第8話 となり
文化祭まで、あと二日。
教室のあちこちでは、ガチャガチャと机の移動が始まっていた。
我が二年三組の出し物は喫茶店だ。
以前のホームルームで多数決を取った結果、そうなった。ちなみに僕は「パネル展示」に投票した。準備さえ終われば、当日はほとんど仕事をせずに済むと思ったからだ。
もちろん、そんな意見が採用されるはずもなかった。
しかも、喫茶店というのは見た目以上に面倒らしい。
少し前に調理、接客、会計、呼び込みといった当日の役割やシフトを決めるだけでも大騒ぎだったのに、今度は準備のための役割分担まで必要だという。
細かいことは僕の知らないところで勝手に進み、いつの間にかコンセプトは「メイド・執事カフェ」になっていた。市販の飲み物やスイーツに少し手を加えて提供するらしい。
まったく、アニメの見過ぎではないだろうか。どうせコスプレがしたいだけだろう。
……まあ、調理の手間が省けるのは助かるが。
僕は呼び込み担当だが、衣装を着ろとは言われていない。
仮に僕が執事の格好をしたところで、大ブーイングを食らうか、あるいは誰にも気づかれずスルーされるのがオチだろうけど。
そういえば、衣装はどうするのだろう。安物のコスプレ衣装でも買ってくるのだろうか。
水尾さんはどうだろう。あの女のことだ、そんなものは嫌がって自前で用意しそうな気がする。
……水尾さんのメイド服。
クソ。悔しいが、すごく見てみたい。バンドでステージに立つより、そっちのほうがよっぽど目立つんじゃないだろうか。
「じゃあ、そろそろ始めるよー!」
不意に教室の前から声が上がり、僕は顔を上げた。
文化祭実行委員の女子が、黒板に今日の作業内容を書き込んでいる。
装飾班、試作班、買い出し班、メニュー・案内板班……。
「じゃあ、希望を取るからやりたいところに手を挙げてねー」
彼女がそう言った瞬間、教室が一気に騒がしくなった。
「私、装飾やりたい!」
「じゃあ俺、買い出しで」
「えー、そっち行くなら私も!」
「買い出しって外に出られる感じ?」
人気のアルバイトでも募集しているかのような盛り上がりだ。
どの班に入ったところで、やらされる作業に大差はない。学校行事なのだから、全員に機械的に割り振ればいいだけの話だ。
しかし、どうやら彼らにとっては、何をするかより誰とするかの方が重要らしい。
もっとも、僕には一緒に作業したい相手なんていないので、どこでもよかった。別に誰からも誘われないことを気にしているわけじゃない。
「装飾、あと二人いけるよー!」
実行委員が声を張り上げると、近くの女子二人が揃って手を挙げた。
「はい、装飾締め切り!」
早い。どの班も次々に埋まっていく。
様子を眺めながら、僕もそろそろ適当なところに手を挙げたほうがいいのかもしれないと思い始めた。
だが、今さら自分から手を挙げるのも何だか気恥ずかしい。どうせ人手が足りないところに回されるのだから、最初から黙っていたほうが合理的だ。
そう高をくくっているうちに、黒板には各班のメンバーが次々と書き込まれていった。
「えっと……まだ決まってない人いる?」
実行委員が教室を見回す。
僕は仕方なく、ぬるりと手を挙げた。
……手を挙げたのは、僕一人だった。
教室が微妙な静けさに包まれる。
実行委員の女子が、黒板と僕の顔を交互に見比べた。
どうやら、どの班もすでに人数がそろっているらしい。今さら僕一人をどこに加えるべきか、迷っているようだった。最初から適当に割り振っておけば、こんな面倒なことにはならなかっただろうに。
「えっと、佐藤くんは……」
彼女が困ったように言葉を濁す。
別にサボるつもりはない。必要最低限のことはするから、どこか適当な班に突っ込んでくれればいいのに。
そのとき、教室の後ろから声が上がった。
「じゃあさ、佐藤、俺たちと一緒でよくね?」
宮田だった。
