105.魔法境界に現れし月 ①
前回のあらすじ:真相は藪の中……。
街路樹に緑色の葉がつき、春の訪れを感じられるようになってきました。窓から入ってくる風が心地よく、桃は外の掃除でもしようかと思い立ちます。
ここのところ急な雨が多くて玄関先が泥だらけになっていました。そろそろ地面も乾いている頃でしょう。箒と濡れた雑巾を持って外へ出れば、雲一つない空に柔らかい日の光が差し込んでいます。道行く人は薄手の上着をはためかせて足早にどこかへ歩いていきます。キャベツの入った籠を重そうに担いでいる人を見れば、そろそろ葉の柔らかいキャベツが出回る時期であることを思い出しました。今日の夕飯はキャベツたっぷりのスープにしようと考えながら、レンガの床にこびりついているヒビ割れた泥を掃き、扉の取っ手や羊の描かれた看板を雑巾で拭います。
そうこうしているうちに、明らかに足取りの覚束ない女性が桃めがけて歩いてくるのを見つけました。彼女は銀色の長い髪を洗いざらしにして、シミのついたコットの上にくすんだ赤色の上着を纏っています。すらりとした体躯ながら裾の下から覗く脚は、余分な肉がそぎ落とされており、鍛え上げられたもの。靴は履いておらず裸足のままですが、上着の留め具は絵の具がついていながらも金のような輝きを放っており、宝石のような石が埋め込まれていました。
奇妙な格好で桃に近づいてくるのは、エリと名乗るエルフでした。彼女曰く、事情があって桃の友人であるリンを親元から連れ出し育てあげてきたとのこと。しかし、そのリンとは何かとすれ違っている様子でした。
彼女は頬を僅かに赤くして、酒の匂いを振りまいています。そしていきなり話しかけてきました。
「ああー。リンがめっちゃ話してた子じゃん、なんでこんなところにいるのさ」
「エリ、さん。こんにちは。私はここで働いています」
「ふうん。で、ブラ坊ってどこにいるか知ってる? そろそろ泊めてくれる人いなくなっちゃってさあ。あんまり頼るのはかわいそうかなって思ったんだけどまだ夜はちと寒いもんね。野宿はやだよお。この辺に家があった気がするんだけど、覚えてなくてさあ」
彼女がブラ坊と言っているのは最近絵描きのギルドに入って絵の修行を始めたブライアンという青年のことです。彼なら親方の家に住み込みで修行に邁進しているはずですが、桃がその家に行ったことがあるのはせいぜい数回。しかも勤め先の家族に連れていってもらっただけなので行き方を覚えていません。
「すみません。道が分からないです」
「そっか、でも、この辺ではあるんだよね」
桃は大きく頷きます。
「なら、この辺を歩き回っていれば辿りつけるかなあ、行ってみるかなあ」
「気をつけてくださいね」
エリが手を振って去ろうとします。ところが道の真ん中で立ち止まると叫び声をあげました。
「ああー。ブラ坊……じゃ無い方だ」
「お久しぶりです。ブライアン弟はよく言われたけど、じゃない方って呼ばれたのは始めてだ」
「あら、モモもいるのね。モモ!」
道路からフランが大きく手を振ってきます。郵便屋の仕事をしているグレアムと一緒に家へ遊びに来たようです。そして普段とは異なりもう一人、金色の髪を肩くらいまで伸ばした女性が一緒にいました。どこかで見たことがあるような、気の強そうな顔立ちをしています。頭頂部には鮮やかな紅色のリボンがのぞき、服にも細かい刺繍が施されているなど身なりにはかなり気を遣っているようです。
桃は皆のいるところへ駆け寄っていきました。フランが一緒に来た女性の肩に軽く触れながら紹介してくれます。
「この子はベラ、私の友人なの。昔はこの三人で遊んだこともあったのよ」
「へえ、驚きです。あっ、私は桃です。よろしくお願いします」
はきはきとした声で挨拶します。相手の女性はじっと桃の顔を見つめていました。
「フラン、私この子に会ったことがあるわ。覚えてる? 礼拝所の」
桃はあっと声を上げました。彼女は魔法使いを目指しているベラだったのです。時々読み書きを習いに礼拝所へ行くと出会うことがあります。そして桃がこの街へどうやって連れてこられたのかを探ろうとしてくれました。
「はい、思い出しました。ベラさんです」
「あら、私の知らないうちに知り合いになっていることがあるのね。驚いたわ。まだ礼拝所通いしていることには呆れたけれど」
「あら、この前恋は心だ、自分の気持ちに素直になれば良いって言っていたじゃないの」
「ええ言ったわ。女に二言はないもの。確かに言ったけれど……それとこれとは別なのよ」
フランが目を伏せます。その間、ベラはエルフの女性に近寄っていました。
「すみません、そのブローチ、もしかして。大魔術師のエリトゥシア様ですか」
「うーん、惜しい!」
胸を張るエルフの発言にベラは呆然としています。
(人の名前って合っているか違っているかしかないやん? 惜しいってどういうこと?)
