第7話 透明な板
放課後、僕は駅前のアニメショップにいた。
目的は、アミちゃんの新作アクリルスタンドだ。
別に最初から買うつもりで来たわけじゃない。実物を見てから決めようと思っただけだ。ネットの写真を見たときはそこまで惹かれなかったし、最近はこういう商売と少し距離を置こうと考えていたくらいだ。
可愛い女の子の絵が印刷されたただの板を、ありがたがって買い集める。作る側は衣装を変えるだけでいくらでも稼ぎ、買う側は届いた商品をSNSに並べて「尊い」だの「最高」だのと騒ぐ。ついこの間までの僕は、そういう文化をどこか冷めた目で馬鹿にしていた。
ところが今、その板が目の前にある。
……そして、悔しいがなかなか可愛い。
パステルピンクの髪に、見慣れた笑顔。白い新衣装の裾にある細かい模様まで、綺麗に印刷されている。星形の台座も、写真では気づかなかった魅力だ。
値札を見る。
二千二百円。高い。どう考えても高い。
アクリルスタンドなんて、要するに絵の描かれた透明な板である。二千二百円もあれば、そこそこいい昼飯が二回は食べられる。
しかし、昼飯は食べたらなくなるが、アミちゃんはなくならない。
そう考えると、案外悪くない買い物なのかもしれない。
僕はアクリルスタンドを手に取った。
買うかどうかは、もう少し考えるとしよう。
「え、佐藤?」
背後から声がした。
うわっ。
振り向くと宮田がいた。
しかも一人ではない。田野と久我までいる。教室の後ろにいつも固まっている、キモオタ三人衆である。
「やっぱ佐藤じゃん。こんなところで会うとはな」
「……ああ」
「買い物?」
「いや、ちょっと見てただけ」
僕はアクリルスタンドをそっと棚に戻した。隠したわけじゃない。持ったまま話すのが面倒だっただけだ。
そもそも、こいつらだって同じ店にいるんだから、僕だけが弁解する必要なんてないはずだ。なのに、どういうわけか教室でスマホの画面を見られたとき以上に落ち着かなかった。
「そういや佐藤、こないだの曲聴いた?」
宮田が聞いてくる。
ああ、そうだった。
昼休みに僕の待ち受け画面を見た宮田が、アミちゃんのゲームの曲を勧めてきたのだ。帰宅してから一応聴いておいた。別に約束したわけじゃないが、次に聞かれたとき答えに困るのが嫌だったからだ。
「……聴いたよ」
「マジで? どうだった?」
「まあ、よかったと思う」
「だろ! あのベースがいいんだよな」
「へえ」
「あと、途中で拍子が変わるところ分かった?」
「いや、そこまでは……」
「そっか。あそこが面白いんだよ」
宮田は嬉しそうに笑った。僕が分からなかったことを責める様子もない。もっと熱弁してくるかと思ったが、あっさりしたものだった。
「おい、お前らこっち来てくれ」
少し離れた棚から久我が呼んだ。
「見つかったのか?」と宮田が向かう。
「見つかった。けど、迷ってる」
久我が抱えていたのは、銀色の仮面をつけたヒーローのフィギュアだった。箱に入っているため細かい造形までは見えない。
「欲しかったやつじゃん」と田野。
「そうなんだけどさ、今月もう金がない」
「じゃあ買わなきゃいいだろ」
「それができたら苦労しねえよ」
まったくその通りだ。いや、同意している場合じゃない。
僕がアミちゃんの棚を振り返ると、さっき戻したアクスタはまだそこにあった。
「佐藤は何見てたの?」と宮田が覗き込んでくる。
「……ゲームのグッズ」
「あのゲームの?」
「まあ、そう」
「へえ」
それだけだった。もっと茶化されるかと思っていたが、宮田はそれ以上追求せず、久我のフィギュアに意識を戻した。
「とりあえず、他の棚も見てから決めれば?」
「そうするか」
三人が歩き出す。僕はここで別れればよかったのだが、かといってレジに向かうでもなく、同じ棚の前に立ち続けるのも不自然で気まずい。
「佐藤もまだ見る?」
「……うん、まあ」
「じゃ、行こうぜ」
流れで、一緒に店内を回ることになってしまった。放課後に友達と遊ぶ約束をしたわけじゃない。買い物の途中でたまたま会って、なんとなく一緒に歩くことになっただけだ。
