第5話 死霊使い
翌朝、教室に入ると、僕の席はいつも通り空いていた。
鞄を置き、スマホを取り出す。
昨夜は寝る前に、声優について少し調べた。知っている名前が次々と繋がっていき、思った以上に楽しかった。今まで何となく消費してきたアニメやゲームも、まったくの無駄ではなかったらしい。僕にもちゃんと、知識の蓄積があったのだ。
「おはよー!」
水尾さんが登校してきた。
昨日あれだけの暴言を吐かれたというのに、今日も悔しいくらい綺麗だった。顔と性格がまったく一致しないのは、神様の壮大な設定ミスだと思う。
彼女は近くの女子と挨拶を交わし、久我に何か言って笑った。
今日も僕の存在なんて視界に入らないのだろう。
そう思って画面に目を戻した、その時だった。
「おはよー、ムタクくん」
顔を上げると、水尾さんが僕を見下ろしていた。
初めて挨拶された。呼び名は最低のままであったが。
「えー、おむすびさん。なに、こいつとも仲よくなったの?」
近くの女子が、隠そうともせず顔を顰めて口を挟む。
「ふふ、ちょっとね」
「えー、ないわ。こいつ、ずっと一人じゃん。てかムタクって何?」
僕に聞こえる音量で笑い合う。
今まで誰にも話しかけられなかったのは、単に僕が影の薄い空気だからだと思っていたが、どうやら違ったらしい。きちんと認知された上で、クラスからハブられていたのだ。
急激に腹が立ってきた。
水尾さんほどスペックの高い人間に馬鹿にされるならまだ諦めもつく。だが、その隣で金魚の糞をやっているだけの女にまで見下される筋合いはない。名前すら知らないが、せいぜい金魚の糞五号くらいの存在だろう。一号から四号は知らないけど。
「……ああ、おはよう」
僕は努めて平静を装い、水尾さんに返事をした。
五号に、僕だって水尾さんと普通に話せるのだと見せつけたかった。『ムタク』などという屈辱的なあだ名を受け入れたつもりはない。
水尾さんは、口元をニヤリと歪めた。
僕の浅はかな自尊心など、すべてお見通しといった顔だった。
その日の授業は、全く頭に入らなかった。
昨日調べ上げた声優の知識を披露するタイミングを、ずっと探していたからだ。
だが、自分から水尾さんに近づくのも癪だった。散々馬鹿にされた翌日に、わざわざ自分の趣味を申告しに行くのは、あまりに惨めではないか。
結局、昼休みが過ぎ、六時間目が終わり、何もできないまま放課後になった。
僕は諦めて帰る準備をした。
声優の話なんて明日でもいい。そもそも、あんな女に認めてもらう必要など、最初からなかったのだ。そう自分に言い聞かせる。
「ムタクくん」
帰り支度をしていると、机の上に影が落ちた。
「今日、ずっとワタシの方見てなかった?」
「み、見てないけど」
「ふーん。なんか言いたいことでもあるのかなって思ってたんだけど」
「別に……」
「そっか。じゃあ帰ろっかな」
彼女がくるりと背を向ける。
「あ、待って」
口が勝手に動いていた。
「なあに?」
「昨日のことなんだけど……」
「昨日? ああ、ムタクの話?」
「それ。ちょっと誤解があると思ってさ」
「誤解?」
水尾さんは僕の前の席から椅子を引き、背もたれを抱え込むように座った。
「じゃあ、ムタクくんにも本当に好きなものがあるんだ?」
「……あるよ」
「へえ。何?」
「今まで意識してなかっただけで、昨日気づいたんだ」
「ふうん」
水尾さんは顎に手を当てた。
「じゃあ、ちゃんとした理由があったら『ムタク』は撤回してあげてもいいよ。佐藤くんって呼んであげる」
思わず顔を上げた。
「あ、でも『佐藤くん』ってほかにもいるんだよね。うーん……サトジュンくんにしよっか」
サトジュン。
いい響きだ。少なくともムタクよりは、人間の名前に聞こえる。
「で、何なの?」
僕は背筋を伸ばし、少しだけ誇らしげに言った。
