第3話 ムタク
無。
無とは何だ。
無職の無か。無能の無か。無理、無駄、無意味。
思い当たる言葉が多すぎて、かえって意味が絞れなかった。
「……む?」
「そう。無」
水尾さんは楽しそうに頷いた。
「ねえ、キミって趣味ある?」
「しゅ、趣味?」
「うん。好きなこと。何でもいいよ」
突然の面接である。
僕はスマホを握りしめた。
趣味ならある。ソシャゲもやるし、配信も見るし、SNSで毎日誰かと話している。僕だってオタクだ。
ただ、それを彼女に言うのは少し抵抗があった。田野たちと同類だと思われるのが嫌だったから。
「あ、ワタシ偏見ないから。正直に言っていいよ。AV鑑賞でも何でも」
「えっ」
彼女の口からその単語が出たことに驚いた。
そして、こんな状況なのに少し興奮してしまった自分にも驚いた。
まあ、普通だろう。僕は高校生男子なのだ。生理現象は罪ではない。
水尾さんは、男性向けのゲーム実況をしている。
オタクがどんなものを好むか、きっとよく知っている。配信では、下品なコメントにも笑って返すことがある。もちろん本当に下品な奴は容赦なく切り捨てるが、その線引きまで含めて人気なのだ。
だったら僕の趣味だって、受け入れてくれるかもしれない。
「こっ、このゲーム」
僕はスマホを彼女に向けた。
可愛い女の子を集めて育てて戦わせる、人気のソーシャルゲームだ。可愛いだけでなく、重厚なストーリーも売りで、感動すると評判の章もある。SNSでは毎日のようにファンアートが流れてくる。今やオタクを名乗るなら義務教育みたいなゲームだ。
僕はほぼ毎日ログインしている。つまり、相当好きで、けっこうなオタクなのだ。
「へえ。見たことある。人気のやつだよね」
「う、うん。水尾さんも、こういうの知ってるんだ」
「そりゃね。で、何が好きなの?」
「え?」
「このゲームの。何が面白いの?」
僕は考えた。
「キャラ……かな」
「どのキャラ?」
水尾さんが近づいてきた。
ふわりと甘い香りがする。香水か、シャンプーか。女子の匂いだ。
こんな近くで女子と話したことはない。しかも水尾さんだ。僕はさっきまで無と呼ばれていたことを、一瞬忘れた。
「こ、この子。アミちゃん」
キャラクター画面を開く。
パステルピンクの髪。大きな胸。甘い声。プレイヤーの分身である主人公を、何があっても大好きでいてくれる女の子。
『こんにちは、接続者さま!』
明るい声が教室に響き、僕は慌てて音量を下げた。
「ふーん。可愛いね」
可愛い。
水尾さんにそう言ってもらえただけで、僕自身が褒められたような気がした。
「で、どこが好きなの?」
「えっと……見た目と、性格かな」
「それは見れば分かるよ。こういうゲームの女の子って、大体可愛くて優しいじゃん。そうじゃなくてさ」
水尾さんが画面を指差す。
「この子にしかないところ。何かないの?」
「……えっと」
あるはずだ。
アミちゃんは人気キャラなのだ。新しい衣装が出ればトレンド入りするし、ファンアートも多い。僕のタイムラインには彼女を好きだと言う人間が山ほどいる。
しかし、具体的に何が好きなのかと聞かれると困る。
胸が大きい。可愛い。僕を好きでいてくれる。
いや、僕ではない。主人公を好きでいてくれる。でも主人公は僕の分身という設定だから、実質僕を好きでいてくれる。そういうことになっている。
「ストーリーとか。印象に残ってる場面は?」
「あ、あるよ。感動する話が……」
「どんな?」
「ええと……」
あったはずだ。
アミちゃんがつらい過去を思い出して泣く場面だったと思う。誰かと別れたのだったか。いや、別れたのは別のキャラかもしれない。
そもそも僕はイベントストーリーをほとんど読んでいない。
SNSで評判がよければ、後からあらすじを調べる。感動的な台詞のスクリーンショットを見て、「泣いた」と投稿する。
嘘ではない。実際に泣ける話なのだろうとは思っている。
ただ、自分で読むのは面倒だった。読むより先に、みんながどう感じたか知りたくなるのだ。
「……かも」
「かも?」
「いや、ストーリーも好き、かも……」
水尾さんは数秒、僕を見つめた。