「俺たちメニューと案内板作るんだけどさ。佐藤も一緒にやればいいじゃん」
「あ、本当? じゃあお願いしちゃっていい?」
「うん、いいよー」
あっさりと話がまとまった。
まるで僕が宮田に助けてもらったみたいじゃないか。別に頼んだわけじゃない。そもそもメニューと案内板なんて、あいつら三人で十分だろう。
「じゃあ、紙とか材料は倉庫にあると思うから、探してきてもらっていい?」
「了解ー」
久我が軽く返事をし、三人が席を立った。
「佐藤も行こうぜ」
宮田が振り返って僕を見た。
「……うん」
僕は席を立った。
それにしても、よりによってこの三人と一緒になるとは。
いや、嫌なわけではない。先日も一緒に買い物をしたばかりだし、話しかけられれば普通に話す。
ただ、それとこれとは話が別だ。
田野、久我、宮田。
例のキモオタ三人衆である。
まったく。僕は別に、彼らのグループに入ったつもりなんてないのだが。
倉庫には、文化祭で使うらしい道具が雑然と積み上げられていた。
色画用紙、模造紙、マジックペン、ガムテープ。何年使われているのか分からない定規や、刃の欠けたカッターまである。
久我は棚を覗き込みながら、妙に楽しそうにしていた。
「お、これ使えそうじゃね?」
そう言って久我が取り出したのは、大きな黒い画用紙だった。
「黒地に白文字でメニュー書いたら、それっぽくない?」
「カフェっぽいな」
宮田が答える。
「別に普通でよくない?」
田野が言った。
「いや、せっかくだしさ。ちょっと凝った方がよくね?」
せっかく。便利な言葉である。
文化祭では、この一言を口にするだけで、どんな無駄な作業も正当化されるらしい。
そもそも、メニュー表など読めれば十分だろう。客が知りたいのは値段と品名であって、紙の色ではない。
「佐藤はどう思う?」
不意に久我が聞いてきた。
「……どっちでもいいんじゃない」
「じゃあ黒にしよう」
「まあ、そうだな」
あっさり決まった。
僕の意見など、あってもなくても同じだったようである。
もっとも、僕自身がどちらでもいいと言ったのだから、文句を言う筋合いはない。
四人で材料を抱え、教室に戻る。
久我は歩きながら、メニュー表の文字をどうするか考えていた。
「白いペンで書くだけじゃ、ちょっと地味じゃね?」
「じゃあ、どうすんの?」
「見出しだけでも、白い紙を切って文字にするとか」
「それ、結構めんどくさくね?」
「せっかくだからな」
「何がせっかくだよ」
田野のもっともな指摘に、宮田が笑った。久我も笑っていた。
あいつらは、何でもないことでよく笑う。先日もそうだった。誰かがくだらないことを言えば、別の誰かがそれに乗って、いつの間にか話が盛り上がっている。
こういう連中にとっては、文化祭の準備もそれなりに楽しいものなのだろう。
「佐藤、そっちの紙持ってくれる?」
宮田に声をかけられた。
「ああ、うん」
僕は彼から画用紙の束を受け取った。
黒い紙は、思ったよりも薄かった。
こんなものに何を書いたところで、文化祭が終われば捨てられるのだろう。
だったら、適当に済ませればいいのに。
そう思いながらも、僕は紙の端が折れないように、両手で持ち直した。
教室に戻ると、机の配置はだいぶ変わっていた。
壁際には椅子が寄せられ、教室の中央では女子たちが飾り付けの相談をしている。窓際では、何人かが色紙を切ったり貼ったりしていた。
ずいぶん張り切っているらしい。
「じゃあ、ここでやるか」
宮田が空いている机を指差した。
僕らは机を二つくっつけ、持ってきた材料を広げた。
田野が実行委員から、提供する飲み物やスイーツの一覧をもらってくる。
「コーヒー、コーラ、メロンソーダ、チョコケーキ、プリン……こんだけ?」
「まあ、市販品に少し手を加えるだけだしな」
「せっかくだし、名前ちょっと変えね?」
久我が言った。
