第6話 一般未満
あの尊大ゴミカスクソ女との問答から、一日が経った。
もうあんな女のことなど、どうでもいい。
心底どうでもいいのだが、彼女の言う「オタク」と「ムタク」の違いについては、少し整理しておきたいと思った。
おそらく、あの女の定義はこうだ。
オタクとは、自分の意志で好きなものを持ち、他人の評価に左右されず、それについて自分の言葉で語れる人間。多少気持ち悪くても、何かに打ち込んでいることが重要らしい。
一方、ムタクとは、流行っているものを好きになり、他人の評価に流され、好きな理由を訊かれてもまともに答えられない人間。趣味はもっぱら暇潰しや現実逃避で、努力らしい努力もしない。
……それって、ただの普通の人間ではないだろうか。
誰だってそんなものだろう。世の中の人間が、全員何かに情熱を注いで生きているわけではない。むしろ、そういう人間の方が少数派のはずだ。
SNSで「推しが尊い」などと言っている連中だって、大半は似たようなものだと思う。別に、本気で何かを崇拝しているわけではない。ただ、共通の話題で盛り上がるための言葉として使っているだけだ。
僕と同じように。
だからこそ、水尾さんは僕らをオタクと呼びたがらないのかもしれない。
ただのつまらない人間が、オタクという立派な称号を勝手に名乗っている。それが気に食わないから、わざわざ「ムタク」などという言葉を作ったのだ。
もっとも、オタクがいつからそんな名誉ある称号になったのかは知らないが。
そういえば、オタクの間では、オタクではない人たちを「一般」と呼ぶことがある。
冷静に考えると、おかしな話だ。
流行りのアニメやゲームを消費しているだけの僕らが、どうして自分たちを特別な人種のように扱い、それ以外の人間を「一般」などと呼んでいるのだろう。
むしろ、僕らの方こそ一般人ではないのか。
何もない人間が、楽に名乗れる個性。
それがオタクという言葉になってしまったことを、水尾さんは許せないのだろうか。
……いけない。
僕の思想まで、あのクソ女に寄ってきている。
しかし、そう考えると一つ疑問が残る。
どうして、クラスの中で僕だけが無視されているのだろう。
田野たちが本物のオタクなのは、百歩譲って認めよう。だが、それ以外の連中はどうなのだ。
まさか、クラスの全員が何かしらの専門家だとでもいうのだろうか。
いや、違う。
そもそも水尾さんは、陽キャとは普通に話している。あの女が趣味の審査をしているのは、僕のような陰キャに対してだけなのだ。
陽キャなら無条件で人間扱い。陰キャなら、何か特別な取り柄を証明しなければならない。
改めて考えても、すごい思想の持ち主である。
それとも、陽キャというのは、実際に何かしらの取り柄がある人間なのだろうか。
考えたこともなかった。
何かに情熱を持ち、夢中になれるものがあるからこそ、陽キャなのかもしれない。
そうなると、僕が陰キャと見下していた田野たちも陽キャ側になり、僕だけが真の陰キャということになる。
いや、さすがにそれはおかしい。
あいつら陽キャだって、流行りの音楽を聴き、流行りの服を着て、流行りの話題で盛り上がっているだけではないか。
僕がアニメやゲームでやっていることと、何が違うのだ。
違うとすれば、友達がいることくらいだろう。
……つまり僕は、陽キャから友達と社交性を取り除いただけの存在なのではないか。
生物として、完全下位互換である。
自分で考えておきながら、ひどい結論だった。
教室の向こうから、賑やかな笑い声が聞こえてきた。
陽キャの一団が、文化祭の話をしているらしい。そういえば、もうそんな時期だった。僕にはまったく縁のない行事である。
去年もクラスの出し物にはほとんど関わらなかったし、今年もできればそうしたい。どうせなら、展示のような準備の楽なものになってほしい。
文化祭なんて、参加したい人間だけでやればいいのに。
そんなことを考えながら、僕は今日も一人で弁当を食べていた。
そのときだった。
「うわっ、おい!」
突然、横から何かがぶつかってきた。机が揺れ、弁当箱がずれる。
見ると、宮田が僕の机に手をついていた。どうやら田野たちとふざけていて、突き飛ばされたらしい。
「あ、悪い。大丈夫?」
宮田が申し訳なさそうに言った。
「ああ、大丈夫。気にしないで」
自分でも驚くほど、素直な返事が出た。
