第4話 失われた三十年
家に帰ってから、僕はずっと水尾さんと口喧嘩をしていた。
もちろん、本人はいない。頭の中の水尾さんに向かって、あのとき言えなかった反論を次々と浴びせているのである。
好きなものを好きと言って何が悪い。知識がなければオタクではないのか。そもそも、他人の趣味に勝手に点数をつける方がよほど下品ではないか。
どれも正論だった。少なくとも僕にはそう思えた。
ただ、相手がいないので勝ちようがない。夕飯を食べ終える頃には、僕の頭の中で水尾さんは十回ほど論破されていたが、現実の僕は一度も言い返せていなかった。
それでも、あの女の言うことなど、気にする必要はない。
僕のようなオタクは珍しくない。毎月のように新しいキャラクターが追加され、そのたびに大勢の人間が金を払っている。SNSを見れば、僕と似たような反応をする人が何百人もいる。みんながおかしいというのなら、あの巨大な市場はいったい何なのだろう。
つまり、僕は普通なのである。
「……普通、か」
口に出してみると、あまり嬉しくなかった。
水尾さんは特別だ。勉強も運動もできて、顔もよく、百万人以上のフォロワーがいる。田野たちも、少なくとも一つの分野では人に語れるものを持っている。
それに比べて僕は、普通。
そもそも、うちの学校がおかしいのだと思う。
かなりの進学校なので、勉強のできる奴が多い。それだけならまだいいのだが、あいつらは勉強以外のことまでそつなくこなす。部活で活躍し、友達と遊び、休日には趣味に打ち込む。僕が一日かけて終わらせる課題を、休み時間だけで片づけている奴さえいる。
親ガチャに成功した奴が多いのだろう。生まれつき頭がよく、要領もいい。僕はたまたま受験勉強だけうまくいって、入るべきでない場所に紛れ込んでしまったのだ。
もっと普通の高校に行っていれば、僕と似たような奴がいたのかもしれない。勉強のできない高校なら、なおよかったのかもしれない。
……いや、それはそれで嫌だな。
僕は自分より頭の悪い人間と一緒にされたくない。
かといって、自分より頭のいい人間に囲まれているのも嫌だった。
なかなか難しい性格をしている。
ふと、田野、久我、宮田の顔が浮かんだ。
あの三人は、相変わらず気持ち悪いと思う。教室で鉄道の写真を見せ合ったり、変身ポーズを取ったり、何もない机の上で音ゲーの練習をしたりする。僕には真似できないし、したいとも思わない。
ただ、あいつらは好きでそうしている。
勉強ができるのだから、もっと別のことに時間を使う選択肢だってあるはずだ。なのに、好きだからやっている。周囲にどう見られようと、少なくとも好きなものを捨てる気はないらしい。
そう考えると、あいつらは自分から陰キャを選んでいるようにも見えた。
僕は違う。選んだ覚えがない。
気づいたら一人だった。だから一人でできることをしている。スマホを眺め、ゲームを開き、流行っているものや誰かが面白いと言ったものを面白いことにする。
僕は陰キャという生き方を選んだのではなく、残ったのだ。
「……やめよう」
考えすぎだ。たかが女子一人に悪口を言われただけで、どうしてここまで自分の人生を振り返らなければならないのか。
僕はベッドに倒れ込み、いつものゲームを起動した。
『こんばんは、接続者さま!』
アミちゃんが笑った。
パステルピンクの髪に、大きな胸。僕を見つめる潤んだ瞳。今日も文句のつけようがないくらい可愛かった。
……そのはずなのに、何も感じなかった。
アミちゃんは僕が何をしても笑ってくれる。ログインを忘れても怒らないし、ほかの女の子をガチャで引いても嫉妬しない。ストーリーでは悲しい目に遭うこともあるらしいが、僕を嫌いになることだけは絶対にない。
とても都合のいい女だ。いや、ゲームのキャラクターなのだから、都合がよくて何が悪い。僕は現実で十分嫌な思いをしている。娯楽にまで説教されたくない。
それに、詳しくは知らないが、アミちゃんにも悲しい過去がある。ただただ都合がいいだけの女ではない。僕とアミちゃんが紡ぎ出した感動的なストーリーが、たぶんある。
僕はストーリー画面を開いた。未読のエピソードがずらりと並んでいる。一つ選んでみたものの、読む気になれず、すぐに閉じた。
SNSを開く。
新衣装の告知画像が流れてきた。胸元が大きく開いた衣装で、返信欄には「エッ」「こういうのでいいんだよ」「おお」が並んでいる。
昨日までの僕なら、たぶん同じことを書いていただろう。
その下にはアミちゃんのファンアートがあった。元のキャラクターよりさらに胸が大きい。別の絵師が描いたものも、その次に流れてきたものも、似たような構図だった。
絵師という名のイナゴたちが流行りの女を描き、僕らはそれを見て同じ言葉で喜ぶ。そんなものが延々と続いている。
僕自身、その輪の中にいた。つい昨日まで。
