石を積み上げ、意匠をこらしたもの。塔がついているかいないかや、ちょっとした屋根の形くらいしか区別するところがありません。


(そもそもこんなに歩いとったっけ? もしかしてすぐ側の建物だったんかなあ)


 桃は不安に駆られて来た道を戻ります。お風呂で温まったはずの体が冷えてきて、外の空気に耐えられなくなってきました。


「あー、寒い、寒い。とりあえず中に入らんと」


 桃は扉を見つけるなり小走りで建物の中に入ります。そこで腕をさすっているとお風呂から出たばかりという風貌をしたフランと出会いました。まだ髪の毛が乾ききっておらず、首筋に毛先が纏わりついています。


「あら、モモ先に戻っていなかったの?」


「はい。帰り道が分からなくて」


「まあ、この広さだものね。外は寒いでしょう?」


「はい。とても寒いです」


「確か渡り廊下で繋がっているからこのまま部屋に戻れるはずよ」


「本当ですか!」


 冷たい風に当たらないまま帰れるなんて。桃は自然と笑顔になります。丁度フランも部屋に戻るところだったと話し、連れだって廊下を歩き始めました。床から冷気が這い上がってくるような寒さがありますが、風が来ない分、我慢できそうでした。


 ところが、いくら進んでも同じような壁と床、似たような窓の景色、同じ模様で装飾された曲がり角。部屋どころか、別の建物にすらたどり着きません。


「あれ、おかしいわね。そろそろ渡り廊下が見えてくるはずなのに」


「フランさん」


「何かしら?」


「迷いましたか?」


「ま、まさか。この私が迷うはずないでしょう。ここは私の別荘なのよ……一年に一度も来ないけれど」


 言い繕うような口ぶりからして迷っていることは確実でした。この広さの別荘です。毎日のように住まなければどこに何の部屋があるか忘れてしまうのも無理はありません。


(フランさんも、案外慣れてなかったんやなあ)


「あっ。ちょっとこっちに来なさい」


 いきなりフランに腕を引っ張られ、角を曲がります。


「あの女までいるだなんて。聞いてないわよ。やだ、曲がろうとしているじゃない」


 フランは咄嗟に近くにあった部屋の扉を開けて、桃もろとも中に滑りこみました。小さな窓が一つあるだけの、薄暗い場所。話し声が聞こえてきます。フランとよく似ているけれど僅かに低い、婉然とした声も混ざっていました。


「あの女、お母様って言ってる? まさかお婆様までいらっしゃるの、どうして?」


 フランは壁に耳がつくほど近づけて、ブツブツと呟きます。状況が把握できない桃は、部屋を見渡します。窓に面したところに机があり、その上には筆とインク壺、そして紙の束が置いてありました。あとは本棚があるだけ。


 やがて足音が遠ざかっていくのを確かめると、ほっと一息つきました。机の下にしまってある椅子を取り出し、足を組んで座ります。


「ごめんなさいね。どうしても顔を合わせたくなかったのよ」


「大丈夫です。あの、どなたですか?」


「母親。一応ね」


「え、お母さん?」


(お母さんなのに、会いたくないん?)


「信じられないって顔をしているわね。貴方のお母様がどんな人だったか知らないけど、あれは私を産んだってだけの女よ」


 その声には嫌悪感が滲み出ていました。桃にはその表情までは分からなかったのですが、きっと顔も歪めていたでしょう。


「は、はあ」


 返す言葉が見つかりません。母親に対する忌避感というのは、桃の想像を絶するものでした。


「そんなことより、さっさと出ましょう」


 軽快にフランが立ち上がり、流線型の模様のついた取っ手を握りますが、開く気配がありません。


「あら?」


 先ほどより激しく動かしていますが、びくともしていないようです。


「どうしましたか?」


「開かないの」


 今度は桃が取っ手を掴みます。


「うーん。あれ? うーん」


 しかし、すぐに引っかかるような感覚がしたかと思うと、押しても引いても動かなくなってしまうのです。


「本当ですね。どうしましょう」


 と声を掛けますが、フランの反応がありません。彼女は机の方を睨み付けたまま。桃の言葉に気づいていないようです。


「ふらん、さん?」


「あら失礼。困りましたわね」


 もう一度呼びかけると、すぐさま振り向いて目を細めました。その瞬間、桃は違和感を覚えたのですが、すぐに頭の片隅に追いやってしまいます。


 それから時間をおいて引っ張ったり、横に動かしてみたりしました。多少動く音はしますが途中で止まってしまいます。扉の周りには障害物となるような物はなく、白い壁紙が塗られているだけ。蝶番に問題があるのかとも考えましたが、顔を近づけてもよく見えません。部屋には灯り一つなかったのです。目をこらし、指で触った限りでは問題なさそうでした。上の蝶番に問題があったとしても、背伸びをしても届かないので確かめることは難しいでしょう。


(フランさんなら届くかな)


 そう思って振り返った時、


「先ほどから何ですの?」


 と苛立った声が発せられました。咄嗟に手を引っ込めます。目だけでフランを見やると、桃の方を向いていないことに気がつきました。


「ごめんなさい。お気になさらないで」


 萎縮している桃に気が付いたフランは、白い手を口元に当て、長い睫毛を伏せました。先ほどから、彼女の態度に引っかかるところがあります。


「何か気になることがあったのかしら?」


 たたみかけるようにフランが問いかけました。桃は扉の上部にある蝶番を指し示します。


「あれを見てくれませんか?」


「良いわよ。……問題はなさそうね。詳しくないから分からないけれど」


 扉そのものが壊れている訳ではないことが判明すると、ますます原因が分からなくなってきました。


「不思議です。誰かが来るのを待ちますか?」


「そうねえ。先ほどは偶々通りかかっていたけれど、元々人が通る場所ではないと思うの。食堂や客間の場

所とも違う。私達が泊まっている棟でもないでしょう。それにほら、ごらんなさい。あそこから空と木が見えるということは隣にあるのは静かな裏庭ね。こんなところへわざわざ来る人がいるかしら」


(ということは、このまま助けが来ないかもしれへんってこと?)


「こんなことになるなら、狐に部屋の番を任せるんじゃなかったわね。何かしら役に立ったかもしれないのに。使い魔なら簡単に呼び出せるはずなのよ、本来は。でも、どう呼べば良いのか分からないの。ずっと一緒なのに慣れすぎてしまったのかしらね」


 確かに物知りな狐がいないとかなり心細く感じられました。ですが、荷物番が必要なのも、全員でいかないとお風呂へ辿りつけなかったことも事実。数刻前の自分達を責める気にもなれませんでした。


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