いつもの僕なら、相手によって態度を変えていただろう。陽キャが相手なら必要以上に愛想よく、陰キャが相手なら無視か適当に頷いて終わりだ。
だが、今は違う。
目の前にいるのは、僕とは違うオタクなのだ。
そう思うと、どういうわけか、少しだけ腰が低くなってしまう。
「ほんと悪い。弁当、大丈夫だった?」
「うん。こぼれてないし」
「よかった。田野のやつ、急に押してきてさ」
宮田は振り返り、田野に文句を言った。田野は何か言い返していたが、僕にはよく聞こえなかった。
これで話は終わりだと思った。
ところが宮田は、僕の机の上をちらりと見て、意外そうな顔をした。
「……あれ、佐藤ってそのゲームやってんの?」
視線の先には、弁当箱の横に置いたスマホがあった。
画面には、見慣れたアミちゃんの壁紙が映っている。普通なら慌てて隠すところだが、まあ宮田ならいいだろう。キモオタだし。
「……まあ、やってるけど」
「へえ。俺も知ってる、それ」
宮田は少し笑った。
顔も悪ければ歯並びも悪いんだな、こいつ。
「そのゲーム、音楽けっこういいよね」
音楽。
そういえば、SNSで話題になっていた曲があった。音MADにも使われていて、僕も何度か聴いたことがある。
確かにいい曲だったと思う。
ただ、それが本当に自分の感想なのかは、最近よく分からなくなっていた。みんながいいと言っているから、僕もいいと思っていただけなのかもしれない。
迂闊に同意して、詳しい話になっても困る。
宮田はDTMをやっているらしいし、音楽については僕よりずっと詳しいはずだ。また水尾さんのときのように、何も知らないことを思い知らされるのは御免だった。
ここは知らないふりをしておこう。
「……そうなの?」
「え、聴いたことない?」
「まあ、あんまり音楽は気にしてないから」
「ああ、そっか」
宮田はあっさり頷いた。
「俺はゲーム自体やってないんだけどさ」
「え?」
「ん?」
「いや、ゲームはやってないの?」
「やってないよ。スマホの容量ないし」
何だ、それは。
ゲームをやっていない人間に、ゲームの音楽について訊かれていたのか。
「でも、あの曲すごいんだよ。サビの前に一回拍子が変わるところがあってさ」
「あの曲って?」
「ほら、SNSでも結構流れてたやつ。戦闘中に流れる曲なんだけど」
「ああ……」
たぶん、さっき思い浮かべた曲のことだろう。
「それで、あそこ普通なら四拍子のまま行くと思うんだけど、急に三拍子になるんだよね。あれ、最初に聴いたときびっくりしてさ」
「へえ……」
「しかもベースがさ」
ベース。
楽器の名前だということは知っている。
「……ごめん、僕、そういうの全然分かんないんだけど」
思わず正直に言ってしまった。
「あ、そう?」
宮田は少し考えてから、机を指先で叩いた。
「タン、タン、タン、タン。これが普通でしょ」
「うん」
「で、ここだけタン、タン、タンってなるの」
「……うん?」
「いや、口で説明するの難しいな」
宮田は笑った。
何がおかしいのか分からなかったが、僕もつられて少し笑った。僕は歯並びは良いので見苦しくはないだろう。
「まあ、聴けば分かると思う。今度よかったらちゃんと聴いてみてよ」
「ああ、うん」
「じゃ、邪魔してごめんな」
「ああ、うん」
宮田は田野たちのところへ戻っていった。
僕はしばらく、その背中を眺めていた。
何だったのだろう。
好きなものについて訊かれ、知らないと答えた。それなのに、馬鹿にされることもなければ、オタク失格の烙印を押されることもなかった。
ただ、普通に話しただけだった。
もっとも、宮田の説明はほとんど理解できなかった。もう少し相手に分かるように話す努力はした方がいいと思う。
僕はスマホに目を戻した。
画面には、いつものアミちゃんが微笑んでいた。そういえば、あの曲はどこで流れるのだっただろう。
少し考えたが、思い出せなかった。
まあ、いいか。
僕は弁当の続きを食べた。
午後のホームルームでは、文化祭の出し物を決めることになった。
黒板には、喫茶店、お化け屋敷、縁日、パネル展示と、四つの候補が並んでいる。
僕としては、断然「パネル展示」がいい。
パネル展示なら準備さえ終われば、当日はほとんど仕事がない。適当に教室の隅で時間を潰していれば、文化祭という面倒な行事をやり過ごせるはずだ。
模造紙に写真や文章を貼り付けるだけでいいし。それでいいだろ。
「喫茶店がよくない?」
「ありきたりすぎない?」
