13.お仕事はじめました ③
前回のあらすじ:とりあえず家事をこなした
その日もサムに連れられてグレアムの家に行きました。グレアムはもう出かけており、お父さんは部屋に籠もっています。はじめは仕立て直した服を着ていたのですが、今日はその服を干していたため、故郷の服を着て行きました。折角誰かが下さった服をこれ以上汚してしまうのは忍びない上に、やはり着慣れた服の方が動きやすかったのです。
部屋の中にぐちゃぐちゃになった服が溜まっていたので、早速洗濯をはじめます。井戸から桶に水を汲んで、服を揉んだり踏んだり。近くに住んでいる女の人達は、皆で集まって洗濯をしているようでした。
ですが、その中に入っていく勇気がありません。仕方無く中庭に植えてある木と庭に出る扉の上部に付けられている出っ張りを紐で繋ぎ、そこに洗濯物を干します。一列に服や手ぬぐいが並ぶ光景は思いのほか壮観でした。
これでも来たばかりの頃と比べると量が少なくなったように感じます。おかげで早く干し終わり、一階の掃除も半分位終わらせてしまいました。
そろそろ昼ご飯の時間です。普段は竈に汁物の入った鍋が置いてあるのですが、今日は何も置かれていません。新しく作り直さなくては。夕飯と明日の朝ご飯にも回せるよう、多めに作っておきます。丁度大きなキャベツと人参、タマネギ、フェンネルがありました。これとお肉を加えればスープができそうです。桃の好みより少し多めにジンジャーを加えます。
お父さんは美味しそうにご飯を食べてくれました。片付けを終えて掃除の続きをします。玄関周りを掃除していると、お父さんが扉を少し開いて桃を手招きしました。何か用事があるのだろうと思い、掃除道具を置いて駆け寄ります。
彼は椅子に座るよう促しました。言われるがまま椅子に腰掛けると、一枚の紙を取り出し、細長い炭を手に取って紙の上を走らせはじめました。前、横、後ろ。顔を近づけては遠ざけて。じろじろ見ては何かを描きます。
最初の方はどきどきしていましたが、やがてじっとりした視線がなんだか気味悪くなってきました。もぞもぞと体を動かすと、
「Fneh, fneh.(止まれ、止まれ)」
と怒りを含んだ声で言い放ちます。驚いて固まる桃。お父さんは何度か頷いてまた動き始める木炭。怒られるのが嫌で体を強張らせますが、肩や腰などあちこち痛くなってきました。それに、いつ仕事に戻れるのか心配です。途中で投げ出しているところをグレアムやサムに見られたら、きっと怒られてしまうでしょう。
一旦木炭を机に置くと、今度は桃を立ちあがらせました。そして周囲を歩きながらじろじろ眺めます。一体何をしているのでしょうか。
(この人はいつも絵を描いているから、もしかしてうちの絵を描いているんかな?)
と思いました。すると彼の手元が気になってきます。
(どんな感じなんやろ)
背伸びをしてのぞき込もうとすると、
「Fneh, fneh.(止まれ、止まれ)」
と怒鳴られてしまいました。少しでも動くと声を荒げられます。お父さんがこんな怖い人だとは知りませんでした。
日の光が橙色に変わる頃、お父さんはようやく紙を置きます。やっとお仕事に戻れそうです。
(せめてゴミを集めて道具は片付けないと。ぐれあむさんが帰ってくる前に)
ですが、お父さんはやや不満げに紙を手にして何やら考え込んでいるようです。そして別の紙を引っ張り出すと、外に出ようとした桃を呼び止め、
「それ脱いで」
と言い出しました。言葉の意味は分かりません。しかし父親の身振り手振りから、何を要求しているのかが分かってしまいました。冷や汗が滲みます。自分の父親ですら少し恥ずかしいのに、家族ですらない男の人の前で服を脱ぐなんて嫌に決まっています。
なかなか動き出さない桃を見かねて、グレアムのお父さんはついに桃に迫り、帯を引っ張りはじめました。帯を抑え抵抗しますが、気迫に圧倒され、帯の食い込んだお腹あたりが苦しくなりつい力が緩み、その隙をつかれて上着と帯を持って行かれてしまいました。
父親は上機嫌に上着を広げ、眺めては何か書きつけています。流石に下着姿のまま部屋には戻れず、桃はそっと隣の部屋に行き、隅でうずくまっていました。早く服が戻って来ることを願いながら。
部屋が薄暗くなってもまだ服が戻ってきません。静かに部屋をのぞくと、お父さんは灯りをつけるのも忘れて、服を眺め、触り、描きとめている。その後ろ姿を目にした桃は鳥肌が立ってきました。