「エルィテュシアなんだなあ。でもさ、長いし面倒くさいじゃん。だからエリでいいよ」
「エリ、エリュィ、エリュッ」
ベラは必死で発音を練習しはじめますが、桃からしてみれば違いがさっぱり分かりません。
「ベラ、この方は魔法使い達の中で有名な人なのかしら?」
フランが肩をすくめてベラに尋ねます。彼女はうっとりとしながらつらつらと力説し始めました。
「魔法使いの中では知らない人はいないくらいの人よ。ウィルモットだったか何か忘れたけれど、とにかく魔術の名家があってね。そこの家は優秀な魔法使いを沢山輩出しているんだけど、その家の魔術指南役として活躍されていたそうよ。その家は魔法の元祖としても有名だから、その家に仕えることは宮廷の魔術師になるよりも名誉だって言う人もいるの。基本的にはかなりの実績を持つ人がなるのだけれど、この方の凄いところはそれまでの経歴が謎ってところ。つまり、他のところで魔術師として働いていた訳ではないのに大抜擢されたの。どれほどの才能を持っているのかって話よ。それにね、この方は剣術指導もされていたそうよ、まさに文武両道。エルフは基本的に人間を嫌うのに、とっても友好的でしかも美しくて……」
「そんな方だったとはね。兄貴も運が良かったんだなあ」
家の中に入りながら感嘆の声を上げるグレアムは、あまりの勢いに遠い目をしています。フランとベラ、そして桃も後に続いて台所へ向かいました。台所には食卓が置いてあり、フランが来た時はそこでお話をしながら過ごします。
「えっへん。エリは凄いんだぞ。まあ、そこは三年で辞めちゃったけど」
「三年も勤め上げるなんて十分ですよ。ママにも思いっきり自慢するんだから」
「見る人がみれば素晴らしい人なのね、分かったわ」
珍しくフランがついていけないと言いたげな表情。桃はいそいそと六人分のお茶を淹れます。そして一杯をグレアムの父親に渡して戻ってきました。
「いきなりで申し訳ないんですけど、サインください」
ベラが学校で使っているものと思しき本の裏表紙をめくって差し出していました。
「良いよ。ペンはどこだっけなあ」
すかさずベラが鞄からペンとインクを取り出しました。エリはサラサラと書き付けていきます。
「ついでに手にも書いてあげよう」
「結構です。手が洗えなくなってしまいます」
ベラが顔の前で手を振りました。
「手の甲だもん。洗わなくても大丈夫だよ」
「断っているのよ。それくらいにして頂戴」
「ぜひお願いします!」
フランがエリをたしなめたにもかかわらず、ベラは目を輝かせながら手の甲を差し出します。
「ちょっとベラ」
フランはため息をついてお茶を一口すすりました。
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