「じゃあお化け屋敷!」
「準備めんどくさくね?」
「それ言ったら何もできなくない?」
教室のあちこちから声が上がる。
みんな、楽しそうだった。
喫茶店にするなら制服をどうするだとか、お化け屋敷ならどこに仕掛けを作るだとか、まだ何も決まっていないのに、すでに当日のことまで話し合っている。
何がそんなに楽しいのだろう。
たかが学校行事ではないか。わざわざ放課後まで残って準備をし、休日まで潰して、見ず知らずの客をもてなす。どう考えても割に合わない。
……いや、本当は分かっている。
みんなで何かを決めたり、くだらないことで揉めたり、放課後まで残って準備をしたり。そういう時間が楽しいのだろう。
僕だって、アニメで何度も見てきた。文化祭の準備をきっかけに仲良くなる男女。誰もいなくなった教室で、二人きりになる主人公とヒロイン。実に素晴らしい。
僕も、そんな青春を送ってみたかった。
でも、現実の僕には、そもそも一緒に準備をする相手がいない。だから展示がいいのだ。
準備が楽だから、というだけではない。準備をする時間そのものが、僕には苦痛だからである。
我ながら、情けない話だった。
「おむすびさんはどう思う?」
不意に、水尾さんの名前が聞こえた。
見ると、彼女は窓際の席で頬杖をついていた。
さっきからほとんど発言していない。普段はあれだけ自己主張の激しい女なのに、珍しいこともあるものだ。
「ワタシ? 何でもいいよ」
「えー、そういうのが一番困るんだけど」
「だって、みんな楽しそうじゃん。好きなの選べば?」
水尾さんは笑った。
いかにも物分かりのいい優等生のような返事である。
しかし、考えてみれば、彼女が何か一つを推せば、それだけで票が集まってしまいそうな気もする。
だから黙っていたのだろうか。
あの女にそんな気遣いができるとは思えないが、少なくとも僕以外の人間には、それなりに優しいらしい。
「それにワタシ、当日はちょっと忙しいし」
「あ、そうか。バンドだっけ?」
「そ。そっちが本番だからね」
バンド?
僕は思わず顔を上げた。
「えっ、ほんとに出るの? バンド組んでる先輩たちとやるっていう?」
「出るよ。何でそんなに驚くの」
「いや、だってギター始めたの最近でしょ?」
「二ヶ月くらいかな」
「それでステージ立つの?」
「立つよ。二ヶ月もあれば、そこそこ弾けるようになるでしょ」
ならないと思う。
僕はギターを触ったことがないので詳しくは知らないが、少なくとも二ヶ月で人前に立てるほど上達するのは、普通のことではないはずだ。
もっとも、水尾さんに普通の基準を当てはめること自体、間違っているのかもしれない。
「相変わらず何でもできるねえ」
「まあ、ワタシだからね」
「出た、自信満々」
「できないと思ってたら、最初からやろうとしないって」
水尾さんは、さも当然のように言った。
嫌味な女である。
ただ、あれだけ堂々と言われると、嫌味を言っているように聞こえないのだから不思議だった。
「でもさ、先輩たちはいいの? 最後の文化祭じゃん」
「ああ、それ? ちゃんとお願いしたよ」
「お願いって、何を?」
「ギターボーカル、ワタシにやらせてって」
「それ、ほぼ乗っ取りじゃん!」
「失礼だなあ。ちゃんと了承もらったもん」
「よく譲ってくれたね」
「そりゃ、ワタシが歌った方がみんな喜ぶでしょ?」
「うわ、すっごいこと言う」
「先輩たちだって、最後の文化祭なんだから、思い出に残るステージにしたいじゃん? ワタシがいれば絶対に盛り上がるし、みんな幸せ。完璧でしょ?」
「自分が一番得してない?」
「バレた?」
周囲に笑いが起きた。
水尾さんも楽しそうに笑っている。
僕は笑えなかった。
三年生の先輩たちにとっては、最後の文化祭である。
何年も一緒に練習してきたのだろう。メンバー同士で揉めたこともあっただろうし、思うように演奏できずに悩んだこともあっただろう。
その集大成となるステージに、ギターを始めて二ヶ月の後輩が割り込んでくる。
しかも、そいつは学校でも有名な人気者で、SNSには百万人以上のフォロワーがいる。
いくら演奏が上手かろうと、観客の目当ては彼女一人になるに決まっている。
よくそんなことを許したものだ。
実際の事情は知らない。
先輩たちも、水尾さんが加わることでステージが盛り上がるなら、それで満足なのかもしれない。
だが、僕にはどうしても、彼らが気の毒に思えた。