鉄道雑誌の棚を見つけた田野は、真っ先に駆け寄っていった。
「お前、ここまで来て電車の本かよ」と久我。
「お前こそ、ここまで来て変身するおっさんの人形かよ」
「おっさんじゃねえ! 中の人はイケメン俳優ばっかだ!」
久我が妙に大きな声を出すので、周りの客がちらりとこちらを見た。やめてほしい。僕まで仲間だと思われるじゃないか。
いや、今一緒に歩いているのだから仲間と思われても仕方ないのか。
「これ、先月俺が撮りに行ったやつだ」
田野が雑誌を開いて見せてきた。田舎の風景の中を走る電車の写真だ。
「へえ、田野の写真が載ったの?」と宮田。
「いや、俺の写真じゃない。車両が同じなだけ」
「なんだよそれ」と久我。
「いや、厳密には同じでもない。編成が違う」
「もっと何だよ」
田野は嬉々として、形式や塗装、運用や撮影地について語り始めた。僕にはさっぱり分からない専門用語ばかりだったが、宮田は適度に相槌を打っている。久我は途中から露骨に聞いていなかった。
「それ、買うの?」と僕は尋ねてみた。
「買う。付録の路線図が欲しいから」
「路線図なんてネットで見られるだろ」と久我。
「見られるけど、紙で欲しいんだよ」
理解はできない。だが、透明なアクリル板を買おうとしている僕が言えた義理でもなかった。
宮田はゲーム音楽のCDコーナーを眺めていた。
「お前も買うの?」と久我が聞く。
「迷ってる。曲自体は配信で聴けるんだけど、ブックレットが欲しくてさ」
「何それ?」
「作曲した人のコメントとかが載ってるんだよ」
宮田はCDケースの裏をじっと眺めていた。自分でも曲を作っているらしい宮田にとって、その冊子は価値があるのだろう。
「佐藤は?」と宮田が振り向く。「ゲームのやつ、買わないの?」
「……まだ考え中」
「俺と一緒だな」
宮田は笑った。
配信で聴ける曲のCDと、画面で見られる女の子のアクリル板。
まあ、似たようなものか。
店内を一周しても、久我はまだフィギュアを抱えていた。
「結局買うのか?」と田野。
「……買う」
「今月金ないんだろ?」
「ない」
「どうすんだよ」
「昼飯を節約する。三千八百円分」
「何日削る気だ」
久我は答えなかった。
そこまでして欲しいものなのだろうか。もっとも、僕だってソーシャルゲームのガチャにはそれなりに課金している。形として手元に残る分、久我の買い物のほうがまだ健全かもしれない。
「お前さ、大人になってもそういうの集めてそうだよな、まあ俺も人のこと言えんけど」と田野が言った。
「どうだろな」と久我は呟く。「案外、あっさり飽きてるかもしれないし」
「お前がか?」
「そりゃ分かんねえだろ、十年後の自分なんて」
久我は箱をひっくり返し、裏面の写真を眺めながら言った。
「まあ、でもさ。今好きなものを、大人になったときに貶したくはないんだよな」
僕は思わず久我の顔を見た。
「何だよ急に」と宮田が笑う。
「いや、ほら。『昔こんなの好きだった俺、マジでダサかったわー』みたいに言う奴いるじゃん。ああいう風にはなりたくないなって」
「飽きるのはいいのか?」
「飽きるのは仕方ないだろ。でも、好きだった自分の気持ちまで恥ずかしがりたくないっていうかさ」
「お前、意外と熱いこと言うな」と田野。
「うるせえ。よし、俺は買うぞ!」
久我はレジへ向かって歩き出した。僕はその背中を見送った。
妙なことを気にする奴だと思った。趣味なんて年齢とともに変わるものだし、昔好きだったものを「つまらない」と思い直すことだってある。
だが、久我が言いたいのはそういうことではないのだろう。
今好きなものを、大人になったときに貶したくない。
僕は十年後の自分を想像してみた。
「いい歳をしてソシャゲのガチャに一喜一憂する大人にはなりたくない」ついこの間もそう考えていた。
じゃあ、大人になった僕は、今夢中になっているアミちゃんのことをどう思うだろうか?