画面を何度かスクロールしたところで、指が止まった。
「……何もない」
思わず呟いた。
毎日ゲームにログインして、SNSを眺めて、可愛い女の子の画像が流れてくれば反応する。新しいキャラクターが発表されれば騒ぎ、誰かが感動したと言えば、自分も感動したような気になる。
そんなことを、もう何年も続けている。いったい何が面白かったのだろう。
水尾さんは言った。僕が好きなのはアミちゃんではなく、アミちゃんを愛している風の自分自身なのだと。
あのときは腹が立った。今だって納得したわけではない。だが、改めて画面の中の彼女を見ていると、反論する言葉が見つからなかった。
好きだ、可愛い、尊い、泣ける。僕はそんな言葉を毎日のように繰り返してきた。だが、それは本当に僕が感じたことだったのだろうか。誰かの反応を真似しているうちに、自分の感情まで借り物になっていたのかもしれない。
……いや、待て。
僕だけが悪いように言われたが、考えてみればおかしな話だ。そもそも、こんなゲームで何を熱く語れというのだ。
こんなものはすべて、オタクの機嫌を損ねないようにできている。女の子はどれだけ悲惨な目に遭っても、最後にはプレイヤーを笑顔で迎える。誰かに恋をして、僕の知らないところで幸せになることもない。
命は失われても、純潔は守られる。人が死ぬことより、女の子が誰かのものになることの方が許されない。少年漫画とは違う。オタクの顔色をうかがって、起きていい出来事と悪い出来事が最初から決められている。なんてしょうもない世界だろう。
作っている人間も同じだ。流行りの属性を組み合わせ、売れそうな声優を起用し、客が喜ぶ台詞を喋らせる。人気が出れば似たような女の子を増やし、飽きられれば別の女の子を用意する。
そこに何か描きたいものがあるのだろうか。
ただ売れるものを作り、買う側もそれを待っている。双方が満足しているのだから商売としては成功なのだろう。だが、そんなものを何百作、何千作と積み重ねて、いったい何になるというのだ。
二次元の女の子を愛するという文化が、いつ始まったのか僕は知らない。
ただ、その長い歴史の果てにあるものが、今、僕の手の中にある。
絵は綺麗になった。声が付いた。動くようになった。それだけの年月をかけて、女の子たちはますます僕らに都合よくなった。
これから先もそうなのだろう。もっと自然に笑い、もっと優しく話しかけ、もっと本当に愛されているような気分にさせてくれる。
そして僕らは、もっと本物らしくなった偽物の愛情を受け取って、また「尊い」と書き込むのだ。
何十年もかけて、何を進歩させてきたのだろう。
作る人間も、それをありがたがる人間も、同じところを回り続けている。どれだけ人が集まっても、どれだけ金が動いても、すべてが虚無で、何も残らない。
僕らは何もないところに、何かがあるふりをしている。
……馬鹿馬鹿しい。
スマホをベッドの端に放り投げ、天井を見つめた。
このままではいけない。
別に、水尾さんに言われたからではない。あんな女の言葉で人生を変えるなんて、癪に障る。これは僕自身の決断である。たぶん。
幸い、僕はまだ高校二年生だ。
SNSには、いい年をして毎日ソシャゲの更新に一喜一憂している大人が大勢いる。ああはなりたくない。新しいことを始める気力もなく、青春を取り戻すつもりで架空の女の子を追いかけているのだろう。
僕はまだ青春の真っ最中にいる。青春らしいことをした記憶はほとんどないが、年齢だけは間違いない。
今なら間に合う。
何に間に合うのかは分からない。だが、手遅れになってから後悔するよりはいい。
僕も何かに打ち込もう。誰かに訊かれたとき、自分の言葉で好きだと答えられるものを見つけるのだ。
本当のオタクになろう。
そう決めてから、十分ほど考えた。
何も思いつかなかった。
田野たちと同じことを始めても、何年も先を行くあいつらに追いつけるとは思えない。
何かないだろうか。
すでに僕が人より詳しくて、あまり努力しなくても始められるもの。
そしてできれば、金もかからないもの。何か……。
『接続者さま~! どこに行っちゃったんですか~?』
ベッドの端に放り投げたスマホから、アミちゃんの声がした。ゲームを閉じていなかったらしい。
「……声」
僕は起き上がった。
そうだ。声優がいる。
僕は声優の名前を結構知っている。アニメを見ていて、ゲームで聞いたことのある声だと気づくこともある。出演作品だって、いくつか挙げられる。声を聞いただけで分かる人もいるのだ。
これは立派な知識ではないか。
考えてみれば、僕は何もしてこなかったわけではない。何年もアニメやゲームに触れてきた。その時間は、ちゃんと僕の中に残っていたのだ。
明日、水尾さんに話してみよう。
僕が何もない人間ではないことを、教えてやるのだ。