「E’s hoca!(ただいま)」という声。グレアムが帰ってきてしまいました。まだ服を返してくれそうな気配はありません。このままではみっともない姿を見られてしまう。なりふり構わず階段を駆け上がると、一番奥の部屋に向かいました。
重い扉を開き、僅かな隙間に体を滑り込ませるようにして中に入ります。目をこらして見えるのは埃を被った絵の山。掃除しないとなあ、とぼんやり思いながら壊れかかった棚の隣に座り込みました。
微かにグレアムの声が聞こえてきます。珍しく怒鳴っているような声色でした。壁に耳をそば立てる桃。階段を上る音がしたかと思うと、徐々に、徐々に足音が迫って来ます――来て欲しい様な、欲しくないような。体が脈打っています。
いつかは出なければいけないのに出られません。凍ったように体が冷たくて、動かないのです。そして、ついに扉が開いてしまいました。
「モモ…………」
開いた扉の隙間から漏れてくる光を背にしてグレアムが立っています。彼は、足元に服と帯を置いて去って行きました。かっと体が熱くなったまま、震える手で上着を着ます。帯を巻く手に力が入りません。巻き方も思い出せなくなるくらい、頭の中がぐちゃぐちゃでした。
部屋から出るとグレアムが扉のそばに立っていました。彼に見られていると言うことが、この場にいることがどうにも嫌になって、思わずかけだしてしまいました。置いたままの掃除道具を片付けないと、グレアムさんに謝らないと、サムの家に帰らないといけないことは、十分分かっているはずなのに。
でも体は言うことを聞きません、遠く、ただ遠く、誰にも見られない場所へ――。
外に飛び出していくと案の定、桃を待つ人影がありました。彼を目にして頭が冷えたのか、一旦立ち止まります。グレアムが息を切らしながら包みを持ってきました。今日のお礼です。差し出した桃の手は、小刻みに震えていました。
(私、貰えない、今日は仕事投げ出しているのに……)
ぼんやり立ち止まった様子にサムは苛立ったそぶりを見せ、桃の腕をつかみました。その瞬間、サムの手を振り払って駆けだします。彼女の姿はみるみる小さくなって、群青色の空に溶けていきました。
残された青年二人が呆然と立ち尽くしています。
「何をやらかしたんだあいつ……色々悪かったな」
「え、あ、うん。それは良いんだけど」
いち早く我に返ったサムはおろおろしているグレアムに一言かけてどこかへと歩いていきます。
「ちょっとどこ行くの……行っちゃった。えっとまずは、追いかけるか」
その様子を見送ったグレアムもようやくするべきことを思い出して、桃が去って行った方へ走り出しました。
***
桃はひとしきり走った後、ふと立ち止まりました。周囲を見渡すと見覚えのない景色に首を傾げます。遠くまで来てしまったのでしょうか? 目をこらすと近くに黒っぽくなった河が見えてきました。石畳だった道は土になっており、まばらにあった石造りの家はすっかりなくなって、心細い木造の家が建ち並んでいます。
街の様子から、貧民街に入ったことは分かりました。もう日が沈んでいるのに、街道には多くの人々。好奇と猜疑の視線が刺さってきます。やはり桃のような姿の人は珍しいのです。
体は火照って熱いのに、空気は冷たい。どっと疲れが押し寄せてきたので木の根元に座り、腕に顔を埋めます。
(どうしてサムさんの手を振り払ってまったんやろ)
家族や幼なじみは平気だったのに。今まで何度も腕を捕まれたのに。
走っている途中、何度もグレアムを見かけました。桃に話したいことがあると、目で訴えかけていたのです。
(どうしてあの時、逃げてまったんやろ)
服を届けてくれたグレアムから逃げる理由など、どこにもありません。本来なら感謝するべきです。わざわざ服を持って来てくれたのですから。
空を仰ぎます。思っていた以上に暗くなるのが早くなっていました。帰らなければ危険だと、頭では分かっていても、どうしても動けません。そもそも今更どこに行けばいいのでしょうか。
(うち、何やっとるんやろ)
白いため息が風に流され消えていきます。
「モモ、ちゃん……?」
声が降ってきました。反射的に体を起こし、隣の木まで走ります。いつの間にかグレアムが再び追いついていました。
木から少し顔を出して様子を伺うと、彼が近づいてくる様子はありませんでした。木にもたれかかっています。よく見えませんが、きっと困った顔で桃を見ているのでしょう。
早く彼の所に行って謝らないと。そう思えば思うほど、体が地面に沈んでいくような感じがするのでした。