「……声優、かな」
「……声優?」
水尾さんの笑みが、ピタリと止まった。
「うん。アニメとかゲームで声を聞けば誰か分かるし。別の作品に出ててもすぐ気づくんだ」
言いながら、自分の中で確かな手応えを感じていた。
声優は厳しい競争を勝ち抜いた専門職だ。作品を横断してキャストを把握しているのは、立派なオタク活動のはずだ。
「えーと、確認なんだけど」
水尾さんが人差し指を立てた。
「好きな声優の出演作を全部追って、ラジオも毎週チェックして、ファンクラブに入って、イベントがあれば地方まで遠征する……みたいな感じ?」
「いや、そこまでは……」
「じゃあ演技論? 同じ台詞でも役者によって解釈がどう変わるか、みたいな話?」
「まあ、聞けば演技の違いは分かるけど」
「比べたことあるの?」
「……ない」
「発声法とか、声優業界の歴史とかは?」
「そういうのじゃなくて」
「じゃあ何?」
彼女の声から、急速に感情の温度が消えていく。
「このキャラの声、あのキャラと同じ人だー、とか?」
「……まあ」
「この声優知ってるー、って?」
「……うん」
「はぁ~~~~~~」
廊下を通りかかった生徒が振り向いた。ため息で注目を集めるのはやめてほしい。
「あのさあ。そういうところなんだよね、『ムタク』って」
「な、何が」
「スタッフロールを見れば誰でも分かることを覚えてるだけでしょ? 検索すれば三秒で出る知識じゃん。それで声優に詳しいって言えちゃうメンタル、逆にすごいね」
「でも、検索しなくてもピンと来るんだよ」
「うんうん、そうなんだ。すごいすごい」
幼稚園児をあやすような、まったく心のこもっていない声だった。
「でもさ、それ、なんたらモンスターの名前を百匹覚えて威張ってる園児と何が違うの?」
「ち、違う」
「どう違うの?」
詰まった。
確かに僕は小さいころ、モンスターの名前を覚えてクラスの男子に自慢していた。タイプや進化条件を言い当てるだけで、物知りになれた気がしていたのだ。
しかし、声優は実在するプロの人間だ。子供向けゲームのキャラクターとは違う。
「だ、だって声優はプロだし、演技をする職人なんだから」
「ふーん」
水尾さんは頬杖をついた。
「ワタシ、昔から不思議だったんだよね。原作者とか脚本家を崇めるならまだ分かるよ。作品の骨組みを作ってる人たちだから。でも声優って、他人が作ったキャラに声を乗せてるだけでしょ? なんでそんな神様みたいにありがたがってるの?」
「い、いくら何でも言いすぎだよ、声でキャラの魅力が全然変わるじゃないか」
「そう? 絵と文脈があれば成立しない?なんなら絵もいらなくない?」
「声が入るから命が吹き込まれるんだよ」
「……あ」
水尾さんが、大げさに目を丸くした。
「もしかして今、『声優はキャラに命を吹き込む』って言った? うっわ、出た。ワタシあのフレーズすっごい嫌いなんだよね」
「ただの比喩だよ、それは……」
「キャラを生み出した原作者も、展開を考えた脚本家も、何百枚も絵を描いたアニメーターもいるのに、最後に声を乗せた奴だけが『命を与えた』ことになるんだ? じゃあそれまでスタッフが作ってたのは死体だったわけ? 最後にマイクの前で喋った人が蘇生してあげるんだ?」
「いや、そういう意味じゃ……」
「すごいね。命の恩人じゃん」
「だからただの比喩だって……」
「便利だよね、比喩って」
僕は黙った。
この女は、わざと話をおかしな方向へ持っていく。しかも、それを楽しんでいる。
「でも、演技ってそんな簡単なものじゃないでしょ」
「いや、誰でもできるよ」
即答だった。
「人間なんて普段から嘘ついたり演じたりして生きてんじゃん。恥を捨ててそれっぽい声出せば、形にはなるよ。あとは少し練習すればいいだけ」