「たはーっ」
変な声を上げて、近くの机に腰掛ける。
「やっぱり」
「な、何が?」
「そういうところ。ほんっと無だね、キミ」
「いや、でも! 毎日やってるし……」
「毎日やってることと、好きなことって同じなの?」
間髪入れずに返された。
「じゃあ毎日歯磨きしてる人は歯磨きオタク? スマホ触ってる人はスマホオタク? 毎日息してるキミは呼吸の専門家?」
「そ、それは極論……」
「まあ呼吸は言いすぎた。ごめんごめん」
謝るところがそこなのか。
「キミさ、何にもないよね。勉強できない、運動できない、見た目も良くない。別にそれだけならどうでもいいんだけどさ。好きなものの話をさせても『可愛い』『優しい』『感動したかも』って、何も出てこないじゃん」
「そ、そんなこと……!」
「あるよ。今、現にそうだったもん」
彼女は自分の言葉を疑わない。
たぶん頭の回転が速いのだろう。あるいは、最初から僕の答えを聞く気がないのかもしれない。
「ねえ。キミ、田野くんたちのこと馬鹿にしてるでしょ」
突然、話が変わった。
「え?」
「撮り鉄の田野くん、特撮の久我くん、音ゲーの宮田くん。あの三人。気持ち悪いって思ってるよね?」
「いや……」
「思ってるでしょ」
「……まあ」
「はは。分かるよ。確かに気持ち悪いもん、あの三人」
思いがけない同意だった。
やっぱりそうだ。こんな美少女が、あいつらを心から好いているわけがない。
「見た目も良くないし、話し始めると長いし、空気読めないし。田野くんなんて電車の話になるとマジでうるさい。たまに黙れって思うもん」
僕は密かに安心した。
しかし水尾さんは、僕の安心など知ったことではないという顔で続けた。
「でもワタシ、あの三人は好きなんだよね。キミと違って」
安心は二秒で崩壊した。
「田野くん、バイト代貯めて遠征してるんだって。どこで何を撮ったか全部覚えてるし、車両だけじゃなくて行った土地のことまで詳しいの。将来は鉄道会社に入りたいって。あの顔で夢を熱く語るんだよ? 超面白くない?」
あの顔で、はひどいと思う。
僕も似たようなことを考えていたので、口には出せなかった。
「久我くんなんて、ワタシたちが生まれるずっと前の特撮まで知ってるんだよ。昭和のやつ。何がそんなに面白いのかワタシには分かんないけど、話を聞いてると面白い。将来は映像制作の仕事がしたいんだって。あの人、語ってるときだけ目がきらきらするんだよね。普段は死んだ魚みたいなのに」
褒めているのか、けなしているのか分からない。
たぶん両方なのだろう。
「宮田くんは音ゲーが好きすぎて曲まで作り始めたんだって。聴かせてもらったけど、正直ひどかった。音が薄いし展開も単調。ワタシがそう言ったらすっごく落ち込んでた。あはは。でも次の日、直したのを持ってきたんだよ。ああいうの、いいよね」
水尾さんは楽しそうだった。
珍しい動物を観察しているような口ぶりだったが、少なくとも彼らの話を本当に面白がっているらしい。
「でも……趣味なんて人それぞれじゃ……」
「うん。そうだよ」
「だったら僕だって――」
「ワタシが嫌いなのも自由でしょ」
「……え?」
「ワタシ、別に公平な審査員じゃないし。あの三人は面白い。キミはつまらない。それだけ」
身も蓋もなかった。
「ていうか、ちょっと客観視してみなよ。本当のところ、好きなものなんて何もない。ただ『エロい』とか『尊い』とか、SNSで薄っぺらい言葉を並べて、虚無の青春ごっこをしてるだけのキミと、本当に好きなものがあって、同じ熱量の仲間と語り合ってるあの三人。どっちがキモい?」
「いや、そうじゃない! 僕だって……!」
言葉が詰まった。
ゲームのログイン日数。キャラクターの性能。配信者の炎上の経緯。
詳しいことならいくらでもある。しかし、それを言ったところで、彼女は笑うだろう。笑われるのが怖くて、僕は黙った。
「ほらね。『無』」
ひどい女だ。
何を好きになろうと僕の勝手じゃないか。誰にも迷惑をかけていない。教室で変身ポーズをしたり、空中のボタンを叩いたりもしていない。
なのに、どうしてここまで言われなければならない。