たぶん、冷めた風を装って腐すのだと思う。
「あの頃はくだらないゲームに熱中して、無駄金を使ってたな」なんてネットに書き込んで、今それにハマっている若い世代を馬鹿にし、自分は一段上の大人になった気でいる。ネットでよく見かける、そんな情けない大人に僕もなってしまうのかもしれない。
もっとも、十年後の僕がどう思うかなんて、今の僕に分かるはずもない。
それに、まだアクリルスタンドを買うと決めたわけでもないのだ。未来の自分の心配をするより、目の前の二千二百円の使い道のほうがよっぽど切実だった。
「佐藤、レジ行く?」と宮田が声をかけてきた。
「……ちょっと待って」
僕は足早にアミちゃんの棚へ戻った。
結局、買った。
ビニール袋の中には、アミちゃんのアクリルスタンドが入っている。
「買うつもりはなかった」と言えば嘘になる。店に来た時点で、こうなることはどこかで分かっていたのだ。
「お、佐藤も買ったんだ」
店の出口で宮田が気づいた。
「まあ、せっかくだし」
「見せてよ」
断る理由もないので袋から取り出す。
「へえ、いいじゃん」
「でしょ」
思わず即答してしまった。
「台座、星形なんだな」
「そう。衣装の端にもちゃんと模様が入ってて」
「あ、本当だ。細かくていいね」
宮田は感心したように眺めてから返してくれた。褒めてもらうために買ったわけじゃないが、認められるとやっぱり悪い気はしない。
「久我は?」と聞くと、久我が誇らしげに袋を持ち上げた。
「買った。今月はもう詰んだ」
「まだ月の前半だぞ」と田野がツッコむ。
田野は鉄道雑誌を、宮田は結局あのCDを買っていた。
「配信で聴けるのに買ったの?」と僕が聞くと、宮田は笑った。
「ブックレットが見たかったから。中に何が書いてあるかはこれから読むんだけどさ」
「なんだそれ」
思わず僕も笑ってしまった。
店を出ると、外はすっかり夕焼けに染まっていた。
駅に向かう人の波に混ざりながら、四人で歩く。僕は三人の少し後ろをついていった。
別に、一緒に帰る約束をしたわけではない。駅が同じ方向にあるだけだ。ここでわざわざ距離を取る方が、かえって不自然だろう。
「久我、明日の昼飯どうすんの?」
「パン一個」
「足りるわけないだろ」
「じゃあ二個」
「節約になってないじゃん」
「明後日から本気出す」
馬鹿馬鹿しい会話だ。
思わず笑いそうになったが、慌てて口元を引き締めた。
「何笑ってんだよ、佐藤」
久我に見られていた。
「いや、計画性なさすぎでしょ」
「佐藤だって衝動買いしてたじゃんか」
「僕は昼飯代を削ったりしないから」
「そっちの問題かよ!」
赤信号で四人が立ち止まる。田野は買った雑誌を小脇に抱え、久我はフィギュアの入った袋を揺らしていた。宮田は何やら鼻歌を口ずさんでいる。
僕は何となく、ポケットから二千二百円のレシートを取り出し、小さく折りたたんだ。
「じゃ、俺こっちだから」と田野が手を振る。
「おう、また明日」
久我も別の方向へ曲がり、宮田も僕に向かって軽く手を挙げた。
「佐藤、また明日な」
「……うん。また明日」
それだけの、あっけない解散だった。
帰宅後、僕はさっそくデスクの上にアクリルスタンドを組み立てた。
透明な台座にカチッと差し込むと、アミちゃんがいつもの笑顔でこちらを見つめてくる。
可愛い。やはり買って正解だった。
だが、置き場所には頭を悩ませた。PCモニターの横だと視界に入って邪魔だし、本棚の前だと目立たない。デスクの端は肘をぶつけて落としそうだ。
結局、最初に置いたモニターのすぐ脇に戻した。
椅子に座り、じっと眺める。
うん、悪くない。
スマホを手に取ると、ゲームアプリから通知が届いていた。新しいイベントが始まったらしい。
僕はデスクの上のアミちゃんと目を合わせてから、画面をタップしてゲームを起動した。
『こんばんは、接続者さま!』
画面の中でも、アミちゃんがまったく同じ笑顔で迎えてくれる。
机の上のアミちゃんと、画面の中のアミちゃん。
同じ女の子が二人。
……まあ、いいか。
どっちも可愛いし。