「……そんなわけない」
「えー、でもキミがありがたがってる程度のことなら、素人でもできるよ?」
水尾さんは僕のスマホ画面を指差した。
「昨日のピンクの子。アミちゃんだっけ」
「え?」
「目、閉じて」
わけも分からず、僕は言われるがまま目を閉じた。
「おはよー、接続者さまっ! 今日もアミに会いに来てくれたんですね!」
耳元で、完全にアミちゃんの声が響いた。
驚いて目を開けると、水尾さんが意地悪く口角を上げていた。
「どう? 似てた?」
似ていた。
声の高さだけではない。語尾の跳ね方も、甘えるような息の混ぜ方も、よく知っているアミちゃんのものだった。
もちろん、本物と聴き比べれば違いはあるのだろう。あるに決まっている。しかし、今の一瞬、僕は確かにアミちゃんの声を聞いた。正直、もう一度聞いてみたいと思ってしまった。
「ほらね。ワタシの配信仲間にも、このくらい上手い人いっぱいいるよ。今どき素人でもこの程度はできるのに、なんで声優だけ聖域化されてるんだろうね?」
「でも、声真似と、演技は別物でしょ」
「どう違うの?」
「……役になりきるとか、そういうのが」
「今のワタシは、なりきってなかった?」
「いや……」
水尾さんは笑った。
「キミ、演技の話はあんまり興味ないんだね」
言い返せなかった。
声真似と演技が違うことくらい分かっている。だが、具体的に何がどう違うのかを言語化できるほどの語彙も知識も、今の僕にはなかった。
「キミさ、声優の演技が好きなんじゃなくて、知ってる声を発見するのが好きなだけでしょ?」
「……別に、それの何が悪いんだよ」
「ん、別に悪くないよ」
意外な言葉が返ってきた。
「ただ、それで、自分は声優に詳しいオタクですって言われると、ちょっと面白いなって」
彼女はくすくす笑った。また馬鹿にされている。
「まあ、声優本人も大概だけどね」
「……何が」
「ムタクに褒められすぎて、自分が偉い人間だと勘違いしちゃう人、いるじゃん。絵師とかもそう」
水尾さんは椅子の背もたれに顎を乗せ、唇を歪めた。
「ムタクに祀り上げられて調子に乗った無だからさ、ジジババになったときに焦って変なこと言い出しちゃうんだよね。でも、信者はずっとありがたがってる。介護みたいなもんだよね。何十年もごっこ遊びが続くなんて、予後が悪すぎるでしょ」
彼女は愉快そうに笑った。
「ムタクってさ、小学生の頃から何も変わってないんだよね。自分で考えるのが面倒だから、楽な方にばっかり流れてくの。目と耳で簡単に分かるものにしか興味ないんだもん。知性捨てすぎでしょ、笑える」
水尾掬。SNSフォロワー百万人超え。配信をすれば大勢の視聴者が集まり、雑誌にも出る。オタク男子からの絶大な支持を集める美少女。
オタクをチヤホヤし、オタクにチヤホヤされる構造の頂上で甘い汁を吸っている人間が、何を言っているのだろうか。
「……でもさ」
「ん?」
「水尾さんだって、全く同じじゃないの?」
「ワタシが?」
「ファンがいっぱいいて、投げ銭とかで金稼いでて……さっき馬鹿にしてた人たちと、何が違うんだよ」
言い終えるころには声が小さくなっていたが、言いたいことは言った。
彼女がビジネスで成功していること自体に文句はない。だが、自分だけは高みの見物をしているのが、どうしても許せなかった。
「ああ、そういうこと」
水尾さんはあっさりと頷いた。
「うん。ワタシも大人気だよ?」
「……だったら!」
「でもさ、ワタシ、別にリスナーのこと好きじゃないよ?」
「……そうなの?」
「だって、画面の向こうの知らない人たちだよ? 可愛いとか好きとか言われたって、ワタシはその人たちのこと何も知らないもん」
「いや、でも……」
「キミだって、知らないおばさんに大好きって言われたら困るでしょ?」