「だいたいさあ、キミみたいな二次元オタクって、何なの?」
水尾さんが僕のスマホを指差した。
「ちょっとエッチな女の子が出てきて、自分のこと好きになってくれて、オタクを傷つけないような安全な不幸で感動ごっこしてさ。SNSでみんな同じ言葉使って……感想まで無なの?」
僕のタイムラインが頭に浮かんだ。
確かに似たような言葉は多い。でも、それはみんなが同じ気持ちになったからであって、何もおかしなことではない。
そう反論すればいいのに、僕は言えなかった。なぜなら僕自身も時々、何も感じていないのに周りに合わせて投稿していたからだ。
そして彼女はストリーマーでもある。
男性向けのゲームを何本も遊んでいるし、視聴者のコメントも読んでいる。だから、こういう悪口にも妙な具体性があって、何も言い返せなくなる。
「でも、みんな楽しんでるし……」
「へえ。じゃあいいんじゃない?」
彼女は冷たく言った。
「キミたちが楽しいなら勝手にすれば? ただ、ワタシに『面白い人間』だと思わせようとしないで」
返す言葉がなかった。
いや、返す言葉ならあった。
娯楽は別に人間を面白くするためのものではない。疲れた人間を慰めるものだって必要だ。何も生み出さず、ただ楽しんでいるだけでは駄目なのだろうか。
だが、それを口にしたら、僕が慰められる側の人間だと認めることになる気がした。それが嫌だった。
「それにさ、キミって、性欲すら嘘くさいんだよね」
「……は?」
さすがに耳を疑った。
「アミちゃんだっけ。胸が大きくて、画面の向こうから全肯定してくれる都合のいい女。そういうのに流されて、みんなと一緒に『シコ』『エッ』って騒いでるだけでしょ。本当に好きなの、それ?」
「す、好きだよ! 当たり前だろ!」
「じゃあ、どこがどう好きなのか熱弁してみてよ。田野くんたちみたいに」
またそこに戻るのか。
好きなものを好きと言うのに理由が必要なのだろうか。プリンが好きな人間は、プリンを食べるたびに卵の配合と歴史を語らなければならないのか。
「そ、そういうのは……理屈じゃなくて、感覚だから」
「ふーん。便利な言葉だね、感覚」
水尾さんはくすくす笑った。
「要するに、キミはアミちゃんが好きなんじゃなくて、ちょっとエッチなコンテンツを消費して『オタクの仲間入り』をした気になってるだけでしょ。みんなと同じところで喜んで、同じ言葉を使って、安全な場所で安心したいだけ。性欲まで惰性で消化してるの、ホント寒いよね」
「……っ」
「いっちょ前に『性癖、性癖~』って語りたがるけど、キミたちの中身なんてすっからかんでしょ。そもそも本当にエロいのが見たいなら成人向け作品を見ればいいのに、わざわざ普通のゲームで虚しく騒いで、それを作品の評価みたいにしてるの、意味分かんないんだよね。ほんと、性欲まで虚無」
「ち、違うっ!」
自分でも驚くような大声が出た。
勉強も運動も駄目で、友達もいない僕から、性欲まで偽物だと取り上げられたら、本当に何も残らなくなる。
男としての尊厳を踏みにじられた気がした。
ただ、性欲の真正性を必死に主張する高校生男子というのも、冷静に考えると相当気持ち悪い。
そして、気づいたときにはもう遅かった。
水尾さんは驚いたように目を見開き、それから「あはは」と心底楽しそうに笑った。
「あはは、ウケる。そこは怒るんだ」
「だ、だって……!」
「キミさ、小学生のころから友達いなかったでしょ」
「え。なんで……」
突然の指摘に、声が上ずった。
「いや、分かるよ。普通、小学生くらいでやるじゃん。男友達同士でエッチな画像見せ合って、『どっちがエロい』とか馬鹿なこと言ってさ。ああいうのって、エロが好きというより、みんなで騒ぐ遊びなんだよね。大抵はそのうち飽きるの。でもキミみたいなぼっちは、そういう遊びを共有する相手がいなかったから、ずっと憧れてるんじゃない? SNSっていう架空の教室で、今さら小学生がやるごっこ遊びをやってるの」
確かに僕は小学生のころから友達が少なかった。エッチな画像を見せ合って騒いだ経験もない。
しかし、それと今の趣味に何の関係があるのだろう。
