第2話 ふたり
放課後、校門まで来たところで、課題のプリントを教室に忘れたことに気づいた。
別に、取りに戻るほどのものでもない。
僕の成績は、もう手遅れに近い。この進学校に合格したときが、僕の学力の最盛期だった。高校受験で全力を出して、そのまま力尽きてしまったのだ。
進級さえできればそれでいい。大学も、名前を聞いて笑われない程度のところに入れれば十分だ。実際に入れるかどうかは別として。
だから、そのまま帰るつもりだった。
ところが、何気なく見上げた二階の窓に、見覚えのある人影を見つけた。
夕日に透ける、淡いクリーム色の髪。
水尾さんだった。
こんな時間まで教室にいるのは珍しい。仕事、勉強、友達、趣味。僕と違って、毎日さぞ忙しいのだろうに。
結局、僕はプリントを取りに戻ることにした。
あくまでプリントのためだ。
たまたま教室に水尾さんがいるだけで、そこに特別な意味はない。決して。
そう自分に三回言い聞かせて、階段を上がった。
引き戸を開ける。
教室には水尾さん一人しかいなかった。
彼女は窓枠に片手を置き、夕焼けを眺めている。西日がその横顔を照らしていた。
腹が立つほど綺麗だ。
僕が同じ格好で窓の外を見ていたら、担任が心配して声をかけてくるだろう。美少女は何をしても絵になる。不公平だ。
僕はわざと足音を立て、自分の席へ向かった。
鞄を机に置く。
引き出しを探る。
プリントはすぐ見つかった。
見つかったが、もう少し探した。
がさがさ。
水尾さんは振り向かない。
「あ、あった」
別に誰に聞かせるでもない声を、きちんと聞こえる音量で出す。
反応はなかった。
……帰ろう。
これ以上ここにいたら惨めになるだけだ。
そう思ったのに、僕は帰れなかった。
夕暮れの教室。窓辺の美少女。誰もいない二人きりの空間。
あまりにもフィクションみたいな光景だったから、僕は自分までもその登場人物になったような錯覚を起こしてしまった。
「あ、あの……何してるの?」
水尾さんが、ほんの少し首を動かした。
「あ、キミか」
名前ではなく、キミ。
「別に。青春をかみしめてただけ」
そう言って、また窓の外を向く。
青春。すごい言葉だ。
僕が使えば冗談になる言葉を、この女は真顔で言える。
「ぼーっとしてたんだ。あはは。水尾さんでもそういうときあるんだね」
「うん」
「僕もあるよ。たまに、そういうとき」
「……キミが?」
彼女が振り返った。
初めて、ちゃんと目が合った。
少し眉をひそめている。笑ってはいない。馬鹿にされた気がした。
「う、うん。分かるよ」
「何が?」
「え?」
「何が分かるの?」
困った。
青春をかみしめる気持ちなんて、僕に分かるはずがない。
部活も、友達との放課後も、甘酸っぱい恋愛もない。ネットでの思い出を青春と呼んでいいのなら、なくはないが。
「いや、その……夕方って、なんかいいよね、って……」
自分でもひどい返答だと思った。
水尾さんは数秒、僕の顔を眺めていた。
それから、ふっと吹き出した。
「あはは。そっかそっか」
笑ってくれた。
それだけで胸の奥が軽くなる。
何だ、僕が勝手に嫌われていると思い込んでいただけなのかもしれない。
人間関係では共感が大事なのだ。配信者だって、コメント欄で「わかる」と言われれば喜ぶ。僕も彼女に共感してみせた。成功したらしい。
僕は少しだけ調子に乗った。
「あのさ」
「ん?」
「僕の勘違いだったらごめんなんだけど……水尾さんって、僕のこと無視してない?」
「ああ、うん」
即答だった。
「してるね。無視というか無関心?」
心臓が嫌な音を立てた。
普通、そこは一度否定するところではないだろうか。「そんなことないよ」とか、「気のせいじゃない?」とか。嘘でもいいから。
「あ、やっぱり……えっと、僕、何かしたかな。知らないうちに嫌なこと言ったなら謝りたいんだけど」
「何もしてないよ」
「……え?」
「だから、何もしてない」
意味が分からなかった。
何もしていないのに無視される。
つまり、僕という存在そのものが嫌いだということか。
顔だろうか。だが、あの三人より僕が不細工だとは思えない。水尾さんは眼鏡をかけた不潔そうな男が好みなのだろうか。そういう特殊な趣味なら、僕が最下位になるのも説明がつく。
いや、そんなわけがない。だったら、なぜ。
「な……なんで?」
水尾さんは、しばらく僕を見つめた。
迷っているようにも見えたが、何を言うか迷っているのではなく、どう言えば一番面白いか考えているようにも見えた。
「……言っていいの?」
「う、うん」
「結構ひどいこと言うよ?」
なら言わないでくれ。
喉まで出かかった。
だが、ここで逃げたら、明日からも彼女が僕にだけ挨拶しない理由を考え続けることになる。
それも嫌だった。
「だ、大丈夫……だと思う」
「そっか」
水尾さんが窓枠から離れた。
さっきまでの物憂げな雰囲気が消える。
代わりに、教室でも配信でも見慣れた、明るい笑顔が浮かんだ。
その笑顔が、初めて僕だけに向けられている。
ずっと望んでいたことなのに、ちっとも嬉しくなかった。
「キミが、『無』だから」