「それは、まあ……」
「でしょ?」
何が「でしょ」なのだろう。
「でも、配信はするんだよね」
「するよ」
「……好きでもない人たちを相手に?」
「うん。配信は楽しいから」
「……何が?」
水尾さんは少し考えた。
「ワタシが何か言うと、みんなすぐ真似するところかな」
「真似?」
「たとえばワタシが、今まで誰も話題にしてなかったゲームを面白いって言うでしょ。すると急に、みんな昔から好きだったみたいな顔で語り始めるの」
水尾さんは思い出し笑いをするように目を細めた。
「この前もね、適当に知ったかぶりで褒めたマイナーゲームがあったんだけどさ。コメント欄が大絶賛の嵐になって。何が良かったのか突っ込んで聞いたら、誰も具体的に答えられないの。自分の意志なんて一つもないんだよ、あの人たち」
「……それ、リスナーをただの馬鹿にしてるだけだろ」
「馬鹿にしてるよ?」
一切の躊躇なく、即答された。
「だって自分の好き嫌いの感情まで他人に委ねてるんだよ? ありえなくない?」
言葉が出なかった。
「だから、ワタシはあの自称クリエイターたちとは違うの」
「……何が違うんだよ」
「ワタシは、あいつらのこと好きでもなんでもないもん。ただ遊んでるだけ」
「……なんか、ずるいだろ」
「何が?」
「声優はファンに持ち上げられて調子に乗るから駄目で、水尾さんはファンを馬鹿にして楽しむからいいって……」
「うん。同じだね」
「……え?」
思わず顔を上げた。
「ワタシもあの人たちも、ムタクに持ち上げられてる。そこは同じ」
「だったら、なんであんなに馬鹿にして……」
「だって、馬鹿みたいじゃん」
「……水尾さんだって、褒められて調子に乗ることくらいあるだろ」
「そりゃあるよ?」
「だったら、同じじゃないか」
「うん。そこは同じだね」
「……じゃあ、何が違うんだよ」
「ワタシが違うと思ってる。それじゃ駄目なの?」
水尾さんは、さも当然のように言った。
僕は何か言い返そうとしたが、言葉が続かなかった。
水尾さんは、自分がムタクに持ち上げられていることを否定しない。調子に乗ることだってあると認めている。それでも、自分はあの連中とは違うと言い張るのだ。
その違いを決めているのは、結局、水尾さん自身だった。
「あ、もうこんな時間だ。そろそろ帰らなきゃ」
軽快な動作で立ち上がり、鞄を肩にかける。
「じゃあね、ムタクくん。また明日」
ひらひらと手を振り、彼女は教室を去っていった。
ガラガラと引き戸が閉まり、静寂が戻る。
僕はしばらく、自分の席から動けなかった。
本当に、どうしようもない女だ。
自分のファンを平然と見下し、そこから金を稼ぎ、何を言われても笑っている。あんな人間が百万人もの支持を集めているのだから、世の中はどうかしている。
少なくとも、僕の言っていることの方がまともだったはずだ。
それなのに、どうして僕ばかりが、こんなに惨めで、ちっぽけに思えるのだろう。
腹が立つ。
水尾さんにも、ろくに言い返せなかった自分にも。
そもそも、僕は何を期待していたのだろう。声優の名前をいくつか覚えたくらいで、あの女が僕を認めてくれるとでも思っていたのか。
別に、褒めてほしかったわけじゃない。ただ、田野たちと同じように接してほしかっただけだ。普通に挨拶して、普通に話して、できれば僕の名前を呼んでほしかった。
それなのに、どうして僕だけがムタクなのだろう。いや、理由なら分かっている。分かっているから、昨日は何かを変えようと思ったのだ。
それが、たった一日でこの有様である。
馬鹿馬鹿しい。
もう、何も考えたくなかった。
……あ、そういえば、今日はまだログインしていなかった。
いつものアプリを起動する。
『こんばんはーっ! 接続者さま! 今日もアミに会いに来てくれたんですね!』