そもそも小学生のころからそんなことをしていた連中の方が問題なのではないか。
それに、みんながみんな、そういう遊びから卒業するという根拠はどこにある。
水尾さんは頭がいい。だが、頭がいいからといって、何でも知っているわけではない。
彼女の分析は、ただの偏見だ。そう思ったのに、何も言えなかった。
「ワタシ、オタクは好きなの。何かに狂ってる人は面白いから。でもキミは違う。何にも狂えてないのに『オタク』って名札だけ貼って、周りを見下してるだけ。そういう人、ワタシ嫌い」
彼女はポンと手を叩いた。
「あ、そうだ。『ムタク』だ」
「……え?」
「無のオタクで、ムタク。オタクですらないから無タク。語感よくない?」
「語感で人を分類しないでよ……」
「ぴったりじゃん。佐藤順平くん改め、ムタクくん」
名前を知られていたことに、一瞬驚いた。
僕の名前を知っていたのか。
それなのに今までずっと「キミ」と呼んでいたのか。
知った上で、わざわざそうしていたのか。
何だか、知られていないよりも惨めだった。
「というわけで、ワタシがキミに冷たい理由、分かった?」
「……うん」
「よかった。変に謝られても困るしね。『謝れば許してもらえる』と思ってそうなところも気持ち悪いし」
最後の最後まで容赦なく刺し抜き、彼女は鞄を肩にかけた。
「じゃ、帰るね。ムタクくん。また明日」
ひらひらと手を振り、教室を出ていく。
カタン、と引き戸が閉まった。
夕暮れの教室に、僕一人が残された。
ひどい女だ。何がオタクに優しい美少女だ。
男向けの配信をして、オタクの話題で金を稼いでいるくせに、そのオタクをここまで馬鹿にしていいのだろうか。
配信で同じことを言ってみろ。炎上するぞ。いや、あいつのファンなら喜ぶかもしれない。あんな美少女が言うことだ。それが世の中の真理として拡散され、むしろ切り抜きが伸びるのかもしれない。
それも腹が立った。
頭の中では反論が次々と浮かんできた。
趣味に深さなんて必要ない。エンタメなんて消費して何が悪い。みんなと同じものを好きになって、同じ感想を持つことの何が悪い。将来の夢につながらなければ趣味と呼べないのか。
水尾さんだって、流行りの服を着て、流行りの音楽を聴くだろうに。
何より彼女は、僕のことをほとんど知らない。数分話しただけで無と決めつけた。それは彼女の傲慢だ。間違いない。
だけど、僕は彼女の前で一つも言い返せなかった。
そして、一番嫌だったのは、あの三人を見下していたことだけは事実だということだった。
僕はあいつらよりマシだと思っていた。だが、本当にマシなのだろうか。
「……ムタク、か」
声に出してみる。
馬鹿みたいな言葉だった。
こんなくだらないあだ名一つで、自分の人生まで説明された気になるのが腹立たしい。
僕はオタクだ。ずっと、そう思っていた。
けれど、何のオタクなのかと聞かれると、途端に答えに詰まってしまう。アニメ、ゲーム、漫画。どれもそれなりに触れてはいるが、特別詳しいわけでもなければ、夢中になっているわけでもない。強いて言うなら、二次元オタクということになるのだろう。
しかし、考えてみれば妙な話だ。僕は何かを好きになるために、自分から何かをしたことがあっただろうか。流行っているから始めて、みんなが騒いでいるから一緒に騒ぐ。面白いと言われれば面白い気がするし、感動したと言われれば感動したような気になる。そうしているうちに、いつの間にか自分もそれが好きなのだと思い込んでいた。
別に、それの何が悪いというのだろう。
オタクを名乗るのに資格がいるわけでもない。好きなもののために努力しなければならないなんて決まりもない。そもそも趣味というのは、もっと気楽なもののはずだ。
だから、僕はオタクでいい。今までだってそうだったし、これからもそう名乗ればいい。
……なのに。
どうして僕は、そのたった一言を、こんなにも情けなく感じてしまうのだろう。
窓の外を見ると、夕日は完全に沈みかけていた。
鞄の中の課題プリントが、くしゃりと虚しい音を立てる。
取りに戻らなければよかった。
心の底から、そう思った。