「名前?」
「ほら、普通に『コーヒー』って書くより、『ご主人様の目覚めの一杯』とか」
「うわ、だっさ」
宮田が笑った。
「いや、メイドカフェっぽいだろ!」
「じゃあケーキは?」
「『お嬢様の秘密のチョコケーキ』」
「秘密って何だよ。つかメイドカフェじゃなくて、メイド&執事だっての」
三人が笑った。
何がそんなに面白いのだろう。
市販のケーキに大げさな名前をつけたところで、中身が変わるわけではない。客だって、そんなことは承知しているはずだ。
それでも三人は、真剣に名前を考えている。
「佐藤は何か思いつく?」
宮田がこちらを向いた。
「……いや、別に」
「そっか」
三人はまた、メニューの相談に戻った。
僕は机の上の画用紙を眺めた。
別に、仲間外れにされたわけではない。話を振られたのに、僕が答えなかっただけだ。それは分かっている。
ただ、何を言えばいいのか分からなかった。
あいつらは、くだらないことを言って、くだらないことで笑っている。
僕だって、くだらないことくらい、たぶん言える。だが、実際に口を開こうとすると、何も出てこない。
「じゃあ、名前は普通にするか。もう全部手書きでよくね?」
「結局そうなるのかよ」
また笑い声が上がった。
僕は机の上にあった白いマジックペンを手に取った。
何から書けばいいのか分からなかったが、とりあえずキャップを外し、机の端へ置いた。
少なくとも、何もしないで座っているよりはマシだろう。
「お、何やってんのー?」
聞き慣れた声がした。
水尾さんだった。
彼女は教室の中央からこちらへ歩いてくると、机の上の画用紙を覗き込んだ。
「へえ、メニュー作ってるんだ」
「そうそう。黒い紙でちょっとカフェっぽくしようと思って」
「いいじゃん。でも、まだ何も書いてないじゃん」
「今から書くんだよ」
「あはは。そっか」
水尾さんは笑った。
三人も、いつもと変わらない調子で笑っていた。
あの女は、相変わらずだった。
誰にでも遠慮なくものを言い、思ったことをそのまま口にする。
そして三人も、彼女に気後れしている様子はない。キモオタのくせに。
僕だったら、あんなふうに堂々とはできない。どうせ何かしら文句をつけられるに決まっている。それなのに、よくやるものだ。
「じゃ、頑張ってねー」
水尾さんはそう言って、ふと僕を見た。
「あ、ムタクくんもいたんだ」
「……うん」
「そっか。じゃあねー」
彼女は特に何か言うでもなく、別の班の方へ歩いていった。
やっぱり僕はムタクだった。
「なあ、佐藤」
久我が声をかけてきた。
「……何?」
「ムタクって何?」
心臓が跳ねた。
「え?」
「いや、水尾さんがさっき言ってたじゃん。ムタクくんって」
「ああ、それ俺も気になってた」
宮田が言った。
「何かのあだ名?」
田野までこちらを見ている。
僕は返事に詰まった。
オタクを自称している無。オタクですらないから、ムタク。あの女が勝手につけた、くだらないあだ名だ。
そう説明すればいい。だが、できなかった。
目の前の三人は、僕がずっと馬鹿にしてきたオタクだった。その三人に向かって、自分はオタクですらないと笑われ、撤回することもできなかったと、どうして言えるだろう。
「……いや、別に」
「え?」
「大した意味ないから」
「ふーん。そうなんだ」
久我はそれ以上聞かなかった。
宮田も田野も、すぐにメニューの話に戻った。
なぜだろうか。少し寂しかった。
あれほど聞かれたくなかったくせに、もう少し食い下がってほしかったのだろうか。
そうすれば、仕方ないなという顔をして、あの女の悪口で三人と一緒に盛り上がれたかもしれない。いや、きっと大盛り上がり間違いなしだ。
僕は机の上の黒い画用紙に目を落とした。
三人はまた、メニューの話をしている。
僕はそのすぐ隣に座っていた。
ただ、それだけだった。