アニメなら、文化祭のバンド演奏といえば、普段は目立たない人間が一躍脚光を浴びるための晴れ舞台である。
地味な主人公が、実はギターの天才だった。世間からはみ出した女の子が、ステージに立つと誰よりも輝いていた。
そういう展開を、僕は何度も見てきた。
それなのに、現実では最初から輝いている人間が、ステージの真ん中まで持っていくのか。
何だか、ひどく不公平な気がした。
「あ、でもクラスの方もちゃんとやるよ?」
水尾さんが付け加えた。
「何になっても手伝うし、当番も普通に入るから。そこは安心して」
「おむすびさんが店にいたら、それだけで人来そう」
「じゃあ喫茶店になったらワタシが看板娘やるよ」
「自分で言う?」
「事実だし?」
また笑いが起きた。
彼女は本当に、何を言っても許されるらしい。
水尾さんは、もうバンドの話をしていなかった。
周囲の女子と喫茶店の制服について話し始め、誰かが「メイド服」と言い出すと、面白がってそれに賛成している。
さっきまで三年生の晴れ舞台を奪うだの何だのと考えていた僕の方が、馬鹿みたいだった。
別に、僕には関係ない。彼女がどこで何を演奏しようが、知ったことではないのだ。
ただ、文化祭のステージに立つという話を聞いて、少しだけ昔のことを思い出した。
中学生の頃、好きなアニメに影響されて、ギターを弾いてみたいと思ったことがある。
文化祭でバンドを組んで、体育館を埋め尽くす観客の前で演奏する。そんな自分を想像した。
もちろん、ギターは買わなかった。高かったし、練習も大変そうだったし、そもそも一緒にバンドを組む友達がいなかった。
何より、僕に才能があるとは思えなかった。
弾いてみなければ分からない、と言う人もいるだろう。
だが、才能がないと分かってから諦めるのは、もっと嫌だった。
だから、結局何もしなかった。
水尾さんは、そのステージに本当に立つらしい。
しかも、ギターを始めてたった二ヶ月で。
僕は黒板に目を戻した。
別に、羨ましくなんかない。
僕だって本気でやろうと思えば、ギターくらい弾けるようになったかもしれないのだ。
ただ、やらなかっただけである。
その後、匿名投票によってクラスの出し物は「喫茶店」に決まった。
展示に投票したのは、僕一人だけだった。
田野、久我、宮田の三人ですら、展示には投票しなかったらしい。
あいつら、意外とやる気があるようだ。
世の中は、どうしてこうも面倒な方向へ進みたがるのだろう。
放課後、僕はいつも通り帰るつもりだった。
だが、廊下に出たところで、聞き覚えのある声に呼び止められた。
「お、佐藤」
振り向くと、宮田が立っていた。
「うん?」
「いや、別に用事はないけど。見かけたから挨拶しただけ」
「ああ、そう……」
気まずい沈黙が流れる。
用事がないなら、さっさと「じゃあな」とでも言って立ち去ってほしい。
「そういや、昼に言った曲、聴いた?」
「いや、まだ。家に帰ってから聴くよ」
「そっか。まあ、気が向いたらでいいから」
「うん」
これで会話は終わったはずだった。
ところが、宮田はそのまま僕の隣を歩き始めた。
どうやら、一緒に昇降口まで行くつもりらしい。勘弁してくれ。
「佐藤って、いつも一人で帰ってんの?」
「まあ、そうだけど」
「俺も今日は一人なんだよね。田野たち、まだ教室で盛り上がってるから、先に帰ってきた」
「そうなんだ」
「文化祭の喫茶店、結構楽しみにしてるみたいでさ。何かいろいろ話してた」
「へえ」
あいつら、そんなに文化祭が楽しみなのか。
展示に投票した僕の立場がますますなくなるではないか。
まあ、どうせ女子の衣装の話でもして盛り上がっているのだろうが。
「佐藤は何に投票した?」
「展示」
「あー、展示か」
「準備が楽そうだったから」
「分かる。俺も最初それにしようかと思った」
「え、そうなの?」
「うん。でも喫茶店の方が面白そうだったし」
裏切り者め。
もっとも、宮田には僕を裏切る義理もなければ、そもそも味方だった覚えもない。
そんな話をしているうちに、昇降口に着いた。
「じゃ、また明日」
「ああ、また」
宮田は靴を履き替えると、手を振って先に出ていった。
僕も靴を履き替え、校門へ向かった。
そういえば、宮田が勧めてきた曲を聴くと言ってしまった。
別に約束したわけではないが、また訊かれたときに聴いていないと答えるのも面倒だ。
帰ったら、一度くらい聴いておこう。




